「人と思想」シリーズ

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福沢諭吉ってどんな人?

福沢諭吉といえば、「教科書に出ていたなぁ」とか「一万円札の人」とか、そういう印象ですよね。「慶應義塾」の創設者として知られているかもしれません。お札になるくらいですから、日本の偉人には違いないのですが、実際にどんなことをした人かと問われると、答えられない人も多いでしょう。

「人と思想」は、世界の思想家の生涯と思想を、時代背景や本人にまつわるエピソードを交えながら、分かりやすく解説した思想の入門書です。このシリーズの『福沢諭吉』を参考に、Q&A形式で人物像を探ってみましょう。

 

Q.何をした人ですか?


明治維新後の「文明開化」の指導者として近代文明の発展に大きな影響を与えました。その思想をまとめた著書『学問のすゝめ』は当時のベストセラーとなりました。冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉は、今の学校でも習うくらい有名ですね。
思想家であるだけでなく、教育者(こちらが本業か)としての功績は大きく、「慶応義塾」を創設しました。

 

Q.どんな子供時代だったのでしょうか?


1835年1月10日、豊前国中津藩(大分県)の蔵屋敷(大阪・堂島)に会計官吏として勤める下級武士福沢百助の二男三女の末っ子として生まれました。父は、役目がらにも似合わず、学問好きとして藩内で有名だったそうです。ただ、諭吉が2歳にもならないときに父が亡くなり、母は5人の子供を連れて中津に戻り、そこで暮らすことになりました。

次男坊ということで、読み書きも習わず放おっておかれて、ようやく13、4歳ごろから塾に通うようになりました。学んだのは主に漢学で、孟子・論語からはじまって詩経・書経や左伝・戦国策・老子・莊子を読みました。歴史は、史記をはじめ前後漢書・元明史略などを読み、ひととおり漢学者の前座がつとまる程度に上達しました。素質はあったようです。

 

Q.なぜ西洋近代文明に詳しくなったのですか?


最初のきっかけは、19歳のときに兄にすすめられた長崎での蘭学修業でした。中津藩でも西洋流の砲術を学ぶ必要性が議論され、まずは原書を読める人材を育てようということになったそうです。
1年後に大阪に移り、蘭方医・緒方洪庵の適塾に入門して本格的に蘭学を学び、やがて塾長となりました。
その後、1858年に江戸の中津藩邸で蘭学を教えることになり、江戸に移り住みました。1859年にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと結んだ修好通商条約の規定により、ひらけたばかりの横浜を見物にいった諭吉は、蘭学がまったく役に立たないことを思い知ります。これからは英語を学ばなければならないと覚悟を決めて、英学の勉強に取り組み始めました。
1860年には、幕府の咸臨丸に乗ってアメリカ・サンフランシスコを訪問する一行に加わります。帰国後、幕府の外国方に召し抱えられ、幕府の書物を自由に読む機会をえました。1861年には、幕府の遣欧使節に随行し、フランス・イギリス・オランダ・ドイツ・ロシア・ポルトガルを訪れます。
この間、並行して、塾で英学の授業も続けていました。
これらの経験と、書物による研究を通じて、西洋近代文明に詳しい英学者として名が通ってきました。

 

Q.代表的な著書は?


筆頭は『学問のすゝめ』、そして『文明論之概略』でしょう。日本の啓蒙思想を代表する著作として、今日では国民的な古典となっています。
その他、西洋の制度や社会状態、理念を紹介した幕末の代表作『西洋事情』や自叙伝『福翁自伝』など多くの著作があります。

 

Q.どのようにして「慶應義塾」を作ったのですか?


慶応義塾の起源は、1858年に中津藩江戸藩邸で蘭学を教え始めたことです。最初は、自身が2度も洋行したり、蘭学から英学に移ったりと、基礎も固まらなかったため、塾生はあまり多くありませんでした。
本格化するのは1863年から。参勤交代制度がゆるまり、藩邸の長屋が空き家になったため、5軒続きの一棟をまるごと借りたのです。それから、塾生が増え始め、1871年には三田に移転し、東京随一の私立学校となりました。

 

 

 

福沢諭吉について、もっと詳しく知りたい方は、ぜひ、人と思想シリーズ『福沢諭吉』を手にとってみてください。

 

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