「人と思想」シリーズ

センチュリーブックス

人と思想150『グーテンベルク』のまえがき+αを読んでみる

 

はじめに

 

今日のわが国においてグーテンベルクの名前はあまねく知れわたっている。中学の社会科や高校の世界史の教科書には、必ずといってもいいぐらいその名前が記され、その業績も紹介されている。たとえばそのうちのひとつには、次のように書かれている。

 

「ルネサンス時代には、技術の開発や発明もさかんにおこなわれた。そのなかでも三大発明といわれる活版印刷・羅針盤・火薬は、文化・社会全般の革新・発展に大きく寄与した。ドイツ人グーテンベルクの発明といわれる活版印刷が、ヨーロッパに広く普及したのは、良質の紙が比較的安く供給できる製紙法が知られていたからである。この結果、書籍が、それまでの写本にくらべ早く正確にしかも安くつくられた。人文主義・宗教改革の思想が各地にすみやかに伝播した理由もここにあった。」(三省堂:詳解世界史B、一九九五年三月初版発行)

 

筆者自身も、こうした内容のことを習ってきたし、多くの日本人にとっても受験などを通じて、これはほぼ常識となっているのではないだろうか?しかしグーテンベルクの活版印刷というものが、具体的にどのようなものであり、この人物がどのような生涯をだどったのかという段になると、はたしてどれくらいの人が知っているのであろうか?おそらく多くの日本人にとっては、ここに紹介した教科書の記述どまりだと思われる。

 

現在わが国で発行されている百科事典を広げてみても、その記述はあまり詳しくはない。またグーテンベルクに関する邦文の文献や書籍も極めて少なく、巻末に掲げた参考文献ぐらいのものである。しかもこれらはグーテンベルクの最大の業績といわれる「聖書」に関するものと、活版印刷がその後のヨーロッパの社会や文化に与えた影響に関するものであって、この人物がたどった生涯については、『グーテンベルク聖書の行方』(富田修二著)および『印刷文化史』(庄司浅水著)の中に比較的詳しく書かれているぐらいで、なお不十分なものといえよう。

 

筆者がこの「人と思想」シリーズのひとつとして、グーテンベルクについて書くようにと依頼されたときただちに引き受けたのは、わが国におけるこうした欠陥を埋めることができたら、という思いからであった。筆者は数年前、『ドイツ出版の社会史〜グーテンベルクから現代まで〜』(三修社)という書物の中で、ドイツの出版史を通史というかたちで著したことがあるが、その最初の部分においてグーテンベルクの業績と生涯についてごく簡単に触れている。もとよりこれは全体のごく一部を成すものであってまったく不十分なものだが、このときにグーテンベルクの生まれ故郷であるドイツのマインツにある「グーテンベルク博物館」や「グーテンベルク協会」を訪ねて集めた文献・資料などによって、ドイツではグーテンベルク研究が極めて盛んであることを知った。その経緯については、本書の「おわりに――グーテンベルク研究史」の中に記したとおりであるが、ともかく「活版印刷術の父」についてまとめてみたいという気持ちを、筆者はそのとき以来抱き続けてきたわけである。

 

今回本書を執筆するに当たって意図したことは、その生涯と業績を、ほぼ半々の比重で扱うことであった。巨匠の業績についてはわが国でも、とりわけその『四十二行聖書』を核とした特別展示のかたちでこれまで何度か紹介されてきたし、その書誌的側面については、先にあげた二冊の邦文書籍の中で、かなり専門的なタッチで詳述されている。

 

筆者としては「人と思想」という本叢書の性格を考えて、ひとつにはその生涯を、グーテンベルクが生きた十五世紀のヨーロッパないしはドイツの時代背景との関連で描くことと、もうひとつには活版印刷の技術的側面や書誌的側面をできるかぎりわかりやすく解説する、という二つのことを実現しようと尽力した。

 

その際に筆者にとって幸運だったことは、時代背景の中で生涯を描くという意図にまさにぴったりの研究書にめぐり合えたことであった。それは本文の中で幾度となく触れていることであるが、巻末の原書文献の第一に掲げたアルベルト=カプル著『ヨハネス=グーテンベルク〜人物と業績〜』(Albert Kapr:Johannes Gutenberg 〜 Persönlichkeit und Leistung 〜)である。その内容がどのようなものであるかという点については、本書の行間から十分にくみ取っていただけることと信じている。この書物は一般人向けに書かれたものとはいっても、極めて詳しい高度な研究書でもある。そして従来のグーテンベルク研究書にはあまり見られなかった社会的・文化的背景との関連に重点をおいて、もともと史料が少なくて謎の部分の多かった「活版印刷術の父」の生涯に、かなり大胆な仮説や推測を交えて切り込んでいる書物でもあるのだ。したがって、今回筆者が本書を通じて紹介した生涯についての記述は、わが国で発行されている百科事典などには記されていない部分も少なくない。

 

ところで活版印刷がヨーロッパのその後の社会や文化に与えた大きな影響については、初めに引用した高校の世界史の教科書にも書かれているとおりであるが、これについて深く、思想的・哲学的に考え、それを詩的洞察に満ちたタッチで描写したのが巻末にも掲げた『グーテンベルクの銀河系〜活字人間の形成』(マーシャル=マクルーハン著)である。ここで元来文学研究者であったマクルーハンは古今東西にわたる博引傍証によって、西欧近代の形成において印刷技術が果たした決定的な役割を詳細に検証している。そして活字(書物)が視覚的要素を促進し、それによって聴覚・触覚的要素を抑圧し、それを通じて近代のテクノロジー・個人主義・ナショナリズムなどを形成したプロセスをモザイク的方法によって浮き彫りにしている。

 

マクルーハンといえば、筆者がまだ若かった一九六七年に突如として旋風のようにわが国にもマスコミを通じて紹介されたのを覚えている。そのときの紹介の調子は、「メディアはメッセージである」というキャッチ・フレーズが前面に持ち出されて、今や活字文化が終焉し、電気=電磁波文化(映画・テレビ等)が到来したことを説くメディア論の専門家ないし社会学者としてマクルーハンを押し出していた、という印象を筆者は強くもっている。それはいわば活字文化の死刑宣告者といった調子での紹介であったが、今回『グーテンベルクの銀河系〜活字人間の形成』を読んでみて感じたことは、テレビ文化ないしはオーディオ・ビジュアル文化の内容には一切触れずに、一般の日本には苦手なカトリシズム的神秘思想の立場から、活字印刷術によって西欧人が体験した「失楽園」を、テレビを中心とした電波文化によって取り戻せるという強い願望を表現したものが本書である、ということであった。その意味で本書にはグーテンベルクというタイトルがついているが、印刷術がもたらした社会的・文化的な衝撃を、実証的にではなくて、文学的・思想的な作品からの膨大な引用を通じていわば形而上的に、しかも批判的に描き出したものなのである。

 

一方歴史学者の立場から十五世紀におけるコミュニケーションの変容について、実証的に研究したものが『印刷革命』(E=L=アイゼンステイン著)である。

 

この本の中でアイゼンステイン女史は、まず第一部で西ヨーロッパにおける写本から印刷への推移に焦点を合わせ、コミュニケーション革命の特徴を概説している。そしてその第二部においてコミュニケーションの変容の様子と、通常中世から近代初期への過度期のものとされている各種の進歩との関係を扱っている。これはつまり一般にもよく知られているルネッサンス、宗教改革、そして近代科学との関係である。その際著者は印刷術を、各種の進歩をもたらしたひとつの作用因と考えているだけである、と断っている。実証的な歴史学者としてこうした慎重な態度をとることについてはよく理解できるが、それにもかかわらず本書においてはコミュニケーション変容の姿が実に丹念に、具体的なかたちで分析・叙述されており、一般の読者にとってはマーシャル=マクルーハンの著作よりは、はるかにわかりやすいと言えよう。ここでその具体的な叙述を紹介できないのはまことに殘念ではあるが、印刷術が後世の社会や文化に与えた大きな影響について興味と関心を抱く読者には、ぜひこの本を読まれることをおすすめしたい。

 

ともあれ、本づくりが今日鉛合金活字を用いない電算写植方式に取って代わられたとしても、グーテンベルクが発明した活版印刷術の原理そのものは書物をつくる方法としては変わりがないのである。そしてマクルーハンの予言やその後のマルチ−メディアの発展にもかかわらず、文化の重要な担い手としての書物や印刷物は今後も決して消えていくものではない、と筆者は確信するものである。その意味でグーテンベルクの発明は、五百五十年を経た現在なお色あせるものではないのである。それゆえに「活版印刷術の父」の生涯と業績を、あらためて具体的なかたちで知る意味も十分あるものと筆者は信じている。

 

終わりに本書執筆へのきっかけを与えてくださった清水書院の清水幸雄氏に、この場を借りて深い感謝の念を捧げたい。また清水書院編集部の村山公章氏のご尽力にもお礼を申し上げる。

 

一九九七年四月

戸叶勝也

 

 

目次

 

はじめに

第一章 時代背景 ――十四・五世紀のマインツ

1 政治・経済・社会的背景
2 書籍を中心とした文化的背景

第二章 グーテンベルクの先祖、出生、青少年時代

1 グーテンベルクの先祖
2 グーテンベルクの出生と青少年時代
3 成人後のグーテンベルク

第三章 シュトラースブルク時代

1 シュトラースブルク居住の直接の動機
2 シュトラースブルクでの仕事

第四章 マインツへの帰還

1 新たな出発
2 マインツにおける初期印刷物
3 活版印刷技術の完成へ向けて

第五章 発明のクライマックス ――聖書の印刷

1 『四十二行聖書』の印刷
2 フスト、グーテンベルクを提訴

第六章 グーテンベルク工房とフスト&シェッファー工房の並立

1 ペーター=シェッファーの登場
2 フスト&シェッファー工房の発展
3 グーテンベルクのその後の活動

第七章 マインツにおける騒乱と晩年の生活

1 マインツ大司教の座をめぐる争い
2 マインツにおける熱い戦い
3 エルトヴィルへの亡命と晩年の暮らし
4 グーテンベルクの死

第八章 活版印刷術の伝播

1 ドイツの他の都市への伝播
2 ヨーロッパ諸地域への伝播

おわりに ――グーテンベルク研究史

年譜
参考文献
さくいん

 

 

第一章 時代背景――十四・五世紀のマインツ

 

1 政治・経済・社会的背景

 

黄金の町マインツ

ヨハネス=グーテンベルクが生まれ、育った町マインツは、西部ドイツのライン川とその支流であるマイン川が合流する地点にある。ここは北イタリアからアルプスを越え、ライン峡谷に沿って北上し、オランダなど低地地方に向かう交通の要衝にあるが、そのためすでに古代ローマの将軍ドルススによって軍隊の駐屯地とされていた。その後、民族大移動の混乱のあと、急速に勢力を増したフランク王国の中核地のひとつとなり、七四七年には大司教の鎮座地となった。そしてマインツ大司教はドイツの約三分の二のキリスト教会を支配する大きな存在となって、歴代国王から各種の特権や多くの所領を与えられた。つまり当時の大司教は宗教的に巨大な存在であったばかりか、政治的にも大きな役割を演じていたのである。たとえば、一一八四年にはこの町で、皇帝フリードリヒ=バルバロッサは、帝国の諸侯がいならぶなかで、その二人の息子を騎士に任命する大々的な祭典を催した。また一二九八年以降大司教は、ドイツ皇帝を選ぶ選帝侯の一人としてドイツの政治を左右する存在になった。

 

こうした政治面ばかりでなく、経済的にもマインツはケルンとともにライン地方の商業の中心地として重要な役割を果すようになった。とりわけ大司教からの全国的規模の注文によって、織物や金細工製品などの取り引きが促進された。大規模な遠隔地商業に従事する大商人の経済力が高まるとともに、自治を求める彼らの動きも強まり、ついに一二四四年には大司教の支配から脱して、マインツは皇帝直属の帝国都市(自由都市)となった。こうした基盤のうえに、一二五四年にはライン都市同盟の指導者にもなったのである。こうしたなかで、「商人ギルド」に結集していた大商人階級は、マインツの都市行政を担う「市参事会」の中枢メンバーになっていた。そしてさらに周辺農村地主との合体や市内における土地保有などを介して、特権的な「都市貴族」になっていった。

 

いっぽう遠隔地商業だけではなく、モノの製造面でもマインツは活発な動きを示していて、手工業者や中小商人によって、よく組織された職種別の「同職ギルド」(ツンフト)が形成されていた。彼らの勤勉さと優れた仕事によってマインツの富は生まれていたわけだが、そうしたことへの自信に裏づけられて手工業者たちの力も増し、やがて都市行政にも参与することを求めて、都市貴族と対立するようになっていた。こうしてグーテンベルクが生まれる前後の一四・五世紀のマインツには、大司教を中心とする宗教的権力、富裕な都市貴族、そして新興のツンフトという三つの勢力が、互いにしのぎを削っていた。そしてそうした諸勢力拮抗のなかで、中世都市のひとつの典型であったマインツには、司教座大聖堂をはじめとして幾多の教会の塔がそびえ立ち、豊かなラインの流れを媒介とした華やかな商工業活動によって、「黄金の町マインツ」と呼ばれる繁栄をこの町は謳歌していたわけである。

 

大司教管理機構と都市貴族

マインツ大司教は、皇帝、諸侯、司教と同様に家人や宮廷人に取り囲まれていたが、大商人たちはその経済力にものを言わせて、こうした家人として宮廷の官職につき、騎士の生まれと同等とされて貴族(都市貴族)に加えられた。つまり彼らは大司教という中世キリスト教社会における権威に寄り添うかたちでその特権を拡大し、享受していたのである。じつはこれからお話するグーテンベルクの先祖の大部分は、こうした都市貴族だったのである。

 

大司教管理機構の頂点に立っていたのは宮内長官であったが、彼は大司教のすべての財産と収入を管理し、裁判権、関税事務、貨幣鋳造権を握り、同時に大司教の職人たちの監督にも当たっていた。ただしマインツ市の行政は市長が代行していた。この宮内長官の下に、市場と都市警察を管理する責任者、貨幣鋳造を監督する責任者、裁判業務の責任者そして管理行政一般の責任者などがいた。これら上級の官職は、特定の家系が代々独占するようになっていて、都市貴族として互いに姻戚関係で結びつき、都市における特権的な支配階級を形成していた。

 

先に述べたようにマインツは自由都市になったわけであるが、その具体的な現れとして、従来封建領主や騎士たちがライン川を航行する船舶に恣意的に課していた関税が撤廃され、そのかわりに大商人たちは船舶が運ぶ物品の集散権を獲得したのであった。これはライン川を上り下りするすべての船がマインツの港で全商品を積み降ろし、数日間それを売らなければならないというものであった。豊かになった都市貴族は、さらに税金の減額や免除まで大司教から勝ちとったのである。そのうえ彼らは、市参事会における支配を利用して、交互に利子の有利な終身年金を支払う制度までつくったのである。この終身年金はグーテンベルクにも大いに関係があるので、ここですこし説明しておきたい。

 

当時利子を取って金を貸すことは、教会によって一般に禁止されていたが、都市貴族たちはそれへの対応策としてひとつのからくりを考え出した。それが終身年金制度であったのだ。金持ちの都市貴族たちは、その子どもたちや若年の親類縁者たちのためにこの年金を買ったわけであるが、それには高い利子(通常五パーセント)がついてふくらんでいった。そしてそれを受益者である子どもや若い親類たちは簡単な手続きで取り戻すことができたのであった。つまり彼らは、たいていの場合、支払った金額よりもはるかに高い金額を受け取り、その差額はマインツ市の財政から支払われたのである。都市貴族たちは自分たちの相互の利益を、市の財政を食いつぶすようなかたちで得ていたわけである。都市行政をぎゅうじっていた市参事会であり、そのメンバーはもっぱら都市貴族によって占められていたことを考えれば、このからくりは理解できよう。

 

こうした特権階級たる都市貴族への年金支払いは、しだいにマインツ市の財政を圧迫していき、税を負担する側の不満も増大していった。なかでも都市にあってその繁栄に貢献していたにもかかわらず、市参事会から締め出されて、税を負担するばかりで、終身年金などの利益享受のなかった中小商人や手工業者たちは、「同職ギルド」(ツンフト)に結集して、都市貴族と対立するようになっていったのである。

 

グーテンベルクが生まれた一四〇〇年ごろのマインツはこうした状況にあったわけであるが、都市貴族出身であったグーテンベルクの生涯は、まさにこのような階級間の対立抗争によって大きな影響を受けたのであった。

 

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