「人と思想」シリーズ

センチュリーブックス

人と思想17『ヘーゲル』のまえがき+αを読んでみる

ヘーゲルについて

 

――世界が大きく変わろうとしているときの哲学――

 

この本を読む人びとと、ともに

人はつねにその人にとっての現代を生きている。現代をどう生きるか、現代の問題をどのようにとらえ、どのように解決するかということは、現代に生きるわたしたちの最大の関心事である。わたしたちがヘーゲルを学ぶのは、たんに歴史的な興味からではなく、かれが当時の問題とどうとりくんだかを学んで、わたしたちじしんの問題を解決するための参考にしたいからである。

 

わたしたちはまず、この小著のなかで、歴史の大きく変わってゆく時代に、ヘーゲルが、一人の人間として「いかに生き、いかに考えたか」を知りたいと思う。そして、わたしたちは、この人の思想を、たんにできあがった思想体系や理論としてではなく、その成り立ちから理解するようにしよう。かれの思想のなかに、かれの時代や人生体験が、どのように結びついているだろうか。また、こんにちまで、かれは、革新的であるとか、あるいは保守反動的であるとかという、きわめて対立した評価をうけてきたが、その点は、はたしてどうなのだろうか。

 

からだの弱い人は、なんとかして強い人になりたいと願う。しかし、弱い人(ドイツ)はただちに強い人(イギリスやフランス)のまねはできない。強い人だって度をすごすと危険なこと(ジャコバンの独裁)になる。だから、弱い人は、弱い人なみに、その程度に応じた現実的な強化策(法治主義の原則に立った立憲君主制)が必要である。手術(共和主義の市民革命)をおこなうことができるならばと考えてみても、問題なのは本人の体力だ。まず、体力(エネルギー)をやしなわなければならない。その当時のドイツには、このような問題があったのではなかろうか。わたしたちは、これらの点を、もっと深くしらべてみよう。

 

ヘーゲルについての評価や批判が、こんにちまで極端なほど対立し、賛否両論まちまちである限り、わたしたちにとって、ヘーゲルの哲学像を一義的に決定することは困難であり、かれとの思想上の対決は現在もなお、残されているといわなければならないであろう。このことは、一方では、かれの思想の難解さに原因があるということもできるのであるが、他方では、ヘーゲルの思想の核心となっており、かつ、その思想を生みだす根源となっている問題が、いぜんとして、現代に生きるわたしたちの問題でもあるということを意味しているといえるのではなかろうか。

 

およそ、「古典」といわれるものは、いつの世でも、永遠の現在に生きる価値をもつものである。したがって、哲学上の古典は、現在でも問い求められ、しかも、古くから、いままでも問い求められてきたし、また、未来にむかって、これからも問い求められるであろうようなものを、つねに哲学の対象として保持し続けているといえるのである。

 

とにかく、歴史の転換期におけるさまざまな矛盾や限界と対決した偉大な思想家のもつ宿命といえばそれまでだが、わたしたちは、ヘーゲルについてのゆがめられた批判とか、公式化された理論や偶像にとらわれることなく、かれを、わたしたちにとっての古典として見なおし、何よりもまず、人間ヘーゲルを、当時の問題状況のなかで理解するようにつとめよう。

 

新時代の精神の探求

ヘーゲル(一七七〇~一八三一)は、産業革命やフランス革命、ナポレオンの出現とその没落など、ヨーロッパの歴史が大きく転換する一八世紀後半から一九世紀はじめのドイツに生きた。かれの生い立った時代のドイツは、神聖ローマ帝国と称していたが、帝国とは名だけであって、その内部は専制君主としての諸侯によって支配される数百の領邦に分裂しており、西欧の列強にくらべて、国民国家としての統一、近代市民社会の形成(中産市民階級の成熟)という点で、大変立ち遅れていた。

 

質朴(しつぼく)でまじめな、そして新教徒(プロテスタント)として信仰のあつい家庭で育ったヘーゲルは、いわゆる天才肌の人物ではなく、理知的ではあるが、どちらかといえば重厚で無器用なコツコツと仕事にうちこむタイプであった。そのかれも、多感な大学生時代に、フランス革命の嵐を経験して大いに熱狂し、世界が大きく変わろうとしていることを体験する。かれは、当時のドイツにおける一般の知識人たちが、一時はフランス革命に感激しながら、ジャコバンの独裁をみて、まもなく革命そのものにも否定的な態度をとったのとはちがって、終生変わることなく、この革命のうちにこそ、歴史の進むべき道(歴史的必然性)と近代社会の基本的な問題が含まれていると確信して疑わなかった。

 

かれは、新しい時代がおとずれているにもかかわらず、祖国の現状がいぜんとして近代以前の旧制度のもとにあることを憂え、どうしたなら、ドイツの社会において、人びとをめざめさせ、国民の自由を実現させることができるか、という課題ととりくんだ。したがって、かれの研究の中心は、民族のあり方(民族精神に関する問題)と近代社会の特質を明らかにすることであった。かれは、これらの問題を、世界史的な視野で、主として宗教(芸術・道徳を含む)と政治(経済・法律を含む)と歴史の面から追究した。かれは、青年時代の論文(手記『民族宗教とキリスト教』)のなかで、民族精神を一人の息子にたとえ、この息子を育てる父は時代すなわち歴史であり、母は政治であり、乳母(息子の教育者)は宗教であるといっている。そして、乳母が息子を教育する際に、補佐として芸術を必要とするとして、芸術は宗教の侍女であるともいっている。つまり、かれにとっては、歴史と政治と宗教(芸術)の三つは、互いに区別されながらも作用しあい、連関しあって統一を形づくり、民族精神を構成する主要な契機であったのである。かれは生涯をかけて、これらの契機の矛盾的な相互関係の道理を明らかにすることに専心した。

 

若い時代のかれは、フランス革命やカント哲学の影響を直接的にうけており、思想的には、理性を重んじて旧思想をうち破ろうとする啓蒙主義や民主的な共和主義の立場から、純粋に、新時代の精神と民族のあり方を探求した。しかし、壮年から晩年にむかうにつれて、現実がどうしてこうなったのか、という歴史的な条件や状況を重視するようになり、ただ頭のなかだけで、純粋に合理的に考えだした理想を、実現できるものだと思っていた若い時代の啓蒙主義・共和主義の限界を自覚するようになった。

 

かれのこのような考え方の変化には、かれじしんの実存的・哲学的な思索の深まりということもあるのであるが、とくに、かれの生涯のうちに完結しそうもない、「希望と恐怖」のくり返しともいえるフランス革命以後のめまぐるしい歴史的推移(ジャコバンの独裁・ナポレオンの出現とその没後・ウィーン体制・七月革命など)についての反省や、個人中心の近代市民社会に内在する宿命的な矛盾、ならびに一九世紀はじめのドイツの状況などが大きく影響しているといえるであろう。

 

そこで、かれは、ドイツの現実をふまえて、「理想(自由)と現実(権力)とをいかにして統一づけるか」という問題を、積極的に追究するようになった。一九世紀はじめのドイツの状況は、プロイセンとオーストリアの両国を中心に、いぜんとして小国に分裂しており、ナポレオンの没落後に、ヨーロッパを支配した反動主義の波(自由主義運動をおさえるウィーン体制)におされて、まだ立憲的な国家でさえなかったのである。「自由と統一と憲法」の問題、これが当時のドイツの課題であった。そこで、壮・晩年のヘーゲルは、現実的・客観的に眼前に展開しつつある近代市民社会を分析し、立憲君主制を肯定する立場に立って、民族(国家)のあり方を探求した。かれが、『法の哲学』という書物を著わして、国家における人間のあり方を、近代市民社会における諸問題をとりいれながら、根本的に追究したのも、ちょうど、このころ(一八二一)のことである。かくして、晩年のかれは、ゲーテが文学界を、ベートーベンが音楽界をリードしたように、完全に哲学界をリードするにいたった。

 

苦難をとおして

しかし、歴史の転換期における研究者の歩む道はイバラの道である。若い時代のかれは、物心両面にわたって、多くの試練とたたかわなければならなかった。とくに、一三歳で母を失ったこと。また、大学卒業後のながい暗かった七年間の家庭教師時代。そして、ようやく三一歳になって就職できたイエナ大学が、ナポレオン戦争の結果、閉鎖されて失職したこと。さらに四六歳までの約一〇年間を、地方の小さな新聞社で、インクにまみれて編集の仕事にたずさわったり、設備のととのっていないギムナジウム(高等中学校)で、薄給の校長として苦労したことなど。激動する世界のできごとと平行して、かれは波瀾と苦難にみちた時代をいろいろと経験する。学者の道を選んだものとして、まさに、人生の「冬の時代」ともいえる、きびしい、そして時には屈辱を感じて絶望におちいるこれらの生活を、かれはねばり強く耐えしのび、そのつど、先輩や友人たちの厚い友情によってのり越えていく。かれの残した若い日の手紙の多くは、この友情の記録であり、それは告白と感謝のことばでつづられている。しかし、かれは、苦難のなかでも、真理の探究をやめなかった。

 

のちに、かれがハイデルベルク大学およびベルリン大学で完成させた「哲学の体系」は、このもっとも不遇な時代のなかでその原型がめばえ、つぎつぎに形成されていったのである。自由や愛や運命の問題を探求した青年時代の諸論文や、不朽の名著といわれる。『精神現象学』、およびヘーゲル哲学の核心をなす『論理学』などの大著作は、「哲学の体系」の基礎となるものであるが、すべて、この苦難の時代に仕上げたものである。多くの苦難をとおしての自己形成・世界形成という点にこそ、ヘーゲル哲学の真髄があるとわたしは思う。

 

思想の湖にして巨峰

かれは、新時代の精神である「理性と自由」を、生涯を通じてのモット―として生きた。いうまでもなく、近代精神の本質は、人間性を肯定し、人間の能力(感性や理性)を信頼するということにある。したがって、近代哲学の課題は、①ちょうど、近代自然科学が純粋な学問として宗教から独立したように、哲学を神学の侍女としての地位から解放して、「学問(科学)としての哲学」にまで高めること。そのためには、②学問(科学)的な知識を成り立たせる基礎としての人間の能力(感性や理性)を再確認し、感性や理性の権能とその限界を明らかにすること。そしてそのことを通じて、③世界や歴史の主体としての人間の自由を確立することであった。イギリスのベーコン、ロック、ヒューム、大陸のデカルト、スピノザ、ライブニッツ、ヴォルフ、ルソー、カント、フィヒテ、シェリングなどは、それぞれ、これらの課題を追究した哲学者である。そしてヘーゲルは、これらの哲学者の極限に位置している。

 

ヘーゲルは、人間の理性や精神を究極の絶対者(神)の位置にまで高め、いっさいのものを、その絶対的な精神の発展するみちすじにそって、低きより高きへ発展的・段階的に位置づける壮大な「哲学の体系」(学問としての哲学)をきずいたのである。かれの思想体系の壮大さや思考の方法は、よくアリストテレス(古代思想の総決算者)のそれと比較されるが、ヘーゲルの哲学には、かれ以前のあらゆる思想が広くとりいれられている。

 

だから、ヘーゲルは、①カントにはじまり、フィヒテ、シェリングにうけつがれた一連の哲学(ドイツ観念論)の完成者といわれ、②近代精神の総決算をした人とみなされ、③ギリシア的理性(知識・ヘレニズム・合理主義)とキリスト教の精神(信仰・ヘブライズム・非合理主義)とを融合・統一したといわれている。またかれは、とくに、④弁証法という論理を確立した人としても有名である。

 

いつの世でもそうであるが、歴史的な大きな転換は、けっしてバラ色の道をとおってたんたんと進むものではない。ヘーゲルの生きた時代は、まさに、新しい世界像の形成にむかっての陣痛の時代である。したがって、先進国・後進国を問わず、それぞれ、新しいものと古いものとの対立や、理想と現実とのくいちがい、あるいは自由主義と反動主義とのあらそいなど、いろいろと解決の困難な問題や矛盾をかかえていた。ものごとを矛盾や対立をとおして、発展的・統一的にとらえるヘーゲルの見方や考え方(弁証法)は、このような複雑な歴史的・社会的な諸事情を反映してできあがったといえよう。また、「世界史は自由の意識における進歩である。」というかれの歴史に対する見方も、めまぐるしく移り変わってゆくこの時代における、かれの体験と思索に根ざしているということができる。

 

ヘーゲルは、『哲学史』や『法の哲学』のなかで、あらゆる哲学は、ちょうど個人がだれでも、もともとその時代の子であるように、その時代に属しており、その時代の制限をとび越えて外に出ることはできない、と述べ、哲学はその時代を思想においてとらえたものであり、哲学の課題は、存在するところのものをすじみちだててとらえること(概念的に把握すること)である、といっているが、ヘーゲルとその時代の人びとにとって、目の前にくりひろげられているこの「現実」を、根本から深く正しくとらえることが、なによりも大事な問題だったのである。

 

このことは、いいかえれば、哲学者ヘーゲルにとっては、「存在の認識」という伝統的な哲学観(形而上学=存在の根本原理を究明する哲学=存在論の立場)を保持しつつ、存在するものとしての歴史的現実のなかをつらぬき、かつ、リードしている理性(精神)の真の姿を、すじみちだてて明らかにすることであった。その意味で、ヘーゲルは形而上学者1)(論理学者)であるとともに、近代史のゆくえとドイツの現実とを見さだめようとした現実主義の社会哲学者・歴史哲学者であり、またドイツの国民的哲学者であったといえよう。

 

現実の枠をこえて進もうとするならば、わたしたちは、かえって過去のいっさいをうけついでいる現実を愛し、現実のなかにはいりこんで、そこに生きている存在の魂(理性)をとらえ、その魂に従うことによって、現実の運命をになわなければならない。ヘーゲルもまた、このように考えたのである。

 

ドイツの歴史学者ランケは、世界史におけるローマ史の意義について、「いっさいの古代史は、いわば一つの湖にそそぐ流れとなってローマ史のなかにそそぎこみ、近代史の全体は、ローマ史のなかから再び流れでるということができる。わたしはあえて、もしローマ人がいなかったならば、歴史の全体が無価値なものとなっていたであろうといいたい。」(ランケ『世界史概観』岩波文庫)と述べているが、このたとえを、もしヨーロッパの思想史のうえにあてはめるならば、ヘーゲル哲学こそ、過去の思想のすべてが流れこみ、未来の思想のすべてが流れでる湖であり、また、近代思想と現代思想との境目にそびえる巨峰であるということができるであろう。

 

「真理はつねにさまざまに語られる」

ところで、ヘーゲルの哲学はきわめて難解だといわれている。それは、第一には、ヘーゲルの文章がドイツ人じしんにとってもむずかしく、使っていることばの意味が、かれ独特で、読む人によって異なって解釈されやすいからである。第二には、ヘーゲルの弁証法が、「存在と思考」の両領域をつらぬいて変化し発展する論理であるために理解しにくいからである。そして、第三には、偉大な思想というものの宿命だが、思想の湖であり巨峰であるヘーゲル哲学は、ちょうど高い山や深い湖がそうであるように、それを見る人の立場や視点によっていろいろに解釈され、その全体像をあるがままにとらえることが困難だからである。

 

人びとは、ヘーゲルの思想を、それぞれ、宗教・論理・倫理・政治・経済・法律・歴史・芸術・悲劇などの各方面からいろいろと問題にしてきた。しかも、それらの見解はさまざまであり、必ずしも一致していない。

 

そこには、ヘーゲル哲学に対する多くの賛同者がいるとともに、また多くの反対者もいる。そして、その反対者のなかにも、ヘーゲル哲学が大きな成功をおさめたことへの敵対の気持ちから、プロイセンの御用哲学者であるとして、意図的に反対する人、ヘーゲルの用語が魔術的だとしてうけつけない人、またマルクスやキルケゴールのように、ヘーゲルをそれぞれの立場からきびしく批判し、非難しながら、かえって、ヘーゲルから多くの影響をうけている人などもいる。

 

ヘーゲル哲学は、その賛否両論の側から、実にさまざまに論議され、当時ではもちろんのこと、その後の哲学をはじめ、ひろく現代思想の各分野にも測り知れない大きな影響を与えている。マルクス主義や実存主義をはじめ、現代のおもだった思想は、いずれも何らかの意味で、ヘーゲルとの対決をとおして形成されているということができる。わが国においても、独自の哲学をうちたてた西田幾多郎をはじめ、田辺元の哲学、和辻哲郎の倫理学などは、いずれもヘーゲル哲学、とくにその弁証法思想との対決をとおして形成されているといえる。ヘーゲルを無視して、ヘーゲル以後の思想は理解できないのではなかろうか。ヘーゲル哲学そのものへの関心は、一九世紀の後半に一時おとろえたこともあったが、二〇世紀にはいって再び高まり、最近では、世界的に盛んにその研究が行なわれている。

 

「真理はつねにさまざまに語られる」ということばは、ギリシアのソポクレスのことばであるが、このことばは、幼少のころから、とくに、ソポクレスの書いた悲劇を愛したヘーゲルの哲学の性格と運命とを、もっともよく象徴しているとわたしは思う。かれの死後、かれの七人の友によって、ヘーゲル全集が編集されたが、このことばは、その各巻の扉に標語としてかかげられている。

 

人類の歴史への信頼

ヘーゲルの生涯は六一年間であった。そのうちの最後の数年間は、かれの全盛期で、ヘーゲル学派が形成され、最後の主著も完成し、大学総長に就任するなど、かれは哲学界に君臨した。だがそれは、苦悩をとおしての栄光というべきではなかろうか。とにかく、あるがままに人間ヘーゲルをみるならば、かれの生涯は「革命」ときりはなしては考えられないということに気づくであろう。かれは、ドイツの文学革命といわれるシュトゥルム‐ウント‐ドラング(疾風怒濤)の運動がおこった一七七〇年代に生をうけ、自我にめざめる青年期には、フランス革命とそのドイツへの波及を体験した。また、社会的に安定しなければならない壮年時代には、ナポレオン戦争とそれによるドイツの混乱のなかで苦しみ、落ちつかなければならない晩年には、自由主義と反動主義(ウィーン体制)とのはてしないたたかいの時代に生きた。そして、死の前年(一八三〇)には、かれ自身が予見していた新しい革命、すなわちフランスの七月革命とそのドイツにおける影響(自由主義運動)を体験する。かれは、このようにめまぐるしく変動する世界の限界状況のなかで、その生涯の大部分を、多くの苦難や絶望に耐え、希望と恐怖のいりまじった革命の時代に生きることを自己の運命として、世界や国家における人間のあり方を真剣に探求したのである。しかも、そのような革命の時代に生きる苦悩のなかで、かれはだれよりも強く人間に対する信頼、人類の歴史に対する信頼をもち続けた。わたしたちは、この力強さと英知を、この人から学びたいと思う。

 

わたしたちは、ながいあいだ、現代をおおっている不安・絶望・虚無の暗い谷間で、自己を見失ったまま低迷しすぎたのではなかろうか。

 

さあ、窓を開けよう! そして、わたしたちは、わたしたちのなかに生きている人間ヘーゲルとともに、世界や人生への愛と希望を語りあい、明日への勇気をやしなおうではないか。わたしたちの生きているこの二〇世紀後半の世界は、いまや、アポロ時代の到来とともに、大きく変わろうとしている。

 

 一九七〇年一月一五日

 大月の山荘にて

 澤 田   章

 

 

目次

ヘーゲルについて――世界が大きく変わろうとしているときの哲学

 

Ⅰ 若い日の体験と思想――自由・愛・運命の探求――

幼・少年時代のこと――非凡と凡庸――
立ち連れのドイツ
ヴュルテンベルクの事情
革命の時代の大学生活――チュービンゲン時代――
若い日の遍歴と思索――ベルンおよびフランクフルト時代――

 

Ⅱ 哲学者としての道――苦悩と栄光――

イエナでのヘーゲル――ナポレオンと不朽の名誉――
わが道―四十にして惑わず――ニュルンベルク時代――
ハイデルベルク大学でのヘーゲル――哲学体系の完成――
ベルリン大学でのヘーゲル――栄光の晩年――

 

Ⅲ ヘーゲルと現代思想

後世への影響

 

あとがき
年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ 若い日の体験と思想

――自由・愛・運命の探求――

 

幼・少年時代のこと

――非凡と凡庸――

 

友よ 太陽に向かって努力せよ!

人類の救済が 熟する日も近い

さえぎる木の葉や枝が なんだ

太陽のもとまで 突き進め!

そして疲れたら それもよかろう

眠りは それだけ深い

このことば(ヒッペル『人生行路』より)を、いつも自分にいい聞かせて、フランス革命にたいする期待とともに、祖国の人びとの立ち上がりをうったえていた若い日のかれ。

 

哲学者に生まれるなんて神に呪われているんだ!(『ヘーゲル書簡集』)と、苦悶し、逆境とたたかった壮年時代のかれ。

 

堅実で平凡な家庭

そのかれ、ゲオルグ=ヴィルヘルム=フリードリヒ=ヘーゲルGeorg Wilhelm Fried-rich Hegel は、一七七〇年八月二七日、苦悩の多い真理探究の一生を、ドイツのヴュルテンベルク公国の首都シュツットガルトで歩みはじめた。一七七〇年といえば、ジェームス=ワットが蒸気機関を発明してから五年後、ナポレオンがコルシカ島に生まれてから一年後であるが、ドイツでは、この年に、かの楽聖ベートーベンや詩人のヘルダーリンも生まれている。こんにち、わが国では、一九七〇年といえば、日米安全保障条約の改定をめぐって、問題の年といわれているが、この年は、ちょうどヘーゲルの生誕二〇〇年にあたっている。

 

ヘーゲル家の祖先は、一六世紀のころに、新教徒を迫害したオーストリア領内のスタイエルマルク地方やケルンテン地方の鉱山地帯からのがれて、ルターを信奉するヴュルテンベルク公国にきた新教徒の移住者の一人で、ケルンテンからシュワーベン地方にきたヨハネス=ヘーゲルという錫器(すずき)などの鋳造者(カンネンギーシェル)であったといわれている。移住してきたヨハネスは、のちの小都市の長(ビルガーマイスター)に選ばれたが、かれの子孫はこの国の各地で、手工業者、あるいは牧師や新教の監督、あるいは弁護士や市の書記としてさまざまな職業にたずさわった。一七五九年一一月一一日にマルバッハで、詩人シラーに洗礼を授けたのも、この一族の牧師ヘーゲルであった。

 

哲学者ヘーゲルの祖父は、ヴュルテンベルク西部にあるシュワルツワルト(黒森)地帯で、行政区の長をしたといわれている。また父のゲオルグ=ルードヴィヒ(一七三三~九九)は、ヴュルテンベルク公国の君主カール=オイゲン公につかえる実直勤勉な収税局書記官で、のちには遠征隊の参事官でもあったが、この国では高官に属する人であった。母のマリア=マグダレナ(一七四一~八三)は、この国の民会の役員をつとめるフロム家の出身で、一七六九年九月二九日に二八歳でルードヴィヒと結婚し、ヘーゲル家の人となったが、信仰にあつく、豊かな感情と知性をもった教養ある婦人であり、少年ヘーゲルにラテン語を教えたといわれている。

 

家庭のふんいきは質朴でまじめで、古風なプロテスタント的気風にみちていた。ヘーゲルは三人兄弟の長子で、下には弟と妹がいた。弟のルードヴィヒは軍隊生活に入り、公国の士官とした服務したが、ナポレオンのロシア遠征(一八一二)に従って戦死している。また妹のクリスティアーネは、大変な兄思いであって、ヘーゲルとはながく親交をむすんだが、ヘーゲルの死の翌年、不幸にも精神系の病いで不帰の客となっている。どこの家庭にも、よろこびや楽しみがあるとともに、また、秘めた悲しみや悩みごともあるものである。わたしたちのヘーゲルは、このような貧しくもなく裕福でもない、いわゆる堅実で平凡な家庭に生をうけたのである。

 

平和な中にきざしていた新気運

さて、人生のあけぼのともいえる夢多き幼・少年の時代を、かれは故郷のシュツットガルトで送った。平凡なようで非凡なヘーゲルの資質の多くは、すでにこの時代に芽ばえ、着実に形成されてゆく。かれは五歳でラテン語学校にはいり、七歳(一七七七年秋)から一八歳(一七八八年秋)までをこの地のギムナジウムで学んだ。

 

ギムナジウムというのは、大学へ進めための中等学校(高等中学校)で、時代や領邦によってその修業年限や組織や程度に多少のちがいはあるが、かなり高度の勉強が要求される学校であった。イギリスのパブリック‐スクール、フランスのリセやコレージがこれにあたっているが、こんにちでは小学校四年をおえてから入学し、在学期間は通常九か年間である。

 

ヘーゲルの幼・少年時代には、ドイツの文壇では、レッシングやゲーテ、ついで若きシラーが活躍しており、とくに、ゲーテとシラーはこの時期に、ドイツ文学史上の一時期を画する「シュトゥルム‐ウント‐ドラング」(疾風怒濤)といわれる革新的な文学運動を展開していた。そして、哲学界では、カントが、これまでのイギリス経験論と大陸合理論とを統合・統一したといわれる『純粋理性批判』▲1)(一七八一)を著わし、人間理性の価値を明確にして、注目されはじめていた。政治上では、一七七二年にプロイセンのフリードリヒ大王がロシアならびにオーストリアの皇帝らと共謀して、第一回のポーランド分割に成功しており、一七七六年には、アメリカ合衆国の独立宣言がなされている。また、一七七八年には、フランス革命を導く思想のうえで大いに貢献したルソーとヴォルテールがともに世を去り、一七八六年には、プロイセンの名君フリードリヒ大王も亡くなっている。なお、この時代にイギリスでは、資本主義の先進国として産業革命が進行しており、一七七六年に、アダム=スミスが『国富論』を著わしている。

 

そして、ヘーゲルの郷国ヴュルテンベルクでは、絶対主義の専制君主カール=オイゲン公と民会との多年にわたる争いが、のちに述べるような「相続協定」の成立(一七七〇)によっておさまり、以後二〇余年間におよぶ平和な時代を迎えていた(「ヴュルテンベルクの事情」参照)。後年、ヘーゲルは、この期間をもっとも祝福されたとき――もちろん理想化しているにしても――と賛美している。

 

つまり、かれの誕生とその幼・少年時代は、ドイツおよびヨーロッパ各地における現実否定の「革命」的な新気運と、ヴュルテンベルクにおける「平和」(対立をとおしてえられた現実)という異質的な二つの状況の交錯するなかに位置づけられていた。だが、幼・少年時代のヘーゲルは、外部の歴史的なできごとと直接にかかわりなく、郷国の平和のなかで、自由にすくすくと育っていったのである。かれは、ギムナジウムでは非常によく勉強し、どの学年でも賞を授けられる模範生であった。ただ、少年の日のヘーゲルにとって、生涯忘れることのできない悲しいできごとは、最愛の母と恩師を失ったことである。

 

<続きはこちらで>

新装版 人と思想17 『ヘーゲル』

澤田 章 著

Amazonで購入

 

 

「人と思想」
おすすめ書籍

おすすめの記事

ページトップ