「人と思想」シリーズ

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人と思想7『イエス』のまえがき+αを読んでみる

 

イエスについて

 

イエスと私

はじめてイエスのことを聞いたのはいつのことだったのか、父が内村鑑三の弟子で、家庭集会をしていたから、イエスのことはごく小さいときから聞かされていたに違いないのだけれど、子どもの頃のことはあまり印象にない。
小学校低学年の頃だったと思う。友だちと歩いていると妙に細い裏通りばかり選んで行く。わけを聞いてみたら、日曜学校で先生が言うには、「イエス様は『狭い門からはいれ、その道は細い』とおっしゃった」という。家へ帰って父に話したらひどく笑われてしまった。
大学生のときクリスチャンになり、やっとすすんで聖書を読むようになったのである。その頃イエスの言葉は、私の罪深さを照らしだす倫理としてしか理解できなかった。

 

つまり、イエスの十字架上の死は、われわれの罪のためのあがないなのである。だから私と直接にかかわってくるのは、イエスの死と復活であって、イエスの言行ではない。イエスの言葉は、われわれを十字架のあがないの信仰へと導くものなのである。こういうふうに考えていた。
しかし新約学を専攻するようになってから、いろいろ考えてみると、どうもそうではないのである。イエスの言葉は直接そのままでわかる。「敵を愛しなさい」とか、「私のもとにきて、父母・妻子・兄弟姉妹また自分の生命まで憎むのでなければ、私の弟子となることはできない」というようなずいぶん滅茶苦茶(めちゃくちゃ)な言葉がある。実際、私もこうした言葉に散々苦しめられた覚えがある。

 

しかしよく考えてみると、このような言葉は人間の現実、奥深く隠れてはいるがしかし否定しようのない現実をありのままに言い表わそうとしているのである。その現実に目をとめればイエスの言葉は暴言ではない。
イエスの言葉が出て来る根源に目を注がないで、その文字面だけを見ると暴言になるのである。こういうふうに、ただイエスが命令したというだけの外面的な理由で、「右の頬(ほお)を打たれて左の頬を向ける」ようなことをしたら、裏道ばかり歩いた坊やたちとあまり変わらない。
根源を把握するのは容易ではない。しかしこうしなければイエスはわからない。そしてこうすればイエスの言葉は直接私自身の現実にかかわって来る。家の言葉はそのままでわかる。単純素朴に、あらゆる人にかかわる現実を語り示している。

 

だから本書もこういう立場で書いた。つまり、イエスの言葉を手がかりにして人生の現実に触れ、次にこの奥深い現実からしてイエスの言葉を理解することに心がけた。結局ひとりひとりがこの現実に自分で触れてみなければイエスの言葉はしばしば聞くにたえない暴言にすぎないのである。
それにしてもイエスを論ずるのはむずかしい。たとえばカントの場合、カントの人と思想を論ずるということになれば、当然哲学の中心問題に触れて来るだろう。しかしカントという人間をどう把握するかということ自体が、そのまま哲学の中心問題だということにはならない。

 

ところがイエスの場合は、イエスという人をどう理解するかということそのことがキリスト教神学の中心問題に属するのだ。だからイエスについて書くとなれば、単にイエスの人と思想をわかりやくす紹介するということだけではなく(これだって大変なことだが)、どうしてもキリスト教の根本問題に対して何かのかたちで態度決定を要求されることになる。だから読者もそのつもりで、多少の難解さは忍耐していただきたい。本書の性質上、「キリスト教の本質」論に焦点を合わせることはできなかったけれども、イエスの言葉はそのままでわかるというのがすでにキリスト教に対するひとつの態度決定なのである。イエス論の場合はこんなこともあるのだということを頭において、イエスが語った現実を、私たち自身に直接かかわりのある問題として考えていただきたい。

 

新約聖書

キリスト教ははじめてだという方のために、簡単に新約聖書について説明をしておく。これには二七の文書が含まれているが、大体紀元五〇年頃から二世紀はじめにかけて、原始キリスト教団のひとびとが書いたものである。著作の場所は、ローマ、ギリシア、小アジア、シリアなどに及んでいる。ほかにも多くの文書が書かれたが、二~四世紀の教会が長い紆余曲折(うよきょくせつ)をへて編集し教会の正典と決定したものが新約聖書である。
新約聖書のはじめにマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが書いたとされている四つの福音書がある(しかしマタイとヨハネは著者ではあるまい)。これはイエスの生誕・言行・受難・復活を記しているが、詳細は本書第Ⅱ章を見られたい。四つの福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカによるものはイエスの見方が似ているというので共観福音書とよばれている。

 

次にイエスの死後エルサレムに教会が成立し、福音がローマに及ぶ次第を書いた「使徒行伝」がある。著者はルカである。
そのあとに教会を迫害しているうちに回心してクリスチャンとなり、世界伝道をしたパウロの書簡がある。しかし真正のパウロ書簡は、ローマ人への手紙、コリント人への手紙Ⅰ・Ⅱ、ガラテヤ人への手紙など数通である。内容は、当時の教会のさまざまな問題に直面して、パウロがキリスト教の真髄を、理論・実践の両面にわたって述べたものである。
それから著者不明の「ヘブル人への手紙」、ヤコブ(イエスの弟)、ペテロ(イエスの弟子)、ヨハネ、ユダ(ヤコブの弟)が書いたとされている、全教会あての書簡、最後に世の終わりとキリスト来臨の預言である「ヨハネ黙示録」がある。
歴史のイエスに直接言及しているのは福音書だけだと言えるくらいである。そして福音書の記事を相互に比較してみると、共通点と相違があって、そのままに信頼できない部分も多く、こうして学問的なイエス研究が必要とされるわけである。福音書は原始教団のキリスト信仰の立場から書かれているし、また福音書のおのおのに強い個性があるので、これを史料として用いる際には十分慎重でなくてはならない。

 

イエスは自分では何も書き残さなかった(これは釈迦、孔子、ソクラテスも同様である)。福音書にはイエスの容貌や性格や趣味や教育や経歴は何も書いてないし、また家系や誕生や幼時やさらにはイエスの公生涯の具体的経過についてさえ、確かなことはほとんど何もわからない。ただ、イエスが語り、福音書が伝え、そして新約聖書全体がさし示している事柄、それは「真に必要なものはただひとつだけだ」という事柄なのだが、それが問題の中心なのであって、わたしたちひとりひとりにかかわっているのである。ここをはずしたら、イエス伝を書いたり読んだりするのは、閑人の遊びと大差ないであろう。

 

なお、本書で用いた写真は、現地で撮影をしてこられた小田切信男氏、吉田泰氏および重田忠保氏のご厚意によるものである。もちろん、写真は現在のイスラエルであって、イエス当時を示すものではないが、多少なりとも理解の助けになればと思って用いることにした。本書で用いた聖書の訳文は、現行の協会訳と塚本虎二氏の個人訳を参考にした私訳である。出版については清水書院の方々にたいへんお世話になった。心から感謝の意を表したい。

一九六七年十一月二日
調布にて
八木誠一

 

目次

イエスについて
Ⅰ イエスの時代を中心とするユダヤ民族の歴史

イエス当時のパレスチナ
ユダヤ民族の歴史
ローマのパレスチナ支配
ユダヤ戦争とその後・むすび

Ⅱ 研究史・研究の方法

研究の歴史
伝承の性質
「イエス」叙述の方法-どこにピントを合わせるか
奇蹟と奇蹟物語

Ⅲ イエスの生涯と思想

A イエスの生い立ち
B イエスの思想

人生
律法
神の支配

Ⅳ イエスの死・復活と原始キリスト教の成立

史的イエスから宣教のキリストへ

参考文献
さくいん

Ⅰ イエスの時代を中心とするユダヤ民族の歴史

 

イエス当時のパレスチナ

今から二千年ほど前のパレスチナの生活、それは確かに現代の生活と同じではない。しかしわれわれが理解できないほど違ったものでもない。二千年前の地中海沿岸の暮らしは、ともするとわれわれが思い浮かべがちな未開な生活ではなく、それより遙(はる)かにわれわれに馴染(なじ)み深いものなのである。
たとえば、紀元七九年にヴェスヴィウス火山の噴火のために埋没した南イタリアの都市ポンペイの遺跡を訪れ、博物館にはいって発掘された品々を見る人は、当時生活に必要なものは結構なんでもそろっていたし、現代と比べて違うのは、結局のところ機械と動力源がなかったぐらいだ、という感をさえ抱くのである。

 

もちろんパレスチナはイタリアではないし、ポンペイほどの都市も数少なかった。イエス当時のユダヤ民族の本国は、地中海の東、おおよそ現在のイスラエルのあるところで、大体北緯三一度から三三度、東経三四度半から三五度半、すなわち南北二〇〇キロ弱、東西一〇〇キロ(つまり熊本・宮崎・鹿児島三県ぐらい)の狭い地域だった。
地中海岸にはヨッパやカイザリアなどの都市があり、低地で、シャロンの平原のような平野があるが、東にゆくにつれて、海抜数百メートル程度の山地となり、当時人口の十万ほどの首都エルサレムも六〇〇~七〇〇メートルの高地に位する。さらに東にゆくと今度は下りで地中海の水面より低くなる。ここは南北に走る陥没(かんぼつ)地帯で、北にガリラヤの湖があり、ここからヨルダン川が約一〇〇キロ南の死海に注ぐ。死海の水面は海面下四〇〇メートルほどである。その東はふたたび山地で、アラビアの砂漠に連なる。
夏と冬が長く、春と秋は短い。地中海的な気候であるが、砂漠から熱風が吹く。雨期は十月と三月である。北のガリラヤは肥沃であるが、南のユダヤの山地には荒野が多かった。
ジッカルやハイエナが出没し、旧約聖書にはライオンも登場する。塩分の濃い死海には魚は棲(す)まないが、ガリラヤの湖には豊富である。はげたかや、はとのような鳥類も多かった。

 

農民は牛を使って畑を耕し、大麦、小麦、ぶどう、オリーブなどを栽培した。漁民は舟を出し、網や釣で魚をとった。羊飼いは羊や山羊の世話をし、牧草を求めて山野をさすらう。ろばも重要であった。馬は少なかった。
貨幣が通用し、商人が店を構え、あるいは隊商を組んで各地を交易する。銀行もあった。衣類などの日用品は家庭で作られたが、職人がいて、かまやすきを作り、家を建てた。普通の民家は煉(ね)り土や煉瓦(れんが)でつくり、たいてい一間きりであった。食事はパンに野菜、少量の魚や肉や乳にぶどう酒が主であった。
社会の単位は家族で、父が一家の主人として大きな権力をもっていた。子は父に、妻は夫に従わなければならなかった。娘は一二、三歳で嫁にやられた。めとる若者は一七、八歳であった。婚礼や葬式は盛大にとり行なわれた。子どもは家庭や会堂付属の学校で教育を受けた。ローマほどではないが奴隷(どれい)もいた。

 

法律は――後述のようにきわめて特色あるものであったが――よく整備され熱心に研究された。学問や芸術はギリシアのようには発達しなかった。生活全体に対して決定的な意味をもっていたのは宗教である。
民族最大の苦悩は政治問題であった。地図を開いてみればわかるように、パレスチナは強国に囲まれ、しかも重要な交通路に位しているから、ユダヤ民族は絶えず強大な外国の支配下に置かれたのである。だからユダヤ人の生活は決して平和ではなかった。それどころかイエス前後の時代はユダヤ民族にとって運命の時であった。

 

ユダヤ民族の歴史

 

前一三世紀~前六世紀

紀元前一三世紀、ユダヤ民族はモーセに率いられてエジプトを脱出し、パレスチナに侵入してここに定着した。この民は前一一世紀にサウルを王として王国を形成し、ついでダビデ王のもとに、この民族にとっては忘れがたい繁栄と栄光の時を迎えた。しかし次代の王ソロモンが死ぬと王国は北王国イスラエルと南王国ユダに分裂した(前九二〇年頃)。そして北王国イスラエルは前七二二年アッシリアに攻略され、南王国ユダは前五八七年バビロニアの前に滅亡した。ユダの指導的な人々はバビロニアに連れ去られた。いわゆるバビロニア捕囚である。

 

ユダヤ教の成立

前五三九年、ペルシア王クロスはバビロニアを征服すると、翌年捕囚民の解放を布告し、捕囚の民は前五三七年第一次の帰還を許され、ただちに神殿の再建に着手した。前五世紀後半にエズラ、ネヘミアが帰国して、新しい法典のもとに民族の再建をはかった。
普通、旧約宗教と区別された意味での「ユダヤ教」はここにはじまるとされ、また新約聖書の時代史もここから書きはじめられることになっている。
祭儀はもちろんユダヤ教の中で重要な地位を占める。だから捕囚民は帰還するとすぐにエルサレムに神殿を再建したのである。エルサレムは神殿都市となった。しかしユダヤ教のもっとも大きな特徴はその律法主義だといえる。ユダヤ教によると、天地の創造主ヤハウェはユダヤの民を選び、これと契約を結んだ。すなわちユダヤ民族はヤハウェの民となり、神はユダヤ民族の神となったのである。神と民とのこの関係の内容を具体的に示すものが、ヤハウェがモーセを通じて民に与えたという律法なのである。これはいわゆる旧約聖書の立法書に記されている。ユダヤ民族はこの律法に義務づけられる。もし民が律法を守るならば平和と幸福と繁栄とが民に臨(のぞ)み、逆にもし民が異なる神々を拝して律法からそれるならば、民には罰としてもろもろの災いが下る。

 

現代の私たちは、宗教というと、なにか学問や芸術はもちろん、政治や経済、法律や道徳とも違ったものだと考えている。宗教的義務は決して国民一般の義務ではない。しかし当時のユダヤではそうではなかった。律法は、祭儀の規定はもちろん、私たちが法律や道徳というものをも含み、それだけでなく、律法を守るかどうかということはまさに民族の政治的、経済的運命にかかわることとされたのである。この点をはっきりつかまなくては、ユダヤ教の、ほとんど常軌を逸した律法熱心は決して理解されないだろう。
だからユダヤ教徒は、律法を学び、それを正しく実生活に適用するにはどうしたらよいかということを、まさに人生第一の関心事とした、と言っても言いすぎではない。民は契約を憶(おぼ)えず、律法を守らず、異なる神々に香を焚(た)いた。だから民族にもろもろの不運が臨んだのだ、これは神の罰なのだ、従って唯一の主へと立ちかえり、その律法を行なわなければならない。そうしてはじめて民に平和と独立と繁栄が訪れるだろう。かれらは堅くこう信じたからこそ、律法のもとに、民の再建をはかったのである。

 

シリア支配下のユダヤ民族

さて、マケドニアの王アレクサンダーは前三三四年東方遠征を開始し、ギリシアからエジプト、インダス川流域に及ぶ大帝国を建設した。この帝国建設はギリシア語とギリシア文化を東方に広めたという文化史的意義をもっている。アレクサンダーは前三二三年六月、三二歳の若さで熱病にたおれた。そのあと、大帝国はエジプト、シリア、トラキア、小アジア、マケドニアに分裂して、パレスチナはまずエジプトの、ついで前一九八年頃シリアの支配下に置かれた。当時シリアを治めたのはセレウコス王朝である。

 

そうすると優勢なギリシア文化が神殿都市エルサレムになだれ込んできた。しかし熱心なユダヤ教徒にとっては、異教徒と異教文化は、唯一の神をも律法をも知らない汚れた存在なのである。異教的なるものに対するこの烈しい嫌悪は、宗教的情熱に支えられた民族主義・国粋主義の産物だと言ったら、ある程度見当がつくかも知れない。しかも前述のように、宗教には民族の盛衰がかかっている。異教の汚れは、文字どおりともに天をいただくことのできない敵、滅ぼすか駆逐するか、あるいは自分がその汚れのために滅びるほかない敵なのである。そしてまた、ユダヤ人は、汚れた異教的なものは、聖なる神の尊厳の前に必ず滅びるはずだと考えた。しかしそのためには、まずユダヤ人が律法を守り、神の意志に従う潔(きよ)い存在でなくてはならないのである。唯一の神のみを拝し、偶像崇拝を忌み、それゆえ決して人や獣の像を作らず拝まないというのが基本的な誡(いまし)めであった。しかし悪いことに、ユダヤ民族を支配した外国人は、このようなユダヤ人の心情を必ずしも理解しなかったのである。

 

アンティオコス=エピファネスのユダヤ教迫害

前一七五年、アンティオコス四世がシリア王に即位した。この王は自分を神の「顕現者」(エピファネス)と称し、神として振舞い、あれはエピマネス(狂人)だと皮肉られた。かれは大祭司オニアスを廃して、オニアスの弟ヨシュアに大祭司職を売りつけた。このヨシュアはヤソンというギリシア名をもったほどの外国かぶれで、ユダヤのギリシア化政策を推進するならさらに金を払うとアンティオコス四世に約束したのである。一般に優勢な異質文化に直面するとき、これを学び消化する前から、いわば盲目的に、穢(けが)れたもの、諸悪と禍いの根源とみなして排斥する人がいる。逆に、同様盲目的に、外国文化を崇拝してしまった、自国の伝統を何か恥ずかしいもの、醜悪なものと感じ、自国のものを捨て去って外国文化に同化しようとする人も現われる。さすがのユダヤにも後者がいた。

 

こうしてギリシア化が進められた。エルサレムにも競技場や浴場がつくられ、体育場(ギュムナシオン。ギュムノスは裸の意)では裸で体育をした。ところがユダヤ人は割礼を受けている。割礼というのは、男子生殖器の包皮の一部を切り取る手術であるが、神とユダヤの民との契約の印であり、これを受けることはユダヤ人男子の聖なる義務であった。割礼を受けないものは「民のうちから断たれる」。それなのに割礼を恥じて体育場でそのあとを隠そうとした若者があり、正統派ユダヤ人の怒りを買った。

 

ハシーディーム

そこで他方では契約と律法を重んじる忠信なユダヤ教徒の激しい反応が起こった。かれらは団結した。この人々はハシーディームと呼ばれる。かれらによれば、ユダヤ民族の不幸は唯一の神に対する背信のゆえである。ここでギリシア文化に膝を屈したらユダヤ民族はどうなるのか。かれらは「昼も夜も」律法を思い、律法の中に神の意志をたずね、決してこれに違反せず、むしろ律法によって実生活の全般を律しようと努力した。聖書の研究と解釈と適用とが、社会生活を指導しなければならなかった。ハシーディームは後述のパリサイ人の母胎である。

 

さて大祭司ヤソンは三年後罷免(ひめん)されたトビア家のメネラオス(メナヘム)が多額の金をアンティオコスに払って大祭司職をヤソンから奪取したのである。ヤソンとメネラオスの対立にエジプトとシリアの確執が、さらに反シリア派と親シリア派の争いがからんだ。そしてアンティオコス四世は、反シリア派=親エジプト派と正統的ユダヤ教徒とを同一視したので、ユダヤ教の禁圧を決意した。彼は法律を発布して律法生活を禁止した。聖書を持つことも、安息日を守ることも、割礼も禁止された。エルサレムの神殿はゼウスの聖所となり、神殿の祭壇の上に小祭壇が築かれ、豚が献(ささ)げられた(豚はユダヤ人には不浄の動物であり、禁忌<タブー>であった)。ディオニュソス祭儀も導入され、神殿売春も始まった。しかしユダヤ教の祭儀は死刑をもって禁じられたのである。ここには、逆にシリア側がユダヤ教をけがれた「異教」として禁圧しようとした意図がみえないだろうか。とにかくこうしてユダヤ側には早速殉教者が出た。

 

マカベア戦争

ユダヤ人の中にはこの命令に従ったものもあり、荒野に逃れて律法生活を続けた者もあった。しかし大多数はシリアに反抗して独立戦争に参加した。エルサレムの北、モディンに、祭司マタテヤが五人の子(ヨハネ=シモン、ユダ=マカベウス、エレアザル、ヨナタン)と共に住んでいた。村に王の役人が来て異教の神に犠牲を献げることを強要したとき、かれはこれを拒否した。すると他のユダヤ人が立ち上がって祭壇に犠牲を献げた。マタテヤは怒り、走っていってこの男を殺し、ついでに王の役人も殺して、同志を募って山に逃れた。するとこれを聞いて、律法に忠実なものハシーディームが続々と彼のもとに集まった。こうしていわゆるマカベア戦争が始まった(前一六八年頃)。

 

シリア軍は安息日に攻撃をかけた。安息日は今の土曜日にあたるが、神が創造の業を終えて七日目に休んだことに起源をもつとされ、作業をいっさいしてはならない聖日と定められている。シリア軍に攻撃されたとき、律法には忠実な人々は安息日の掟(おきて)を守った。そして無抵抗のまま殺されてしまった。その数は一千人であったという。しかしこれでは戦争に勝つ見込みはないので、解放軍は安息日にも防衛戦争をすることを決議し、一連の戦闘に勝利を収めた。

 

マタテヤは前一六七年頃病死し、その子ユダ=マカベウスが指揮をとった。かれはゲリラ戦が得意だった。前一六五年、ユダはエルサレムに入城し、汚されていた神殿の浄(きよ)めの礼をとり行なった。キスリウ付きの二五日で、それ以来この儀式は毎年キスリウ月の二五日から八日間行なわれることになり、ヨハネ一〇・二二の宮潔(みやきよ)めの祭りがこれである。次にヨナタン、さらにその子シモンが指揮の任にあたった。戦いは三〇年近く続いた。前一四二年、シモンがエルサレムにあるシリア軍の拠点を攻略し、ユダヤ人の独立を達成した。そして最後のシリア王アンティオコス七世の死後、前一三五年、シモンの子で後継者でもあるヨハネ=ヒルカノスがユダヤ国の王となった。これがハスモニア王朝である。

 

戦いの実際をみると、ユダヤ人は第一に律法に従って生活できる条件を求めたのであった。ハシーディームはこれ以外の何も目的としなかったようである。しかしマカベア家は、ただそれだけではなく、不虔(ふけん)なる者を探し出して迫害し、背信者をイスラエルから絶ったといわれる。マカベア家は律法化を実力をもって遂行しようとしたのである。さらに神がユダヤ民族に与えると約束した地から、ユダヤ教徒以外のものを駆逐しようとした。だからマカベア家が権力を握ったとき、ユダヤの南のイドマヤと、ヨルダンの東の民は、割礼を受けてユダヤの律法を受け入れるか、あるいはそれを拒(こば)んで死ぬかの選択を迫られた。こうしてイドマヤ、ペレアの民、民族的にはユダヤ人ではないのに、ユダヤ教を受容することとなった。

 

サマリア

ガリラヤもユダヤ王国に編入された。サマリアだけは例外であった。北王国イスラエルが前七二二年アッシリアに滅ぼされ、指導的な人々がメソポタミア、メディアに連れ去られたあと、サマリアにはバビロンなどから異教の民が移住しきたり、イスラエル人と混血したため、バビロン捕囚の民がユダヤに帰還して後、ユダヤとサマリアは反目抗争するようになったのである。サマリア人はゲリジム山に神殿を建設し、モーセの五書だけを正典として認めたのである。あとになると、サマリア人は全くの異邦人とされたる

さてこのようにして、ハスモニア王朝は独立してほぼダビデ王の全版図を回復したことになる。
しかし独立の喜びは長くは続かなかった。ユダヤ民族の行く手にはシリアより遙かに強大な敵、ローマが立ちふさがったのである。

 

 

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