「人と思想」シリーズ

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人と思想5『プラトン』のまえがき+αを読んでみる

 

プラトンについて

 

現実はきびしい。そう人はいう。そのきびしさは、なにをさしているのであろう。そう思う心だけがあるのではない。なにかがそう思わせているはずである。もし、生きることがきびしいのであるならば、生はそれ自体が、現実のなかに含まれていることになる。働けども楽にならない、人と人との関係は虚偽に満ちている。善意の人びとは雑草のようにふみたおされていく。しかも、戦争の恐怖は去らない。それらがきびしいと思わせたものであるならば、そう思う人はその反対のことを知っていることになる。そして、その反対の状態になりたい、と希求したことであり、同時にそうさせられた現実をつくっているところの一人であると、自分を自覚する一歩手前まで歩いた人であろう。

 

プラトンは現実を避けて通ろうとはしなかった。むしろより善い現実をうみだそうとした。しかし、かれの理想国は、あまりにも理想的でありすぎたではないか。かれの哲学として名高いイデア論も、観念論の典型ではないか。そう思うことはやさしい。今もいったように、きびしいと思った現実を、自分もつくり、したがってそのなかに自分も含まれているのであれば、その矛盾がそう思った人の内面と現実から、まずのぞき去られるように努力されないかぎり、いつも人は与えられた現実にあまんずることになろう。さらに、思うこと、考えることの多くが現実の投影であるとしても、見られた現実よりも知られたそれを現実としないかぎり、人は多くの幻影にまどわされることになろう。プラトン(Platon)はそのことをすでに教えていた。

 

プラトンは、これまでのすべての哲学者のうちで、もっともオリジナルで、もっとも影響力がある、といわれている。かれは哲学を、本格的な著作の形で世に問うた、最初の純粋なアテナイ人である。ソクラテスをのぞく、それまでの哲学者たちは、アテナイ以外の人たちであった。タレスもピタゴラスも、プラトンの弟子アリストテレスも、そうである。しかもかれは、名門貴族の出身のゆえに、偉大になったのではない。かれの八〇年にわたる生涯は、アカデメイアの創立による講義、教育、著作、理想国実現への努力など、そのすべてが燦然としている。天才思索力と想像力とを働かせて、未踏の世界を開拓した。哲学、思想の分野はいうまでもなく、学問の世界に金字塔を樹立した。

 

そのプラトンをうみだす動機はソクラテスにある。初めは政治家になろうとしたプラトンを、哲学に回心させたのは、ソクラテスその人の刑死である。ソクラテスとその時代がプラトンにたいして、現実と行動と精神を底辺とする、立体三角形の可能性への確信をあたえた。またそうしなければならない決心をさせた。いくら求めても、完全にはつかめないが、かならずあるにちがいない「善のイデア」の発見は、ソクラテスとその悲惨な時代の核であり、血肉化にほかならない。またその時代の人びとの彼岸である。イデアはそれと対照的なアトムとならんで、いかなるエネルギーでも破壊できない。それは不滅である。それを殺すことはだれにもできないが、求めつづけなければならない。そういう皮肉な運命をひらき、救いようのない時代と人びとに光をあたえた。

 

プラトンは幼少のころから青年時代にかけて、略奪と殺人をほしいままにする、ペロポネソス戦争の渦中に生きた。人間性は壊滅し、人は動物に還元してなおやまなかった。二七年のながい間、ギリシア全土を焦土化するほどに、荒れに荒れた。その中でかれは醒めていった。知性と芸術的感覚を鋭敏にしていた。その体験がかれに理想国を構想させ、それを著述させ、実現を図らせた。しかしついに果たせなかった。それでも、それを完全な無意に終わらせない用意周到さを怠らず、「善のイデア」という不滅のシャトウ(城)を創造することを忘れていない。それはどこにもない。しかし幻影ではない。いついかなるときでも、それにあずかるものは、精神の救済を直観できる。

 

純粋絶美なものにめぐりあう、あの純粋経験の直観は、人にその体験を求めることを忘れさせない。死ぬさだめにあることのよくわかっているわれわれは、死を経験することがないために、それを求めなかったり求めたりする。知ることと美に出会った経験は、花をつむときに萎れた花を思わない、あの瞬時の感銘に似ている。それは美をたえず手もとに置こうとする愛に発展する。プラトンはその原理の創造者となった。夕陽は落日の光景を描きながら、なお消滅しないように、太陽は永遠の意識の因となりながら、美を残して去ることはない。現実を永遠とかかわらせる方法の発見は、永遠があることの具体的な証明のあるなしに関係がない。永遠の存在証明ができなくとも、いっこうにさしつかえない。それによって現実の姿は、いかんなくあばかれるからである。方法があばくのである。

 

ギリシア哲学はミレトスのタレスに発し、二つの流れとなり、ソクラテス・プラトンを貫流するうちに完全化したという。しかし、完全なものはこの世にはない。それは精確ということとは別である。アトムの概念の創造は、魂の不滅観への契機となり、二種の不滅性となった。その一つが「善のイデア」である。それへの通路として弁証法という道がひらかれた。それによって、学の世界は有力な方法をえた。見ることも、触れることも、ロゴス化することもできないが、関与することだけをゆるすものへの探究というプロセスがある。それがあるかぎり、その対象がある。それは完全に知ることはできないが、弁証法によってつき進もうとするならば、そのかぎり存在するものである。まさに形而学上以上の次元である。それは高度な快楽の世界である。すべての人に、愛知への姿勢をくずさないなら、その喜びがあることを教えている。そういう哲学の独自性を、プラトンは示したのである。

 

プラトンの生涯と思想を、この小冊子にくまなくおさめることは無理である。かれの思想については、『ポリテイア』(理想国)の解説以外は、発展のあとを追うにとどめた。かれのいく冊かの書物をえらび、その解明ですまそうと、いくどか考えてみた。しかし、かれの思想の真実を限定し、断片化してしまうことを恐れてできなかった。プラトンには完全に理想があった。それはそれへの志向性と、その努力があるかぎり、現実化するという可能性を信ずることを意味する。そういうプラトンのイデアリスムスの精神にしたがって、かれをできるだけ追跡してみたのが、本書である。

 

一九六七年 初 春

中 野 幸 次

 

目次

 

Ⅰ プラトンの生涯

ソクラテスとの邂逅
プラトンの生まれた時代――戦争と頽廃――
ソクラテスの刑死――プラトンの回心――
プラトンの前半生――苦悩と遍歴の時代――
プラトンの活動――アカデメイア創立による講義と哲学の深化――
晩年のプラトン――理想国への情熱と著述――
プラトンの著作――多彩にして巨視的――

 

Ⅱ プラトンの思想

真理の旅人――永遠の発見とそれへの対応――
理想国における人間の条件――愛知への純粋無私なる参加――
学の形成とその方法の成立――弁証法の世界――
純粋存在と現象の世界――善のイデアとそれにあずかるもの――

 

年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ プラトンの生涯

 

ソクラテスとの邂逅(かいこう)

 

めぐりあい

もしプラトンがソクラテスにめぐりあわなかったならば、おそらくかれの生涯は別なものになっていたであろう。それほどこの二人のめぐりあいは劇的なものであった。しかし、それは、たんにドラマチックというものではない。たんなるドラマであったならば、プラトンは哲学史上最大の哲学者となるほどの邂逅をソクラテスとしたかいなかはあやしいからである。

 

ソクラテスは、人も知る巨人である。不世出の哲人である。しかもかれは、人類の意志を代表している。多くの人は、できることなら勇敢でありたい。正義の人でもありたい。だれよりもすぐれた精神のもちぬしでありたい。多くの徳と知識を身につけ、それらを自由自在に活用できたら、と願っている。どのような人も幸福をさがし求めているからである。ソクラテスは、これらの多くの人の願望を一人で実現したような人であった。いうなれば、人間の潜在意志を代弁している。いや、それを代行したのである。ただかれは貧乏なため、豊かな合理的な生活はできなかった。しかし、好きこのんでそうなったのではない。知を愛し求めることに精いっぱいであった。その点では、豊かな生活を求める現代人とはちがうのであろう。しかしかれは、すこしも貧しさをいとわなかった。むしろ知的な快楽を求めていたゆえに貧しかったのである。いついかなるときでも、知を愛し求めるという信念をすてなかった。本当の喜びを知っていたのである。感覚的・肉体的な快楽の「はかなさ」を痛感していた。求めても求めても、汲めどもつきない泉である、知恵を愛し好むことの喜びを、一生涯どんなことがあっても、すてることはなかった。そしてその知恵を活用する「使用の知」を身につけていた。そのためにかれは、紀元前三九九年、アテナイの牢獄の露と消えた。生命がうばわれようとも、信念や思想をすてなかったからである。「死命の思想1)」をうちたて、ひたすらそれに生きたからでもある。人類の意志は、すでに二千数百年の昔、アテナイに開花していた。そのソクラテスにプラトンはめぐりあったのである。それは「邂逅」ということば以外のなにものもそぐわないであろう。そのときプラトンは二〇歳であったといわれているが、あるいは、それより若かったのかも知れない。たぐいまれな芸術的天分と、創造的精神にあふれていた若き日のプラトンと、人類を代表する哲人との出会いは、いくらことばをかさねても、描きつくせないものをもっている。

 

若い魂はプラトンにおいてはなおさら鋭敏である。柔軟である。かれはソクラテスの全人格を直観したであろう。すでに有名なソクラテスは六〇歳をこえ、プラトンは二〇歳前後の青年である。二人のあいだにかわされた精神の火花は、その後の哲学史を二分するほどのプラトニズム成立の瞬間ともいえるであろう。ソクラテスはプラトンの将来を読みとったかも知れない。こうして、師弟のむすびつきは、その例をみないほどの典型にまで昇華していくのである。それから八年間、プラトンはソクラテスの弟子であった。かれはソクラテスの晩年を直接見聞した。プラトンは、もっとも充実した地上最高の先生から、じかに教えをうけたのである。その意味でかれはたいへんな幸福に恵まれたわけである。プラトンみずからソクラテスの時代に生まれたことを、一つの恩恵に数えていたと伝えられる。いやこのことは、ソクラテスにもいえるはずである。われわれが真のソクラテスに触れることのできるのは、このプラトンの書き残した対話篇によってだからである。もちろんソクラテスは、自分についてのこれほど真実をうがった記録を、弟子の一人があえてするとは想像もしなかったであろう。

 

ほんとうの誕生

人が出生しただけでは、まだ誕生したとはいえない。みずからを自覚し、人生の意味を苦悩のなかから学びとり、いかに生きるかを決意したとき、人は真に誕生するのである、というようなことをいったのは、たしかパスカルであった。プラトンは初め政治に志し、政治家になろうとしていた。そのかれを哲学に転向させたのは、まさにあのソクラテスの刑死であった。プラトンがプラトンでしかありえない成長をする決定的動機をえるのは、ソクラテスによってなのである。その意味で偉大なソクラテスの死は、哲学への警鐘と黎明を同時に告げた瞬間、ともいうべきであろう。

 

ソクラテスにおいて、ギリシアの哲学は、「新しい哲学」になろうとしていた。それまでの「自然哲学」は、「人間学」になろうとしていた。しかし、その人間学の生きた実践者であるソクラテスは、否定されてしまった。それこそ哲学の危機である。いや、人間の危機である。アテナイ人の危機である。ソクラテスは哲学への危険信号をなげかけつつ死んだことになる。それをプラトンほどの人が見のがすはずはない。かれは全生命をかけてソクラテスの遺産をひろわねばならない。もしソクラテスのなんであるかをみきわめておかなければ、その損失は計り知れない。永久に消失してしまうかもわからない。青年プラトンは、それを芸術的に直観したであろう。政治に志し、たとえ政治家になれたとしても、それ以上の仕事が哲学によってならできる。哲学でなければできないことがある。それこそソクラテスの意志をひきつぐことである。それは師ソクラテスの命令ではない。師の遺言でもない。だが、プラトンにしてみれば、それが恩師の強制であり、遺言であったとしても、光以外のなにものでもなかったであろう。かれは喜んでソクラテスの命令と遺言を実現しようとしたであろう。哲学は形式ではない。現象にばかりこだわることではない。そのイデー(理念)が問題である。そのよってきたる根拠こそ重大である。したがって、プラトンには、かれの芸術的直観を満たしたものを、ロゴス(言語)化することが問題なのである。ソクラテスのいおうとしたことはなんであるか。ソクラテスが生命と交換したものはなんであるか。ソクラテスはなにを実現しようとしたのであるか。青年プラトンの心中では、ソクラテスは殺されたのであるか、それとも自殺したのであるか、との葛藤があったであろう。計り知れない矛盾の渦が、かれをとりまいていたに相違ない。そこで、まずプラトンは、自分にできることはなんであるかを吟味したであろう。ソクラテスが死んだとき、プラトンは恩師のそばにいなかった。そのように、自分の書いた対話篇『パイドン』のなかでのべている。それは病気が理由であったとされている。しかし、よくよく考えてみると、なにをさしおいても、恩師の最期を見とどけようとするのが弟子のとるべき態度である。それをしなかったプラトンは、よほどの重病人でなければならない。しかし、そんなことは、だれ一人として伝えていない。とすれば、プラトンは、あらゆる努力をしても、ついに師の生命をひきとめえない現実にぶつかり、それまでの師とのつながり、あるいはなぜあれほどの哲人が殺されねばならないのか、などを総反省し、これからどうしたらようかと考えこんでしまったのかもしれない。こういう内面のできごとは、なかなか自分の著作にはおりこめないものである。ましてプラトンは、かれの手紙をのぞく全作品のなかで、自分の名前を三回しか使わないほどの人なのである。プラトンとソクラテスとの邂逅と訣別は、ひとことでいいつくせないものをもっていたといわねばならない。それは哲人と哲学者との邂逅であり、その別れは、この二人の運命を暗示する岐路ともいえる。ソクラテスはプラトンによってその人と思想と哲学が記録して残され、プラトンはソクラテスによって全運命がにぎられたからである。ソクラテスによってプラトンは、ほんとうのかれに生まれ変わるのである。しかし、プラトンには、自分が偉くなること、有名になること、自分だけが成長することなどは、第二のことであった。野心と虚栄にとりつかれていれば、ソクラテスとの出会いを無にすることになる。哲学に回心したかれには、まずすぐにとりかからねばならない仕事があった。それは、なんといっても、ソクラテスとのつながりにおいて、おこりつつあるかれの内面的変化についてであった。しかもそれは、ソクラテスとのつながりにおいてしかないものである。ソクラテスは死んだ。しかし、プラトンのなかでは、猛烈な勢いで蘇(よみがえ)りつつあるものがあった。かれはそれをなんとかしなければならない。

 

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人と思想6『アリストテレス』のまえがき+αを読んでみる

 

アリストテレスについて

 

「われわれはギリシアに何を負うているか。」ブッチャーの古典的な名著『ギリシア精神の諸相』はこの句ではじまっている。西欧の人びとは古典ギリシアの自分の魂の故郷を認めている。たしかに、その科学も文化も文学もギリシアにその源を発している。だが、古典ギリシアの真の意味の解明は、ヒースがその『ギリシア数学』で謙虚にいうように、まだ手をつけられたばかりである、といえよう。

 

それにしても、ギリシアは何を寄与したのか。科学や哲学の領域でかれらが用いた方法はしばしば誤ったものであり、その結論も不条理であった。それにもかかわらず、なお人びとが賛嘆と畏敬(いけい)の念をもって古典世界に目を投じ、自分の思考をぶつけるのはなぜなのであろうか。一口にいって、そこでわれわれのふれるギリシア精神とはどういうものであろうかわれわれは、ブッチャーのいうところを聞いてみようではないか。

 

ギリシア人はたじろがない眼をもって遭遇するあらゆるものを、人間と世界とを、生と死とを観察した。かれらは自然に向かって問いかけ、狐疑もなく躊躇もなく、自然からその秘密をもぎとろうとした。ひとたび真理への情熱にとりつかれるや、勇敢にも理性に信頼し、その尊きに従ったのである。「論証が導くところへは、どこであろうと、そこへ進もうではないか。」このプラトンの言葉は、この一面をはっきりとあらわしている。

 

一般的にいって、東洋の民族は宗教心を刺激する漠然とした知識に満足して、薄明の境にさまようことを愛していた。人間の眼から神をおおいかくしているベールをひきのけることを冒瀆と考えていた。神聖なものに対するこの畏怖からは、原因の研究だの起源の探究などはでてこない。沈黙のうちに体験される漠然たる神人一体感、自然との合一感至上のものであるようにみえる。ギリシアはこういう沈黙を突き破った。そして、確固とした悦ばしい本能をもって知識の追求をはじめた。時にはばまれ、時に途方にくれることもあったろう。が、その探究はあくことを知らなかった。あたかも思考の実験室のように、ありとある思考をこころみ、相互にたたかわせた。そして、その間に一つの共通の観念を生み出したのである。それこそ東洋の知らなかった、しかし近代科学の出発点となった観念であり、その内容は「自然は法則によって働くのだ、」という観念であったのである。

 

この観念は、経験的な知識の領域をこえて、人知を学問的な知識へとおしすすめようとした衝動が形をとったものといえよう。とはいえ、かれらがこの衝動のおもむくままに思考をすすめ、敬神の念などまったくなかった、というわけではない。ピタゴラスは有名な数学の定理――直角三角形の斜辺と二辺に関する定理――を発見したとき、感謝のために神に犠牲(いけにえ)を捧げたといわれる。プラトンは、神は幾何学する、といった。これらは、法則が宗教的根拠をもっていることを確信していた。すすんで、澄明な法則の凝視こそ神の理性を認めることであった。つまり、かれらにあっては、知識の探究と敬神とは同体のものと考えられていたのである。だからして、アリストテレスが最善の生活として観照的生活をあげたとき、その観照というのは理性を完全に働かせることである。漠然とした神人一体感を味わう冥想ではなかった。

 

ギリシア精神は、いってみれば科学的精神といえよう。どこまでも未知のものを解明しようとする精神である。そして、もしこの面で代表的人物を求めるならば、アリストテレスこそその人であろう。世界第一の賢者といわれ、万学の祖といわれるこの人こそ、改めて見なおされるべきであろう。というのは、かれの哲学ほどいろいろなとりあつかいをうけたことはなかったろうから。まず、その死後、著作は散じてしまった。ようやく、全集としてまとまったのは、その死後、二世紀半もたってからであった。しかも、中世を通じて、かれの哲学は排斥され、ようやくアキノのトマスを通じて中世の権威となったのは一三世紀のことであった。だが、ルネサンスとともに、教会と結合しているとの理由で、かれの科学は攻撃のまととなり、一七世紀初頭にはガリレイの実験によって、アリストテレスの落下法則の誤りが指摘されている。こういう事情をみてくると、いったいアリストテレスは真に理解されてきたであろうか、という疑問すら生じてこよう。アリストテレスの結論とした落下法則が誤っているにしても、そういう結論を導き出すにいたったかれの思考そのものが誤っているとはいえまい。誤りに陥らざるをえない条件があったとした(そういう条件は、二〇〇〇年の時間のへだたりを計算にいれれば、ありうることとだれも思うであろう――)、アリストテレスの思考そのものが誤っていたことにはならないであろう。そして、われわれが学ぶのは、教会の権威となったり、学の権威づけのために必要なアリストテレスではなかろう。むしろ、どこまでも真理を追求してやまない科学者の態度であろう。それこそ、現代の人にとっても肝要な態度であろうから。

 

それにしても、アリストテレスは難解である。その膨大な著述のいずれもが、いつどこで書かれたのかわからない。その年代決定はむしろ不可能といったほうがよかろう。しかも、その研究領域はきわめて多岐にわたる。その間に一貫したアリストテレスの思想をつかみだすのは容易でない。その点を追求するとき、わたくしはかつてアリストテレスの解釈の基礎となったイエーガーの所論には満足できなかった。そこで、主としてデューリングの見解を参照することにきめたのである。真珠玉のような各領域でのアリストテレスの研究をつらぬく金の糸を、この書が暗示しているように思われたからである。

 

 

目次

 

アリストテレスについて

 

Ⅰ アリストテレスの生涯と著作

生涯

伝記の資料とアカデミー入学まで
アカデミーの学員時代
遍歴時代
巨匠時代

著作

アリストテレスの著作についての伝承と編集
アリストテレスの著作と発展史的研究

 

Ⅱ アリストテレスの思想

論理学

倫理学の諸要素
アリストテレス倫理学の意義

第一原理

プラトンとの比較において
アリストテレスの第一原理

イデア論の批判

イデア論の批判の時期について
イデア論批判の主要点

自然の根本現象

人間の生活

倫理学
政治学

アリストテレスの存在論

存在としての存在の探求
実体論

 

年譜
さくいん

 

 

Ⅰ アリストテレスの生涯と著作

 

生涯

 

伝記の資料とアカデミー入学まで

 

伝記資料

アリストテレスの伝記については、他の哲学者と同様に、いちばんよくひかれるのはディオゲネス=ラエルチオス(三世紀中ごろの人)の『著名な哲学者の生涯と教説』である。この著作自身は、哲学の内容に深く立ち入ったものではなく、しばしば逸話のようなものを記載している。が、この種の著作で現存しているものはまれなので、最も広く利用されている。この著作中のアリストテレスの項は、前半まではいろいろな伝承をたよりに生涯の経緯を記載し、やがてかれがいったといわれる言葉や、他人の批評を、最後に著作目録をかかげ、それの簡単な内容解説をつけて終わっている。

 

もちろん、前述の検討を要する事項も含んでいる。以下にわたくしが記録した内容は、デューリング『古代の伝記についての伝承におけるアリストテレス(I. Düring:Aristotle in the Ancient Biographical Tradition. 1959)』を参照にしたものである。

 

アカデミー入学以前

ディオゲネス=ラエルチオスの記載をみてみよう。そこで次のようにいっている。「アポロドロス(前一八〇年ごろの生まれ)は、その年代誌の中で、『アリストテレスは九九オリンピア紀の第一年(前三八四/三年)に生まれた。プラトンになじみ、一七歳でその弟子となり、二〇年間かれの許にあった。一〇八オリンピア紀の第四年(前三四五/四年)エウブーロスがアルコンのとき、ミチレネに行った。プラトンが同じオリンピア紀第一年(前三四七/六年)テオプィロスがアルコンのときに死んだとき、かれはヘルミアスのところー行き、そこに三年滞留した。』と。」かれの生まれた場所は、ストリューモン湾にのぞむカリキジケ半島のイオニア人の植民市スタギーロスであって、その家は代代マケドニア王に仕える医師であった。かれの父ニコマコスも、アレキサンダー大王の祖父にあたるアミンタス三世(前三九三~前三六九年ごろ在位)に仕えた侍医であった。だから、アリストテレスはその幼少期をベラの王宮になじんで過ごしたであろう。父は早くしてこの世を去ったが、その年代はわからない。後見人となったのはプロクセノスである。

 

プロクセノスとアリストテレスの関係ははっきりしない。ある伝承はかれが母方の叔父であったといっているし、ある伝承はかれがアタルネウスの生まれで、アリストテレスの義兄であったといっている。で、この際、かれの遺言や伝承から、アリストテレスの家族関係を大胆に推察して、図のようだといわれている。かれの家は、遺言にもあるように、スタギーロスの家屋、カルキスの母方の家屋、かれの世話をした数人の人物などがあったのだから、かなり裕福な家庭であったろう。アリムネストスも子どもをもたずに死んでいるのだから、父祖の遺産はアリストテレスに帰したものと思われる。純粋にかれの相続した分はよくわからないが、いずれにしても相当なものと考えられよう。また、この家族関係から考えて、プロクセノスもおそらく医者であったと思われるのであって、そのアタルネウスでの生活もゆとりのあるものだったにちがいない。なお、かれが母方の叔父ということになる、叔父と姪が結婚したことになる。が、このような事例はギリシアの社会では普通のことであり、とくに相続分を守る際にとられる手段ですらあった。

 

で、プロクセノスは、かれをアタルネウスに連れていき、そこで指導したであろう。だが、このアリストテレスの若いころについては、なんの報告もない。推察しうることといえば、かれが子どもの頃よりアタルネウスの市をよく知っており、裕福な医者のかかり人として、当時の最上の基礎的な教育をうけたであろう、ということだけである。後になって、医者も実際の仕事をするためには、やはり基礎的な科学的・哲学的教養を必要とする、といっている点からすれば、かれは知的環境に育ち、若い時から当時の学問上の著作に接していた、と思われる。もちろん、その中にはプラトンの著作も含まれ、その哲学に深い感銘をおぼえていたことであろう。そうでなかったら、プロクセノスにともなわれてアテナイに来たとき、数ある学派(なかでもイソクラテスの修辞学は傑出していた)の中で、とくにプラトンのアカデミーをえらぶ理由はなかったであろう。

 

 

アカデミーの学員時代

 

アリストテレスのアカデミー入学

前三六七/六年、アリストテレスは一七歳でプラトンのアカデミーに入学した。きっとかれの希望にしたがって、プロクセノスが連れてきたのだろう。このときのアカデミーの状況はどうであったか。プラトンは六一歳に達していたが、二回目のシシリー旅行に出発していた。シシリーの僭主ディオニソス一世はこの年に没し、その義弟のディオンはディオニソス二世をたすけて、プラトンの理想政治を実現しようとして、かれを招いたのであった。プラトンはそこでディオニソス二世の師となる予定であった。プラトンは喜んで出発した。が、結果はきわめて不首尾なものであった。ディオンは宮廷の派閥抗争の結果追放され、プラトンは城内に留置され、願った帰国も許されなかった。ディオニソス二世はほんのしばらくの間であったが、プラトンの教えをうけ、その偉大さを知っていた。僭主としては、世間体を考え、帰国を許すことができなかったとも想像されよう。のち僭主が自ら戦場におもむかねばならなくなった時期になって、ようやく、必要なときにはいつでも帰ってくるという条件つきで、帰国が許可された。プラトンはこれよりのち前三六一年のはじめに三たびシシリーに旅立つことになるが、その間プラトンがアテナイにいた期間はわずか三年ほどと考えられる。つまり第二回シシリー旅行から帰ったのは、前三六五/四年ごろのことであったろうと推定されよう。

 

アリストテレスが入学したのはこの時期である。アカデミーでは、プラトンにかわって、エウドクソスが学頭の代理をつとめていた、といわれる。そこでまずアカデミーで、アリストテレスに影響を与えたと思われるエウドクソスについて述べておこう。ディオゲネス=ラエルチウスによれば、クニドス生まれのエウドクソスは幾何学・天文学・医術・法律に卓越した人物だとのことである。つまり、幾何学はタレンツームのアルキタスに学び、かれの同心球でもって天体の運動を説明する着想もアルキタスに負うところ大であったという。かれは前三六五年に盛期(アクメー)に達したとのことであるから、その生年は前四〇八年ごろであり、五三歳で没したというからその没年は前三五五年であると推定されている。二三歳のとき(前三八五年ごろ)、かれはソクラテスの学派の名声にひかれ、医者テオメドンとともにアテナイに来たといわれる。かれは非常に貧しく、ピレウスに滞在し、毎日歩いてアテナイにとぼとぼとかよい、二カ月の間、哲学や説得術などの講義に出席し、とくにプラトンの講義を聞いたといわれる。かれがアルキタスに幾何学を、フィリスティオンに医学を学んだ時期は、アテナイ訪問以前であったであろう。アテナイからクニドスに帰り、その後アゲシラオスからもらったネクタネビス王宛紹介状をもってエジプトに渡っている。その時期は前三八一/〇年のことであろう。エジプトに一六カ月滞在したのち、キジコスに行き、そこでかれは学派をひらき大勢の弟子にかこまれることになったが、こえて前三六八年にはかれらを連れてアテナイに移住した。プラトンとかれの関係については、いろいろに伝えられている。すなわち、エウドクソスはいつもプラトンに敵対していたとか、逆にプラトンとともにエジプトへ行ったとか、前三六一年にはいっしょにシシリーへ行ったとか、というようなものである。だが、いずれも信じがたいもののようである。

 

一七歳の入学したてのアリストテレスにとっては、四〇歳の円熟したエウドクソスは魅力的であったにちがいない。後年『ニコマコス倫理学』の中で、エウドクソスの「快楽がすなわち善」の説を引用している所では、アリストテレスはこういっている。「この論議は、論議それ自身のゆえによりも、より多くかれの倫理的性状の卓越性のゆえに信用を博した。というのは、かれはきわだって節制的なひとであると考えられていたからであり、だからして快楽の友としてかれがそういうのではないと考えられ、ほんとうにその通りなのだろうと考えられた。」と。また、その『形而上学』の中ではエウドクソスの『速度について』の一部を引き合いに出している。つまり、アリストテレスは、人格の面からも学問の面からもエウドクソスからつよい影響をうけたであろう、と推察されよう。

 

やがて、プラトンは帰国した。この時期をプラトンの思想発展のうえからみると、ちょうど中期より後期への移行時期にあたっている。対話篇でいえば、『ファイドロス』『パルメニデス』『テアイテトス』の諸篇の書かれた時期である。これらの諸篇はいずれも、中期に頂点に達したイデア論に省察を加え、より正確なものにしようとしている著作である。この著述をめぐってアカデミー内部でも、イデア論をめぐる論争が絶えなかったことであったであう。アカデミーの雰囲気は、学頭がドグマを押しつけるような重苦しいものではなかった。弟子たちが自由に共同に討議をし、したがってまた、弟子たちの間での論争もはげしいものであったであろう。もしそうだとしたら、アリストテレスの『イデアについて』なる断片は、この時代のものなのではあるまいか。イエーガーはこの断片を前三四八年より前三四五年にいたるアリストテレスのアソス時代のものとしているが、そのように早急に断定できるであろうか。このことは思想編で述べるとして、これだけにしておこう。

 

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堀田 彰 著

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人と思想3『ソクラテス』のまえがき+αを読んでみる

 

ソクラテスについて

 

ソクラテスの死と現代

われわれは、自分に最大の贈物をするとしたら、なにをおくるであろうか。また、他人にそうしたいときには、なにをするだろうか。今、おまえはかならず死なねばならぬ、と宣告されたとしたら、なにを考えるであろうか。あなたには、死と交換しても、惜しくないものがありますか、ときかれたら、なんと答えるであろうか。さらに、われわれのもっとも深いよろこびはなんであろうか。それはどういうばあいであろうか。はたしてわれわれは、真の幸福を求めているのだろうか。

 

ソクラテスは、これらの問いに明白な答をしている。すくなくとも、右の問いの一つには解答をあたえている。それをたんにことばで行なったのではない。かれの行動をとおし、身をもって示している。だから、かれは、われわれがこれらの問題にぶつかったとき、その実例をひっさげて迫ってくるのであろう。

 

ソクラテスは殺されてしまったではないか。死が答であったというのでは、現代人はなっとくしない。かれは逃げれば逃げられたのに、みすみす死刑になったではないか、しかも、無実の罪だというではないか。たしかにそうである。しかし、逃げなかったがゆえに殺された、そこに多くの人は、とまどいながらも、ひきつけられたのではなかったか。ソクラテス!ソクラテス!なぜおまえは逃げなかったのか。そう問いながら、われわれはかれの魅力のとりことなったのではないか。おそらくわたしだったらそうはしない。しかし、かれにはよほどの理由があったに相違ない。そのように、なかば疑い、なかば共感し、逆にソクラテスから、おまえの本心はどうなのか、と質問されて、ぎくりとしたにちがいない。不思議に思いながら、その糸をたぐりよせていくわれわれの心のなかに、いつのまにかソクラテスがはいりこんでいて、ちくりちくりと良心を刺しているからである。かれはわれわれと一心同体になれるなぞの人物なのである。そのなぞがかくもながいあいだ、無数の人びとをひきつけてきたのではないか。それに終止符をうとうとする。ここに現代の一つの課題がある。

 

罪のない人が殺されてはならない。いかなる理由があるにせよ、人を殺してはならない。戦争とて例外であってはならない。われわれがソクラテスにセンチメントをささげるのは、かれがこういう精神をうったえているからであろう。そればかりではない。かれはだれよりも人間の真実を明らかにしようとし、それによる幸福を求めた。それがなんであり、いかなる状態であるかを示した。いつ、いかなるときでも、信念をすてなかった。たとえ信念と死との交換を迫られても、知を愛し求めるという信念はすてなかった。無知であることが、どんなに恥であるかを自覚していた。われわれはこのソクラテスにも同感する。もし現代人が、このソクラテスを誠実に生きようとすれば、いったいどうなるか。われわれはそれをよく知っている。ソクラテスの生き方が、人間にふさわしいことを認めておりながら、そう生きる人はきわめて少ないということである。これが現代人の一つの矛盾である。だから良心がとがめるだけではなく、そうできない自分を、はがゆくも思う。そうして、ソクラテスを、なぜ逃げなかったのか、と問うていた自分自身がむしろ哀れになり、それにしても逃げない真意はなんであったのか、とあらためて自問自答するのである。これはソクラテスが多くの人に共通な真実をなげかけている証拠にならないだろうか。このように、かれのなげかけた波紋は、大きい。ある意味で、無限大である。だから、すべての人が、それを、しっかり見つめ、うけとめるべきであろう。つまりソクラテスを生きることである。それがソクラテス問題に終止符をうつことであり、そのとき初めてかれの死の意味が、われわれにおいてよみがえった、ということができるであろう。こういうことを念頭におきながら、われわれがあらためてかれの前に立ったとしても、かれはそれはまちがっていると一笑にふしてはしまわないと思う。

 

ソクラテスの思想

ソクラテス(Socrates)は、紀元前五世紀のギリシア人である。この時代のギリシア哲学を代表する思想家・哲人である。若いころからすでにかれは有名であった。その一つは怪異な風貌である。そのうえまったく身なりをかまわない。いつも裸足である。しかも人を卑下するようなことをしない。だれかれの別なく話しかける。かれと一度でも話をすれば、忘れることができない。かれはそういう魅力をもっていた。

 

ソクラテスは中年から晩年にかけて、戦争のなかに生き、人間性潰滅の危機にぶつかった。ペロポネソス戦争である。人心の腐敗と堕落である。そしてかれは、こういう時代が人間に教えるありとあらゆることを、だれよりも血とし、肉とした。しかも、かれは特異性を失わなかった。たとえば、あるときには一晩中、戦場では一昼夜も、同じところに立ちつくすことがあった。瞑想をしている。神の声をきいているのだともいう。また、自分を虻に、悪の巷と化しつつあるアテナイを馬にたとえたりして、堕眠をさますのだといった。しかし、かれはたんなる奇人でも天才でもなかった。

 

生涯、真実を愛し求めている。どんなときでも、真実を基準にして行動する。そういう透徹した人間愛にもえていた。それは「なんじ自身を知れ」にめざめ、「無知の知」を自覚してからも、一貫して変わらない。もうこれでよい、ということはけっしてなく、たえず哲学しなければならないような状態に自分を置く人である。むしろ、探求が人生であるようなそういう方法を見つけだした人である。

 

アテナイの守護神アポロンはかれに注目した。神はこの、どうしようもなくなりつつあるアテナイを、見るに見かねていた。そこでソクラテスを自分の使者として、アテナイ人を救済すべく送った。ソクラテスはそのように想像し、不動の信念にささえられ、「無知の知」の吟味とその普及にのりだした。しかし、それが禍の一因となり、同じアテナイ人に生命をうばわれてしまった。

 

ソクラテスは一冊の本も書いていない。しかしかれは、プラトンという偉大な弟子を残した。われわれは、そのプラトンの対話篇を主たる手がかりに、たぐいまれな不世出の哲人ソクラテスの生涯と思想を、できるだけ追跡してみた。そしてソクラテスの思想は「死命の思想」といえるのではないか、という新しい視角をえた。

 

最後に、村治能就先生には、かずかずの御教示を賜わったばかりではなく、原稿全篇にわたって厳しい慈眼をそそがれた。しかしそのご高配によく答え得ているかいないかは筆者の責任にぞくする。さらに清水書院にたいへんお世話になった。厚く御礼を申し上げたい。

 

一九六六年盛夏 中野幸次

 

 

目次

 

Ⅰ ソクラテスの生涯

永遠の哲人

ソクラテスの死――謎――

ソクラテスの生きた時代

ソクラテスの生まれた前後のアテナイ
ソクラテス盛年時のアテナイ
ソクラテス思想誕生の背景
ペリクレスの死とソクラテス

ソクラテスの活動

ソクラテスの前半生
ソクラテスの回心
ソクラテスの後半生
ソクラテスとソフィスト
ソクラテスの弟子

 

Ⅱ ソクラテスの思想

アポロンの使徒
無知の知
産婆術
永遠なるもの(イデア)
最後にさし示すもの
ソクラテスの遺産

 

年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ ソクラテスの生涯

 

永遠の哲人

ソクラテスの死――謎――

 

死刑の情景

紀元前三九九年、アテナイの牢獄で、ソクラテスは死刑の宣告をうけた。

 

ソクラテスには妻と三人の子どもがあったが、かれは自分の死刑に家族を立ち合わせる気持になれなかった。せっかくやってきた家族には家に帰ってもらった。

 

やがて毒薬を持った獄吏が現われた。ソクラテスはその男に、やあありがとう、君は用い方を知っていますね、とたずねた。

 

毒薬は砕いて杯の底に沈めてあった。

 

やたらに生きていようとするのは、中身がからっぽになった杯をけちけちするようなもの、というソクラテスに、クリトンはじめ弟子たちは、何をしてよいかわからず、涙を流し、泣きわめいた。

 

死ぬときは、しずかにしていなければいけない、ときいている。ソクラテスはそういうのである。この巨人の最期に当たって、弟子たちのできることといえば、ソクラテスの死を見守っているほかはなかった。

 

ソクラテスは、もっとも高貴で、思慮と正義にかけてはならぶもののない哲人にはちがいないが、死刑を控えてのゆとりは、筆舌を越えて、堂々としていた。

 

「われわれはアスクレピオス様に雄鶏の借りがある。とにかく忘れずに返して下さい。」

 

これがソクラテスの最後の言葉であった。遺言になったわけである。

 

アスクレピオスというのは医の神である。ソクラテスは、生前この神に願をかけていた。雄鶏はその奉納の品である。あるいはソクラテスは死ぬことによって、魂が肉体の束縛から解放される、と考えてのことである。それのみか、ソクラテスは、死刑による死に臨みながらも、自分の死を、この世からあの世への転居のように考え、神に祈りながら、息をこめて一滴のこらず毒杯を飲みほした。

 

そのあと、ソクラテスはゆっくり弟子たちの傍を歩き回ったが、そのうちに足が重たくなり、あおむけに横になった。親友クリトンは、ソクラテスの遺言をようやく理解して、たしかにそういたします、と答えたが、すでに返事はなく、ソクラテスの眼は死者の持つ別のひかりをたたえていた。

 

実にソクラテスは獄吏の教えた通りに、死を行なったのであった。

 

こうして、人類史上偉大な哲人思想家ソクラテスは、生涯を閉じたのである。それは二月か三月のことである。およそ七〇歳であった。

 

 

毒を飲む前

毒薬は「どくにんじん」の種子を砕いて汁をしぼりだしたものである。ソクラテスがそれを飲む前の日没までに、まだしばらくの時間があった。死刑執行の時刻は、日没と法律で定められていたからである。

 

太陽は地平線下にすっかり沈んでいない。アテナイの北東の方向にあるヒメトス山のいただきにまだ太陽は残っている。それに、死刑の知らせがあってから、ずいぶんたって毒薬を飲んだものも多いことを、親友のクリトンは知っていた。そこでかれはソクラテスに、大いに飲んだり食べたり、好きな人といっしょにねたりすることをすすめたのである。おそらく普通のものならクリトンのいうとおりにしたかも知れない。しかし、ソクラテスは、一笑にふしてしまった。そればかりではない。「そんなことで得をしたと思っているのだけれど、わたし自身はそうはしないだろう。それもそれ相当の理由がある」という。すこしばかりおくらせて毒を飲んだからといって、この自分に笑いをまねくだけで、なんの得もない、と確信している。ソクラテスにおいては、ただ生きのびるのではなくて、よく生きることが問題なのである。

 

だから、抽籤で任命され、獄中の人びとの監督や罪人の死刑、告発者の裁判所への提訴などをつかさどる十一人衆の下役は、ソクラテスにいったのである。「あなただけはすくなくとも他の人たちにみられるようなまねはなさらないでしょう。かれらは主たちの強制だから毒薬を飲まねばならない、とわたしが告げますと、わたしに腹をたてたりののしったりするのです。しかしあなたはこの獄屋におられた期間、とくに今までここに入った人たちのうちで、もっとも男らしく、おだやかで、また高貴であったことを、わたしは知りました。ですから、今も他の人たちには腹をたてても、わたしにはお怒りにならないことをよく知っています。御気嫌よろしゅう、では運命をできるだけ楽に忍べますようお努め下さい。」こういって涙を流しながら立ち去ったほどである。ソクラテスはこの言葉どおりにしようとする。

 

弟子たちは、ふたたびめぐりあえないであろう師の最期を、不幸だと思っている。いろいろ腹の底から話しあうのも当然である。しかしソクラテスは、いっこうに不幸だとは考えていない。むしろ、あの世で死者にめぐりあえる、とよろこんでいるようすすら見える。しかし、弟子たちにとってはたまらないものがあった。父を亡くしてからの生活を送ろうとする孤児のように思えたのである。ソクラテスはクリトンをつれて、体を浴するために水浴みにいき、そこで長男のランプロクレスと二人の幼児ソフロニコスとメネクセノスと言葉をかわしていた。やがてソクラテスは子どもたちに立ち去るように命じ、弟子たちの中に加わったが、日没は刻々と迫ってくる。日没になれば、ソクラテスはどうしても毒杯をうけねばならない。弟子たちには、ソクラテスの死後のことが気になってならないのである。

 

ソクラテスの墓場

ソクラテスは、自分の死後の埋葬については、さほど神経質ではなかった。クリトン、元気をだしてわたしの肉体を埋めるといってくれ、それも、君の好きなように、習慣と思われるところにしたがってやってくれ、と平然としていた。

 

クリトンには、死んだソクラテスのその屍体が、ソクラテスだと思えてならない。だからクリトンは、ソクラテスをどう埋めたらよいか、と迷うのである。ところがソクラテスは、毒薬を飲んだら、もうこの世にはいない、と思っている。この世を去って、たしかに福者の住む、なにか幸福なところへ行くと信じている。ソクラテスは、クリトンをはじめ弟子たちにも、そう思ってほしいのである。そうすれば、それぞれにとって、慰めになるであろう。たとえ、ソクラテスの肉体が焼かれたり、埋葬されたりするのを見ても、ひどい目にあっている、と腹をたてることもないだろう。

 

運命がまねく時は、人はだれも旅立たねばならない。いかなる人も死をさけることはできない。今、ソクラテスを運命がまねいている。ソクラテスは、七〇歳の生涯の肉体の終わりの時がきたと迷わない。しかし、弟子たちには、この期をのがして、ソクラテスからなにもきく機会はなくなってしまう。クリトンは、ソクラテス亡きあと、その遺児たちに、なにをすべきかを、ソクラテスにきいた。

 

日頃いっている以外に別にこれといって新しいことはない。君らは君ら自身のことに気をつけてくれ。なんでもちょうどよいときにやっておくべきである。今、われわれの意見が一致しなくてもいい。ただ自分自身のことをなんら世話もせず、これまでいってきたことにならって生きようとのぞまないならば、たとえ現在あれこれと強く同意したところで、たいして益はあるまい。」

 

こういって、ソクラテスは、水浴に行くときがきた、水浴をして薬をのみ、女たちに屍体を浴みさせるめんどうをかけないほうがよかろう、と冷静そのものであった。しかし、クリトンは、この最期を迎える前に、ソクラテスに対して、アテナイの牢獄からの遁走をすすめ、計画もしていたのであった。

 

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