「人と思想」シリーズ

センチュリーブックス

人と思想20『マルクス』のまえがき+αを読んでみる

 

マルクスについて

 

――マルクスを、勉強するようになったわけ――

 

貧しい農村の暗い思いで

農村でくらした少年時代のことを思いだすと、わたしは、なにか暗い気もちになる。そのころの日本は、中国との戦争にあけくれていた。どこで、どういうわけの戦争をしているかを、わたしは、聞いたり、読んだり、教わったりした。もちろん、りっぱな正義の戦いをしているのだと思っていた。でも、日々の生活はつらかった。なにか遠くにあって、わたしたちには見えない戦争よりも、身じかな生活の貧しさが、つらかったのである。わたしだけでなく、わたしが育った農村のひとたちは、みんな貧しかった。それが、わたしを、ゆううつにさせたのだった。学校の背性は、立身出世をせよ! と教えてくれた。でも、貧しいものにはなりようがなかった。たったひとつ、兵隊になり、戦争にいってえらくなる道があったといえよう。しかし、それも、わたしのごとく体の弱いものには、だめだった。

 

とにかく、父母たちの苦労を思うだけでも、わたしには、楽しい青春どころではなかった。たがいに助けあい、はげましあって暮らした小学校時代の友だち、そのなかには、すぐれたひともいた。にもかかわらず、上の学校へいって勉強するわけにはいかないひとが、大部分だった。

 

おさな心のわたしは、そういうことに、なにか暗い矛盾のようなものを、感じないわけにはいかなかった。でも、こういう矛盾が、なににもとづくかなどということは、とうていわからなかった。考える力はないし、教えてくれるものはないし、また、考えたところでどうにもならぬことだった。わたしたち百姓は、汗水たらし、泥まみれになって働いた。それでも貧しくて、啄木の詩が、思いだされてくるのだった。

 

はたらけど

はたらけど猶(なお)わが生活楽(くらしらく)にならざり

じっと手を見る

 

悔いと反省からマルクスへ

父母たちのおかげで、わたしは、さいわいにも学生生活をおくることができた。しかし、父母が、息子の学費のために苦労していたあの姿を思いうかべると、なにか、いまだに、わびてもわびきれないような気もちになる。

 

中国との戦争は、ますます拡大して、ついに、米英をも敵とする、あの大戦争にまでなっていった。わたしは、その間に教師となり、哲学や倫理を教えることになった。もちろん、もはや、マルクス主義を、公然と勉強したり、しゃべったり、教えたりすることは、できなかった。ゆるされたことは、マルクス主義を、アカとして、てっていてきに非難攻げきすることだけだった。

 

戦争は、あのような形でおわった。わたしの教え子たちが、戦場で散っていった。友人たちが、戦争の犠牲となった。よき兵としてたたえられた農村の若者たちの多くが、骨となってかえってきた。空襲で、多くの市民たちが死んでいった。広島や長崎の惨状は、ほんとうのことがあきらかになるにつれ、この世の地獄をおもわせた。……かずかぎりのない戦争の悲劇。

 

そして、わたいはなにをしていたのか。なにをどう勉強し、なにをどう教えていたのか。わたしは、いまここで、わたしの勉強の誤りや、教師としての罪や責任や恥をくわしく語るゆとりはない。よく歴史の本などにでてくる写真に、神宮外苑での「学徒出陣」というのがある。わたしは、あのとき、女子学生とともに、旗をふって、出陣学徒を見おくった。あのなかの多くの学生が、戦場で死んでいったことであろう。わたしは、あの写真をみるにつけ、いいしれぬ恥ずかしさと責めに苦しめられるのである。なんとおろかな、無責任な教師であったろうか、と。なんというバカな哲学者であり倫理学者であったことか、と。わたしは、哲学とか、倫理とか、思想というものの勉強のしかたを、おかした罪にたいする責めとして、また、つぐないとして、反省しないわけにはいかなかった。

 

そういう悔いと反省のなかから、わたしはマルクスを勉強するようになった。貧乏のわけ、戦争の原因、労働者の解放、ほんとうの意味での人間の自由や平等や幸福、それらをあきらかにし、それへの道を訴えるマルクス主義が、多くのものを考えさせてくれたからである。戦争にも反対して、平和をさけんできたマルクス主義者たちに、胸うたれたからである。わたしは、考えた。とにかく、この理論を勉強してみよう! と。

 

マルクスのみりょく

マルクスは、貧乏人どころか、ゆたかなインテリ市民の家庭で生まれ、めぐまれた学生生活をした。かれの妻イェニーは、郷土きっての名門貴族の出であり、美ぼうをうたわれた才媛であった。それにもかかわらず、マルクスは、貧しい労働者の解放のために、一生をささげた。かれは、労働者をはじめとする下づみの人たちの貧困や、苦労や、奴隷状態や、堕落が、おカネ(資本としてのおカネ)が支配している、この社会のしくみに由来するとした。こんにちの戦争もまた、利潤をもとめてやまない資本の争いによるとした。およそ、あらゆるひとが、カネの奴隷となって、ほんとうの人間らしさを失っているのは、この、「ことはカネしだい」の社会が原因だ! だから、労働者を解放してほんとうに自由にするためには、そしてまた、およそ人間を解放してほんとうに人間らしくするためには、この、資本の私有を金科玉条としている社会(資本主義)を、変革しなくてはならない、と考えた。そして、この資本主義を打倒するための力ないしエネルギーを、プロレタリアート(労働者階級)に期待した。マルクスは、そういう革命のための理論を、プロレタリアートにとき、そのための実践を、プロレタリアートにうったえた。かれの生がいは、こういう理論のための勉強と、それを実行するための活動とにあけくれたのだった。とうぜん、そこには、迫害や中傷や追放がつきまとった。それとともに、ドン底の生活や、家庭の不幸(子供の病死)や、病苦が、かれをはなさなかった。だが、かつて郷土の花とうたわれた妻イェニーの愛は、よく夫をささえた。また、きわめてゆたかな商店主の息子として生まれたエンゲルスが、マルクスのこのうえない友人として、マルクスを助けたのだった。

 

こういう愛情や友情にたすけられて、マルクスは、こんにち、いたるところで問題になっているマルクス主義を、つくりあげたのである。

 

マルクスが生まれてから、まだ一五〇年そこそこである。かれの主著『資本論』が世にでたのは、一〇〇年ほどまえのことである。にもかかわらず、こんにちの世界の三分の一が、すでにマルクス主義にもとづく社会体制をとっている。そうでない国や民族も、大なり小なりマルクス主義の影響をうけているし、うけないわけにはいかない。世界史のうえで、かつてこんな思想があったであろうか。

 

こんにちの問題

しかし、かつて貧しかった農村も、いまはずいぶんゆたかになったようだ。戦争にまけたにもかかわらず、今日の日本は、まえにもまして、目をみはるばかりの姿となった。だから、わたしが、いまのべてきたことなど、若いひとには、老人の昔ばなしか、グチのようにきこえよう。

 

しかし、わたしは、こんにちの世のなかに、また暗いものや矛盾を、感じないわけにはいかない。そういう矛盾をみていると、こんにちの世にもてはやされている、えらいひとのおっしゃることが、なにかそらぞらしくきこえてくる。

はなしを、身じかのことにむけてみよう。みんなこんにちまで、しのぎをけずって競争してきたし、これからも、そうしないわけにはいかない。競争であるからに、ひとを負かして、自分が勝たなくてはならない。そのため、みんな、ずいぶんいやなゆがんだ勉強や生活をしてきたし、また、しなくてはならない。学歴が人間の価値をきめる。そこで、大学へ行けないひとのことを思うと、わたしは、また暗い気もちになる。これほど平和がさけばれながら、いま、世界のあるところでは、戦争がおこっている。おそろしい核兵器は、たえず、わたしたちをおびやかしている。なにが友情だ! なにが自由だ! なにが平等だ!なにが平和だ! とさけびたくもなる。「ことはカネしだい」の世のなかでは、ひとはカネのために狂奔しないわけにはいかない。ひとは、カネの奴隷になっている。こういう状態を、わたしたちは、「現代の矛盾」とか、「疎外」(人間が、人間のほんとうのありかた、人間らしさ、を失っていること)とよんでいる。「人間らしさを取りもどせ!」とさけんでみたところで、むりなはなしであろう。問題は、そういうふうにならないわけにはいかない状況にあろう。こういう状況のなかでは、授業の時間などに並べられる、友情・仲よく・自由・自主・平等・平和などといったコトバが、実際をもってピンとこないのは、むりからぬことであろう。

 

新しい社会づくり

問題は状況であり、社会である! こういうてんから、世のゆがみや矛盾をなくしようとしたのが、マルクスであったともいえよう。

 

ひとは、ひとりで生きているのでなく、また、ひとりでは生きられない。日々の生活、またそのためのものの生産、を考えてみてもわかる。それ、社会の多くのひとたちの協力によってはじめて可能である。にもかかわらず、貧富のはげしい格差があったり、たがいにしのぎをけずって競争しあい、敵対しあい、いがみあわねばならぬとは、どうしたことだろう。そこでは、仲よくしろとか、信頼しろとか、自主的であれとか、えらくなれ、などといってみたところで、それだけでは、ことはかたづくまい。問題は、みんなが仲よくしあえ、信頼しあえ、自主的に個性をのばすことができ、みんなが価値(えらさ)をもちうるような社会をつくることに、あるのでなかろうか。こういう人間関係をつくりあげること、それを、マルクスも、ねがったのであったといえよう。

 

わたしが、数年前、西欧のある大学にいたころ、自由主義圏のなかのかれら学生たちも、ねっしんにマルクス主義を勉強していた。かれらは、マルクス主義にたいしてどういう態度をとるにしろ、とにかく、この主義をよく勉強しなくては、という思いにせまられていた。そうでなければ、世界の平和の問題を論じる資格はない、と考えているようだった。

 

この書を世におくるにさいして、わたしは、恩師である、坂崎侃先生のことを、思わずにはおれない。戦後、先生は、とまどっていたわたしたちのために、マルクス主義の研究会を、つくってくださった。わたしたちは、そこで、マルクス主義のすぐれた研究者から指導をうけ、先生を中心にし、いろいろな問題にかんして、話しあいや討論をすることができた。それは、実のりの多いものであった。マルクスを勉強するばあい、わけても新しい社会づくりを考えるばあい、こういう共同の勉強や、話しあいや、討論がだいじだと思う。つたないこの書が、そうした勉強の、手がかりとなってくれるよう、ねがってやまない。

 

目次

 

マルクスについて ――マルクスを勉強するようになったわけ――

Ⅰ 幸福な生いたちと自己形成

この人を探訪しよう!
マルクスが登場してくる舞台
幸せな幼少時代と、その理想
多感な学生時代

Ⅱ 波らんといばらの道 ――理論形成と実践活動――

青年ヘーゲル学派
『ライン新聞』での体験と反省
人間の解放をめざして ――パリ時代のみのり――
唯物史観と剰余価値論の育成
『共産党宣言』
二月革命と『新ライン新聞』
ロンドン亡命とどん底生活
科学的社会主義の仕上げ ――『資本論』の完成――
最後の力をしぼって実践活動へ ――第一インターナショナルの創立から解散へ――
肉体は死んでも、仕事は生きつづける

あとがき ――さらに勉強しようとする人のために――

年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ 幸福な生いたちと自己形成

 

この人を探訪しよう

 

マルクスの生地をたずねて

一九六三年、九月のことである。当時西ドイツのフランクフルトで勉強していたわたしは、早朝、下宿をたって、ルクセンブルクとの国境近くにあるトリールへ向かった。西欧では、すでに秋風が感じられた。

 

「トリールに行くって? それはすてきだ!」と、下宿のおじさんも、近所のおかみさんも、また知りあいの友人たちも喜んでくれた。みんな異口同音に、トリールの町のすばらしさを、あれこれ説明してくれた。しかしそのすばらしさとは、ローマ時代のみごとな遺跡のかずかずが残っている、歴史の町の、それであった。

 

だが、わたしがこの町へ旅だった第一の理由は、ここが、現代の世界をゆり動かしているマルクス主義の生みの親、カール=マルクスのふるさとであったからである。

 

なじかは知らねど心わびて

昔の伝えはそぞろ身にしむ

わびしく暮れゆくラインの流れ

入日に山やま赤く映ゆる

 

わたしたち日本人にも親しまれている、ハイネの「ローレライ」の詩である。ハイネも、マルクスの友人であった。貧しいユダヤ商人の子に生まれたかれもまた、社会主義思想と新しい世界を求めてさまよい、波らんの生涯をおえたロマン的詩人だった。……汽車はライン川にそって走り、このロマンチックなローレライにさしかかる。かつて船でここを通ったときに、船のかなでてくれる「ローレライ」の曲につられ、わたしも人なみに旅愁をそそられ、故国を思いだしたものだった。だが、トリールをめざしての汽車の旅のこの日は、なにかあこがれの未来をもとめるような、しかもわたしを待っていてくれる未知の恋人にあうような、いわば前向きのロマンチシズムに心をはずませていた。

 

汽車はまもなくコーブレンツに到着する。わたしはここでライン川とも別れて、トリール行きに乗りかえた。列車は、ぶどう酒で有名なモーゼル川の流域を、西南にむかってさかのぼっていく。

 

コーブレンツから約二時間。あこがれの町トリールは、街路樹のきれいな、いかにもこざっぱりした姿を、モーゼル谷あいの盆地に横たえていた。案内書でしらべてみると、たしかマルクス当時一万数千の人口であった町が、いまでは八万五千余になっている。トリールは、かつてのローマ支配時代、西方領域の中心であり、ドイツ侵略の拠点であった。なるほどドイツの友人・知人たちが教えてくれたように、いたるところに、小ローマ的な遺跡(城門・浴場・円形劇場など)が散在している。また古いドームや教会や宮殿は、この地がキリスト教的・世俗的権威の中心であったことを示してくれる。ただ、古い町でありながらも、いかにもいきいきとした雰囲気がただよっている。そこにひとは、かつて一九世紀、ドイツのなかでのもっともフランス的な町といわれた新しさ、若さ、自由さをよみとることができるであろうか。

 

いうまでもなくわたしは、ひとしおの感慨をもってマルクスの生家をたずねた。といっても、一部を戦災にやられ、戦後、修理してもとの形にしたものだそうだが。通りからの眺めでは、つくりは一般市民風である。が、なかなかの大きさは、かなり豊かな弁護士であったマルクスの父の生活を、しのばせてくれる。この印象この面影を忘れまいと、日本人らしく、カメラをなん回もパチリパチリやる。階下は、ドイツ社民党の支部事務所になっており、階上が、ささやかな記念館になっている。記念館には、写真、書簡、草稿、著作などが並べられていたが、書簡や草稿はいずれも原物ではなく、写真版だった。そのなかで、とくにわたしの心をとらえたものは、マルクス夫人の達筆であった。夫人は、やはりこの地の帰属の娘として生まれ、美ぼうで社交界の花とうたわれたのだった。この貴族出のかの女が、波らんの多い、苦難つづきのマルクスを、生涯かわらない愛情で助けたのだと思うと、みごとな筆跡が、よりいっそう光をはなつようだった。

 

いま世界をゆり動かしているマルクス主義の創設者、カール=マルクスは、いまを去る約一五〇年前の一八一八年五月五日、ここで誕生したのである。町の有力な弁護士であったハインリヒ=マルクスと、オランダの出で、やはり弁護士の娘であったヘンリエッテ=マルクスの三番目の子として。

 

しかし、マルクスにとって、トリールの思い出は、この生家などよりも、最愛の妻(イェニー)とのロマンスであったようである。後年の一八六三年一二月、当時ロンドンにいたマルクス、母死亡のしらせをうけてトリールに帰ってきた。そのさい、かれがもっとも心をひかれたものは、愛妻の実家、ヴェストファーレン家であった。かれは滞在中、毎日、昔なつかしいヴェストファーレン家のあたりをさまよった。そして町の人びとが、右からも左からも、かつてのトリールの「いちばん美しい乙女」であり、「舞踏会の女王」であった。イェニーはどうしているかと、たずねてくれるのに得意になった。かの女なくしてマルクスを考えることはできない。それほどのかの女であってみれば、マルクスをひきつけ、ロマンスの花を咲かせたこの家こそは、つきぬ思い出の泉であったであろう。……

 

人間らしい人間

ロンドンに亡命して、貧乏な生活をしていたパパ、マルクスは、あるときのこと、二人の娘(ジェニーとラウラ)のアンケートに、こんな告白をしている(ある部分の意訳)。

 

パパの好きな徳は? ――素朴!

パパの好きな男の人の徳は? ――強さ!

パパの好きな女の人の徳は? ――弱さ!

パパのおもな性質? ……ひたむき!

パパの幸福感は? ――たたかうこと!

パパの不幸は? ――屈従すること!

パパがいちばん大目にみて許す悪徳は? ――すぐにんじてだまされやすいこと!

パパの好きな仕事は? ――読書に没頭すること!

パパの好きな色は? ――赤!

パパの好きな名前は? ――ラウラ、ジェニー!

パパの好きな格言は? ――人間的なことで、わたしの心をとらえないものは、なにもない!

パパの好きなモットーは? ――すべてをうたがえ!

 

この告白は、まさにマルクスの人がらを表現して躍如たるものがある。この男、ひたむきの情熱をもって恋に没頭するかと思えば、またひたむきの情熱をもって友人と議論をしてゆずらない。こびることや屈従をきらって決然と雑誌編集長の席をすてるかと思えば、どんなに迫害されても追放されても、あくまでも自己を貫き通して屈しない。まったく本の虫になってすごし勉強をするかと思えば、貧しい労働者のために東奔西走してたたかう。すばらしい妻をめとり。小説のかれんなヒロイン、グレートヒェンにあこがれるかと思えば、愛しい子どもの馬となってよつんばいをする。生涯まったくの貧乏であったこの男は、あるときは食うものもなくて愛児をつぎつぎに死なせ、柩さえも買えなかった。奥さんを質屋におくってオーバーを質にいれるかと思えば、家賃が払えなくておいたてをくい、夜具その他の衣類から、子どものおもちゃまで執達吏(しつたつり)に差しおさえられてしまった。どうにもならないときに、友人や知りあい、とくにエンゲルスにお金の無心をした。それでいてこの男は、多くの人から愛され尊敬され信頼された。かれの家庭は、同志や貧しい人たちの、いこいと話しあいの場所ともなった。

 

たしかにこの男は偉大であった。しかしその偉大さは、超人間的であるからではなくて、人間的、あまりにも人間的なその生涯のゆえではなかろうか。それゆえにこそ、また、わたしは、この人に親しみをおぼえ、この人から教えられ、この人によって勇気づけられるのである。たしかにマルクスは幼少より秀才のほまれが高かった。マルクス夫人は、トリールでさわがれた才媛であった。しかし、この秀才と才媛も、あれだけの勉強と熱意と努力がなければ、あれだけのことをなしとげることはできなかったであろう。かれこそは、まさに、人間のなかでの、わけても人間らしい人間といえよう。そして、じつは、かれの究極の念願、かれの究極の目的は、この人間――資本主義でゆがめられ、非人間化され、人間らしさを失ってしまっている人間――を解放して、ほんとうの人間らしい人間にすることであった。しかし、そのためには、かれは、この人間をゆがめ、非人間化し、奴隷化した資本主義という社会を批判し、それに死刑の宣告をしなくてはならなかった。なにが、どういう状況か、かれをそうさせたのであろうか。

 

いまも生きているマルクス

考えてみれば、マルクスが生まれてからまだ一五〇年にもならない。かれの主著『資本論』の第一巻が出版されてから一〇〇年もたたない。ところがそのあいだに、世界は、マルクス主義の影響のもとで、たいへんな変わりかたをした。

 

理論の上で、また生活の面でマルクスを助けたのはエンゲルスという男であった。資本主義のいちじるしい発達に相応して、マルクス・エンゲルスの理論をさらに発展させたのは、レーニンであった。ひとは、これらの人びとの理論をひっくるめて、「マルクス=エンゲルス=レーニン」主義もしくは「マルクス=レーニン」主義、あるいは「マルクス主義」と総称している。周知のようにこのマルクス主義の旗のもとで、こんにちのソ連や中華人民共和国ができあがり、さらに多くの社会主義国が生まれて、現に世界は、二分している(自由主義国がわと社会主義国がわとへ)。そもそも歴史のうえで、これほどのおおきな力や影響をおよぼした思想が、ほかにあったであろうか。西欧をたずねてみるとき、いまさらながら驚くのは、キリスト教的な生活や、キリスト教的な見かた感じかたが、まさに本能のごとくに、西欧人の日常生活にしみこんでいることである。道徳はいうまでもなく、芸術にしても、思想にしても、教育にしても、さらには政治さえもが、キリスト教的な色あいをおびている。それが、日本で想像していた以上であるのに、びっくりすることもしばしばである。しかしキリスト教がこのように土着して、生活のすべてを支配するようになるまでには、あるところでは数百年ないし一千年、あるところでは千数百年の年月を要した。ところが、マルクス主義は、わずか百年そこそこで、世界をこれほどにも変えてしまったのである。「哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、だいじなことは、それを変革することである」という、かれのことばそのままに。まことにおどろくべき思想であり理論である。

 

もちろんマルクスの生まれたドイツでも、またかれのつぎつぎの亡命地、フランスや中欧諸国やイギリスでも、マルクス主義はそのままでは根をおろさなかった。それどころか、しばしば強い排げきをうけた。マルクス主義者は迫害をうけた。にもかかわらず、この主義は、これらの地にも、いろいろな面で、大なり小なりの影響をおよぼさずにはおかなかった。労働運動や労働問題においてはもちろんのこと、資本主義のやりかたや国の政策や近代的民主主義のありかたなどにおいて。(資本主義の修正とか、基本的社会権の確立とか、福祉国家の出現とか、社会保障制度の進展とか、社会民主党ないし社会党の政権獲得などにおいて、わたしたちは、マルクス主義の影響をみることができよう。)そして、第二次世界大戦後には、ドイツのなかで、経過はともかくとして、まっこうからマルクス主義の旗をかかげる東ドイツ民主主義共和国が、できあがってしまった。まことに矛盾したことには、マルクスを無視すればするほど、マルクス主義を排すれば排するほど、ますますマルクスが顔を出し、マルクス主義が浸透してくるように思われる。

 

わたしが、西ドイツのフランクフルト大学で学んでいたときのことである。そのおり、「マルクス主義の」とか、「マルクス主義に関する」とかいった名のつく講義や演習では、いつも学生が大いりだった。かれらは、好むと否とにかかわらず、また肯定すると否とをとわず、とにかくマルクス主義をよく勉強し、それをじゅうぶんに理解しなくては、こんにちのドイツや世界の問題は解決しないと、考えているようにみえた。

 

だから、死んだマルクスは、いまもなお生きている。これからも生きつづけるであろう。しかも、かれのやったことは、そのまま今日にあてはまるのではないとしても、いろいろな意味で、わたしたちを導く星として、ますます光り輝くであろう。

 

わたしたちは、これからこの人を探訪しよう。そして、探訪しなくてはなるまい。

 

<続きはこちらで>

新装版 人と思想20 『マルクス』

小牧 治 著

Amazonで購入

 

「人と思想」
おすすめ書籍

おすすめの記事

ページトップ