「人と思想」シリーズ

センチュリーブックス

人と思想15『カント』のまえがき+αを読んでみる

 

カントについて――カントとわたし――

 

カントにひかれて

 

わからぬということが、わかるのはすばらしい!

もう三〇年以上もまえのことである。いまの高校生にあたるころ、わたしは、倫理(当時の「修身」)の先生らしからぬ、倫理(修身)の先生にでくわした。「D先生という先生であった。D先生は、大学(旧制の大学)の大学院で、哲学を勉強しているとのうわさであった。どういう風の吹きまわしか、学校のどういう教育方針にもとづくのか、わたしたちは、この若い先生から、およそおごそかで、近よりがたい倫理を学ぶことになった。だいたい倫理は、校長先生とか教頭先生とかの、年をとったえらい先生が教えることになっていた。

 

当時の日本社会には、いろいろな矛盾が、あらわれてきていた。世は不景気だった。とくに農村は、疲弊してあえいでいた。軍部の中国大陸への侵入と、国内でのファシズムへの傾斜とは、日ましに、強まっていた。こんな情勢のなかでの「倫理」だから、その時間に、どんなことが教えられ、どんな説教がなされたかは、およそ想像がつくであろう。

 

こういう社会情勢のなかにあって、さきのD先生は、最初の時間がはじまると同時に、教科書を非難しはじめた。「文部省検定済」といかめしく書かれた、わたしたちの「修身」の教科書を手にとって、「こんなバカな、インチキなことはない」と、内容を批判し非難しはじめた。それが数回つづいた。これは、ぼくたちにとって、たいへんなショックだった。むりもない。教科書、わけても倫理(修身)の教科書は、われわれにとって、いわば、おかすことのできない絶対の聖書であり、金科玉条であったのだから。「あのD先生は、アカだ!」とのうわさがひろがった。

 

そして、D先生は、けっきょく文部省検定済の教科書のかわりに、西田幾多郎の『善の研究』を使うと言明した。

 

『善の研究』の「第三編 善」をテキストにした授業が、はじまった。だが、二〇歳にもたっしないぼくたち青二才に、そうたやすく『善の研究』がわかろうはずはない。聞いても聞いてもわからなかった。読んでも読んでも、むずかしかった。「てんでわかりません」というと、先生いわく、「そうかんたんにわかっては、西田幾多郎が泣く。わからんことがわかるというのは、すばらしいことだ!」と。なんだか狐にだまされたようで、ますますわからない。ほめられているのか、けなされているのか、さっぱりわからない。……それでも、学期末の試験は近づいた。わかろうとあせればあせるほど、ますますわからない。といって、「わからんということがわかりました」とだけ書いて、すますわけにもいかない。そこで、まだ若かったわたしは、記憶力にものをいわせて、試験はんいの文を、はじめから棒暗記していった。幸か不幸か、試験はパス。だが、こんな学習をされては、それこそ西田幾多郎は泣いていたことであろう。

 

カント哲学との出あい

そして、ここでだいじなことは、この授業を通して、わたしは、「カント」という哲人の思想と、出あうことになったのである。といっても、その思想内容がわからないのだから、じつは、やっぱり、カントはわからんということが、わかっただけだった。D先生は、やたらに、「カント」とか、「カントの道徳律」とか、「人格」とか、「定言命法」とか、「善意志」とかいったむずかしいコトバを口にした。なんだか急にえらくなったような誇りを感じないわけでもなかった。が、けっきょくカントの哲学や倫理思想も、わたしに棒暗記されたものであるにすぎなかった。

 

でも、カントを教わったおかげで、わたしは、カントを、トンカなどとまちがえるような、へまはやらずにすますことができた。というのは、こんな笑いばなしがある。ジンメルという哲学者の書いた『カントとゲーテ』という本があり、その日本訳がでた。訳の標題が、横がきで、『カントとゲーテ』と書かれてあったのを、ある人、「テーゲとトンカ」と読んで、とくとくとしていたというのである。これに反し、わたしは、倫理の時間に、D先生からなんかいとなく、「カント」というコトバをきかされた。そのけっか、まる暗記のカント思想であったとはいえ、トンカとさかさまによむようなことだけは、せずにすんだのである。さいわいなるかな!

 

思えば小学校時代からこんにちまで、わたしにも、あの先生、この先生と、忘れえぬ、印象ぶかい先生が、なんにんかある。D先生は、その一人である。D先生の授業は、たしか週二時間で、たった一年間だけだった。そして、それだけで、D先生とは縁がきれてしまった。いご、顔をあわすこともなければ、文通をすることもなかった。だが、この先生のおもかげは、ふかくわたしの脳裏にきざみこまれたのだった。神聖化され、絶対でもあった修身の教科書――東京のある有名な教授が書いたもの――を、くそみそに批判した先生! 西田幾多郎とかカントとかの思想を、あんな青二才に、あきずに、しかもしんけんな顔つきで教えようとした先生! 「わかりません」といえば、「わかってたまるかい!」とか、「わからないということがわかってけっこう!」とか、いつも、なぞのようなコトバをかえしてきた先生! そういうD先生のコトバやおもかげが、いま、ほうふつとしてくる。

 

そして近ごろになって、やっと、あのころのD先生の意図がわかってきたように思われる。だんだんとゆがんだ道をたどろうとしている日本、そしてそういう日本の歩みにこび、その歩みに迎合しようとするような思想にたいし、先生は、きびしい批判をむけたのだった。先生とよぶには若すぎるほどのこの先生、そのうえ、およそ修身の先生らしからぬこの先生は、そういう批判こそ、もっともだいじな修身であり、倫理であると考えたのであった。権力とか時流におもねらず、こびず、迎合しないばかりか、それにたいするきびしい批判こそがだいじだと、いうのであった。そして、われわれ若いものに、上からあたえられた教科書などを金科玉条としないで、じぶんで考え、じぶんの理性でものごとをみ、なっとくのいかぬ不合理をかんぜんと批判するよう、よびかけたのであった。

 

わたしは、これから、カントを問題にしようとしている。そのカントは、批判の哲学を書き、人間とはなんであるかを問題にし、そして、「みずから考え、みずから探求し、みずからの脚で立て!」と、学生によびかけた。D先生は、そういうカントにあやかろうとしたのかもしれぬ。ただざんねんなことに、青二才は師の心を理解することができず、すべてを、棒暗記の材料にしてしまった。

 

デカンショで半年暮らす

その後、わたしは、東京のある学校(旧制高等師範学校)で、勉強するようになった。いろいろな関係の先輩たちが、新入生歓迎のコンパをしてくれた。いまと同じように、だんだんうちとけてくると、校歌とか、民謡とか、流行歌の合唱がはじまった。そして、手びょうしの「デカンショ」がうたわれた。

 

デカンショ、デカンショで半年暮らす、

よいよい

あとの半年や、ねて暮らす、

よーい、よーい、デッカンショ!

 

先輩たちは、この歌の意味を説明してくれた。デカンショとは、デカルト・カント・ショーペンハウエルのことである。青年、大いに哲学を勉強すべし! と。また、とくいげに、デカルトやカントの有名なコトバをひれきして、学のあるところをみせた。が、じっくり話しあってみると、反省じみた顔つきで、「とにかく、ドイツ語と、カントだけは、しっかりやっておけよ。……でないと、おれみたいに後悔するぞ!」と忠告してくれた。ピンとせまってはこなかったけれど、先輩の顔は、しんけんだった。

 

もちろん、「デカンショ」は、ほんらいは、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」ではなく、兵庫県篠山付近の盆踊歌であったらしい。農民の盆踊歌であったとするなら、デカルト・カント・ショーペンハウエルの意味でなかったのは、たしかであろう。おそらく「出稼ぎしょ」の意味であったろうといわれている。

 

ただ、問題は、当時(明治の末年から、大正・昭和にかけて)の学生たちが、デカンショを、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」の意味で、高唱していたということである。それは、デカルト・カント………といった人の思想、つまり、西洋近代の哲学論にあけくれていた、当時の学生気質(かたぎ)を、ほうふつさせるのである。教室でも、仲間どうしの議論でも、そして、コンパでも、「デカルトいわく……」、「カントによれば………」が、たえず口にされたことであろう。まさに、日々が、デカンショで暮れていったことであろう。

 

毎にち、カント、カント、カント

授業がはじまった。わたしは、文科のなかの、倫理・教育・法経を専攻するクラスに属していたので、そうした方面の授業が多かった。ところが、おどろいたことには、哲学や倫理学の授業はもちろんのこと、教育学の時間でも、さらに法学通論の講義でも、「カントいわく」「カントによれば」が、しきりととびだしてきた。わたしは、めんくらった。そして、首をかしげた。なぜ、カントが、そんなに問題になるのか、と。

 

ある先生はいった。「カント以前の哲学は、みんなカントへ流れこみ、カント以後の哲学は、すべてカントから流れでた」と。そういわれてみれば、諸先生が、「カントいわく」を口にするのも、なるぼどと了解できたのだった。かつて、お説教づくしの修身のかわりに、カント倫理学を手づるにして、善にたいする考えかたや批判態度の訓練をしようとしたD先生の気持ちが、わかってきた。しかし、もちろん、カント以前の哲学が、どのようにしてカントへ流れこみ、どのようにしてカントから流出していったかは、わからなかった。とにかく、わたしのばあいは、「カント、カントで半年暮らす、よいよい………」であった。

 

カントはドイツ人だから、カントの話がでると、さかんにむずかしいドイツ語が、口にされ、黒板に書かれる。それは、やむをえないとしよう。ところがどういうわけか、哲学や倫理学や教育学の講義には、やたらにドイツ語がとびだしてき、そしてそれが黒板に書かれる。黒板は、ドイツ語でいっぱい。まだろくにドイツ語を習っていないどころか、ABC………のアルファベットがはじまったばかりだ。カントいわく、ヘルバルト(ドイツの教育学者)いわく、の内容がむずかしいうえ、さらにそれがドイツ語の原語を使って説明されるのだから、ますますわからない。新入生たるもの、たまったものではない。「ドイツ語とカントはしっかりやっておけ!」との上級生の忠告が、もうはじめから身にしみるようだった。

 

もちろん、N先生はこういった。「デカルトいわく、カントいわく、ヘルバルトいわく……は、『デカルト、カント、ヘルバルト……は、こういったということだ』にすぎない。『こういったとさ』にすぎない。つまり、だとさだ。だから、だいじなことは、諸君が、みずから考え、みずからの脚で立つことである。哲学(フィロゾフィー)とは、哲学をおぼえるのでなく、みずから哲学すること(フィロゾフィーレン)なのだ」と。そういいながら、ただちにまた「カントいわく……」がはじまる。だから、「カントいわく」の内容が理解できないかぎりは、みずからフィロゾフィーレンするわけにもいかないのである。

 

いっきょりょうとく原書でカントを

「カントいわく……」「……」「……」……をきかされ、ドイツ語に苦しめられ、英語(語学の時間のほか、教育史の演習や西洋史の授業も、英語の原書)に時間をとられ、無我夢中で一年間は終わった。

 

春休みがおとずれた。わたしは、一大決心をした。ひとつ、ドイツ語の原書で、カントを読んでみよう、と。カント哲学の勉強ができ、同時にドイツ語の練習にもなるというなら、まさに、いっきょりょうとく(一挙両得)である。

 

わたしは、”IMMANUEL KANT:GRUNDLEGUNG ZUR METAPHYSIK DER SITTEN”(イマヌエル=カント『グルントレーグンク=ツア=メタフィジィーク=デア=ジッテン』)という、みどり色の、一冊の原書を手にいれた。世に「ビブリオテーク版」といわれている、あざやかなみどりで装ていされた、きれいな本である。そのときの感激は、たとえようもなかった。これが、世界一の哲学者カントの原書だと思うと、手にしただけで、心がおどってくるのだった。それこそ、じかにカントにふれ、みずからの力でこれを読破し、これを理解し、これをわがものにしてやろうと、胸がたかなるのを、禁じえなかった。この本の題名の意味は、「道徳哲学のための基礎工事」とでもいうべきものである。当時、日本訳は、『道徳哲学原論』(安倍能成・藤原正訳、岩波書店刊)という名で、世にでていた。わたしは、同時に、この邦訳を買いもとめた。(こんにちでは、さらに、『道徳形而上学の基礎』、『道徳形而上学原論』などという名の訳もでている。)原書と訳本の二冊を手にして、意気ようようとふるさとへむかった。なにか、すばらしい恋人か宝かを、手に入れでもしたような思いで。

 

しかし、やっとドイツ語の初級を終わったばかりのものにとっては、この本は、たいへんな難解だった。だいいち、単語がわからない。わたしは、どのページの余白もいっぱいになるほど、辞書を引いて、単語の意味を書きこんだ。訳をたどって、ともかくも一文章、一文章をたどっていった。一日じゅう、朝から夜おそくまで机にかじりついていても、なにほども進まない。この本(『クルントレーグンク』と略称されている)は一文章が長いことで有名である。覚悟はしていたが、それでも、ときに一ページ近くもの文にでくわすと、眼と頭がくらくらするようだった。まさに、難行苦行である。しかし、わたしにとって、ところどころにオアシスがあった。それは、かつてD先生から、またちかくはN先生から教わり、すでに知っていた名句にであったときである。「この世界ではもとより、およそこの世界の外においても、無制限に善とみなされることができるようなものは、善意志いがいには、まったく考えられない……」こんな句を見つけだしたときには、なつかしい友にでもあった思いで、カントじしんの直接のコトバを口ずさむのだった。

 

悪戦苦闘のすえ、春休みの終わるころ、とにかく読破した。快哉(かいさい)をさけばずにはおれなかった。この喜びが、家の人たちにわかろうはずはない。赤飯をたいてもらうわけにもいかない。じぶんひとりで、ふるさとの山野を歩きまわった。まるで、天下でもとったような思いにみたされて………。

 

はげまされたわが心

むずかしかった。ドイツ文の構造は、むずかしかったが、とにかく訳を参照にして、なんとか、じぶんなりに理解した。しかし、内容となると、そうかんたんにはいかない。まだわからないこと、なっとくのいかぬことは、ずいしょにあった。

 

しかし、一ページ、一ページとすすんでいくにつれ、なにか、力強く、わたしの心にせまってくるものがあった。カントは、若いわたしに、こんなふうにうったえてきた。

 

理解力・機智・判断力などの精神的才能は、なるほど望ましいものである。勇気・果断・堅忍不抜(けんにんふばつ)などの気質の性は、なるほど善いものである。また、権力・富・名誉はもとより、健康、身心の安泰、みちたりた境遇など、そうじて幸福とよばれるものも、善いものであり、望ましいものである。しかし、それらを、無条件に善いものというわけにはいかない。それらを、人間にとって、いちばん価値のある、望ましいものとみなすわけにはいかない。人間にとっていちばん価値があり、人間に人間らしい尊さをあたえるものは、善き意志である。善意志こそ、この世界ではもとより、世界のそとにおいても、無条件絶対に善とみなされうる、ただひとつのものである。それゆえ、もし、われわれの意志が善でなかったら、さきにあげたせっかくの才能や性質も、きわめて悪い有害なものとなりかねない。知恵があり、勇気があり、冷静である悪漢ほど、おそろしくて憎むべきものではないか。権力・富・名誉などといった幸福にめぐまれた人が、もし善意志を欠くならば、どういうことになるであろうか。かれは、得意になり、ときには思いあがって世に害悪をおよぼすであろう。わたしたちは、純な善意志のおもかげをつゆ持たぬ人が、この世に栄えていくのをみて義憤を感じないであろうか。あさましい人間として、その人を蔑視するではないか。まさに善意志こそ、いっさいをこえて光りかがやく尊厳であり、人間を人間たらしめる本質である。人格を崇高なものとする根源である、と。

 

わたしの才能は、貧弱だった。わたしの性質は、気が弱く、優柔不断だった。わけても小さいときから体が弱かった。あまり、権力や名誉にあこがれはしなかったけれど、また、巨万の富がほしいとは思わなかったけれど、貧乏はつらかった。身心の安らかさや、落ちついた境遇がほしかった。当時の疲弊した暗い農村のなかにそだったわたしの心は、かずかずの欲求不満にみたされていた。

 

カントの『グルントレーグンク』は、人間の尊厳や崇高さが、善意志のなかにあることを、くりかえし教えてくれた。力強く、わが心にうったえてくれた。暗かった青年の心に、光りが、さしこんできたようだった。哲人の書を読破しえた喜びは、同時にまた、行手になにか希望を見つけだした喜びでもあった。

 

 

わたしに投げかけられた問題

 

なんじじしんに不純はないか

しかし、他面、カントのコトバは、わたしの心の奥底へ、いわばことを審判する神の声のように、くいこんできた。それは、はたしてわたしじしんの意志が、純粋に善であるかどうかと、わたしの心にせまってくるのであった。そしてそれが、わたしじしんの不純さを自覚させ、かよわい青春の心を、苦しめるのだった。

 

『グルントレーグンク』によれば、絶対的な価値をもつ善意志、人間の尊厳の根源である善き意志とは、純粋に理性の声にしたがうことであった。逆にいえば、この世の幸福をもとめようとする人間の欲(本能・衝動)によって、意志が動かされたり、影響されてはならない、というのであった。幸福な生をいちばんだいじな目あてとするような生きかたは、カントによれば、悪である。人間のなすべきこと(道徳的な善)は、幸福追求ではなくして、幸福をさずかるにふさわしいということである。幸福をうけるにふさわしいとは、幸福を追うことではなく、むしろ逆に、幸福を意にせず、ときには幸福を犠牲にしても、ひたすら純粋に、理性にもとづいて行動し実践することである。生きたいから生きる、好きだから愛する、いっぱんに、こうしたいからこうする、というのでは、自然の性(本能・衝動)のままに動いているにすぎず、動物とかわりはない。そんなことでは、人間の尊さや価値は、どこにも見いだされないであろう。問題は生きたくない、死にたい、にもかかわらず、理性の命ずるところにしたがって、けつぜんと、義務感から生きぬこうとすることである。好きではない、にもかかわらず、愛すべきがゆえに愛することである。まさに、「なんじの敵を愛せよ!」である。『グルントレーグンク』は、こういうきびしい理性主義ないし「義務感からの実践」を、これでもか、これでもか、というほどに、わたしにせまってくるのだった。

 

わたしも人の子であり、青春の血に燃える青年であり、人間であった。おませでもあったわたしは、また、多情多感の若ものであった。権勢とか、カネもちにはそうミリョクがないばかりか、そういう人に義憤をさえ感じたが、しかしひとなみの幸福はほしかった。愛する女性(恋愛)がほしかったし、愛する女性を愛したかった。そのために若い心は動揺した。しかし、生涯、独身であったカントは、それを許しそうにはなかった。「清らかな愛」などと、自分で弁解し、自分でなぐさめてみても、だめだった。すくなくともじぶんのばあいは、義務からの愛どころか、人間の性(さが)にもとづく根強い欲だ! カント流にいえば、わが愛は、不純いがいのなにものでもないではないか! といって、わたしは、この内の思いを捨てさることもできないのである。義務からかの女を愛しているのではないし、義務からかの女を愛することはできない。わたしは、たちきれぬわが業(ごう)に、悩み苦しんだ。

 

わたしは、『グルントレーグンク』の最後の余白に、読み終えた日付と、読破に要した日数とを記入した。読み終えた感激や、カントの崇高な考えかたを、たたえた。そして、つけくわえた。「わたしは、カントから遠くへだたっている。純粋な善・善意志・理性から遠くはなれて、デモーニッシュな情欲・感性・恋愛のなかにもがいている。この世の幸福をもとめてあくせくしている。なんてくだらない人間なんだろう!だが、この両面、理性と愛、善と幸福の二面は、調和することができないものだろうか………」と。

 

わいてきた学問的情熱

休暇のさいには、いつでも『グルントレーグンク』を持参して帰省した。二回目、三回目、四回目……と、読破を記念する日付の回数は、ふえていった。それがふえるにつれ、書かれていることの内容や順序が、本を開いただけでわかるようにさえなった。

 

わたしの関心は、おいおいと、カントを学問的に研究してみようという方向へ、向いていった。日本ででていた、カント研究に関する著作をしらべた。経済のゆるすかぎり、そうした本を買い集めていった。当時(昭和一〇年ごろ)は、まだ、神田や本郷の古本屋をぶらつけば、こうした本が、たいてい見つかった。安いレクラム版(岩波文庫のような原書)の『実践理性批判』(『グリティーク=デア=ブラックティッシェン=フェルヌンフト』)、『永久平和のために』、『たんなる理性の限界内の宗教』などの原書を手にいれて、胸をおどらせた。カントの著作にかんしての訳も、だんだんとふえていった。

 

カントとは、いったいどういう人間なのか。まず、わたしは、カントの伝記をあれこれしらべては、うなずいたり、感心したりした。時計のようにきちょうめんであったという、カントの日常生活を、まねた。思想内容もおいおいわかってくるにつれ、わたしは、思わず、「カントいわく……」「カントでは……」を口にするようになった。こうして、ばんじ、カントにあやかろうとした。こんどは、諸先生がたから教えられるカントではなく、わたしじしんの自発的な意志による、「カント、カントであけくれ暮らす、よいよい………」であった。わたしは、カントのとりこになってしまった。

 

大学生活をおくるようになったころには、わたしは、カントを、卒業論文のテーマにすることに決めていたといえよう。カントが、わたしじしんのなかでしめていた場を思えば、卒論がカントになるのは、とうぜんであった。

 

あらたに、ビブリオテーク版の『実践理性批判』(クリティーク=デア=プラックティッシェン=フェルヌンフト)や、『純粋理性批判』(『クリティーク=デア=ライネン=フェルヌンフト』)や、『判断力批判』(『クリティーク=デア=ウアタイルスクラーフト』)を買いもとめて、本格的な勉強をはじめた。もちろん訳を参照しながら。同時に、哲学史のなかにおける、カントの位置や役わりについても、勉強しなくてはならなかった。つまり、カント以前の哲学が、どのようにしてカントへ流れこみ、カント以後の哲学が、どのようにしてカントから流れでたか、ということを。

 

T先生、M先生、K先生などの、カントにかんする講義や演習にでた。助手のIさんは、カントにかんするすぐれた卒論を、書かれたひとだった。いかにもカント研究者らしい、誠実で、純で、まがったことのきらいな人格の持主だった。このIさんから、身近かで、いろいろな教えをうけることができた。わたしは、このうえなくよき師、よき先輩に、めぐまれたといえよう。

 

哲人カントも人間であるはず

そもそもわたしが、カントの考えかたに感激したのは、つぎのことだった。すなわち、この世の幸福を追うのでなく、その幸福をうけるに値すること、つまり、道徳的義務の命令(純粋な理性の要求)にしたがうこと、それを、人間の尊さの源泉としたことだった。

 

しかし、いたらぬわたしは、どうしても、ひとなみのこの世の幸福がほしかった。また、女性との愛情(恋愛)に心がひかれるのを、たちきることができなかった。なんてくだらない人間だろうと、みずからわが身を叱ってみた。だが、好きな人に、おのずから向いていく愛は、大きく強くわが心を動かさないわけにはいかなかった。

 

理性と欲求、義務と快楽、正義と愛、禅僧的な学的修業と恋愛、なすべきこととしたいこと、…………この二つのあいだのカットウに、苦悩したのであった。

 

しかし、カントだって、人間であろう。人間であるかぎり、わたしがいだいたような苦悩が、カントにぜんぜんなかったはずはなかろう。たしかに理性は、人間にのみ許された尊いものであろう。しかし、この世の幸福をもとめてやまない欲求も、もし神がそれを人間にさずけたとするなら、神の眼には意義のあるものであったはずだ。

 

善と幸福

理性と欲望、善と幸福、幸福に値することと幸福にあずかること、両者は両立できないものだろうか。両者は調和できないのだろうか。もし両立し調和するとするなら、それは、どういう姿、どういう形で可能なのであろうか。それが、いまわたしにとって問題であった。人間くさい人間、わけてもわたしのようにくだらない人間が、人間でありながら、人間の尊厳をあらわしていく道はないのか。きびしく尊厳なカント哲学は、わたしのような人間にも生きる希望を、あたえてはくれないだろうか。

 

たしかにカントは、なすべきかいなかを、幸福になるかどうかによって決めてはならない、といった。しかし、幸福そのものがいけないとはいっていない。むしろ、幸福をうけるにふさわしい姿で、幸福にめぐまれることを望んでいるともいえよう。

 

『形式から内容へ』、それが、わたしの卒論の題目となった。それは「善意志から幸福へ」といいかえてもよかった。『形式から内容へ』という、わたしの論文は、善意志と幸福との関連を解明しようとしたのである。いうまでもなくわたしは、そのことによって、わたしの、この世での生、この世での幸福、この世での愛、それらの正しいありかたを求めようとしたのである。

 

 

カント的精神はいずこへ

 

理性的でない時代の流れ

だが、日本の現実は、ますます暗くなっていった。不景気がつづき、農村が疲弊し、政治が堕落していった。ファシズムないし軍国主義の風潮が、瀰漫(びまん)していった。中国とのいざこざがだんだん大きくなり、正義の名のもとに、中国への侵略がだんだん拡大されていった。そとでは、満州事変や日華事変がおこり、日独伊間の防共協定や軍事同盟が成立していった。うちでは、五・一五事件や二・二六事件がおこり、文化や思想の統制がはじまり、ついに、国家総動員法が発令されていった。学校や在郷での軍事教練は強化されていった。たんに若い青年だけでなく、中年の人たちまでも、召集をうけて、入隊していった。中国の戦場へ派遣される軍隊は、増加していった。そして、ある人たちは、戦死して、骨となって帰ってきた。太平洋戦争前の、まったく暗たんたる時代である。

 

多くの人たちや著作が、思想的な弾圧をうけた。カントのいう理性が、だんだんと失われていく時代であった。カント学者であり、『純粋理性批判』の訳者でもある天野貞祐さんの、『道理の感覚』は、わたしに強い感激をあたえてくれた。道理(理性)の存在とその勝利を確信する。この本の著者は、道理の感覚によって、時勢をするどく批判した。それは、わたしたちにとって、とくにカントを勉強しているわたしにとって、りゅういんのさがる思いをさせてくれた。しかしその本も、弾圧をうけ、著者は自発的に、発行の停止を申し出なくてはならなかった。カントの「永久平和論」などは、非現実的な夢となってしまった。

 

デカルトの、「われ思う、ゆえにわれあり」という考えかたは、近代人のものの見かたの、シンボルであった。しかし、それも、いま、国家という強大な怪物のまえでは、たわごとのごとくか弱いものにすぎなかった。こうして、「デカンショ」は、たとえ歌われたにしても、ほそぼそとした声での、かつてのよき時代へのノスタルジァ(郷愁)となってしまった。

 

カントにかわって、フィヒテの、愛国的な『ドイツ国民に告ぐ』がはやった。フィヒテは、カントの自由哲学をうけついだ哲学者で、当時(一八世紀の末から一九世紀のはじめ)のドイツの統一を念願する愛国者であった。『ドイツ国民に告ぐ』は、ナポレオンの占領下でなされた。愛国的な講演である。日本は、占領されてはいなかった。むしろ逆に、満州その他を占領していた。それでも、大陸への派兵は、やむにやまれぬ、いわば、われわれの生存のためのぎりぎりの線だと、政府やニュースや新聞は、宣伝した。そこでは、フィヒテ流の「日本国民に告ぐ」が、必要であったのかもしれぬ。とんでもない利用をされたものだ!と、ドイツの地下で、フィヒテは苦笑していたかもしれない。いや、嘆いていたかもしれない。

 

風にそよぐ葦

また、ヘーゲルがはやった。「国家は、世界史の審判にたえなくてはならない」というヘーゲルの考えかたは、さいしょは、時局を批判する意味で、喧伝(けんでん)された。日本の歩みが、世界史の審判に是認されなくてはならないとして、ゆがんでいく方向を批判しようとした。しかしのちには、日本の歩みこそ、世界史の審判にたえるどころか、世界史の新しい方向をしめすものだ、というふうに解釈されていった。こうして、ヘーゲルの考えかたは、対外的・対内的国策を哲学的に基礎づけ、美化するために利用された。ヘーゲルの『法の哲学』のなかに、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という有名な句がある。それにもとづいて、日本の現実が、理性的で正しいものと吹聴された。また、『法の哲学』は、国家こそは、地上における神であり、自由の実現であり、したがって、ほんとうに理性的なものである、とした。さらに、愛国心をたたえ、戦争の高速な意義を論じた。その本のなかで、ヘーゲルはいう。戦争によって国民の健康が保たれ、民族精神の固定化が防止される。戦争こそは、民族を強くし、むしろ国内における安静・統一をもたらし、平和からくる腐敗・墜落を防ぐものである。国家は、動的に(弁証法的に)発展していくものとして、戦争をもたないわけにはいかない………と。中国での侵略戦争にあけくれる日本。そういうとき・ところのなかで、この国家観ないし戦争観が流行したわけは、いわずとも明らかであろう。

 

いっそう時局が進展するとともに、ヒトラーの『わが闘争』とか、ローベンベルクの『二〇世紀の神話』が宣伝された。まもなく第二次世界大戦がはじまった。

 

そのころのことだった。わたしは、山手線の電車のなかで、ある旧制高校の一学生が、岩波文庫の『純粋理性批判』を、読んでいるのを見つけた。あれっ! と、自分の本でも読まれているように、おどろいた。わかるのかしら? ともいぶかったが、つよく胸をうたれ、頭のさがる思いがした。この学生は、明日は応召してでかけていくかも知れないのに……。

 

だが、「考える葦」(パスカルが、思索する人間をたたえたコトバ)の多くは、とうとうとして、「風にそよぐ葦」へとかわっていった。そして、恥ずかしいことには、かつて、カント的な理性を口ぐせにしていたわたしも、この、時の流れの誤りを理解することができなかった。批判し抵抗することもなく、「国策になびく葦」となってしまった。まことにカント研究者の名に値せぬ、カント研究者であった。なさけない、恥ずかしいカント研究者といわねばならない。

 

カントで、めしを食う男

多くの人が、あるいは国外の戦場で、あるいは国内の空爆下で、あるいは飢えで、死んでいった。身近かな、あの人、この人も帰らぬ人となった。疎開していたわが家族は助かったけれど、東京で、食うものも食わずにわたしを世話してくれた「おばさん」は、三月九日の大空襲で、焼け死んでしまった……。だが、わたしは生き残った。九死に一生をえて。

 

日本は敗けた。戦争は終わった。空には、侵入した米空軍が、勝利者として、爆音をとどろかせていた。思いもかけぬことだった。浦和の、ある好意ある一家の世話をうけていたわたしは、ここの一室から、うつろな気持ちで、この爆音をきいていた。心身ともに、生きる力もないほどに疲れはてていた。

 

ようやくにして、ともかくも立ちなおった心は、カントを求めた。やっぱり、心のふるさとが、なつかしかったのであろう。いちばん大じにして、さいごまで身のそばにおいていたものは、みんな焼失してしまった。だが、ふしぎにも、疎開させていた、カントの三批判書(『純粋理性批判』・『実践理性批判』・『判断力批判』)の原書など、大じなものが残っていた。

 

わたしは、『純粋理性批判』の原書を、ぼつぼつと、読みはじめた。読んでいくうちに、心のふるさとは、病みつかれた心を、だんだんと回復させてくれた。意欲もでてきた。ニコライ=ハルトマンというドイツの哲学者は、こんな本は、一日に一ページ以上を読んではならない、といったということである。じゅうぶんに考えるよう、教えたのである。だが、そんなことをしていたら、七六六ページあるこの本を読むだけでも、二年間あまりもかかってしまう。そこで、わたしは、プランをたてた。なん日間で読み終えるというプランを、さきだたせた。そして、一日に読まねばならぬページ数をわりだした。わりあての読了をきびしく守るよう、ちかった。だが、これは、たいへんな苦業であり、疲れた身に、ひどくこたえたようであった。

 

とにかく、「カント、カントでひねもす暮らす……」の日が、またはじまった。わたしは、すでに、数年前から、教師として、哲学や倫理学を教えていた。しかし、戦争中、とくに末期は、授業らしい授業はほとんどできなかった。学生は、今日は工場へ勤労動員されていったかと思うと、あすは召集をうけて軍隊へむかわねばならなかった……。が、いま、戦争が終わり、食うや食わずのなかで、ともかく授業をはじめることができるようになった。

 

わたしは、カントの『グルントレーグンク』を材料にして、授業をはじめようとした。が、学生には、ドイツ語の力はなかった。やむなく、アボットの英訳(T.K.ABBOTT;FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF THE METAPHYSIC OF ETHICS BY IMMANUEL KANT)をテキストにした。それでも、学生は、難解のようであった。

 

ある友人がひやかした。「カントでめしが食えるとは、きみは、けっこうな男だね。カント先生にお礼をいえよ」と。もちろん、わたしの机上には、もう一〇年近くも(戦争末期の一年間をのぞいて)、カントの肖像が、飾られてあった。

 

悔い・わび・反省

ただ、戦争が終わってみて、わたしは、自分じしんのとってきた態度について、深い悔いとわびの念に、責められねばならなかった。ゆがめられていく時の流れを正すために、わたしの、カントを中心にした勉強は、どれだけの寄与をしたであろうか。わたしは、政府から、ラジオから、また新聞から流されてくることを、そのまま信じこんで、この戦争の性格を見ぬくことができなかった。したがって、戦争にたいして、なんらの、正しい批判や抵抗を向けることができなかった。とうぜん、学生にたいしても、正しい認識や批判をのべることは、できなかった。それは、カント哲学の徒として、恥ずべきことではなかろうか。教師として、申しわけのないことではなかろうか。

 

間違ったのは、わたしだけではなかったように思う。カント、ヘーゲル……などのすぐれた研究者として、わたしが日ごろ尊敬さえしていた人たちのうち、ある人たちは沈黙した。ある人たちは、権力に屈した。ある人たちは、権力に追ずいした。ある人たちは、それに迎合した。ある人たちは、おもねった。いったいこれは、どういうわけなのだろうか。哲学者が、こういうありさまだとするなら、哲学の意義はどこにあるのだろうか。

 

敗戦のあとで、戦争に批判や抵抗をしめした人、またそのために何年かを牢獄ですごした人、獄死した人、さらには殺されさえした人……などが明らかにされてきた。そのなかには、名もなく、学のないような人もいた。が、また、学問的な知識や理論にもとづいて、批判や抵抗をした人もいた。そういう人の多くが、あるいは社会科学者であり、あるいは社会主義者や共産主義者であり、あるいはマルクス主義者であったというのは、いったいどういうわけなのだろうか。おそれられ、悪者あつかいにされたアカが、反戦と平和を主張し、忠良なる臣民とされた人が、その逆であったとは! カントは、すでに、一五〇年もまえに、永久平和論を、主張していたではないか!

 

わたしは、みずからを悔い、みずからの誤りをわび、そして、みずからの研究方法を反省しないわけにはいかなかった。

 

わたしは、そしてまた、いままでの日本の哲学者たちは、頭のなかだけで、カントやフィヒテやヘーゲルを、解釈していたのではなかろうか。日本だけではない。哲学の国ドイツは、性(しょう)こりもなく、二度もあんな戦争をおこして、世界をこまらせた。ドイツの哲学もまた、意識のなかだけのことで、現実を批判し是正するという力に、欠けていたのではなかろうか。

 

ようするに、哲学と、現実の政治権力・経済・社会などとの関係の問題である。たとえば、カント哲学は、そのころのドイツの政治や生活や社会状況と、どういう関係にあったのであろうか。またそれは、その後の哲学にたいしてだけでなく、その後のドイツ社会にたいし、どういう影響をおよぼしたのであろうか。そして、われわれ日本人に関していうならば、カント哲学はどういうわけで日本にとりいれられ、なぜ流行し、どういう影響をおよぼしていったであろうか。カント哲学が、解釈されるだけで、批判する力となりえなかったのは、なぜであろうか。そしてまた、市民社会ないし資本主義の矛盾がうんぬんされ、社会主義社会が台頭してきたこんにち、カント哲学そのものは、はたしてどういう意義をもちうるであろうか………。

 

わたしは、『グルントレーグンク』を読んでいらい、カント哲学を、煩悩に苦悩する人間の立場から、理解しようとしたのだった。そして、戦後の悔いとわびと反省のなかから、カント哲学を、社会の発展、歴史の歩み、という立場から考察しようとした。この小著もまた、そういうわたしの苦悩と、悔い・わび・反省との、ささやかなあらわれであるともいえよう。

 

目次

カントについて ――カントとわたし――

カントにひかれて
わたしに投げかけられた問題
カント的精神はいずこへ

Ⅰ カントの住んだとき・ところ

期待された不自然 ――片すみの、東プロイセンでの物語――
殿さまの時代からフリードリヒの世紀へ
住みなれた、ケーニヒスベルク

Ⅱ 哲学研究にささげられた生涯

つつましい一市民のせがれ
わが道を行く、大学教師
思想遍歴のスケッチ
老衰とのたたかい
人間カントのおもかげ

Ⅲ 人間とは何であるか ――カント哲学が探究したもの――

批判哲学の課題
人間は何を知りうるか ――『純粋理性批判』――
人間は何をなすべきか ――『実践理性批判』――
道徳と自然との調和 ――『判断力批判』――
人間は何を望んでよろしいか ――『たんなる理性の限界内の宗教』――
『永久平和のために』
けっきょく、人間とは何であるか ――『実用的見地における人間学』――

おわりに ――カントを活かす道――

カント年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ カントの住んだとき・ところ

 

期待された不自然――片すみの、東プロイセンでの物語――

 

欧州東北のはずれ

いまからおよそ二四〇年まえ、すなわち、一七二四年の春、哲人カントは、ケーニヒスベルクでここの声をあげた。ケーニヒスベルクだって? と、人はいぶかるであろう。むりもない。

 

ヨーロッパの地図を開いてほしい。ベルリンの東北、ワルシャワの北方、バルト海にのぞんだところに、カリーニングラードという都市がある。いま、ソ連領になっているこのカリーニングラードこそ、カントのふるさと、ケーニヒスベルクなのである。

 

カントは、ヨーロッパ東北の、この片すみの地に生まれ、しかも、この地に強い愛情をもった。かれは、八年余(一七四七~五五)の家庭教師の間を除いて、ほとんどこのケーニヒスベルクをはなれることがなかったといわれる。カントにとって、ケーニヒスベルクは、いわば、ただひとつのふるさとであった。ある人(クルト=シュターフェンハーゲン)は書いている。カントが、みずからの人格を、またみずからの偉大な思想をつくりあげたのは、このケーニヒスベルクにおいてであり、この都を通してであった。かれは、まさに全身全霊をもって、ケーニヒスベルクを愛した。かれの偉大な人生は、この都のものである、と。後でのべるつもりだが、カントじしんも、この都のすばらしさを書いている。

 

そこで、わたしたちは、まずなんとしても、カントをとりかこむエートス(カントの住みなれたふるさとの雰囲気、いっぱんの生活感情ないし生活意識)を、みてみる必要があろう。

 

あわれな家庭教師

もう一〇年ほども前になるであろうか。「家庭教師(ホーフマイスター)」という劇が、日本で演じられたことがある。これは、本国のドイツでも、また日本でもなかなか人気のある作家ブレヒト(一八九八~一九五六)が、レンツの「ホーフマイスター」を、改作したものであった。

 

レンツ(一七五一~九二)というのは、一八世紀のドイツの劇作家で、カントの講義をきいたこともあった。みずから家庭教師をした経験もあるレンツは、東プロイセン(ケーニヒスベルク付近の地方)を舞台にしたこの戯曲のなかで、当時(一八世紀後半)の、この地方の、社会的・道徳的・宗教的な雰囲気を、なまなましく描いたのであった。

 

わたしは、レンツの原作と、ブレヒトの改作との違いを、じゅうぶんしらべてはいない。が、この改作劇では、次のような諸点が、わたしに強い印象をあたえたのであった。すなわち、そのころの貴族階級の封建的な意識。召使とか家庭教師とかの身分が受けねばならなかった隷従的(れいじゅうてき)な取りあつかい。情欲のために罪をおかさないではいられないような人間、したがって霊と肉との葛藤に苦悩しないわけにはいかない人間の姿。支配階級に気にいるため、人間的情欲の根元をたちきり(去勢し)、バックボーンを売りわたしてしまうことによって、パンを得ようとした教師の像。そういうなかに姿をあらわしてくるカント哲学、などが。そしてブレヒトは、この作によって、ドイツの教育がたえず権力に屈従し、支配階級の手先きとなってしまう、ドイツの悲劇のいろはを表現しようとしたのであった。いうまでもなく、日本の演出者は、日本のなかにもあるこの悲劇を、訴えようとしたのであろう。

 

この、あわれな家庭教師の物語を、すこし、追ってみよう(岩渕達治訳による)。

 

青春とは罪なもの

場所は、インステルベルク(ケーニヒスベルクを流れるプレーゲル川の上流)の、少佐家の娘、グストヘンの部屋。顧問官(少佐の兄)の息子フリッツは、従妹のグストヘンと強い愛の誓いをかわしているところを、父に見つかってしまう。

 

「さあ、すぐみんな言ってしまいなさい。ここで何をしとった?………いいかフリッツ、………いまだいじなことは、ハレに行って勉強して人類の光明の担い手になることだ。おまえは、まず、この娘にふさわしい者にならなければいかん。そして、ほんとうの自由がなんであるかを、会得しなければいかん! このような自由こそ、人間を禽(きん)獣と分かつものなのだぞ。禽獣はしたいことをする。ところが人間は、それをせんからこそ自由なのだ。わかったか、フリッツ!(フリッツ、はずかしそうにうなづく。)だからわしは、おまえたちに、別に人から強制されず、自由意志で、どうしてもそうすべきであるような型で、お別れをしてもらいたいのだ。おまえたちのあいだで取りかわされる手紙は、かならず公明正大なものでなければならん。……考えることは自由だ。しかし書いたものは、かならず検閲する。……じぶんのしたいように、人がだれもみていないときにするようなのじゃいかん。……いいか。理性こそわれわれの厳正な支配者なのだよ。」

 

ザクセンのハレ大学で学ぶフリッツの友人ペートスは、カントの信奉者である。ペートスの主任教授ヴォルフェンが、カントの反対者であるため、ペートスは、試験がうからない。かれの友人ボルベルクは、「永久平和論」などをとなえているカントは、ぐまいで、大まぬけで、キ印じゃないかな、と、カントをあざける。だがペートスは、ゆずらない。かれは、奉公人として、とくに国王の奴隷として身をささげておれば満足しているドイツ人の奴隷根性を、批判する。カントにたいする反対も、ときを告げるオンドリをにくむ去勢鶏のようなものだ、という。しかし、それぼどのかれも、愛するかの女との結婚と就職のために、カント哲学をしばらくおあづけにして、妥協する。つまり、「戦争は万物の母なり」と書き、無事、たのしい小市民生活へはいりこむというわけ。

 

少佐家の家庭教師となったロイファーは、平身低頭してつかえるが、だんだん奉公人あつかいをされ、給料はへらされていく。娘のグストヘンと、グストヘンをも教えることになったロイファーとは、だんだんと肉体的に近づいていってしまった。帰省しない恋人フリッツを待ちきれないグストヘンは、ロイファーを代用にしようとしたのである。

 

少佐家の一行に追われ、射殺されようとしたロイファーは、近傍の村の学校(分教場)へ逃げ、そこの校長先生に助けられる。そこで、校長先生の助手をして暮らすことになる。ここには、かれに心の愛をそそいでくれる、養女のリーゼがいた。青春の情熱にうちかてなかったロイファーは、リーゼを抱ようして、キスし、見つかってしまう。追放を申しわたされたロイファーは、自分を責めつつも、なげくのである。

 

「しかし人間であるってことが、そんなに呪うべきことだろうか。この感情がどんなに肉的だろうと、どうしてそれが不自然だというのだ。おれを石につくらなかった自然こそ呪われよ、こんな不自然なものをつくりやがって。いったい、おれのどこがわるいんだ。馬丁だって男であることが許されているじゃないか。だのに、おれにはそれが許されないのか。……」

 

期待される教師像

この自然の矛盾のゆえに、追放されて職にありつけないロイファーは、みずから自然にそむいて、ことを解決しようとする。かれは、去勢して、自然のあたえた男性を否定したのだ! 校長先生から、こうほめられはしたが………。

 

「……りっぱな奴だ、おまえを抱かせてくれ、すばらしい、貴い戦士だ! 道はひらけた。この道をたどって行けば、おまえはきっと教育界の光明になれるだろう。教育界の明星と仰がれるだろう。……」

 

「……きみはいま、おのれのうちのあらゆる反対を滅し去り、すべてを義務の命ずるところに従わしめたのだろう? いまからきみは、後顧のうれいなく、人を自分どおりに教育することに専心できるわけだ。これ以上の進歩は望めんな。……前途は洋々たるものだ。」

 

おかげで、いまや失業の心配も、また情欲の心配もなくなったロイファーは、恋人リーゼの愛をうけて、精神的な結婚をする。「だめなんだよ! そいつはできない相談なんだよ」と、校長先生を慨嘆(がいたん)させながら。

 

エピローグ(おわり)に、家庭教師のロイファーになった俳優は、幕の外で、観客にこう訴えるのである。

 

「これがこの喜劇の結末でございます。みなさまはきっと、いささか嫌悪をもよおしながら、芝居をごらんになったことと存じます。

なぜって、みなさまは、ドイツの悲劇をごらんになりましたし、

ドイツに生をうけた人間が、一〇〇年前、いや一〇年前にも、めいめい、どうやって妥協し、おりあいをつけてきたか、おわかりになったことでしょうから。

いや、こんにちでさえ、こんなことが、どこにだって行なわれているのです。

…………………

かれは、われとわが身にとびかかって、苦しみと災いの種をつくる役にしかたたない生殖力の根源を、みずから絶ちきったのでございます。

と申しますのも、かれが自然のままにふるまっているうちは、

いつまでたっても上の方からは嫌われるからなんです。

平身低頭、膝を七重に折っていたうちは、その日の糧もとりあげられて、おあずけをくっていたんです。

かれが羅切(らせつ)〔去勢〕し、みずからの男を失った暁に、はじめて、やっと、上の方がたの知己を得ることができました。

しかしそのときは、かれのバックボーンは折れておりました。

これからのかれの義務は、自分の生徒たちのバックボーンを、骨ぬきにすることです。

わがくにの学校教師諸君! どうかかれのことをお忘れなく。

かれこそは、「不自然」の産物であり、その製造元であります。

新時代の教員生徒諸君、みなさんはよくよくかれの奉公人根性をごらんになって、みなさんは、こんなものとは縁を切ってくださいまし。」

 

劇は、これで終わった。わたしは、ふかいためいきをついた。日本の社会、日本の教育、わけても道徳教育や倫理学のことを考えたのである。こんにちの教育、こんにちの道徳教育や倫理学は、また社会は、どうだろうか。肉体的な去勢をしていることはなくとも、精神的な去勢や、精神的なバックボーンを折ることを、行なったり、強いたりしてはいないだろうか。

 

ところで、わたしたちの問題は、カントだ。わがカント先生は、義務法則や理性法則を、大いに強調した。八年間ほど、家庭教師もした。また、一生、独身であった(もちろん去勢していたわけではないが)。そのカントは、同じとき・◎ところの、あの家庭教師ロイファーを、教師として、また人間として、どうみるであろうか。カントにおける、期待される教師像は? また期待される人間像は?

 

<続きはこちらで>

新装版 人と思想15 『カント』

小牧 治 著

Amazonで購入

 

 

 

「人と思想」
おすすめ書籍

おすすめの記事

ページトップ