「人と思想」シリーズ

センチュリーブックス

人と思想21『福沢諭吉』ぱらぱら見

福沢諭吉_表紙

福沢諭吉_肖像

 

教科書にも必ず登場する福沢諭吉。言わずと知れた「文明開化」の指導者として知られる明治時代の思想家・教育者です。「慶應義塾」の創設者でもありますし、なにより「一万円札のお札の人」として、皆さん、日々顔を拝んでいる人物ですね。

有名な『学問のすゝめ』『文明論之概略』といった著書は広く知れ渡っていますが、現代人は読んだことはない人も多いでしょう。ましてやその生涯ついてとなると、知っている人は少ないと思います。日本の近代文明の発展に大きな影響を与えたことや、大学を作ったことは知っていても、実際にどんな考えを持ち、どんな活動をしていた人物なのか…

本書は、福沢諭吉の生い立ちや、思想とその変遷について、概要を知ることのできるユニークな本です。福沢には『福翁自伝』という自叙伝があります。本書を読むと『福翁自伝』にも興味が湧いてきます。さらには『学問のすゝめ』には、実際なんと書いてあるのかも気になってきます。ぜひ手を伸ばしてみたいものです。

 

目次

福沢諭吉_目次

 

Ⅰ 封建秩序からの脱走

少年のころ

福沢諭吉_p12-13

1835年1月10日、豊前国中津藩の蔵屋敷(大阪・堂島)に会計官吏として勤める下級武士福沢百助の二男三女の末っ子として生まれました。父は、役目がらにも似合わず、学問好きとして藩内で有名だったそうです。ただ、福沢が2歳にもならないときに父が亡くなり、母は5人の子供を連れて中津で暮らすことになりました。

 

洋学修業

福沢諭吉_p20-21
1854年に念願の中津脱出が叶い、長崎で蘭学修業。1年後には大阪に移り、緒方洪庵の適塾で学び始めました。兄が急死したため、一旦中津に戻り福沢家の家督を継いだものの、再び大阪に戻りました。適塾では懸命に勉強を重ね、やがて塾長になりました。

安政の大獄が始まった1858年10月頃、中津藩の江戸藩邸に招かれ、蘭学を教えることになりました。これが慶應義塾の起源です。

 

欧米旅行

福沢諭吉_p32-33

英語の重要性に気づいた福沢は、英語を学び始めます。

1860年、幕府がオランダから購入した汽船「咸臨丸」に乗ってアメリカ・サンフランシスコに渡ります。咸臨丸には、かの勝海舟も指揮官として乗り込んでいました。

1861年末には、幕府の遣欧使節団の一員となり、フランス・イギリス・オランダ・ドイツ・ロシア・ポルトガルの6カ国の首府を巡りました。

 

Ⅱ 文明像の形成と展開

『西洋事情』前後

福沢諭吉_p48-49

幕府に外国奉行翻訳方として召し抱えられた福沢は、幕末には『西洋事情』を出版し、西洋社会の制度や理念を日本に紹介しました。その直後、再び訪米の機会があり、その際に多くの書物を購入しました。

 

明治維新のころ

福沢諭吉_p60-61

維新前後の政治情勢の変化にはほとんど関わらない姿勢でいた福沢は、洋学者を求める新政府に招かれたものの辞退しました。その後、66歳の生涯を閉じるまで、役人になることも位階勲等を受けることもありませんでした。こうして福沢は、いよいよ自分の塾の経営に力を注いでいくことになるのです。

1868年4月、新銭座の新塾舎に移転し、元号から名前をとって「慶應義塾」と名付けました。アメリカから持ち帰った原書を渡して行う授業は評判を呼び、塾生の数は増加の一途をたどります。1871年には三田に移転し、東京随一の私立学校となりました。

 

『学問のすゝめ』

福沢諭吉_p72-73

明治政府の整備が着々とすすむとともに、「文明開化」の風潮も広まりました。西洋の学術や思想を学ぼうという気風が高まり、洋学者たちは次々と翻訳本を出しました。それとならんで、洋学者たちは自分の著述もさかんに出版し、そのような中、福沢諭吉の『学問のすゝめ』も出版されました。これまでの諭吉の著書では近代文明社会の紹介に努めてきましたが、この本は、一部を除いて、自身の文章であり理念の表明でありました。後に本人が語ったところでは、合計340万部のベストセラーになったそうです。

 

『文明論之概略』

福沢諭吉_p82-83

「このようにして福沢は、自主・独立にして積極的な国民性をつくりだし、外国人にたいしても自己を失わない人間をもって、日本を支えようとしたのであった。それが、この『文明論之概略』の趣旨であった。」

 

啓蒙の旗手

福沢諭吉_p108-109

「福沢諭吉のこうした一連の活動は、ひろくふかい影響を国民にあたえた。かれのいうところは大胆で、表現は平易で露骨であり、意識的に奇抜ともみえる比喩をつかった。そのことは、かれが従来のきまりきった表現方法からいかに自由であったかを示しているが、人びとにあたえたおどろきも大きく、そのおどろきをつうじて、かれらはあたらしいものへと目をさましてゆくこととなったのである。」

 

Ⅲ 富国強兵論への転回

「時事新報」以後

福沢諭吉_p138-139

「「時事新報」は、「不偏不党」をスローガンとして誕生した。いわゆる中立派の新聞であった。」

 

官民調和論

福沢諭吉_p142-143

「九年後に国会が開かれるときまったとき、民権家たちは政党活動をはじめた。ところが、それまで民権派とならんでいると思われていた福沢は、ひとりはなれて中立をとなえ、官民調和を力説するようになる。ちょうどそれは、民権派とは逆のゆきかたであった。政党活動は、官と民との対立を激化させてゆかざるをえなかったが、福沢は、逆にその対立をおさえようとするわけである。」

 

<内容と構成>

福沢諭吉について

Ⅰ 封建秩序からの脱走

少年のころ
洋学修業
欧米旅行

 

Ⅱ 文明象の形成と展開

『西洋事情』前後
明治維新のころ
『学問のすゝめ』
『文明論之概略』
思惟方法の改革
啓蒙の旗手
民権と国権

 

Ⅲ 富国強兵論への転回

「時事新報」以後
官民調和論
アジア政略
日清戦争観
晩年の思想と生活

 

年譜

参考文献

さくいん

 

 

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