「人と思想」シリーズ

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人と思想6『アリストテレス』のまえがき+αを読んでみる

 

アリストテレスについて

 

「われわれはギリシアに何を負うているか。」ブッチャーの古典的な名著『ギリシア精神の諸相』はこの句ではじまっている。西欧の人びとは古典ギリシアの自分の魂の故郷を認めている。たしかに、その科学も文化も文学もギリシアにその源を発している。だが、古典ギリシアの真の意味の解明は、ヒースがその『ギリシア数学』で謙虚にいうように、まだ手をつけられたばかりである、といえよう。

 

それにしても、ギリシアは何を寄与したのか。科学や哲学の領域でかれらが用いた方法はしばしば誤ったものであり、その結論も不条理であった。それにもかかわらず、なお人びとが賛嘆と畏敬(いけい)の念をもって古典世界に目を投じ、自分の思考をぶつけるのはなぜなのであろうか。一口にいって、そこでわれわれのふれるギリシア精神とはどういうものであろうかわれわれは、ブッチャーのいうところを聞いてみようではないか。

 

ギリシア人はたじろがない眼をもって遭遇するあらゆるものを、人間と世界とを、生と死とを観察した。かれらは自然に向かって問いかけ、狐疑もなく躊躇もなく、自然からその秘密をもぎとろうとした。ひとたび真理への情熱にとりつかれるや、勇敢にも理性に信頼し、その尊きに従ったのである。「論証が導くところへは、どこであろうと、そこへ進もうではないか。」このプラトンの言葉は、この一面をはっきりとあらわしている。

 

一般的にいって、東洋の民族は宗教心を刺激する漠然とした知識に満足して、薄明の境にさまようことを愛していた。人間の眼から神をおおいかくしているベールをひきのけることを冒瀆と考えていた。神聖なものに対するこの畏怖からは、原因の研究だの起源の探究などはでてこない。沈黙のうちに体験される漠然たる神人一体感、自然との合一感至上のものであるようにみえる。ギリシアはこういう沈黙を突き破った。そして、確固とした悦ばしい本能をもって知識の追求をはじめた。時にはばまれ、時に途方にくれることもあったろう。が、その探究はあくことを知らなかった。あたかも思考の実験室のように、ありとある思考をこころみ、相互にたたかわせた。そして、その間に一つの共通の観念を生み出したのである。それこそ東洋の知らなかった、しかし近代科学の出発点となった観念であり、その内容は「自然は法則によって働くのだ、」という観念であったのである。

 

この観念は、経験的な知識の領域をこえて、人知を学問的な知識へとおしすすめようとした衝動が形をとったものといえよう。とはいえ、かれらがこの衝動のおもむくままに思考をすすめ、敬神の念などまったくなかった、というわけではない。ピタゴラスは有名な数学の定理――直角三角形の斜辺と二辺に関する定理――を発見したとき、感謝のために神に犠牲(いけにえ)を捧げたといわれる。プラトンは、神は幾何学する、といった。これらは、法則が宗教的根拠をもっていることを確信していた。すすんで、澄明な法則の凝視こそ神の理性を認めることであった。つまり、かれらにあっては、知識の探究と敬神とは同体のものと考えられていたのである。だからして、アリストテレスが最善の生活として観照的生活をあげたとき、その観照というのは理性を完全に働かせることである。漠然とした神人一体感を味わう冥想ではなかった。

 

ギリシア精神は、いってみれば科学的精神といえよう。どこまでも未知のものを解明しようとする精神である。そして、もしこの面で代表的人物を求めるならば、アリストテレスこそその人であろう。世界第一の賢者といわれ、万学の祖といわれるこの人こそ、改めて見なおされるべきであろう。というのは、かれの哲学ほどいろいろなとりあつかいをうけたことはなかったろうから。まず、その死後、著作は散じてしまった。ようやく、全集としてまとまったのは、その死後、二世紀半もたってからであった。しかも、中世を通じて、かれの哲学は排斥され、ようやくアキノのトマスを通じて中世の権威となったのは一三世紀のことであった。だが、ルネサンスとともに、教会と結合しているとの理由で、かれの科学は攻撃のまととなり、一七世紀初頭にはガリレイの実験によって、アリストテレスの落下法則の誤りが指摘されている。こういう事情をみてくると、いったいアリストテレスは真に理解されてきたであろうか、という疑問すら生じてこよう。アリストテレスの結論とした落下法則が誤っているにしても、そういう結論を導き出すにいたったかれの思考そのものが誤っているとはいえまい。誤りに陥らざるをえない条件があったとした(そういう条件は、二〇〇〇年の時間のへだたりを計算にいれれば、ありうることとだれも思うであろう――)、アリストテレスの思考そのものが誤っていたことにはならないであろう。そして、われわれが学ぶのは、教会の権威となったり、学の権威づけのために必要なアリストテレスではなかろう。むしろ、どこまでも真理を追求してやまない科学者の態度であろう。それこそ、現代の人にとっても肝要な態度であろうから。

 

それにしても、アリストテレスは難解である。その膨大な著述のいずれもが、いつどこで書かれたのかわからない。その年代決定はむしろ不可能といったほうがよかろう。しかも、その研究領域はきわめて多岐にわたる。その間に一貫したアリストテレスの思想をつかみだすのは容易でない。その点を追求するとき、わたくしはかつてアリストテレスの解釈の基礎となったイエーガーの所論には満足できなかった。そこで、主としてデューリングの見解を参照することにきめたのである。真珠玉のような各領域でのアリストテレスの研究をつらぬく金の糸を、この書が暗示しているように思われたからである。

 

 

目次

 

アリストテレスについて

 

Ⅰ アリストテレスの生涯と著作

生涯

伝記の資料とアカデミー入学まで
アカデミーの学員時代
遍歴時代
巨匠時代

著作

アリストテレスの著作についての伝承と編集
アリストテレスの著作と発展史的研究

 

Ⅱ アリストテレスの思想

論理学

倫理学の諸要素
アリストテレス倫理学の意義

第一原理

プラトンとの比較において
アリストテレスの第一原理

イデア論の批判

イデア論の批判の時期について
イデア論批判の主要点

自然の根本現象

人間の生活

倫理学
政治学

アリストテレスの存在論

存在としての存在の探求
実体論

 

年譜
さくいん

 

 

Ⅰ アリストテレスの生涯と著作

 

生涯

 

伝記の資料とアカデミー入学まで

 

伝記資料

アリストテレスの伝記については、他の哲学者と同様に、いちばんよくひかれるのはディオゲネス=ラエルチオス(三世紀中ごろの人)の『著名な哲学者の生涯と教説』である。この著作自身は、哲学の内容に深く立ち入ったものではなく、しばしば逸話のようなものを記載している。が、この種の著作で現存しているものはまれなので、最も広く利用されている。この著作中のアリストテレスの項は、前半まではいろいろな伝承をたよりに生涯の経緯を記載し、やがてかれがいったといわれる言葉や、他人の批評を、最後に著作目録をかかげ、それの簡単な内容解説をつけて終わっている。

 

もちろん、前述の検討を要する事項も含んでいる。以下にわたくしが記録した内容は、デューリング『古代の伝記についての伝承におけるアリストテレス(I. Düring:Aristotle in the Ancient Biographical Tradition. 1959)』を参照にしたものである。

 

アカデミー入学以前

ディオゲネス=ラエルチオスの記載をみてみよう。そこで次のようにいっている。「アポロドロス(前一八〇年ごろの生まれ)は、その年代誌の中で、『アリストテレスは九九オリンピア紀の第一年(前三八四/三年)に生まれた。プラトンになじみ、一七歳でその弟子となり、二〇年間かれの許にあった。一〇八オリンピア紀の第四年(前三四五/四年)エウブーロスがアルコンのとき、ミチレネに行った。プラトンが同じオリンピア紀第一年(前三四七/六年)テオプィロスがアルコンのときに死んだとき、かれはヘルミアスのところー行き、そこに三年滞留した。』と。」かれの生まれた場所は、ストリューモン湾にのぞむカリキジケ半島のイオニア人の植民市スタギーロスであって、その家は代代マケドニア王に仕える医師であった。かれの父ニコマコスも、アレキサンダー大王の祖父にあたるアミンタス三世(前三九三~前三六九年ごろ在位)に仕えた侍医であった。だから、アリストテレスはその幼少期をベラの王宮になじんで過ごしたであろう。父は早くしてこの世を去ったが、その年代はわからない。後見人となったのはプロクセノスである。

 

プロクセノスとアリストテレスの関係ははっきりしない。ある伝承はかれが母方の叔父であったといっているし、ある伝承はかれがアタルネウスの生まれで、アリストテレスの義兄であったといっている。で、この際、かれの遺言や伝承から、アリストテレスの家族関係を大胆に推察して、図のようだといわれている。かれの家は、遺言にもあるように、スタギーロスの家屋、カルキスの母方の家屋、かれの世話をした数人の人物などがあったのだから、かなり裕福な家庭であったろう。アリムネストスも子どもをもたずに死んでいるのだから、父祖の遺産はアリストテレスに帰したものと思われる。純粋にかれの相続した分はよくわからないが、いずれにしても相当なものと考えられよう。また、この家族関係から考えて、プロクセノスもおそらく医者であったと思われるのであって、そのアタルネウスでの生活もゆとりのあるものだったにちがいない。なお、かれが母方の叔父ということになる、叔父と姪が結婚したことになる。が、このような事例はギリシアの社会では普通のことであり、とくに相続分を守る際にとられる手段ですらあった。

 

で、プロクセノスは、かれをアタルネウスに連れていき、そこで指導したであろう。だが、このアリストテレスの若いころについては、なんの報告もない。推察しうることといえば、かれが子どもの頃よりアタルネウスの市をよく知っており、裕福な医者のかかり人として、当時の最上の基礎的な教育をうけたであろう、ということだけである。後になって、医者も実際の仕事をするためには、やはり基礎的な科学的・哲学的教養を必要とする、といっている点からすれば、かれは知的環境に育ち、若い時から当時の学問上の著作に接していた、と思われる。もちろん、その中にはプラトンの著作も含まれ、その哲学に深い感銘をおぼえていたことであろう。そうでなかったら、プロクセノスにともなわれてアテナイに来たとき、数ある学派(なかでもイソクラテスの修辞学は傑出していた)の中で、とくにプラトンのアカデミーをえらぶ理由はなかったであろう。

 

 

アカデミーの学員時代

 

アリストテレスのアカデミー入学

前三六七/六年、アリストテレスは一七歳でプラトンのアカデミーに入学した。きっとかれの希望にしたがって、プロクセノスが連れてきたのだろう。このときのアカデミーの状況はどうであったか。プラトンは六一歳に達していたが、二回目のシシリー旅行に出発していた。シシリーの僭主ディオニソス一世はこの年に没し、その義弟のディオンはディオニソス二世をたすけて、プラトンの理想政治を実現しようとして、かれを招いたのであった。プラトンはそこでディオニソス二世の師となる予定であった。プラトンは喜んで出発した。が、結果はきわめて不首尾なものであった。ディオンは宮廷の派閥抗争の結果追放され、プラトンは城内に留置され、願った帰国も許されなかった。ディオニソス二世はほんのしばらくの間であったが、プラトンの教えをうけ、その偉大さを知っていた。僭主としては、世間体を考え、帰国を許すことができなかったとも想像されよう。のち僭主が自ら戦場におもむかねばならなくなった時期になって、ようやく、必要なときにはいつでも帰ってくるという条件つきで、帰国が許可された。プラトンはこれよりのち前三六一年のはじめに三たびシシリーに旅立つことになるが、その間プラトンがアテナイにいた期間はわずか三年ほどと考えられる。つまり第二回シシリー旅行から帰ったのは、前三六五/四年ごろのことであったろうと推定されよう。

 

アリストテレスが入学したのはこの時期である。アカデミーでは、プラトンにかわって、エウドクソスが学頭の代理をつとめていた、といわれる。そこでまずアカデミーで、アリストテレスに影響を与えたと思われるエウドクソスについて述べておこう。ディオゲネス=ラエルチウスによれば、クニドス生まれのエウドクソスは幾何学・天文学・医術・法律に卓越した人物だとのことである。つまり、幾何学はタレンツームのアルキタスに学び、かれの同心球でもって天体の運動を説明する着想もアルキタスに負うところ大であったという。かれは前三六五年に盛期(アクメー)に達したとのことであるから、その生年は前四〇八年ごろであり、五三歳で没したというからその没年は前三五五年であると推定されている。二三歳のとき(前三八五年ごろ)、かれはソクラテスの学派の名声にひかれ、医者テオメドンとともにアテナイに来たといわれる。かれは非常に貧しく、ピレウスに滞在し、毎日歩いてアテナイにとぼとぼとかよい、二カ月の間、哲学や説得術などの講義に出席し、とくにプラトンの講義を聞いたといわれる。かれがアルキタスに幾何学を、フィリスティオンに医学を学んだ時期は、アテナイ訪問以前であったであろう。アテナイからクニドスに帰り、その後アゲシラオスからもらったネクタネビス王宛紹介状をもってエジプトに渡っている。その時期は前三八一/〇年のことであろう。エジプトに一六カ月滞在したのち、キジコスに行き、そこでかれは学派をひらき大勢の弟子にかこまれることになったが、こえて前三六八年にはかれらを連れてアテナイに移住した。プラトンとかれの関係については、いろいろに伝えられている。すなわち、エウドクソスはいつもプラトンに敵対していたとか、逆にプラトンとともにエジプトへ行ったとか、前三六一年にはいっしょにシシリーへ行ったとか、というようなものである。だが、いずれも信じがたいもののようである。

 

一七歳の入学したてのアリストテレスにとっては、四〇歳の円熟したエウドクソスは魅力的であったにちがいない。後年『ニコマコス倫理学』の中で、エウドクソスの「快楽がすなわち善」の説を引用している所では、アリストテレスはこういっている。「この論議は、論議それ自身のゆえによりも、より多くかれの倫理的性状の卓越性のゆえに信用を博した。というのは、かれはきわだって節制的なひとであると考えられていたからであり、だからして快楽の友としてかれがそういうのではないと考えられ、ほんとうにその通りなのだろうと考えられた。」と。また、その『形而上学』の中ではエウドクソスの『速度について』の一部を引き合いに出している。つまり、アリストテレスは、人格の面からも学問の面からもエウドクソスからつよい影響をうけたであろう、と推察されよう。

 

やがて、プラトンは帰国した。この時期をプラトンの思想発展のうえからみると、ちょうど中期より後期への移行時期にあたっている。対話篇でいえば、『ファイドロス』『パルメニデス』『テアイテトス』の諸篇の書かれた時期である。これらの諸篇はいずれも、中期に頂点に達したイデア論に省察を加え、より正確なものにしようとしている著作である。この著述をめぐってアカデミー内部でも、イデア論をめぐる論争が絶えなかったことであったであう。アカデミーの雰囲気は、学頭がドグマを押しつけるような重苦しいものではなかった。弟子たちが自由に共同に討議をし、したがってまた、弟子たちの間での論争もはげしいものであったであろう。もしそうだとしたら、アリストテレスの『イデアについて』なる断片は、この時代のものなのではあるまいか。イエーガーはこの断片を前三四八年より前三四五年にいたるアリストテレスのアソス時代のものとしているが、そのように早急に断定できるであろうか。このことは思想編で述べるとして、これだけにしておこう。

 

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