「人と思想」シリーズ

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人と思想4『釈迦』のまえがき+αを読んでみる

 

釈迦について

 

釈迦という名の由来

この本で釈迦(しゃか)と呼ぶ人は、仏教の開祖のことである。しかし、釈迦とはかれが生まれた種族の名であって、かれの本名は「ゴータマ=シッダッタ」(「サルヴァールタ=シッダ」と記す本もある)であった。釈迦と呼ばれるようになったのには、つぎのような事情がある。かれが出家して悟りを開いたので、人びとが尊称して、かれをシャーキャムニと呼んだのである。シャーキャムニとは、シャーキャ族出の聖者という意味である。そしてインドの仏典を、昔中国人が訳したときに、シャーキャムニを釈迦牟尼(しゃかむに)と音写したのである。それがさらに省略されて、釈迦と呼ばれるようになったのである。また釈尊(しゃくそん)という呼びかたもあるが、これは釈迦の釈と、牟尼(むに)の意訳である尊者の尊をあわせたものである。

 

生存年代の諸説

つぎに釈迦の生存年代について、ひとことのべておきたい。なにぶんにも古い時代の人である点と、インドでは信頼できる歴史の本がほとんどなかったため、釈迦の生存年代に関しては、いろいろな説が展開された。セイロンを中心とした南方仏教徒は、一般に釈迦の生存年代を、西暦紀元前六二四年~五四四年としている。そして去る一九六六年に、南方諸国では釈迦入滅(にゅうめつ)(釈迦死亡)二五〇〇年の記念式典を行なったのである。しかし学問的な研究によれば、釈迦の実際の生存年代は、ややくだるようである。いままでの学者の研究成果は、二つの大きなグループに分けることができる。一つは、入滅を紀元前(西暦紀元、以下同じ)四八〇年代と推定するものであり、もう一つは、生誕を紀元前四六〇年代、入滅を紀元前三八〇年代と推定するものである。この両者間にすでに一〇〇年の差異がある。紀元前五四四年入滅とする南方仏教徒の説と、紀元前三八〇年代入滅の最もくだった年代をとる説(正しくは、前三八三年入滅)との間には、じつに一六一年の開きがある。このような差異がでてくる原因は、いい伝えの違い、依っている資料の違い、資料の解釈の相違などによるものである。古代史における年代決定(とくに紀元前における年代決定)がむずかしいことは、世界の歴史において常のことである。そして、インドの歴史においては、とくにそうなのである。

 

個別よりも普遍の重視

古代において、インド人は、哲学・宗教に関する文献を多く残した。ところが、信頼できる歴史書は、ほとんど残さなかった。そのことは、かれらが個別的な歴史記述に興味をしめさなかったことを意味するであろう。つまりかれらは、普遍的なものに興味を感じたのであり、個別的なものにはあまり関心をもたなかったのである。いいかえると、かれらは、真理や、価値や、あるべき実践などの探究に関して、その成果を個人の名前に結びつけるようなことは、あまりしなかったのである。それが、真理であるならば、それをだれがいったってかまわないのであり、真に価値あることであるならば、それはだれの言葉であろうともかまわない。それが真にあるべき実践ならば、だれの実践であろうとかまわないわけである。要は何が真理であり、何が真の価値であり、何が真に実践されるべきことであるかということである。したがって、だれの言であり、だれの実践であるかということは、問題ではないのである。

 

釈迦の伝記や思想を書くむずかしさ

インドの古代においては、このように普遍的な真理・価値・実践の探究が中心問題であり、個人崇拝の考えかたは弱かった。そのため、個人の名前に結びつけた伝記や思想を再現しようとすると、ひじょうな困難をともなうのである。じじつ、釈迦に関する伝記が書かれ、像が彫られ、絵が描かれることなどによって、個人崇拝の傾向が強められてくるのは、釈迦の没後数百年をすぎたころからなのである。このようなわけで、釈迦の伝記を書き、思想を再現するには、いまだに困難な問題が多々あるのである。この本の記述は、ある資料によったものであるが、その論拠はそのつど、のべることにする。

 

目次

Ⅰ 釈迦の生涯

はじめに
誕生
少・青年時代
当時のインドの社会
出家
苦行時代
覚者となる
伝道布教の時代
伝導の旅から旅へ
旅の途中での死

Ⅱ 釈迦の思想

はじめに
仏教の根本思想

根本思想
倫理思想

原始仏教の探究

第一の仏教

根本思想
個人的領域の思想
社会的領域の思想
第一の仏教の一般的性格

第二の仏教

根本思想
個人的領域の思想
社会的領域の思想
第二の仏教の一般的性格

社会的基盤との関係

釈迦年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ 釈迦の生涯

 

はじめに

 

生涯を書くにあたって

釈迦の伝記としては三つの基本的な文献がある。それらは『マハーヴァストゥ』『ラリタヴィスタラ』『ブッダチャリタ』である。本書ではこれらのうちでも、特に有名な『ブッダチャリタ』を中心にして、釈迦の生涯を紹介したい。

 

しかし、この三つの文献のいずれも、多分に神秘化・美化・超人化されており、書かれている内容のすべてが、歴史上の釈迦の実話とは考えられない。

 

そこで、比較的無難と思われる線で、内容の取捨選択を行ない、釈迦の生涯を紹介したい。

 

『ブッダチャリタ』について

この本は二世紀の仏教詩人アシヴァゴーシャによって書かれたものである。原文はサンスクリット語で書かれ、もともとは、二八章あったらしい。

 

だが現存するサンスクリット本は一七章までである。さらにそのうちでも、一四章までがアシヴァゴーシャの自作であって、一四章末から一七章までは一八三〇年にアムリターナンダか補書したものと考えられている。1)

 

ところが、幸いなことに、二八章すべてが、漢訳(北涼天竺三蔵曇無讖(ほくりょうてんじくさんぞうどんむせん)訳1)『仏所行讃(ぶっしょぎょうさん)』として残っているのである。

 

 

漢訳『仏所行讃』を現存のサンスクリット本と比較すると、一四章前半までがサンスクリット本と一致している。ところがその後、西域地方から『ブッダチャリタ』の断片と思われるものが発見された。そして、研究の結果、これが漢訳の第一六章の一部と合致することが明らかにされたのである。

 

この結果、アシヴァゴーシャ2)の『ブッダチャリタ』はもともと二八章あり、漢訳はその翻訳であることが確信されるにいたったのである。

 

そこで本書では、完結した形で残っている『仏所行讃』3)を中心にして、その内容を紹介したいと思う。

 

 

誕生

 

ルムビニー園での誕生

釈迦は、シャーキャ族の王シュッドダナを父とし、マーヤーを母として、この世に生を享(う)けた。母マーヤーは、子の誕生が近づいてきたとき、シャーキャ族の首都カピラヴァスツの、そうぞうしい城をかけ、泉が流れ、花と実が茂る、静かなルムビニー園に行くことを望んだ。王は妃(きさき)の願いを入れ、多くの男女のお供をつけて、ルムビニー園に行かせた。そしてこの清澄な園で、釈迦は、太子として生まれたのである。ルムビニー園は、現在のネパール国の南部、インドとの国境付近にある村のことである。生まれたのは、清和の気あふれる四月八日だという。父王が生まれた太子を見ると、常人と異なった奇特(きどく)の相をしていた。王は驚き緊張し、喜びと恐れの思いとが、交互に胸にせまってくるのを禁じえなかった。

 

バラモンの相(そう)占い

そのとき、園のなかに、相を見ることにすぐれた名高いバラモン(祭祀をつかさどる最高の階級のもの)がいた。かれはやってきて、太子の相を見ると、とびあがらんばかりによろこんでいった。「このようにすぐれた相の人は、かならず悟を開くだろう。そして、もしこの世間にとどまるならば、武力を用いずに世界を統一することのできる、転輪王(てんりんおう)となるであろう。またもし家を出て山林に住まうようなことになれば、専心に解脱(げだつ)を求めて、真の智恵を成就して、普(あまね)く世間を照らすようになるだろう、」と。転輪王とは、武力を用いずに、世界を征服する徳のすぐれた王という意味である。王はバラモンのいうことを聞いて歓喜し、バラモンにたくさんの供養(供え養うこと。後世、死んだ人に対しても追善供養の意味で用いられるようになった。)をした。そして王は、すぐれた子を生んだことをよろこび心にこう決めた。「この子は自分の王位をついでくれるだろう。わたしはすでに年をとったから、この子が大きくなったら、わたしは家を出て、山林で清い行(ぎょう)を修めよう。そして、この子に世を捨てて、山林に行かせるようなことは、させないようにしよう、」と。

 

アシタ仙の相占い

そのころ近くの園林に、アシタと名づける仙人がいた。かれは、長いあいだの苦行生活によって鍛えあげた仙人で、相を見ることにもすぐれていた。仙人が王宮にやって来たので、王は太子を仙人に見せた。仙人は、容貌きわめて端厳(たんげん)で、天人とほとんど異ならない太子を見ると、涙を流して、長いためいきをついた。王は仙人が泣いているのを見ると、にわかに心がおののき、思わず座より立ちあがり、仙人ににじりよっていった。「なぜ泣くのだ。この子は寿命が短いとでもいうのか、」と。仙人はいった。「王よ、そうではない。恐れることはない。この子はのちに、五欲(目・耳・鼻・舌・身の欲)に執着することを嫌い、聖王の位を捨てて、出家して、覚者(かくしゃ)となるであろう。そして真実を語り、もろもろの群生(ぐんじょう)のために迷いを取り除いてくれるだろう。わたしはすでに年をとりすぎている。この子が悟を開いて覚者となり、正しい法を説くときまで、わたしは生きていられない。わたしが泣いたのは、そのことを思ったからである、」と。王や群臣たちは、この話を聞いて安心した。ただ王は、太子がのちに出家するという占いには、積極的に喜べなかった。しかし奇特(きどく)の子を心から敬重し、天下に大赦(たいしゃ)を施し、牢獄をことごとく開いて、いっさいの罪人を許したのである。また、そのころ信仰されていたいっさいの天神を祭り、もろもろの群臣や国中の貧乏人に、施しを与えたのである。

 

母マーヤーの死

幼ない太子にとって、また王にとって悲しい出来ごとが起こった。太子の母マーヤーが太子の誕生七日目に、産後の肥立ちが悪くて死んでしまったのである。王や親戚はたいそう悲しみ、太子の養育をだれにまかせようかと、いろいろ思い悩んだ。あれこれと考えたすえ、王は太子の養育を、母マーヤーの妹であるマハーブラジャーパティに、まかせることにした。かの女は、実母のごとく太子を養育し、りっぱに育てあげ、のちに、釈迦の父であるシュッドダナ王の妃となり、一子をもうけた。

 

少・青年時代

 

勉学

太子はいっさいの徳を備えているという意味で、サルヴァールタ=シッダと名づけられた。マーヤー夫人の妹であるマハーブラジャーパティは、この幼くして母を失った太子を、自分の子のよう愛育した。太子もまた、かの女を実の母の如く敬愛した。太子はこのような環境の中で、日一日と生長し、また生まれながらのすぐれた顔貌(がんぼう)も、ますます徳相を増した。身には価のつけようのない栴檀(せんだん)の木からとった香や、その他の香や、身を護る神仙(しんせん)の薬と瓔珞(ようらく)(玉をつなげた首かざりのこと)とをつけていた。隣国の王たちは太子の誕生を聞いて、めずらしい牛車や羊車や馬車や、そのほか宝物や装飾品を贈って、太子の心を喜ばそうとした。このようにして、絶えず、すばらしいものや、めずらしい玩具(がぐ)で、太子はとりまかれていたのである。しかし太子は、そういうすばらしいものだけではなく、ちょっとした玩具にも心を止めて、豪華な雰囲気に、自ら染まろうとする傾向は、あまりなかったようである。こういうところにもかれの物質的・外面的なものよりも、精神的・内面的なものへの傾向が、強かったようである。太子は七歳になると勉強を始めたようである。その内容は字の習得と算数から始められた。やがて十二歳になるころまでに、後の国王として、必要ないっさいの学問や武芸などを学び、身に修めたようである。なかなか聡明な子であって、ひとたび聞けば師匠を越えるほどであった。

 

結婚

シュッドダナ王は太子の聡明、深慮な態度を見て、太子にふさわしい娘をかれの妃としてさがすことになった。父王は広く有名な豪族や、しつけのりっぱな家々を訪れ、ついに容姿端正なヤショーダラーという娘を見つけた。父王はこの娘を太子の妃として迎えようと思い、娘を宮殿に招き、太子の心に止めさせたのである。やがて、志高遠にして、徳の盛んなる太子と、美しき容貌と淑妙なる姿のヤショーダラーとは結婚し、結婚生活をいとなんだのである。インドでは昔も、また今日でも、一般に、男女の結婚年齢は若いのである。そして結婚生活はおおらかで、のびのびとしている。太子もその例にもれず、十七歳のときに結婚したといわれる。そして王は、かれらのために、清浄なる宮を建ててくれた。それは広くてきれいで、すばらしい装飾がなされ、高く虚空にそそり立ち、暖かさ、涼しさが春夏秋冬に適するようにくふうされていた。また伎女(ぎじょ)たちは太子をとり囲み、妙(たえ)なる音楽をかなで、まるでそこは神々の住む天のようであった。このようにして、父王は、アシタ仙の予言もあったので、太子に厭世の想いを起こさせないようにしたのである。

 

やがで賢妃ヤショーダラーは、男の子を生んだ。その子はラーフラと名づけられた。シュッドダナ王は太子に子どもができたのを見て、心にこう思った。

 

「大師はすでに子を生んだ。これで、家系や相(あい)継続して絶えることはないであろう。太子はすでに子を生んで、その子を愛することは、自分と同じであり、出家を考えるようなことはないであろう。わたしは力(つと)めて善を修めよう。自分の心は大いに安らかであり、生天の楽しみに異ならないくらいである、」と。

 

当時の出家について

釈迦が生存した時代のインドでは、出家ということはそれほど特殊なことではなかった。このころのインドの社会は、家父長的家族制度が、一般的になりつつあったのである。したがって家長となる男の役目が重要なのであるが、このころ理想的な男の一生は、つぎのように考えられていた。

 

男の一生を四時期に分ける。学生期・家住期・林棲(りんせい)期・遊行(ゆぎょう)期の四時期である。学生期とは現在の生徒・学生と同じように、将来一人前のりっぱな人となるために、先生について勉強する時期である。家住期とはひととおりの勉強が終わってから結婚し、子どもを養い、家長としての務を行ない、かつ社会的な責任を果たす時期である。したがって太子は、家住期にそろそろ入りつつあったわけである。林棲(りんせい)期とは、子どもも一人前に成長し、年をとってから、今までの世俗的な生活や、世俗的な欲望からいっさい離れて、家を出て、森林のなかで静かに生活する時期である。遊行期とは、林棲期において、自分の死期がだんだんと近づいて来たことを感じたとき、諸国遊行の旅に上り、旅の途上で死ぬのを理想としたのである。これがインドにおける四住期である。

 

釈迦の父シュッドダナ王も、釈迦が一人前になってくれたら、適当な時期に、出家して、林棲期の生活を送ろうとしていたのである。その釈迦が結婚し、ラーフラを生んだので、子を愛し、世俗的なことに熱中してくれるものと思って自分は安心して引退できる、と思っていたのである。また当時のインドの社会では、林棲期における出家のほかに、もう一つの出家があった。これは必ずしも年齢に関係なく、哲学的思索に打ち込むことによって、人生ならびに宇宙の根本原理をきわめよう、とする人たちであった。かれらはシュラマナと呼ばれ、伝統的なバラモンと区別された。釈迦の父シュッドダナ王が釈迦について恐れていたのは、シュラマナとして出家することに対してであった。

 

太子の厭世

シュッドダナ王の国は、小国ではあったが、ヒマラヤの南側にあって米作を主産業とした豊かな国であった。そこで太子の日常の生活は、物質的には何一つ不自由のないものであった。それでいながら、かれはこの宮殿の生活に、満足できなかったのである。かれは人が一生のうちで、だれもが経験しなければならない、生きてゆくこと、老いてゆくこと、病にかかること、そしてやがて死んでゆくことに対して、あれやこれやと思い悩んでいたのである。この生・老・病・死に対して、悩み始めた経過を「四問遊観(しもんゆうかん)の説話が説明している。これはあくまで説話であるが、かれがどのようなことを問題にしていたかを知るには、やはり参考になるのである。そこでその概略を述べておこう。

 

老衰の人をみる

太子の宮殿は虚空にそそり立つみごとなものであった。だが宮殿のそとにもいろいろな林があった。そこには、泉が流れ、清涼な池があった。そして木々は生い茂り、気持のよい木陰を作っていた。またもろもろの奇鳥が飛びかい、戯れ、水陸の花は、色あざやかに咲き乱れ、妙香(みょうこう)を放っていた。伎女(ぎじょ)たちは奏楽し、絃歌しながら、太子にそこへ行くことをすすめたのである。太子はその話を聞くと、自分もそこへ行ってみたくなった。父王は、太子がかの園に行きたいというのを聞き、さっそく、群臣たちに、宮殿からその園までの道をきれいにさせ、また老人や病人や、かたわの者を、太子の目に触れさせないように、ととのえさせた。やがて、出発の日がやってきた。道すじには花がまかれ、かざりたてた馬車に乗って、太子らの一行はでかけたのである。途中までくると、衰えきった一人の老人に、ばったり出会ってしまった。太子はそのような老人を、あまり見たことがなかったので、御者に問うた。「この人は、いったいなんなのだ。頭は白く、背はかがみ、目はくらみ、身は小さくふるえており、杖にたよって、弱々しく歩いておる。にわかに変じて、このようになったのであろうか、それとも、生まれながらにこうだったのだろうか、」と。御者は答えていった。「この人は、色が変わり、呼吸はかすかとなり、憂いが多く、歓楽は少なく、喜びはとっくに忘れてしまい、もろもろの感覚器官は弱っている。こういう状態は、老衰の相と、名づけられるのです。この老人ももとは、嬰児であり、母の乳によって長養せられ、子どものときは、遊びたわむれ、壮年のときには、五欲を恣(ほしいまま)にし、年をとってから形が朽ちはててきて、今は老いのためにこわれそうになっているのです、」と。

 

太子「ただかれだけが老衰するのであろうか。それとも、われわれもまたこうなるのだろうか。」

 

御者「太子もまたこうなるでありましょう。時が移れば形は自(おのずか)ら変じて、必ずこのようになるのです。少壮なるものが、老いない例はないのです。」

 

太子は老衰の人を見、かつ御者の話を聞いて、すっかり意気消沈してしまった。一瞬一瞬自分も老衰に向かっていることを思うと、もはや園林に、遊びに行く気にもなれなかった。そのまま車をめぐらして、宮殿に帰ったのである。

 

病人・死人を見る

太子が沈んでいると聞いて、王は再び、この園林に、太子を出遊させることにした。その途中、こんどはまた、病人に出会ってしまった。病人は、身体はやせて衰えているが、腹だけは水がたまって、ふくれあがり、呼吸はせきをしており、手足は引きつれたように枯燥(こそう)して、悲しく泣きながら、呻めいていた。太子は御者に問うた。「この人は何なのだ、」と。御者は答えた。「この人は病人です。身体の構成要素が、すっかり弱ってしまって、回復できないのです。ただ横になって、他人の助けを待っているのです、」と。

 

 

太子「かわいそうなことだ。だけど、この人だけが、病んでいるのか。それとも他の人たちも、またこうなるのだろうか。」

 

御者「この世間の人は、だれでも、このようになるでしょう。身体があれば、必ず患(うれい)があるのです。」

 

 

太子は病人を見、かつ御者の話を聞いて、大恐怖を生じ、心身ことごとくが、ふるえてきた。太子は、病苦の問題が解決しなければ、物見遊山(ものみゆさん)どころではない、と念じ、また車をめぐらして、還(かえ)ってしまったのである。そして日夜憂愁(ゆうしゅう)の思いで、老人のことや、病人のことを、自分の身に引き替えて考えていた。

 

王は、太子が病人を見手、還ってきたことを知ると、非常に不安がり、道路係の者を、きびしく責めた。そして太子が厭世的にならないようにするため、太子を取りまく伎女たちの数も増し、また音楽も、前よりも盛んにした。王自身、さらに勝妙の園を探しに出かけ、そこを見つけると、えりぬきの美艶最上の采女(うねめ)(宮廷内で仕えている女の人)たちを、そこに配置して、太子を待たせた。また御者にも、こんどは途中で還ってきてはいけないと強く命じて、太子たちの一行を送り出した。一行が途中まで来ると、四人で、輿をかついでいる一行に出会った。その輿の後には、人々が従い、あるものは憂(うれ)いに沈み、あるものは髪を乱し、泣きながら、従っていた。太子と御者がまず気がついた。太子は御者に問うた。「これは、なんの輿だろう、」と。御者は答えた。「死人です。もろもろの感覚器官の働きがなくなり、命が絶え、心は散じ、記憶したり、考えたりする力が失われてしまっているのです。働きがなくなり、形だけが枯れ木のように硬直しているのです。親戚や、朋友たちの恩愛は、もとより綿々たるものがあったであろうが、今は、喜んで見ることもできず、空しく遠い墓場へ棄てに行くところです、」と。太子は死ということばを聞いて、悲痛の思いにみたされながら、さらに問うた。「ただこの人だけが死ぬのだろうか。それとも、天下の人がまたみな、そうなのだろうか、」と。御者は答えた。「だれでもみなそうなのです。始めがあれば、必ず終わりがあるのです。老いていくものも幼いものも、身体があれば、滅びないものはないのです、」と。太子はおおいに驚き、身を車軾(しゃしょく)の前にたれ、息もほとんど絶えそうであった。太子は御者に命じた。「車をめぐらして還れ。遊戯の時ではない。いつ死が訪れるかもわからない。どうして心をほしいままにして、遊んでいられようか、」と。御者は、王からかならず園林に行くように、厳命されていたので、王を恐れてあえてめぐらそうとしなかった。そのまま、馬車を超スピードで走らせて、かの園林に到着してしまった。

 

園林での太子

太子の一行が到着した園林は、木々が緑に美しく、変わった鳥や獣どもが飛走し、喜んでいた。園林全体の明かるい美しさは、天のナンダヴナ園(ヒマラヤの北にあるインドラ神の森)のようであった。太子が園林にはいってくると、多くの女たちが太子を出迎えた。かの女たちは、太子に、まれにしか会えないことを思い、競い合って、太子に媚びた。おのおの、たくみにポーズを尽くして太子に仕えた。ある者は太子の手足をとり、あるものはあまねくその身をなでた。またある者は向かいあって言笑し、ある者はうれいにいたむようなポーズをして太子をよろこばせようとした。しかし、太子はいっこうに陽気にならなかった。女たちは太子が少しも心を動かさないのを見て、互いに顔を見合わせ、だんだんと寂しくなり、シュンとして言葉もなくなってしまった。このようすを見た太子の友人ウダーイバラモンは、女たちにこう告げて、はげました。「あなたたちは、端正聡明であり、技術も多く知っている。色力の方も常人を越え、男女の機微にも、よく通じている。容色すばらしいあなたがたには、天の神々でさえ、見ればその妃をすてて、やって来るだろう。仙人でも心が傾くであろう。どうして人王の子である太子の心を、動かせないことがあるであろうか。今この太子は、心を堅固にして、清浄の徳を備えているが、女人の力には勝てないのだ。昔、美女スンダリーは大仙人の心を動かし、愛欲を習わせたではないか、長い間苦行したガウタマも、天后のために、愛欲に溺れたし、ヴィシュヴァーミトラ仙も、一万年もの間、修道したのに、深く天后に傾いたため、一日のうちに破滅したではないか。このように、美女の力というものは、清い修行の力にも勝るものなのだ。ましてやあなたがたのように、技術にすぐれているものが、どうして太子を感じせしめないことが、ありえようか。さあ、もっと勤めて、わが国のあとつぎに、出家の心など起こさせないようにしてくれ、」と。

 

そのとき、采女たちはウダーイの説を聞いて、たいそうはげまされ、喜んだ。かの女たちは良馬にむちを加えたように、喜び勇んで、太子の前にいたり、おのおの、とっときの秘術を披露した。かの女たちは、歌ったり、踊ったり、あるいは言笑し、眉を揚げて白歯をあらわしたり、美しき目で斜に見たり、薄い衣に身体の線を現わしたり、なまめゆかしくゆったりと歩いたりしているうちに、太子にようやくなれて来て、かの女たちの方で、先に情欲が高まってきた。

 

一方太子の方は、心が堅固であるので、傲然(ごうぜん)として容(かたち)を改めなかった。それはあたかも、巨象が、群象に囲まれているようであった。それでも、かの女たちは、さらに拍車をかけた。まさに太子は、シャクラデーヴェーンドラ(天の神々の中でも中心的な神)が、天女たちに囲まれているようであった。かの女たちはだんだんとなれてきたので、太子のために、太子の衣服を整えてあげたり、手足を洗ってあげたり、あるいは香を身に塗ってあげたり、あるいは花でもって飾ってあげたり、瓔珞(ようらく)を着けてあげたり、身を抱いたりした。あるいはまた、かの女たちは、太子に寝やすいように枕を整えたり、身を傾けて密話したり、あるいは世の中のおもしろい話や、情事に関するような話までもした。最後には、かの女たちはみんなして、男女のもろもろの欲形まで作って、太子の心を動かそうとした。普通の人ならば相好(そうごう)をくずし、よだれをたらし、溶けてしまいそうな雰囲気であった。

 

だが、太子の目には、馬鹿が徒手体操をしているほどにしか、映らなかった。

 

生活の転換を願う

太子は、なに一つ不自由のない生活にあっても、また歓楽のかぎりをつくしても、満足することができなかったのである。このため、かれは現にすごしている生活とは縁を切って、別の生活をしたいと、思うようになってきた。この思いは、時とともにつのり、ついに、かれをして王国も、妃も、子どもも、その他いっさいをも捨てて、出家することに踏み切らせてゆくのである。

 

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新装版 人と思想4 『釈迦』

副島 正光 著

清水書院 人と思想4 釈迦

 

 

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