「人と思想」シリーズ

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『魯迅』が発売されました!

歴史上の偉人をさまざまな視点から紐解く「人と思想シリーズ」
195番目のタイトル『魯迅』が発売されました。

中国近代文学の父といわれる魯迅は,日本でいえば夏目漱石にあたる。社会主義国家をめざした中国では,毛沢東によって魯迅は革命文学者として神棚に祀り上げられる存在となった。その傾向は日本の魯迅研究者のなかにもあり,マルクス主義の文学的旗手として魯迅を評価するむきもあった。

本来の魯迅は,そんな物差しではかれるような文学的存在ではなかった。当時の中国人に内在していた阿Q的な精神構造から目をそらすことはなかった魯迅は,いっぽうでは古典文学の研究者として『中国小説史略』を著し,さらには魏晋時代の文人たちの言動をとおして,彼が当面していた1920年代の政治的思想的状況を風刺し,批判していた。晩年には,ドイツの版画家ケーテ・コルヴィッツの作品に刺激をうけた魯迅は,上海において社会的関心の強い近代的な版画作家たちの育成につとめた。

こうした複雑で多面的な文学者魯迅の実像をできるだけ伝えようとしたのが本書のねらいである。

 

目次

まえがき
第一章 魯迅―作家までの道のり
第二章 日記のなかの魯迅―映し出された作家人生
第三章 現実に向き合う古典文学者魯迅
第四章 語られ始めた魯迅、語り継がれてきた魯迅
あとがき
魯迅年譜
参考文献
索引

人と思想1『老子』のまえがき+αを読んでみる

 

老子について

 

哲学や思想は、それを形成した人がみずからの哲理に生きる、生きようと努力することなしには、存在する意義をもたない。人間が自己をも含めて、現にこのように生きている――このことに十分に自覚的でない哲学や思想が生起することは、<哲学の貧困>を物語るのである。現代における哲学や思想の形成にとって、真に緊要なことは、たんに人間疎外の諸状況を現象的に捉え、そのような現象を直接的に打破していこうとするレディ-メイドの方法原理に立つことや、人類文化の現在までの到達度をもって推論の根拠とし、「文明の未来学」に現状改変の夢を託することではない――むしろ変革すべき現状を招来したほかならぬ人間存在の根源に立ち帰るところから、現代における哲学や思想の形成は出発しなければならないという点にあるのではなかろうか。

 

樸(ぼく)に帰れ

このように考えてくるとき、ここに一冊の書物として取り出した『老子』は、われわれにとって、いかなる意義があるのだろうか。端的にいって、『老子』思想の根底に一貫して流れているものは、人をも含めたあらゆる存在を、そのよって立つ根源に立ち帰って、個性的に生かすということである。あらゆる作為を廃して、個を、その存在の原点のところ、その存在の真の在りかたにすなおにまかせきることによって、かえって本来的に生かすのである。

 

「賢(けん)を尚(とうと)ばざれば民をして争わざらしむ。得がたきの貨(か)を貴(とうと)ばざれば民をして盗みを為さざらしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば民の心を乱れざらしむ。」(第三章)

 

これを愚民政策の典型だとこきおろす偏見者はさておき、二千数百年も前にいわれたこの言葉は、すでに人類文化の至るべきなれの果てを予言しているといってもさしつかえないのではなかろうか。

 

いったい、文化・文明の〝文〟とは〝質(しつ)〟〝樸(ぼく)〟に対する語である。『老子』では、〝文〟はすべての人の作為するところ、そこは文はあり得ても、ものの真の在りかたは失われている、とされる。とすれば、人の要らざる作為をくわえない〝樸〟なる状態こそが、人の求めてやまぬ「ものの本来の在りかた」であろう。こざかしい知恵者をもてはやし、富や名利をたいせつなものとし、どうでもいいものをむやみにひけらかす――そこに華美と偽巧は見られようとも、かえってそれによってものの真なる姿は失われてしまう。ものがおのずからそう在るところ、そう成るところにすなおに順おうとしない文化・文明は、かえって人心を困惑させる以外の何物でもない。それならば、老子は文化を否定したのかというとそうではない。真の文化とは、文飾ではなくして、人間存在のまさしく根源にたち帰って求められるべきものでなければならない。老子はしきりに、「もとに帰れ」という。「嬰児に復帰す」「無極に復帰す」「樸(ぼく)に復帰す」(以上二十八章)の嬰児・無極・樸は、すべてもとの意であって、結局、それは老子のもっとも明らかにしたい〝自然の道〟に帰ることでもある。樸に徹した人間社会こそ、本来の人間の文化が成立する根底である。

 

それゆえに老子は「天地は不仁(ふじん)、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は不仁、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。」(五章)という。芻狗とは、祭祀に使うための草で作った犬。祭りが終われば捨ててかえりみない。天地はものの自然(ものがおのずからそう在る~成ること)にまかせて、何らの作為を加えないから、かえって万物がおのずからそれぞれに落ち着きを得て生かされる。聖人もまた天地とその無為の徳を合するがゆえに、万人をそれぞれの個性に従って生かす、というのである。「不仁」はまた無為の意でもある。ごくわかりやすく通俗的にいえば、ふかなさけをかけないこと、おせっかいをしないこと、といった意味だろうか。

 

為すなくして為さざるなし

こうして、問題は「無為」ということにある。無為とは「道は常に為すなくして為さざるなし――無為而無不為」(三十七章)とあるように、文字通り何もしないということではない。無為であることによって、かえって全体を為し尽くすのである。『老子』に注釈を施した魏晋時代の王弼(おうひつ)(二二六~二四九)という若くして亡くなった学者は、無為と「自然に順(したが)う」ことだといった。しかも「無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」は道の常の働きそのものである。とすれば、老子における道とはいかなるものなのか。開巻第一章に「道の道とすべきは常道(つねのみち)にあらず。名の名とすべきは常名(つねのな)にあらず。……」という。常道・常名は、個々のもの・ことを対象として、それにつけられた道や名ではなく、むしろ差別相としての個物によって構成される現象の世界を超えた一般者、道を道とするもの、また個物に付与される名に対して、むしろその名を名とするもの――それを常道とか常名といったのである。

 

しかし、老子において表現しようとしている窮極(きゅうきょく)のもの、およそ存在するものの真の在りかたは、常道とか常名といった言葉に表現されるもので満足することはできない。道といってしまえば、もうすでにそれは人の往来する道を予想し、万物の由(よ)るべきところを定めてしまう。逆にいえば、由るところがあるから道というのである。万物の由るところという意味においては、たしかに道は表現し得る最大のものである。しかし、まだそれは何とも表現できないもの、すなわち王弼(おうひつ)のいわゆる〝無称(むしょう)の大〟にかなわない。そこで老子はついに、「自然」をもって無称の言、窮極の辞とする。なぜ道よりも「自然」が老子のいい表わそうとするものの当体を得ているか。「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。」(二十五章)といわれるように、道もまたその働きと性格において「自然」にのっとるからである。

 

「自然」とは「もののありのままの姿」そのものである。老子の関心はまさにこの一点に集中する。「もののありのままの姿」したがって、ものが「おのずからそう在る~成る」実相そのものこそ、老子の把握した存在の窮極であった。これについてかりにあざ名して道といい、そしてその道が常に、無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」とされたのである。無為とは、こうして、ものの自然に順うことであり、もののおのずからそう在る~成るところにまかせきって作為を加えないことである。ものの自然にまかせて作為しなければ、かえってものはその本来のいのちに生きることができる。「為さざるなし」とは、およそ存在するものをその本来の在りかたに即して生かしきることでなければならない。もののいのち、ものの本来の在りかた――それがまた先にいった老子の〝樸(ぼく)〟である。そして、人がこのような道を体得したとき、そこに無為の徳が実現する。

 

老子のいう「上徳」とは、また無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」である。これは先の道についていわれたのと同じである。つまり、徳とは、この「無為而無不為」としての道を日常具体のなかに実現する、または実践を通して道を証示することである。作為すればものの自然を失い、不作為なればかえってものはおのずから働いて自己自身に生きる。それが道につき順うことによって実現される老子の徳である。

 

まことに老子の思想は、虚無(きょむ)にさまよう逃避・隠遁(いんとん)の弁(べん)ではなくして、個物の実存を見きわめてそれに徹し、ものの自然にすなおに順うことによって、かえってものを生かす思想である。人間とはそもそも何であったのか――老子を通してわれわれはもう一度その問いの根源にたち帰って深く考えることを余儀なくされるであろう。

 

本書の執筆を依頼されてから長い日時が経過してしまった。理由はいろいろあるが、とにかくシリーズとして企画された清水書院に対し、多大のご迷惑をおかけしたことをここに深くお詑びする次第である。

 

(なお、本文に述べてあり通り、『老子』なる書は、それを書いた老子という人物の実在も、またこの書ができあがった年代も、明確にはわからない。したがって、老子という人物の年譜を、本シリーズの他の思想家同様につくることはとてもできないので、これを省略してあることをおことわりしておきたい。)

 

昭和四五年五月 高橋 進

 

目次

 

Ⅰ 老子と『老子』書

概説
漢代の学問
司馬遷父子の思想と生涯
『史記』の老子伝
『史記』老子伝の問題点
老子および『老子』書をどうみるか

 

Ⅱ 『老子』書の背景

春秋・戦国時代
百花斉放、百家争鳴

 

Ⅲ 老子の思想

哲学の意義
道について
徳について
聖人の徳
治政――聖王の治
もとに帰る
あとがき

 

参考文献・テキストなど
さくいん

 

 

Ⅰ 老子と『老子』書

 

概説

 

貴重な人類の文化遺産

何か新しい資料が出てくれば、混乱し不明であるとされていることがらが、はっきりと断定されるであろう。『老子』という書物、および老子という人物について、これまで、数多くの学者が長い間研究してきているが、ついに、老子という人物がいつごろのどんな人であったか、いや、いったい老子という固有名詞をもった個人が実在したのかどうか、また、『老子』という書物は老子という個人によって書かれたものなのか、いつごろできたものなのか、……などなど、いろいろな説はあるが、ついにはっきりと断定できるほど、十分に説得力のある見解は出てきていない。

 

とにかく、老子および『老子』書は、それほど古い中国における文化的な遺産なのである。秦・漢帝国が成立する、それより何百年も前にすでに出現していたこの書物が、それにもかかわらず、最も中国人に愛読されてきたこと、中国人ばかりでなく、われわれ日本人にも、いや、世界の国々の人々に翻訳され、読み継がれてきたことは、まぎれもない事実である。つまり『老子』という書を書いた人物もはっきりわからなければ、いつごろできた本であるかも正確にはわからないのに、二〇〇〇年以上も経た現在に至るまで、その書物が存在し、世界の人々によって読まれてきている。それほど、この『老子』という書物は魅力のある本なのである。

 

いったいに、世界のどこの地域においてもそうだが、古い時代のことはよくわからない。歴史の源流に近づけば近づくほど、いわゆる歴史的事実も、その事実を構成した人物たちのことも、ぼんやりとした霞(かすみ)の向こうにおかれてしまう。いまここで文明の精神史的源流について語る余裕はないが、そういう源流、つまり文明の源には、こんにち生きるわれわれ世界人類にとって、まことに魅力のある人物が出現していたのである。インドのシャカ、ギリシアのソクラテス、中国の孔子やここで問題にされる老子という人物も、またそのひとりであるといえよう。しかし、文明の原点近くに存在した人物のことは、はっきりとした生没年や、その人の名にかけられた文献や書物とともにわからなくても、それがこんにちまで伝承されてきて、しかも、いささかも何千年も前に形成された価値を失っていないということは、考えてみると不思議なことである。人類の歴史が始まって二千数百年もたてば、そうとうに人間は進歩しそうなものである。確かに、人間の知識は進歩したから、現在、社会主義とか自由主義とか、その政治体制を異にしても、世界の国々の形成した科学文明は、いわゆる宇宙時代を現出している。しかし、人間の精神というか、生き方というか、そういうものは、二千数百年くらい経たところでは、それほど変わっていないのであろう。それなるがゆえに、古い時代の、著者の生没年もはっきりわからず、確かにその人物が書いたかどうかもわからない書物が、重要な文化遺産、人類の知恵として愛されているのであろう。

 

だから、文明の原点近くには、そういうはっきりとわからない人物に仮託された、そのころの人間たちの知恵の集積があったのだ、そういうものが、こんにちの文明社会を形成するエネルギーになったのだとも、またいえるであろう。話題が少しそれたようだが、老子という人物にかけられた『老子』という書物を読んでみると、原点近くに生存した人間の、賢さ・知恵・透徹さが感じられる。

 

さて、老子および『老子』書であるが、これについて全くわからないというわけではない。老子という人物の伝記がこんにちまで残されているのである。その最も古いものは、前漢中期、紀元前二世紀から紀元前一世紀ごろの大歴史家、司馬遷(しばせん)の書いた『史記』にみえる「老子韓非列伝(かんぴれつでん)」である。

 

われわれはまず、この司馬遷の残した資料を検討してみることにしよう。その前に、司馬遷という人がどんな人物だったか、かんたんにふれてみたい。

 

漢代の学問

 

経書の成立と歴史学

漢代の学問・思想の特徴といえることはそれ以前にはまだ諸子百家(しょしひゃっか)の一つにすぎなかった儒家思想が前漢武帝(紀元前一四一~紀元前八八)の時、董仲舒(とうちゅうじょ)の建言をいれて儒学を尊重する方針がきまり、以後漢王朝の指導~支配理念としての国教的性格をおびるようになり、諸子学に優位していちじるしく興隆したことである。儒学が官学になるにつれて、儒家思想のよりどころである経典(テキスト)の編成・整備が行なわれ、また、これに対する字句の解釈や注釈が、主として学問をする者の重要な任務となった。これを一般に訓詁(くんこ)の学風という。

 

どうしてこのような学問傾向になったかというと、それには理由がある。前代の秦帝国を創立した有名な始皇帝は、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)といって、思想統制のために史官秦紀以外の書物を焚(や)いたうえ、儒者を大量にとらえて穴埋めにした。やがて秦が滅び、漢代になってその統制が解かれると、天下に広く隠されている書物を求めることになった。貴重な書物、めずらしい書物を献上すると賞さえも出たということである。

 

とにかく禁令が解かれた漢代の儒者たちは、先秦時代の古書をあちこちと探り出して、これを研究することが仕事となった。最初に済南(チーナン)の伏生(ふくせい)という学者――秦から漢にかけて生きた人で、漢代の儒者にとっては古老ともいえる――の口伝えによって書きおろされた〝経書〟ができた。このテキストは、漢代の新体(その時の現代文字)で書かれたから、これを今文(きんぶん)という。のちになって、孔子の旧宅の壁中などから出たといわれるものは、先秦の旧体だったので、これを古文(こぶん)という。たとえば、『尚書(しょうしょ)』などはその代表的な経典で、口伝えで書かれた新しいものを『今文尚書(きんぶんしょうしょ)』、旧体の方を『古文(こぶん)尚書』という。今文の教書は簡単であるが、古文のものはかなり詳細である。しかし、今文といい、古文といっても、両方ともすでに原始儒家思想からは遠く離れており、いちがいにそのどちらが正しく、どちらが非であるともいえない。そこで、今文をテキストとして研究するグループと、古文をテキストにするグループとに分かれ、それぞれ一家の見解をたてようとしたのである。さらに同じテキストを用いても、それの解釈は異なってくるから、やはり『易(えき)』には五家、『今文尚書』には三家というように多くの学派が形成された。しかも前漢時代の学者には、とくに一経専問が多く、師の学説を墨守(ぼくしゅ)していたから、テキストの混乱がひどかった。

 

後漢時代になると、ようやくひとりで数経に通ずる学者が出てきたが、その末期に出た馬融(ばゆう)・鄭玄(じょうげん)というふたりの学者は、どの経典にも精通し、詳しい注釈をほどこした、また、前漢以来の諸説紛々(ふんぶん)たるテキストでは学生の教育にも困るので、後漢章帝の建初四年(七九年)には、多くの学者を宮中の白虎観(びゃっこかん)に集めて五経の本文の異同を議論させ、『白虎議奏(ぎそう)』というものをつくらせた。こんにち伝わる『白虎通』または『白虎通義』はこの時の記録である。このようにして、漢代の学問は、もっぱら伝承された儒家経典のテキスト-クリティークや、訓詁(くんこ)注釈の傾向にあった。

 

しかし、この反面、古典に対する統一的見解を求めたり、国家権力によって経文の異同を決定させることは、一種の思想統制であるから、漢代の学問、とくに儒学が独創的な性格をもち得なかったことも事実である。他面、テキスト-クリティークによって、『周易』『礼記(らいき)』『儀礼(ぎらい)』『春秋公羊(こうよう)伝』『春秋穀梁伝(こくりょうでん)』『春秋左氏(さし)伝』『尚書』『論語』など、最近では一部漢代の偽(ぎ)作だともいわれるように、その創造的側面は決して見のがし得ないものがあった。

 

わけても、漢代の学問で重要な成果は、歴史学の発達である。西洋のヘロドトスに比べられる司馬遷(しばせん)の『史記』や班固(はんこ)の『漢書』、荀悦(じゅんえつ)の『漠紀』などの傑作があいついであらわれ、また、『淮南子(えなんじ)』や『論衡(ろんこう)』のような思想的に深い著書も出現していたのである。

 

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人と思想2『孔子』のまえがき+αを読んでみる

孔子_表紙

孔子_肖像

 

孔子について

 

『礼記』の壇弓篇の中に、孔子の晩年、ある日の挿話がみえている。

 

朝早く、孔子は杖をひきながら、門前を散歩していたが、ふと口ずさんで、低音に歌った。

泰山もやはり崩れるであろう

橋の横木だって腐りおちるであろう

鉄人だって病みしぼむ日がくるであろう

歌い終わって部屋にもどり、南向きの窓下にすわった。門人の子貢が、歌声を聞きつけ、「これはたいへんだ。先生は病気になられたそうだ。」と、小走りにかけつけてみると、孔子は言った。「おお、もうきたか。・・・・・・自分は殷人の子孫だが、昨夜の夢に、殷の礼俗どおりに、応接間の二本柱の中間に置かれて祭られたようだった。いよいよ自分の死期も近づいたらしい。」と。それから寝ついて七日目に世を去られた。

というのである。

 

すでに孔子の家塾にはいる門人は三千、一芸に通じたものは七十二人、そして出色の孔門は十哲、と称されるほどである。ところが、その日常生活ぶりの一端はといえば、まことに平凡・正常で、気どらず、飾らず、自然のままの一老翁の姿そのものであったことを、この挿話からよみとることができる。私たちは、人懐っこさをしみじみと感ずるのである。

 

家族と自分、社会と自分、そして人間としての自分が、どうあるべきであるかを、平凡・正常な言葉で説きさとす孔子が、早起きして門前を散歩し、感興のわくままに低音で歌唱する。―そうした情感をも豊かにそなえているひとりの老翁が、そこにいる。そして、山川・風物、ひいては人生、すべては、時の流れの起伏の上に、自然、必然の推移や変遷を遂げねばならないものであり、また、宿命でもある。―こうした天命や宿命を淡々として語りさとす情理の老師が、そこにいる。

 

弟子と老師―子貢といい、孔子という、それが互いに愛しみ、あわれみ合って、心の対話を遂げ、慈けの恕り(おもんばかり)を果たし合うのである。情味津津としており、全人即応の教育の姿がまさにここにある。

 

さて、みずから孔子は、殷の公族の後裔であると言った。殷人は紀元前十一、二世紀ごろから高度な文化を開発していた。おそらく孔子の先世は、その殷文化を伝習しつづけていたに違いない。そして孔子は、そのような累積の文化遺産を基礎にし、また、人間生活の調和と安らかさを得るような生活のしかた、秩序を、思考してきたのであったろう。

 

そこに、殷民族がはやくから天を信仰し、家族の生活形式をつくり、人間の生命を保全し永続することを計った、などの諸点に立脚する孔子の天命重視の考えや人間観、また、孝弟道徳、礼楽理念や、中庸・調和の重視などという思考が、生じているのであり、さらに、それらの根底を深く追求してみて、忠(まごごろ)と恕(おもいやり)の情操をつきとめ、これを核心として、人間生活のための原理である「仁愛・仁道」を、確立するにいたった。

 

孔子前後においても、「兼愛交利」とか、「為我保身」とか、「無為自然」などという、多様な生活の原理は、中国のもろもろの思想家によって唱えられていたが、民族本来の志向に適切な生き方はということでは、やはり孔子の理法がまさっていた。ここに民族三千年の待望を担った理由がある。

 

弁舌才学に秀いでた子貢に、夢物語に託して、通夜の礼式の精神と移り変わりを教えていた。それは世を去る七日前のことであった。しかも、淡々として、夢話をこころみ、死期にのぞむ人の恐れも惑いもなく、執着などさらにないのである。こうした心境の老翁にあの歌唱の情感ゆたかなすさびがあり、そして死期迫ればその迫るに応じて、切実なそして現実的な礼俗・秩序を身近に示そうとして、しまも悠然としている。この人柄、この人間性、この情感・情理と英知、そして教化、それらに感動しないものがあるであろうか。

 

最も人間らしい人間性の典型を、孔子その人に見い出すことができるのである。つぎには、真心からの思いやり、情けの心ばえに基づく、人の世の生き方の思想を、ふかぶかと孔子のの言説中にみてとることができるのである。

 

孔子の思想における理想的人間像と、人を愛恕(いとお)しむ情緒心(なさけごころ)との再発見は、それがどんなに、現実の人の世に、深みをそえ、住みよさをもたらしてくれることであろうか。それは大きな夢であるかもしれない。けれども、われわれは、この人の世に、信じてこの夢をかけてみたいのである。いや、かけねばならないのである。それは世界人類の安らぎと平和のためにも。

 

ここに、孔子を学び、その思想の背景を吟味し、あわせて深く掘り下げてみる必要性とその理由とがある。

 

孔子の教えは、多くの弟子たちに受けつがれた。時の移り変わりとともに、その色あいにはちがいを生じつつも、死滅することなく、今に至るまで伝えられてきている。このことでは、台湾・欧米の文化界においてはもちろん、中共においても最近の十余年間に、多数の文化人・学者などによって、孔子の思想の再検討と論評とが行われているのである。その当・不当はともかく、なおいっそう多方面からする、孔子とその思想の再評価が、進むことは、まことに意義深いものである。

 

終わりに資料提供に対して、横浜中華学院、神奈川県立外語短大付属今井雅晴氏に謝意を呈します。

 

内野熊一郎

 

 

目次

 

Ⅰ 孔子の横顔について

孔子をみる人の目
孔子の祖先たち
孔子の出生前後
孤児となった少年時代
十五歳で学問に志す
母を失う前後の青年時代
出国と帰国

 

Ⅱ 孔子の思想について

なぜ孔子を学ぶのか
個人生活への発言
家庭の倫理
国家社会の倫理
孔子をとりまく弟子群像――孔門の四科十哲について――
孔子の思想を伝える書物

 

Ⅲ 近代以降の試練に耐える孔子の思想

中国と西洋との接触
典礼問題おこる
フランス近代思想は、どう受け入れたか
現代哲学からの評価
現代中国における孔子の評価

 

年譜
参考文献
さくいん

 

孔子_本文

 

Ⅰ 孔子の横顔について

孔子をみる人の目

孔子とは

この夏は、昨今で最も本格的な夏だと、テレビで報じていた。相手が孔子だということで、ともかく猛暑の中を新装成った横浜中華学院(中華民国系)を訪れてみた。孔子の研究者で鳴っている校長の張樞先生、教務主任の林継堯先生、中国語の達者な小原武三郎先生にお会いしてみた。

 

もともと孔子がどういう性格の聖人であるかなどということについては、古来、東洋・西洋の学者もいろいろと賛辞を呈してはいるけれども、理解しにくいのである。きわめて簡単明瞭に孔子の人となりについて論評したものも、いたって少ないのである。といって、複雑な論評ではとても孔子のプロフィルはとらえにくく、また逆に短編であっては、ともかく断片的すぎていて、ともども困惑するのである。張校長は「日本には、孔子さまが、いろいろな形ではいってきていますね。もちろん、それぞれの時代で、孔子さまをみる人の目はちがうし、また、孔子さまの言行や記録などの関係もいろいろありますが、それよりも、何といっても漢代でどう評価されたか、これをみてみたらどうでしょうか」という趣旨のことを、きわめて流麗な日本語と中国語でチャンポンに話しておられた。

 

たとえば孔子の人となりということでは、『論語』の憲問篇に、つぎのようなことが述べられているのである。「孔子の門人の子路が、孔子の用事で本国の魯の国に帰るときのことである、石門(魯の町の外門)というところにきたとき日没で門が閉じていた。そこで門外に一宿し、翌朝、石門の開くのを待ちうけて通ったところ、晨門(門番)が時刻のあまりにも早いのを怪しんで、あなたは、どこからきましたかと聞いた。子路は、孔子のところからきましたが、と言ったら、門番は、『ああ、あの孔子か。あの時勢のだめなことを知りながら、社会、人道のため、奔走、努力してやまないお方か』と言った。」とある。これは、孔子が、道をもって自ら任ずることに厚いものがあるという真意を理解しないで、門番は、孔子の高踏隠遁的な態度を見て、嘲ったということである。それはそれとしても、この門番の言は、孔子一生の真面目さを評し得た言葉として、注意しておかねばならないようである。以上は他の人が、孔子をどう評価していたのかの、一つの見方である。時勢の不可なることを知りながらも、やむにやまれぬ赤心(誠意)熱情から、東奔西走、列国に周遊して、道を伝え、教えを説いたことでは、『かくすればかくなるものとは知りながらやむにやまれぬ大和魂』の辞世の句を残した吉田松陰に何となく似てくる。似て非かもしれないが、忘れてはならない孔子の一面に通ずる何物かがありそうである。

 

つぎに、同じ『論語』の述而篇につぎのようなことが述べられている。楚の国の葉公(葉県の長官)が子路に孔子のことをたずねたが、子路が答えなかったというので、孔子が言った。「お前は、その人となりは、(学問に)発憤して食事も忘れ、(道を)楽しんでは心配事も忘れ、やがては老いてくることも気づかずにいる、というようになぜ言わなかったか」と。これは、孔子の自己紹介的な自評とされている。

 

この二つが重なり合って、孔子という人の人柄がよく写し出されてくるものと思われる。その他に、もし『論語』を持っておられたら、たとえば為政篇の第四章、公冶長篇の第二十七章を併読してもよい。また、あの有名な皮肉屋で、一代の碩学(大家)胡適の嘗試(しょうし)集(当時の中国の新文学である「白話詩集」)で、『孔丘』と題して、孔子の人となりとして、前に引用した二語の、その真意を理解すれば、「もう論語の一部は、すべて不要です。」とまで言っているのである。

 

なお、孔子の言行を読解、曲説して、孔子の徳行に欠点を指摘することも行われている。あるいは、中華人民共和国では、孔子を、どのように評価しているのか。問題のはらむところは大きいのである。この前段の部分は、しばらく省き、後段の部分については、別に章節を立てて、言及することとして、やはり、この場面では思い切って、そこに譲ることとする。

 

中国思想の流れ

そもそも中国思想は、宗教面を別として、二つの大きな潮流によって区切られよう。その一つは孔子、二つには老子を中心とした思想、精神であろう。ただ、時代と環境とによって、いくらか表現を異にした説もあるけれども、その多くは、いずれも、この二つの思想に帰着されよう。たとえば、孔子の敬天や孝道の精神は、もともと中国古代の国民性によるものである。天を畏れ、敬う気持ちは中国特有のものではないが、古代の日本やトルコなどでも、太陽崇拝の烈しいのに対して、特に天を崇拝するとしたところは、ほかに似た例があるにしても、中国における古代思想の一つの特色としてもよいのである。事実中国には天に関する言葉が多い。たとえば上天、旻天、皇天、蒼天などそれぞれ異なった気持ちを表わしている。天は宇宙の主宰者、創造者であり、天の至公、至正な態度、形容や現象に暗示を得て、その道徳観念が発想されてきている。道徳の理想、道義の規範はすべて天において示され、万般に対するおごそかな審判は、天意天命の現れだという考え方が人々を支配していた。孔子が天を畏れ、天を敬った『敬天』は、そのようなところから由来しているが、ここにも西郷隆盛のいう「敬天」に通ずるものを感ずるのである。こうなってくると、たとえばイギリスのホッブズの思想に酷似して、アリストクラシイの香気が強いものに荀子がある。これらを、比較対照しても、あるときは、単なる比較対照に終わることもあるが、問題は、どちらが早かったかというようなことに価値があるのではなく、その徹底性において、また、その包括性においてどうであるか、という視点にしぼられてくる。こう考えてくると、西洋だけでなく東洋の先哲、思想家をも、しっかりと再びかみしめてみる必要もあろう。

 

 

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「人と思想」
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