「人と思想」シリーズ

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人と思想24『フロイト』のまえがき+αを読んでみる

 

フロイトについて

 

タバコと旅行の好きなフロイト

もしわれわれが、一九世紀から二〇世紀にかけての思想について語ろうとするならば、フロイトとマルクスを避けて通るわけにはいかない。また、もしわれわれが有史以来の偉大な思想家を二〇人選び出すとするならば、やはりフロイトをその中に入れたい。かれの思想については、数多くの非難や批判がよせられているにもかかわらず、それは精神医学や心理学はもちろん、文学・芸術・思想などきわめて多くの分野に偉大な影響を与えている。このような大きな足跡をのこしたフロイトとは、その日常生活においてどんな人物であっただろうか。二、三のエピソードからそれをうかがってみよう。

 

フロイトは、大変なタバコ好きであった。なにしろ一日平均で葉巻を二〇本も吸ったというから、これでは習慣というより中毒といった方がよい。こういうわけで、いざタバコが切れたとなると、大変な苦しみであった。かれの死因が口中の癌であったことも、このものすごいタバコ好きと無関係ではなかったであろう。ところが、酒の方はあまり飲まなかった。わずかにブドウ酒をたしなんだ程度である。これは、かれが禁酒主義者だったからではなく、むしろ酒はちょっとでも飲むと精神がボヤけてフラフラするのがきらいだったからである。フロイトは、いつも自分の精神がハッキリしていることを望んでいたのである。

 

タバコとならんでフロイトの好きだったことは、旅行であった。八〇年余も住みつづけたウィーンのさまざまなわずらわしさから逃避するという楽しみ、新しい風景や美しいものの探究、まったく旅行は楽しいものである。かれはどこかよそに旅行にでると、まるで子どものように喜んだが、なかでもとくにイタリアあこがれていた。そして、生涯のうちに何度もイタリア旅行を行なっている。それほど旅行好きであったにもかかわらず、かれの方向感覚はまるでゼロであった。それは、ちょっとした遠出の散歩のときでさえ、そうであった。父と一緒に散歩にでた息子たちは、いざ家に帰るだんになって父親がとてつもない方向に向かって歩きだすので、よく驚かされたものであった。しかし、かれ自身も自分の方向感覚がゼロであることはよく知っていて、そこはすぐに息子たちの道案内に従った。こんな調子であるから、旅行のこまかい部分についてもきわめてうとく、汽車にのりおくれないためにとほうもなく早めに駅につくようにしたりして、大変な用心のしようであった。それでも荷物の宛名を書きまちがえたり、なにかを置きわすれたりすることがしばしばあったというから、かれの用心もなんと役に立たなかったことであろう。

 

優美な冒険家

どちらかといえば、かれの性格は綿密に計画をたて、時計のように正確にそれに従って動くというようなタイプではなくて、むしろある直観に導かれてそこに情熱を傾けるというタイプであった。かれ自身も冗談半分に、「私はほんとうは科学者ではなく、観察者でもなく、また実験者でも、思想家でもない。私は、ただ独特の好奇心と粘り強さをもった一種の冒険家であるにすぎない」といっているが、この言葉は、かれの性格の特徴をよくあらわしている。だから、大学で講義をするときなども、事前に準備をしっかりするなどということは、めったになかった。ましてメモを用いるとか、あるいは原稿をそのまま読んだりするようなことは決してなく、大半はそのときのインスピレーションによっていた。あるときアーネスト=ジョーンズが教室にいこうとしているフロイトに、「何を話されるのですか」と聞いたら、かれは「それがわかっていたらなあ!」と答えたといわれるのも、フロイトらしいエピソードである。

 

それでいてかれの講義は、名講義であったというから、かれはたしかに名文家である。一九三〇年に、フランクフルトでゲーテ文学賞を受けたというのもよくそれを物語っている。その美的感覚にもとづいた、ウィーン風のしなやかな、優美な、それでいて簡潔な文章は、読む人の心をとりこにするものであった。しかし、一面そのしなやかさのために、ときには論理的・科学的にみてあいまいな表現となることもあったが、それについて質問されると、かれは笑いながら「どうもわたしはだらしがないので」と答えたといわれている。

 

このようなフロイトであったから、およそ「かまえる」とか、「気取る」とか、「見栄をはる」などということは、はっきりきらいであった。また当然、「如才(じょさい)なさ」というようなことにも、あまり価値を認めなかった。そして、静かな態度と自然な威厳を備えていた。それにもかかわらず、かれは非常に近づきやすい人で、たとえ無意味な好奇心からかれを訪れる人があっても、会うことを断ることはめったになかった。そして、当然のことではあるが、親しい人びとの前では非常に呑気な態度であった。

 

このようなかれの性格や、また若い時代にきわめて貧しかったことなどもあって、かれの業績がほんとうに輝き出し、その個性的な能力が十分発揮されたのは、中年をすぎてからであった。天才の伝記としては、このようなことは、あまり例のないことである。よく「人は生活の完成か、仕事の完成か、どちらかを選ばなければならない」といわれるが、このように生涯と業績をきり離して考え、「不完全な」生活の中から「完全な」仕事が出てくることに特別な価値を感ずるのは、現代特有のかたよった好みである。フロイトには、そのような業績と生涯の分離はなかった。かれの生涯と業績は、格調高く調和していたのである。

 

 鈴 村 金 彌

 

目次

 

Ⅰ ジグムント=フロイトの生涯

フロイトの誕生
学生フロイト
若きフロイト
風雪に耐えた孤独の十年
輝ける精神分析学の開花
老いたフロイト

 

Ⅱ フロイトの思想

フロイトの思想の特色
欲動 ――人間をゆり動かすもの
心的装置 ――パーソナリティ
無意識のうちに働く心のメカニズム
夢の分析と解釈
文化論

 

年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ ジグムント=フロイトの生涯

 

フロイトの誕生

 

モラビアの春

モラビア1)の春は、駈足(かけあし)でやってくる。口に入れる野菜にも乏しく、眼を楽しませる草花もない、暗く厳しい冬は長い。ひと月の平均気温が零下五度以下で、植物もその活動を停止するかに思われる季節は五か月にもおよび、冬はまさに灰色の季節である。その長い冬が終ると、急に草花は活動をはじめ、陽光も輝きを増してくる。春は、わが国は想像もできないほど、待ち望まれているのである。その春の日の光さざめいた日、一八五六年五月六日午後六時三〇分、ジグムント=フロイトはモラビアの一小都市フライベルク(現在のプリボール)のシュロッサーガッセ一一七番地で生まれた。この年、わが国ではアメリカ総領事ハリスがはじめて伊豆下田に駐在することとなり、またヨーロッパではあのナイチンゲールで名高いクリミア戦争が終結したのであった。

 

時代の息吹き

フロイトが生まれる少し前、一八四八年二月二二日、パリ市民の蜂起からはじまった二月革命が、二日間の市街戦ののち成功を収めて王政を倒し、フランス第二共和政を樹立すると、それはヨーロッパ諸国に深刻な影響を与えた。この革命がすでに社会主義的背景をもち、階級闘争の性格をもっていたことは、時勢の変化をはっきり物語るものであり、また革命の成功は封建勢力の決定的な壊滅と自由主義的勢力の最後的な勝利を意味するものであったので、おくれた社会体制をもった国々に、急速に革命が波及したのである。すなわち、二月革命の翌月、まずオーストリアの首都ウィーンに革命運動がおこり(三月革命)、反動時代の主役であった宰相メッテルニヒはイギリスに亡命してしまい、続いてハンガリー・ボヘミアなどにも民族独立運動がおこるなどして、いわば新らしい時代の波がフロイトの生まれ故郷を強く洗いはじめていたのである。そして、「人間はすべて、自由で平等の権利をもつ」という自覚と、「民族の自由・統一・発展を要求する」というこの新しい時代の精神は、やがて資本主義が次第にはっきりと利益の追求をめざして発展するにつれて、いよいよ高まったのである。このような時代を背景として生まれたフロイトは、まさに画期的な思想を生みだすのにふさわしい条件をになっていたといえよう。

 

つぎに、フロイトの生まれた時代をいろどる文化の特色を見てみよう。言うまでもなく、近代史のにない手はブルジョアジー(市民階級)であり、従ってフロイトの時代の文化の形成者は、産業革命を遂行した立役者である市民階級であった。それゆえ、政治・経済・社会にわたって旧制度を打破し、個人の自由と解放を求めていったかれらの情熱が、そのまま新しい市民文化創造のエネルギーであった。こうして形成された一九世紀後半の近代市民社会の文化の最大の特色は、自然科学の驚異的な発達であった。もちろん、そのかげには、資本主義経済の強い要求やそれに基づく近代市民階級の活発なエネルギーがあったのであるが、これによって物質文明は高度に発展し、人間生活は多方面にわたって豊かで、便利になったのである。そのために思想や芸術の分野にもいちじるしい影響を与え、自然科学的な考え方はこれまでの哲学に代ってほとんど唯一絶対の確実な知識の源泉であるかのように信頼されるにいたったのである。それはあたかも、中世文化における宗教にもひとしい雰囲気をかもしだしていたのであった。そして、これこそフロイトの誕生を待ちうけていた文化的な土壌なのであり、かれの思想をはぐくんだ基盤なのである。この自然科学尊重の風潮の中で、フロイトにもっとも深い影響を与えたものは「エネルギー論」と「進化論」であった。これらがいかにかれの思想に影響を与えたかは、のちに詳しくのべよう。

 

父と母

かれの父、ヤコブ=フロイトは、ナポレオンがウォーターローで運命の敗北を喫した年、一八一五年一二月一八日、ガリシアのテュスメニッツで生まれた。かれの先祖は、長い間ケルンに住んでいたが、一四~五世紀頃のユダヤ人迫害にあい、東方に逃れ、一九世紀に入ってからリタウエンからガリシアを通ってオーストリアへもどってきたという迫害の歴史をになった生粋のユダヤ人であった。かれは主として毛織物の販売に従事しながら家族を養っていたといわれている。かれは中年にして妻を失い、一八五五年、四〇歳のときアマリア=ナタンゾーンという二〇歳の若く美しい女性と再婚した。ジグムント=フロイトは、この第二の妻の最初の子である。

 

はじめて男の子を得た若い母が喜びに浸っていたある日、ひとりの老婆が「この坊ちゃんは世界的な人物になる」と予言した。この予言が単なるお世辞であったかどうかは、どうでもよいことである。問題は、これを聞いたものがどう受けとったかである。当時、フロイトの母はわずかに二一歳、しかも先妻の子がすでに二人もおり、そのうえ、親子ほども年の違うヤコブのところに嫁に来たのであるから、はじめて生まれた男の子ジグムントをどんなに喜んでいたかは想像にかたくない。だから老婆の予言を聞いたとき、かの女はわがことのように喜び、絶えずそれを口にし、いつしか自分はもちろん家族全員にもこれを信じこませるにいたったのである。それゆえ、後年フロイトもその著『夢の解釈』の中で「……私がなにか偉いものになりたいと熱望したのも、このためであるかもしれない……」と述べている。すなわち、老婆の予言は、後のフロイトの生活を支配する暗示的な力となったのである。かの女はフロイトが七四歳になるまで生き、九五歳の天寿を全うした人であるが、常にフロイトのそばにあってかれを励ます力となっていた。かの女は老いて白髪をいただくようになってしまったフロイトをつかまえては、相も変わらず「私の宝、ジーキ(ジグムントの愛称)」と呼んでいたといわれている。母から受けたこのような深い愛と信頼とが、後のフロイトの学問と生活に対するたくましい力となったことは、フロイト自身も認めているところである。

 

では、フロイトの父、ヤコブはどんな人だったであろうか。当時のヨーロッパ社会は、日本と同様に父権支配の社会であったので、フロイト家においても世間並みに父親はひとつのおごそかな権威であり、父のしつけは厳しく守らされていた。しかし、ヤコブはもともと心の優しい人であった。そのうえ、かれはジグムントを深く信じ、また尊重していた。ヤコブは父親と言い争いながら街路を歩いていた知り合いのピアニストに会ったとき、「……おとうさんに口答えするとは何ですか。うちのジグムントはわしより数段頭がいいが、決してわしに口答えなどせんよ……」といったというエピソードは、これをよくあらわしている。このように父母に信じられ、期待されていたことが、どんなにかれの魂の発展を支えたことであろうか。

 

ユダヤの子

フロイトが一〇歳か一二歳の少年の頃、父はいっしょに散歩しながら自分の人生観をぽつりぽつりと語って聞かせたものであった。そんなある日、父はつぎのような話を聞かせた。「わしの青年時代のことだが、いい着物を着て新しい毛皮の帽子をかぶり、土曜日の町を散歩していたのだ。するとひとりのキリスト教徒が向こうからやって来て、いきなりわしの帽子をとってぬかるみへ叩きつけたんだ。そうしてこう言った。≪ユダヤ人! 歩道を歩くな!」」「それで、おとうさんはどうしたの?」とフロイトがせきこんで聞くと、父は平然として答えた。「わしか? わしは車道へおりて帽子を拾ったのさ。」この答は、どう考えてもかれの手を引いて歩いていたがっしりした体格の父親にふさわしいものではなかった。そして、不満とくやしさでいっぱいになったフロイトの胸の中には、第一回ポエニ戦争で敗れたカルタゴの貴族、ハミルカル=パルカスが少年ハンニバルに祖先の霊前でローマ人への復讐を誓わせた情景が浮かんだのであった。ハンニバルとローマは、それぞれユダヤ人の頑張りとキリスト教会のシンボルのように思われたのである。こうして、ローマを訪れ、ハンニバルの通った道をたどってみたいという願望が芽ばえ、後年かれはそれを実行するのである。

 

母のアマリア=ナタンゾーンもまたユダヤ人であったので、フロイトはまさに生粋のユダヤの子であった。このことが、かれの生涯になんと大きな意味をもったことであろうか! このことについては、これからもたびたび触れるであろう。

 

反ユダヤ主義

いったい、ヨーロッパ人のユダヤ人嫌悪はどこからくるのであろうか。それは、要約すれば、宗教と経済と民族主義の問題の三つになるであろう。宗教とは、言うまでもなくユダヤ教である。ユダヤ人はみずからを選ばれた民と信じ(選民思想)、旧約の教えを固く守り、今日でも豚肉やエビ・カニ類を食べようとしない(旧約のタブー)。イスラエルでは金曜日の夕方、空に三つの星が輝くときから安息日が始まり、商店は店を閉じ、交通機関は停止し、飛行場も閉鎖される。ユダヤ人の中でも正統派と称されているもっとも熱狂的な人びとは、刃物で顔を剃るなというエホバの言葉を忠実に守り、頬髭をのばしたままである。このかたくななまでの殉教さ! 国を滅ぼされたユダヤの民が、国家なしに二千余年も生き続けるという世界的奇蹟をなしとげることができたのもこのためであり、また他の宗教の信者たちから嫌悪されるのもこのためである。キリスト教が現世の権力と妥協しながら世界的な宗教へと脱皮していったのに、ユダヤ教はがんとして妥協せず、また宗教改革のチャンスをもみずから避け、宗教における古代性をのこしたままで二〇〇〇余年の歳月を生きながらえているのはひとつの驚異であるともいえよう。

 

キリストがユダのために銀三〇枚で売られて死んだとき、キリスト教徒のユダヤ人迫害がはじまったと言ってよい。それゆえにこそ、キリスト教の僧侶たちは叫ぶのである。

 

「ユダヤ人はわれわれの預言者であるキリストを殺した。その罪によって彼らはいま家を失ない、永遠の流浪を運命づけられているのだ。いつの日かキリストが再び現われて、ユダヤ人を許すまでは!」

 

このような迫害を受け、法律の庇護もなく、祖国もない民族ユダヤが生きのこるためのよりどころは、神と金と団結しかなかったのは当然である。かれらはどこにいても常に団結し、そのすぐれた商才を駆使してしだいに富をたくわえていった。第四回十字軍が、ベニスのユダヤ人商人の奸策にひっかかって、同盟国であった東ローマの首都コンスタンチノーブルに上陸し、略奪したのは有名な話であるが、十字軍以後ヨーロッパに商業が復活・発達し始めると、ユダヤ人の経済力はますます強大になっていった。そして、それに応じてユダヤ人迫害もますます激しくなり、ついにはユダヤ人は魔法を使って金をもうけているのだという噂さえ流されたのである。勘のいいこと、相手に調子を合わせるのがうまいこと、相手を決して怒らせずにしかも最大の利益をえることなどがユダヤ商法だといわれているが、これは一面においては二〇〇〇余年の迫害の結果であり、また他面においてはかれらの嫌悪される理由でもあるのである。

 

一九世紀に入ってからは、ドイツを中心とする汎ゲルマン主義がその攻撃の矛先をユダヤ人に向けた。これを受け継いで狂信的なまでに高めたのがヒトラーであった。その過程において、中世以来のユダヤ人に対する悪魔的伝説はいっせいによみがえり、ついにはフロイト自身もその犠牲となってロンドンに亡命せざるをえなくなるのである。ヒトラーの一派は叫んだ。「アーリア人は世界でもっともすぐれた民族であり、人類を支配すべく約束された民族であり、人類の究極の美の姿である。これに反してユダヤ人は美を汚すものであり、今日のドイツの完全な破壊をめざしてそそのかしている者である。世界中のドイツ攻撃の文書はすべてユダヤ人によって書かれたものであり、従って反ユダヤ主義はわれわれの民族的イデオロギーの主軸でなければならない!」この狂信! この憎悪! まことにユダヤの子は悲劇の子である。

 

フロイト家の人々

フロイトの生後、わずかに十一か月で弟のユリウスが生まれたが、かれは一年たらずで死んでしまった。その後も母はつぎつぎに子どもを生み、五人の妹と一人の弟が得られた。こういうわけで、フロイトは母の愛を十分受けていたとはいえ、つぎつぎに生まれた弟妹たちのために母の関心はそちらへ向けられ、自分がかえりみられなくなる不安をしばしば体験した。母に甘え、母を独占したいという無意識的な願望をもちながら、現実にはそれができないという事実を常に体験したのである。そのうえ、フロイトの家庭は複雑であった。かれが生まれたとき、父ヤコブには、泣き妻との間にすでに一歳の子ヨハネスをもった長子イマヌエル=フロイトがあった。従ってジグムント=フロイトはヨハネスの年下の叔父として生まれたのである。しかもイマヌエル一家はジグムントたちとほとんど同居というべき状態であったといわれているところから、家庭的にさまざまの問題をひきおこしたであろうことは十分想像される。フロイトは父母から重要視され、いつも家族の中心として認められていたから、ヨハネスから見ればシャクの種であったであろう。ヨハネスには、自分の方が年長だという意識がある。それゆえ、しばしばフロイトを牽制した。こうして仲の良いときはよいが、まずくいくと盛んに憎み合い、いがみ合うことになった。フロイトは後年この頃の心理状態をふりかえって、次のように述べている。「三歳の終わり頃までは、われわれは互に離れがたい存在であった。われわれは互に愛し合い、競い合った。子どもの頃のこの人間関係は、その後の私の人生において、自分と同年輩の男との交際における私のすべての感情を決定づけた。」

 

フロイトの場合、このような家庭環境、その中におけるさまざまな体験は、すべて考えさせるものであった。老齢の父と若い母、伯父のような異母兄、同時に愛と憎の対象であるヨハネス、つぎつぎと生まれてくる弟妹たち、このような環境にあって母の第一の寵児であったかれは、家庭における自分自身の地位を確保しようとして不満に直面するたびに勇敢にそれと戦っていったのである。これが後に学問に対しても、世間に対しても、自己の信ずるところを貫くためにあくまで戦いぬき、あのような輝かしい業績をなしとげることができたフロイトを形成していったのである。

 

かれの兄弟については、かれ自身と妹のローザがしばしば神経衰弱にかかりやすかったという点をのぞいては、特記すべきことがない。このうちかれ自身が神経衰弱にかかりやすかったことは、後にかれが神経症を研究し、精神分析学を創設するのにかなりプラスになったであろう。かれに近い血縁者には、精神薄弱者が一人、一九歳で精神障害にかかった男子が一人、てんかんで死んだ男子が一人あるといわれている。かれの尊敬していた父、イタリア統一の英雄ガリバルディに似ていた父ヤコブは、かれが『ヒステリー病因論』の中ではじめて「精神分析」という言葉を使った記念すべき年一八九六年の一〇月二三日、他界した。

 

故郷を離れて

フライベルクはモラビアの南東、シレジアの国境に近く、ウィーンの北東一五〇マイルにある静かな町である。フロイトの生まれた頃は人口約五〇〇〇であったが、その大部分はローマ‐カトリック教徒でユダヤ人はほぼ二%であった。それゆえ、ユダヤの子には、聖マリー教会の鐘の音も、敵意をもって鳴り響いたことであろう。父のヤコブはこの町の毛織物商人であったが、この町の主要な収入源であった織物業は過去二十年間に落ち目になっていた。産業革命の結果、手工業は急速におびやかされていたのである。一八四〇年代には、ウィーンからくる新しい北方鉄道がフライベルクを迂回してしまい、そのうえ一八五一年の王政復古のあとインフレーションとなったので、一八五九年頃までには町はよほど衰微してしまっていた。ヤコブの商売も、直接その影響をうけていた。しかし、かれの不安を増すもっと不吉な前兆があった。それは、町の布地製造業者であるチェック人たちが、かれらが苦境にあるのはユダヤ系織物商人のせいであると考えはじめていたことである。ユダヤ人やその財産に直接危害が加えられたことはなかったらしいが、それでもプラハの革命はユダヤ人織物業者に対するチェック人の暴動によってはじまったものであった。経済的な困難は、勃興しつつあった民族主義と結びついて、伝統的な身代わりのいけにえであるユダヤ人に対する敵意を生んだのである。

 

たとえそういうことがなかったとしても、衰えつつある小さな町の教育機関では、フロイトに老婆の予言を実現させる見込みはなかった。ヤコブは、どう見てもこのフライベルクには自分や自分の家族の未来はないと考えた。そこで一八五九年、ちょうどフロイトが三歳のとき、一家はウィーンに移ることとなった。ウィーンに移る少し前、ライプチヒに行く汽車の中から生まれてはじめてガス灯の火を見た。それはまるで地獄で燃えている人魂(ひとだま)のようであった。汽車旅行に対する「恐怖症」がはじまったのもこのときからである。これは、後に汽車の時間にまに合うかどうかについていささか必要以上の不安を感じるという形でのこったが、また一面において自己の精神を分析するひとつの素材として重要な意味をもつものとなった。

 

ウィーンの森

森の都ウィーン。フロイトがその生涯の大部分、約八十年をすごしたウィーン。この町の歴史はすでに紀元一世紀頃、ローマ時代にヴィンドボナとよばれた頃から始まる。中世に入ってからは主として市場として栄え、一一~三世紀のあの十字軍の時代にはその通路として栄え、一四三九から一八〇六年にいたる間はほとんど常に神聖ローマ帝国の首都として栄え、帝国の経済および文化の中心となっていた。今日ではその人口は二〇〇万に近く、旅人は町並みのすぐ端まで迫っている落葉樹の森(ウィーンの森)にたたずむもよし、地下にもぐってカタコンベ(地下墓地)を見るもよし。細い石畳のガッセ(横町)、古びたたたずまいのカフェー、あてもなく狭い道を歩けばところどころの家には銅板がはめ込まれていて、オーストリアの国旗が掲げられている。足をとどめてそれを見れば、それはかつてシューベルトの住んでいた家であり、ベートーベンの住んでいた家である。音楽家だけ拾っても、ヨハン=シュトラウス、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンなどすぐれた音楽家の遺跡が数多くある。美しい音楽ならいつでも、そして季節によってはすばらしい宗教音楽が響いているのがウィーンである。ウィーンの人は一日に一度は、ときには朝食でさえもカフェーにいくという。卵と小型のパンとバターとジャムと……あるいはゆっくりコーヒーを飲みながら、新聞を読んだりおしゃべりをしたり、時に興ずればトランプ・チェス・玉突きからダンスまで。だからカフェーにはいつでもワルツのメロディーが流れている。社交好きで、はなやかで、それでいてどこか物淋しさを漂わせているウィーンの人びと。そこには、長年にわたる異民族の支配の交代の中をくぐりぬけて来た歴史の陰影がきざまれているのである。フロイトはこの町に住み、その思想を育てたのである。

 

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