「人と思想」シリーズ

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人と思想11『デカルト』のまえがき+αを読んでみる

 

デカルトについて

 

最初の出会い

一九四五年の晩夏のことである。終戦で学校生活にもどれるとばかり思いこんでいたぼくらはふたたび勤労動員に駆りだされることになった。他の学校ではもう授業のはじまっているところデカルトに、電車の車掌をやらされることになったのである。憤りに近い気持ちだったが、どうすることもできない。ぼくらには抵抗する気力はなかった。屠殺牛のように駆りたてられてゆくことにもうなれっこになっていた。なにしろ、二年近く、毎日のように爆撃下にさらされていた工場地帯で働かされていたのである。どうしてこんなはめになったのか。今になってもはっきりしたことはわからない。が、おそらく、校長の弱腰が原因だったのだろう。人員不足という理由で学校生徒の労働力提供を強要してきた市当局の無謀な要求をはねつけることができなかったというわけである。そして、向学心に燃える生徒たちをふたたび街へと追いだしたのである。

 

教師たちは、昨日までは、おまえたちはやがて上陸してくるアメリカ兵にむかって竹槍で突撃していって、ひとりのこらずみんな死ぬのだとお説教していた。だから、ぼくらはみんな、やがて死ぬのだと思いこんでいた。しかし、むざむざ犬死するのはいやだった。この世の中に何のために生まれてきたのだろう。そう思ったら、無性に何か一つ仕事をしておきたいという衝動に駆りたてられた。この世のどこかに、「ぼく」という人間が存在していたというしるしを刻みつけておきたい、そういう気持ちだった。そこで、終戦の前の年の暮れごろから、毎日、だれにも知られないように、こつこつと哲学論文を書いていた。『純粋意識学の基礎体系』という題であった。もちろん、今から思えば幼稚きわまりないものである。この大仰な題からして噴飯ものであろう。しかし、そのころのぼくは必死だった。

 

どこかに疑わんとしても疑いえないような確実性があるのではなかろうか。絶対確実な原理がほしい、そう思って哲学的思索にとりくんでいたのである。このころのぼくがあのデカルトのきびしい懐疑の精神にひかれたのは偶然ではないであろう。かれもまた、今日とおなじような思想的混乱の世界にあって、絶対確実な原理を求めた哲学者であった。かれは、この世に存在するいっさいのものを疑い、疑いぬいたあげく、最後に、コギト-エルゴ-スムGogito ergo sum(われ思う、ゆえにわれあり)という命題に到達した。ぼくが求めていたのも、そのような無前提の原理、絶対確実な真理であった。だから、ぼくの論文は、「私が求めるのは絶対確実なもの、いかに疑わんとしても疑いえぬような、いかに否定せんとしても否定しようのないような原理である。……」ということばではじまらなければならなかったのである。

 

最後の混沌

世はまさに混乱の時代であった。政治的にも、思想的にも統一というものがない。すべての思想が相対化し、なに一つ信ずるにたるものを見いだすことができなかった。昨日まで、「八紘一宇(はっこういちう)」とか「撃ちてしやまん」などと絶叫していた校長も、今日は、平和とか、民主主義を説いていた。どうしてそんなものをかるがるしく信ずることができるだろうか。人々はヒューマニズムの名において戦争をし、無数の民を殺戮し、こんどはまた、同じヒューマニズムの名で平和や民主主義を説いている。ぼくの耳には、そのようなヒューマニズムとか、デモクラシーということばは、空念仏にしか聞こえなかった。もっとも急進的なマルクス主義もデモクラシーを唱え、もっとも保守的な政治家もデモクラシーを説く。そのような正反対の立場を、一つのことばで表現することができるような主義がはたして思想といえるか疑問であった。まるで人は衣装をとりかえるようなきやすさで主義をとりかえ、思想をとりかえていた。無意味な標語やレッテルが虚空を舞っているだけで、そこに何一つ信頼をおくにたる思想を発見することはできなかった。マルクス主義・実存主義・プラグマティズム・論理実証主義・危機神学、などなど、次から次へ新しい思想が洪水のようにはいってきた。しかし、それはなんという空しいことばの氾濫であったろう。人々はたくみにこれら新思想を解説し、流行させたが、それらの思想が生まれなければならない根本の発生条件というものが見失われていた。だれひとり、本物の思想を自ら生きた人はいなかったのである。

 

そのころ、ぼくは中学四年であった。難関でもってきこえていた高等学校(旧制)の受験はあと半年にせまっていた。しかし、そんなことはほとんど問題でなかった。受験競争などということはまだ考えられない時代だったのである。ぼくには学校の勉強などやっているひまはなかった。自分の哲学をつくりあげるということに夢中であったのである。防空壕の中でも、電車の車掌をしているときも、ポケット一杯につめこんだ岩波文庫の哲学書を必死になって読みふけっていた。リッケルトの『認識の対象』とか、ベルグソンの『道徳と宗教の二源泉』などの訳書である。もちろん、本当のところはなにひとつ理解できなかったかもしれない。しかしぼくはひたむきになにかを求めていた。それは人からは教えられない、自分自身によってしか発見することのできない絶対確実性といったものであったかもしれない。ともかく、ぼくは無我夢中で哲学書を読みふけっていたので、電車の車掌をやっていても、乗客の切符をきることはおろか、降りる客から切符をうけとろうともしなかった。たまたまうけとっても、それを無造作にポケットにつっこむだけで、客のほうをふりむこうともしなかった。帰宅してみると、ポケット一杯に切符がたまっているので、それを部屋中にまきちらして、ザマヲミロ! と叫んだ。それは今はなくなった祖母がもったいないと一枚、一枚ていねいに拾いあげ、つなぎあわせ、自分が市電に乗るとき使っていたようだ。思えば、まったくの無秩序、混乱そのもののような時代であった。

 

ルネッサンスの混沌

デカルトが生きたのも、もしかするとこんな時代であったのではないかという気がする。ローマ法皇を中心とする教会中心的な体制は崩壊しつつあった。中世ヨーロッパにおいて形成されたキリスト教的精神共同体の中にあっては、ひとりひとりが他の人々と深い宗教的絆でつながれていた。しかしその精神的秩序の解体とともに各個人は共同体的な結びつきを失って孤立化してゆく。中世的なコスモス(伝統的な精神秩序に支えられた世界認識の体系)は根本的に破壊され、際限なく広がりゆく宇宙の茫漠たる空間の中に、ただひとりなげだされた個人は、何をたよりにして生きていったらよいかわからない。たえまなくうつろいゆく世界の混沌とした流れにまきこまれていながら、人間本来の生き方を探しだそうとやっきになっていた。カトリックとプロテスタント、あるいは封建貴族と新興市民階級のあいだの争いはいよいよ激しさを加え、その社会混乱に乗じて、無神論者や自由思想家の群れが輩出してくる。伝統的なスコラ学の解体を機縁として、ストアのヒューマニズムを再興し、それによってキリスト教道徳を基礎づけようとしたり、あるいは、スコラのアリストテレス主義に対し、プラトン主義、アウグスティヌス主義を再興しようとする動きもたまってくる。あるいはまた、これらの既成の学問にもあきたらず、占星術・地相術・錬金術、ルルスの秘法、カバラの秘法、その他、これに類する魔術的・秘法的学問に手をだすものもあらわれてくる仕末であった。つまり、ひとりひとりの個人が各個バラバラに自分で自分を律する道、つまり、「方法」を見つけだそうとやっきになっていた。

 

ヘレニズムの混沌

このルネッサンス末期の時代様相は、ちょうどヘレニズムの時代に似ているといえるだろう。アテナイを中心とするポリス文化は、紀元前五世紀ごろ頂点をきわめると同時に下り坂にむかっていた。この前後の時期には、異民族の宗教の侵入によって、ギリシア人の伝統的宗教観は根本的に動揺していた。紀元前四世紀のヘレニズムの時代になると、ポリスを中心とした統一的文化は崩壊し、コスモスを自分の国、自分の家とする考えが生まれてきた。つまり、コスモポリテースの思想である。それは字義どおりには、「コスモス(宇宙)を宿とする者」という意味である。一五、六世紀のヨーロッパはちょうど、このコスモポリテースの時代に似ているといえるだろう。中世の階層秩序的な構造によって支えられていた「コスモス」は解体し、無際限にひろがってゆく宇宙のただ中に投げだされた個人は、ヘレニズムの思想家たち、とくにストアの哲人の倫理思想に生の拠り所を求めた。たとえば、フランスのユマニスト(人文主義者)たちは、なによりも人間らしい人間の生き方を求めたのだが、それはストアの哲人たちの考え方でもあったのである。シノペのディオゲネスは提灯をかざしながら、「人間はいないか、人間はいないか」と叫びながら、街の中を探し歩いたというのである。もちろん、人間はどこにでもみちあふれている。ディオゲネスが探し求めていたのは、本当に人間らしい人間であったことはいうまでもない。ポリス(都市国家)という拠り所を失った人間は自分が何者であるかと問わずにおれない。もはや、人間はポリス的動物であるなどといってすましていることはできない。人間はそれ自体において何物であるか、自分ひとりで宇宙のただ中にほうりだされたとき、どのように生きていったらよいのか。このように問うたストアの哲人たちとまったく同じ疑問にルネッサンスのユマニストたちも直面する。そして懐疑主義へと導かれていったのである。

 

たとえば、モンテーニュは次のように問う。人間はこの際限なく広がる大自然の中で一隊何者であろうか。一個の砂粒、微塵にもひとしい存在にすぎないのではあるまいか。無限の全体にくらべれば、人間はほとんど無にひとしい。人間が動物より優れているという根拠はどこにもない。

 

このようにして、人間の自然に対する優位が否定されたとき、その知識も高く評価されない。アリストテレスはあれほどの博学をもってしても、自分の持病さえなおすことができなかった。これに反し、無知なもののほうが一般に健康であり、幸福でさえある。本物の知恵をえたものは人間知識の無価値を知って謙虚にならざるをえないはずである。人間には真偽を絶対的に決定できる力はない。人間はなんの詮索もせずに、世界の秩序にただ従っておればよい。私は何も知らない、私は疑う、という断定形式で疑うということさえまちがっている。その場合は、少なくとも自分が無知で、疑っているということを確信していることになる。ビュロン(ギリシアの懐疑論の創始者)はだから自分では何事も断定を下さず、判断中止を守り通した。このような考えから、モンテーニュの懐疑主義は「私は何を知るか?」という疑問形で示されたのである。

 

闇の中に輝きでる光

レンブラントに「開いた本の前の哲学者」というのがある(一六三ページの図版参照)。その絵の中では、ひとりの年老いた哲学者が☆仄(ほの)暗い部屋の片隅で、ひっそりと坐っている。その目は外界のなにものにもむけられていない。かれの魂はひたすら内面の輝きをめざしているのだ。しかし、高い窓からさしこむ光は、哲学者を闇の中に浮かび上がらせている。この絵は何を意味するのだろうか。レンブラントといえば、デカルトと同時代のオランダの画家である。しかもデカルトが哲学的瞑想にふけったのはオランダにおいてである。ぼくはこの絵を見るとき、なぜかデカルトのことを想いうかべずにおれない。デカルトはこんなに老人ではない。しかし、かれの生きた時代は、中世的なコスモスが破壊され、宇宙が混沌とした闇の中に深く沈んでいった時代であった。その闇の中へ、かれは光を生起せしめようとした。もちろん、恩寵(おんちょう)の光ではなく、自然の光をである。自然の光によって闇の中につつまれていた宇宙をくまなく照らしだし、その構造的関連を明らかにしようとした。ルネッサンス的な混沌の中に沈んでいた宇宙の中に法則的秩序を発見し、スコラ自然学にかわる新しい世界像を生みだそうとしたのである。つまり、カオスからコスモスへの道をふたたび歩みゆこうとしたのである。

 

どのようにしてかれはその道にたどりつくことができたか。いうまでもなく、モンテーニュ的懐疑をさらに徹底することによってである。かれは、「私は何を知るか?」と問いつづける。たんなる懐疑主義に安住しないで、疑わんとしても疑いえない、否定しようとしても否定しえない確実性に到達するというはっきりとした目的のために、懐疑を徹底的に遂行しようとした。つまり、一つの人生態度であったモンテーニュの懐疑を普遍化の極点までおしすすめていったわけで、そうなると、これはもはや「生きた懐疑」ではなく、「方法的懐疑」となる。その懐疑によっていっさいのものを疑いつくしたのち、最後に、かれはエゴ-スム(われあり)という確実性に到達した。このエゴ(われ)こそは、いわば、アルキメデスの不動の点であり、そこからすべての世界認識を導きだすことができる座標軸の原点であった。この不動の原点からあらゆる形而上学的認識を導きだし、さらに自然認識の全体系を生みだす。つまり、かれはルネッサンス的な混沌のただ中において、「宇宙の中心」を発見し、そこからあらゆる学問の体系をひきだそうとしたのである。この壮大な企図がはたしてどこまで成功していたか、この点の詳細な検討は本文にゆずらなければならないが、ともかく、かれは中世的コスモスの中心的位置を占めていた神にかわって、新しく自我を世界認識の原点としてたてたのである。

 

中心の喪失

ところで、戦争直後におけるぼくらは、いわば、ルネッサンス的混沌にも比すべき、おそろしい混乱状態におかれていたのではなかろうか。ぼくらもやはり、伝統的なコスモスの崩壊を経験した。伝統的な「コスモス」とは、いうまでもなく、天皇中心的な国家秩序である。かつて、天皇は神であった。現人神(あらひとがみ)といわれるように、それはあくまで神であることによって、伝統的な国家理念を支える中心的存在でありえたのである。吉本隆明が正しく指摘しているように、天皇は「世襲的な祭司」であり、「儀礼主宰者」であり、「原始シャーマン的宗教信仰の対象」であることによってのみ、戦前のあらゆる国家秩序を統合する中心的存在であることができた。それは、たんなる政治的・軍事的秩序の統帥(とうすい)者であったのではなく、宗教・法・国家という三つのモメントの有機的統一を支える、まさしく「コスモス」の中心であったのである。この、あらゆる秩序の中心である天皇が人間に降下した瞬間に、戦後のおそろしいばかりの混乱がはじまった。伝統的な「コスモス」は破壊され、戦後世界は収拾のつかないほどの「カオス」へと突入してゆく。すべての思想は相対化され、どこにも絶対的中心を見いだすことができない。だが、この「カオス」は、はたいてルネッサンス的混沌のように、創造への契機を内に秘めたカオスなのであろうか。それとも、絶望的な混沌なのであろうか。この問に答えることは、まだぼくにはできない。

 

ただ、こういうことだけはいえる。まだどこにもカオスからコスモスへの胎動のきざしはあらわれていない。しかし、カオスの中に、ある絶対的中心を見いだすことができなければ、そこから新しいコスモスを生みだすことはできない。では、その「中心」は何であるのか。それがもはや「現人神(あらひとがみ)」でもなければ、「デカルト的自我」でもないことだけはたしかである。なぜなら、いちど母胎の中から生まれでた子どもが子宮の中にもどることができないように、いったん人間に降下した天皇が神にもどることはありえないからである。また、ぼくらはヨーロッパの近代の終末のときに、デカルト的自我の挫折をすでに体験しているのだから、それをふたたび「宇宙の中心」にすえることはできない。現代という時代は、ハンス=ゼードルマイヤーの言葉をかりていえば、まさしく全世界的規模において「中心の喪失」の時代であるといえるだろう。

 

戦後まもなく旧制高校生となったぼくは、この失われた「中心」を求めて、混沌とした時代のなかを彷徨(ほうこう)していた。しかしどこにもその「中心」を発見することはできなかった。これこそ絶対的中心と考えたものもたちまち相対的な一つの視点に転落してゆく。そういうくりかえしをかさねているうちに、しだいに無気力になっていった。もはや、戦争末期にめばえた、あのひたむきな哲学への情熱は消えていた。なぜだろうか。死ぬ前には書きあげなければ、というあの切迫感がなくなってしまっていたからである。もはや、竹槍をかついで突撃してゆく必要はなかった。その前に戦争があっけなく終わってしまったから。終戦の詔勅(しょうちょく)を聞いたとき、ぼくにはなんの悲しみも感動もなかった。ただ、これで死ななくてすんだと思った。そして、安堵(あんど)した。それとともに力がぬけてしまった。

 

終戦前に書きかけていた哲学論文は、電車の車掌をしながら書きあげた。しかし、仕上げてみれば、ぼくの哲学なぞは、あまりにもひとりよがりな思いがあり、あるいは一つの迷夢にすぎなかった。そんなものはだれにも簡単に通用するものではない。宝物のように大切に筺底(ぎょうてい)に秘めていたぼくの原稿の束は、いまでは反古(ほご)同然に思えてきた。なにもかもバカバカしくなって哲学書も読まなくなっていった。

 

とはいえ、哲学志望はすてていなかった。戦争末期の時代にぼくの進路はすでに定められていたのだ。当然のことのように哲学をやるためにはまずドイツ語を勉強しなくてはと考えて旧制高校の文乙にはいった。けれども、哲学に対する昔の情熱はかえってこなかった。それよりも生きた人間の存在に興味をもつようになっていた。それとともに、ぼくの心はフランス文学やその背後にあるユマニスムの伝統に目を向けるようになっていた。戦後の相対主義的無気力のなかで、モンテーニュの懐疑主義に共感をおぼえはじめていたということもその一因であったろう。けれども、二葉亭四迷ではないが、心の底のどこかに「文学は男子一生の仕事とするにたらず」という観念がしみついていた。旧制高校を卒業すると同時に、ほとんど惰性で東大の哲学科に入学していた。哲学へのあこがれがまだかすかに生きのこっていたらしい。そのぼくの心に、哲学への静かな情熱がじょじょによみがえってきた。とりわけ、デカルト哲学への関心をふたたびよびさまされた。そのきっかけとなったのは――

 

森有正先生のこと

一九五〇年の盛夏のことである。いつもなら夏休みで閑散としているはずの法文経1号館のまわりに学生が続々集まってまる。ただでさえ狭い一二番教室はほとんど一杯であった。そこへ、こぶとりの森有正先生が白麻の服をきこみ、こわきにボロボロになったジルソン版の『方法序説』や『省察』のテキストをかかえて、三階までの階段を駆けあがってくる。なんとなくあわただしげで、落ち着きのない先生の様子はいかにもユーモラスだ。しかし、やがてシーンと静まりかえる。デカルトの演習がはじまるのだ。

 

ぼくはまだ入学したばかりの一年生で、フランス語はほとんど読めなかった。時間のはじめにそれでもこの演習に参加できるだろうかと先生にたずねると、「勉強しながらついてきたらいいでしょう。すぐ読めるようになりますよ」ということだった。ぼくはそのことばに励まされ、アテネ-フランセに通って、フランス人の教師からフランス語の初歩を習い、あわせて、森先生の『ドミニック』、杉捷夫の『狭き門』の購読に出席しながら、デカルトのテキストを、それこそ辞書と首っ引きで読みすすんでいった。

 

それは楽しい演習であった。森先生にかかると、一件、無味乾燥ともみえるデカルトの合理的推論に、生きた人間の息吹きが通いはじめる。かれの合理的思考の秩序の背後に、深い情念を秘めた人間的生が露呈されてくる。ぼくは新しいデカルトの読み方を教えられるとともに、いつのまにか、デカルトやパスカルの思想のとりこになっていった。それから一七年の間、デカルト・パスカルの思想がぼくの関心から離れたことはなかった。かならずしもそれだけの研究に専念してきたわけではなかったが、他のどんな現代的課題を追求しているときでも、最後に帰りつくところは、つねにデカルトであり、パスカルであった。いまも北大文学部において、数人の哲学科の学生を相手としながら、かつて学生時代のぼくを魅惑した書物、『省察』の演習をしている。歴史はくりかえすとでもいったらよかろうか。

 

森有正先生は一九五〇年の八月下旬にフランス政府留学生の一人として渡仏された。夏休みのときにぼくらがうけた講義はそのための補講であったのである。ぼくは一年の留学期間が終わったら先生は帰ってこられると思っていた。先生が帰ってこられたら。そんなこともおたずねしてみたい、こんなことも教えていただきたいと御指導をうける日を楽しみにしていた。先生自身、フランス行きをそれほど喜んでおられるようにも見えなかったし、やがてすぐにも帰ってきたいという御様子であった。ところがである。一七年たった今だに帰国なさる様子がないのである。いまでは、パリの一角に居を構え、東洋語学校の日本語講師をしながら、ジャン=ヴァール教授の下でデカルト研究に専念しておられる。目下、デカルトの永遠真理の問題をあつかったフランス語の研究論文を準備されつつあるということだ。

 

森先生をフランスにひきとめたものは何であったのか。帰国をうながすたくさんの師友の懇請もしりぞけて、異郷の地に永住の決意を固めたるにいたった先生の心境はいかなるものであったのか。ぼくなどにはとても想像のつくことがらではない。ここにいたるまでには、さまざまの個人的苦悩が、煩悶(はんもん)があったに相違ない。そんなことは他人が勝手に容喙(ようかい)すべきことがらではないのだ。

 

しかし、一つだけ、こういうことだけはいえるのではあるまいか。日本という、はるか極東の別天地にいて、フランスの哲学・思想がわかったつもりでいても、そんなものはすべてにせものにすぎない。デカルトやパスカルの著作のうわつらだけを読んで、概念的にはわかったつもりでいても、本当のところは何もわかっていはしないのである。森先生はフランスにやってきて、そのことをいやというほど思い知らされて、感動のあまり身動きできなくなってしまったのではないか。フランス文化の伝統の重み、いまも人々の心に生きつづけているデカルト精神のきびしさといったものにふれて、これまで日本にいて漠然と考えていたデカルト像がこなごなにうちくだかれ、それをこの地で、デカルトがそこに生まれ、そだったこのフランスで、いま一度根本から考えなおし、たてなおすことができなければ帰るに帰れない。そんな思いが先生の心を支配していたのではなかろうか。ぼくはそんな風に考えずにはおれないのである。

 

思想の根本経験

ここで問題になるのは、思想の根本経験ということである。経験というのは、ある根本的な発見があって、それにともなって、ものが全く新しいなにものかとして見えてくるということである。あらかじめ人からあたえられていた既成の枠組で、ものを見たり、説明することではない。ものをできあいの概念や符牒(ふちょう)でいいあらわしてみたところでどうなるものではない。そんなものは何の発見でもない。経験というのは、ものが、いわば、裸のままで自分の中に入ってくるということである。それは自分の中の深い促しによっておこる。一六一九年一一月のある日、ある時刻、デカルトを襲ったあの神秘的な経験、「驚くべき学問の基礎」の発見、このような根本経験を物語っているのではなかろうか。デカルトは内面の中からおこった深い促しに従って認識の道へと駆りたてられる。かれはそれを神の召命とうけとったことであろう。自分の中に少しずつ発酵しつつあったものが、啓示によって、つまり彼方からの呼び声によって一時に噴出する。内からの促しと外からの召命の一致点である。この瞬間においてかれは決意し、断行する。そこからかれの思想の冒険の歴史がはじまるのである。

 

ぼくらは思想というものを、なんと安易に、まるで寄木細工をもてあそぶようにとりあつかっていることだろう。孤独とか、自由とか、絶望とか、愛といったことば。それらはまるで内実のない、空虚な符牒として虚空を舞いつづけている。ことばとことばが、まるでたわむれあうように結びついたり、離れたりする。実存と社会、孤独と共同性、そういった正反対の概念がたんなる観念内操作によって統一される。対立のきびしさに耐えるという経験をへないで、概念の遊戯のように、正、反、合、という弁証法的運動が行なわれる。いったいこれが思想ということばに値することなのだろうか。思想とは、いうまでもなく自分の意志で勝手に作りだせるものではない。思想は感覚を通して向こうからやってくる。それをうけとめ、自分のものとしてひきうけることによって自分の思想が生まれる。もちろん、自分の思想といっても、それは自分ひとりのものではない。その国の文化と伝統に深く結びつき、その重圧の中から萌えいずるように生まれてくるのが思想というものなのである。自分の思想が深化されてゆけば、おのずと生まれた国の文化・伝統の根につながらざるをえない。それはどんな反逆の思想といえども同じことなのだ。

 

ぼくら日本人は外国の文化を巧みにうけいれ、いつのまにか自家薬籠(やくろう)の中のものにしてしまった。デカルト哲学というものを頭では十分理解していると思っている。しかし、はたしてぼくらはデカルト精神を生きたことがあったろうか。デカルトがいうところの懐疑とか、自由とか、精神ということばの背後にあって、それらを動かしている一回かぎりの経験を、自ら真剣に生きたことがあったろうか。ぼくらはデカルト哲学の結果をうけいれ、今もその中に生きている。たとえば、ぼくらのまわりの技術文明の基礎は一七世紀にかたちづくられたものなのだ。ヨーロッパの科学や技術はもはや世界全体のものであり、ぼくらも技術化され、機械化された世界の中に生きている。しかし、ぼくらの思想はどうか。ぼくらはあいかわらず日本的感性によって思想のことばをこねまわしているにすぎないのではあるまいか。デカルト精神の継承者たちによって作りだされたさまざまの標語やイデオロギーは、ぼくらにとっても親しいものである。思想の自由とか基本的人権ということばはだれもが口にする。ヒューマニズムとか、デモクラシーという思想を疑うものはいない。しかし、それらの思想がヨーロッパの風土に生まれてこなければならなかったギリギリの限界状況の中に生きたことはない。それらはぼくらにとっていつでもとりかえのきく衣装にすぎないのである。

 

体験と経験のちがい

「日本文化の在り方をふりかえるならば、そこに体験的要素がきわめて強く、外国から入ってきたものを、その経験の根底まで掘り下げて思索することをせず、むしろ逆に、新しいものを自己の体験で理解しうるものに変化させようとする傾向が無意識のうちに強く働いていたように思われてならない。」

 

これは森有正先生の『遙かなるノートル-ダム』のなかの一節である。かれがここで体験というのは、ことばで直接提示できるすべてのものをいうのであって、経験とは全然別物なのである。本当の経験というものはことばで直接提示できるものではない。それにある名をつけることができるだけで、その場合、それを定義し、表現するにはどうしても象徴的な道をとらなければならない。たとえば、デカルトを懐疑へと導き、コギトの発見へともたらした根本経験というものは体験的なことばで表現することができない。それは内からの促し、あるいは神の召命というような象徴的なかたちであらわれなければならなかったのである。ぼくらはそのような思想の許経験に肉薄することができなければ、本当の意味でデカルトを理解することはできないであろう。しかし伝統を異にする日本人であるぼくらに、はたしてそのようなことができるだろうか。デカルトは近代の科学的・合理的思考をきりひらいた人であるが、そのかれの背後には千数百年のギリシア的・キリスト教的なヨーロッパ文明がある。ヨーロッパの精神風土にのみ生まれることができた、このきびしい哲学思想を、これとまったく異質な風土に住むぼくらが本当の意味で理解することができるであろうか。ぼくらはその思想のうわつらだけを、ことばの皮相な意味だけを理解しているだけにすぎないのではなかろうか。森先生をして日本を脱出せしめたもの、もしかすると、この日本人であることの絶望であったかもしれないという気がするのである。

 

いったい、ぼくは何を語ろうとしているのだろうか。もちろん、本題を忘れているわけではない。デカルトについてである。しかし、デカルトについて学ぶことは容易ではない。そのことがいいたかったのである。デカルトの思想の概要をわかりやすく説明することはそんなにむずかしいことではない。しかしそんな解説が何になるというのか。デカルトが合理主義哲学の祖で、方法的懐疑のはてに、コギト-エルゴ-スムの確実性に到達し、そこから形而上学的認識を導きだした。そういう哲学史の教科書を繙(ひもと)けばどこにでも書いてある知識をより詳しく、よりわかりやすく説明してみたところで何のたしになるものではない。そうした解説的知識がほとんど無意味になってしまうような思想の根本経験というものがある。デカルトその人の生きた哲学的思索がある。その思索の結果を合理論だとか、経験論だとか、あるいは、観念論だとか唯物論だというような、できあいの、それこそおそまつな区分けの仕方で性格づけてみたところで、ぼくらの知識は深まりはしない。いや、むしろ、ますますデカルトの哲学そのものから遠ざかるばかりなのだ。

 

では、デカルトその人の思索にせまるにはどうしたらよいのか。森先生のように、フランスに行って、思索の経験をつまなければデカルトはわからないものなのだろうか。もちろん、そんなバカなことをぼくはいいたいのではない。かりにフランス人の心になりきることができたからといって、デカルト精神が理解できるわけのものでもない。なによりも大切なことは、事実の重みを知ることである。ここにデカルトという人が存在する! かれは自分の哲学的生涯を誠実に生きぬき、考えぬいた。その思想の経験そのものにできるだけ肉薄しようではないか。あるいは、その事実の重みそのものによってはねかえされるかもしれない。しかし、彼我の断絶にじって耐えぬこう。そこからぼくらは哲学することのきびしさを学ぶのだ。

 

 

目次

デカルトについて

Ⅰ 哲学者にいたる道

生いたち
進路の確定
カオスからコスモスへ
方法に従っての放浪
『宇宙論』をめぐって
宇宙の中心に位するもの
死にいたるまで

 

Ⅱ 五つの哲学的著作

『方法序説』
『規則論』
『省察』
『哲学原理』
『情念論』

 

Ⅲ 哲学者の人間像

孤独なる哲学者の像
精神の自己内還帰
抽象化と具体化
意識から存在へ

 

あとがき
年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ 哲学者にいたる道

 

生いたち

 

故郷の風土

ルネ・デカルト(René Descartes)は一五九六年三月三一日、中部フランスの西寄り、トゥレーヌ州のラ-エーで生まれた。いまから三七〇年ほど前のことである。ラ-エーは今では哲学者の名前を記念して、ラ-エー-デカルトと呼ばれているが、このあたりはフランスでももっとも風光明媚な地方の一つとして知られている。晩年にかれはスウェーデンのクリスティナ女王の熱心な招請をうけながら、この「岩と水のあいだの熊の国」にでかけてゆく決心がなかなかつかなかった。それというのも、かの美わしき「トゥレーヌの園」の想い出がかれの心を強くひきとめていたからだ。結局、女王の度重なる催促に根負けして、ストックホルムにでかけてゆくのだが、五か月足らずの滞在期間ののち、病をえて、一六五〇年二月一一日、五四歳の生涯を閉じる。終生故郷の美しい風土への深いあこがれをいだきながら、「思想も凍てついてしまう」というこの北国で客死しなければならなかったのである。

 

ラ-フレーシュの学院時代

一六〇六年、一〇歳のときにラ-フレーシュの学院に入学する。これは、一六〇四年にアンリ四世の支持のもとに設立されたイエズス会の学校であった。ヨーロッパでももっとも名高い学校の一つで、「学識がある人がこの世のどこかにいるとすれば、まさにここにこそいるはずだ」とかれも語っている。ここでかれは八年間の学校生活を送ることになるのだが、健康上の理由もあって、例外的な特別待遇をうけていた。たとえば、朝めざめたとき、寝床で時間をすごす特権があたえられていた。後年、寝床の中で横たわったまま冥想をするくせがついたのはこのためである。在学中の主な出来事といえば、一六一〇年に暗殺されたアンリ四世の心臓が学院の礼拝堂に転置されたことと、一六一一年にガリレイがはじめて望遠鏡を用いて木星の衛星を発見したとの報に、学院で祝祭が催されたことぐらいであろう。

 

当時のヨーロッパの情勢は、不安な、混沌としたものであった。宗教上、思想上の対立があいついでおこり、やがて宗教戦争の泥沼の中にのみこまれてゆく。ドイツには三〇年戦争(一六一八~四八)があり、フランスでは各地で新教徒の反乱がおこった。アンリ四世(一五五三~一六一〇)はもともと新教徒の首領としてユグノーの乱に活躍した人であったが、一五八九年フランスの王位につき、ブルボン王朝を開始した。フランスは当時ヨーロッパの政治と文化の中心であったが、たび重なる宗教戦争によって極度に疲弊し、国内の秩序も混乱していたので、その地位を維持することは困難となっていた。宗教戦争というのは、プロテスタントとカトリックとの間のたんなる宗教上の争いであったのではなく、むしろ新旧両教徒擁護の名目で行なわれた王族間の王位争いであり、さらにその背景には、新興市民階級と旧封建諸侯との間の階級的対立があったのである。アンリ四世は、大勢のおもむくところを察し、カトリック教に改宗し、一五九八年、ナントの勅令を発して国内秩序の再建に向かった。結局、かれは志半ばにして刺客の手によって倒れるが、その子、ルイ一三世(一六〇一~四三)のもとで、宰相リシュリュー(一五八五~一六四二)が仕事をうけつぎ、ここにフランス王権は、ローマ教権と手を握りつつ、絶対王制としてのアンシャン-レジームの建設へと一路邁進してゆくのである。

 

デカルトの入学したラ-フレーシュの学院は、もともとこうしたカトリック的国家秩序再建を目的として建てられた学校であった。したがって基本的には伝統的なスコラ的カトリシスムの立場にたつものであったが、その教育方針は古代のストア的道徳の再興としてのルネッサンスのユマニスムの精神をかなり大胆にとりいれ、そのカトリシスム的実現を志すというところにねらいがあったのであり、新しい学問を全面的に排除するほど保守的であったわけではない。数学教師の一人であったフランソワ神父のごときは、化学・光学・占星術のような秘教的学問にも関心をもち、若きデカルトの知的好奇心に刺激をあたえたと考えられる。とはいえ、アリストテレス・スコラ的な伝統が本流を占めていたことは動かしがたいことで、新興の自然科学は虚科目にとりいれられず、古来の宗教的宇宙観がそのまま信奉されていた。後年、「ラ-フレーシュの学院以上に哲学を良く教えてくれるところはないと思う」と感謝をもって学校時代をふりかえりながらも、学院で教えられた学問を離れていかざるをえなかったのは、新しい自然観の樹立をめざしたデカルトにとっては当然のことであったといえるだろう。

 

 

「世間という大きな書物」

一六一四年、この学校を卒業し、一六一五年から一六年にかけて、ボワトゥの大学で法学を学んだ。おそらく、この間に医学の課程も修めたと想像される。一六一六年一二月一〇日には、法学士の称号を得ている。大学をでて、一、二年してから、おそらく二二歳のとき(一六一八年)旅にでた。『方法序説』によれば、学校で教えられたすべての学問、人文学にも、スコラ哲学にも失望して、教師たちの監視から解放される年齢になるや否や、「私自身の内部において、あるいは、世間という大きな書物のなかに見いだされうるであろう学問のほかは、どのような学問ももはや求めまいと決心して」、モラリスト的な人間修行の旅にでかけるのである。「わたしは旅行をし、宮廷と軍隊とを見、さまざまの気質や身分の人々と交わり、さまざまな経験を重ね、運命のさしだす機会におのれを試み、いたるところで目の前にあらわれるものごとについて何か利益をひきだせるような半生を加えるために、自分の青春の残りを費やそうとした」というのである。

 

二〇歳で書物の学問をすてて、「世間という大きな書物」の勉強むかったデカルトは、二二歳になってフランスをでて、オランダに行き、モーリス=ド=ナッソーの軍隊に志願将校として加わり、「一五か月の間ブレダに滞在」した。これはその当時の貴族の習慣に従ったまでのことで、それはかならずしも、じっさいの戦闘に参加することを意味するものではなかった。学校卒業後、その教養を完成するために世間修行として軍隊に杯ことがイエズス会の神父たちによって奨励されていたという。外国の宮廷を訪問することも、同様の意味をもつことであった。ジルソンによれば、「宮廷への滞在は、青年の完全な教育に欠くことのできないこととみなされ、人間を学ぶもっとも確実なやり方とされていた」ということである。

 

ところで、デカルトが特にモーリス=ド=ナッソー(ナッソー伯マウリッツ)の軍隊をえらんだということには理由がある。モーリスはオランダの独立宣言後の初代統領、オレンジ公、ウィレムの子で、一五五八年父が暗殺されたのちは、スペインと戦ってオランダの独立を固め、この国の独裁者となったほどの人で、コーアンによれば、死に臨んで「2プラス2は4である」ということを自己の信条としたほどの合理主義者であった。かれは早くから軍事科学的研究の近代化、つまり、当時新興の数学的自然科学の軍事的利用に強い関心を寄せ、軍事科学の組織化を企図した人であった。かれの軍隊には、スティーヴィン・ダヴィッド=ドレアン・ジャック・アローマなどの自然研究者が招かれ、建築学・築城術・製図、火器の改良などを中心の課題とする研究や講義がそこで行なわれ、それは一種の軍事アカデミーのごとき観を呈していたということである。『方法序説』の第二部で、建築術や都市計画の問題になぞらえて方法の理念を語っているのは、おそらくこのときの体験にもとづくものであろう。このような軍隊を特に志願していったということに、はやくもかれの自然科学的関心の芽生えを認めることができるかもしれない。

 

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