「人と思想」シリーズ

センチュリーブックス

人と思想1『老子』のまえがき+αを読んでみる

 

老子について

 

哲学や思想は、それを形成した人がみずからの哲理に生きる、生きようと努力することなしには、存在する意義をもたない。人間が自己をも含めて、現にこのように生きている――このことに十分に自覚的でない哲学や思想が生起することは、<哲学の貧困>を物語るのである。現代における哲学や思想の形成にとって、真に緊要なことは、たんに人間疎外の諸状況を現象的に捉え、そのような現象を直接的に打破していこうとするレディ-メイドの方法原理に立つことや、人類文化の現在までの到達度をもって推論の根拠とし、「文明の未来学」に現状改変の夢を託することではない――むしろ変革すべき現状を招来したほかならぬ人間存在の根源に立ち帰るところから、現代における哲学や思想の形成は出発しなければならないという点にあるのではなかろうか。

 

樸(ぼく)に帰れ

このように考えてくるとき、ここに一冊の書物として取り出した『老子』は、われわれにとって、いかなる意義があるのだろうか。端的にいって、『老子』思想の根底に一貫して流れているものは、人をも含めたあらゆる存在を、そのよって立つ根源に立ち帰って、個性的に生かすということである。あらゆる作為を廃して、個を、その存在の原点のところ、その存在の真の在りかたにすなおにまかせきることによって、かえって本来的に生かすのである。

 

「賢(けん)を尚(とうと)ばざれば民をして争わざらしむ。得がたきの貨(か)を貴(とうと)ばざれば民をして盗みを為さざらしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば民の心を乱れざらしむ。」(第三章)

 

これを愚民政策の典型だとこきおろす偏見者はさておき、二千数百年も前にいわれたこの言葉は、すでに人類文化の至るべきなれの果てを予言しているといってもさしつかえないのではなかろうか。

 

いったい、文化・文明の〝文〟とは〝質(しつ)〟〝樸(ぼく)〟に対する語である。『老子』では、〝文〟はすべての人の作為するところ、そこは文はあり得ても、ものの真の在りかたは失われている、とされる。とすれば、人の要らざる作為をくわえない〝樸〟なる状態こそが、人の求めてやまぬ「ものの本来の在りかた」であろう。こざかしい知恵者をもてはやし、富や名利をたいせつなものとし、どうでもいいものをむやみにひけらかす――そこに華美と偽巧は見られようとも、かえってそれによってものの真なる姿は失われてしまう。ものがおのずからそう在るところ、そう成るところにすなおに順おうとしない文化・文明は、かえって人心を困惑させる以外の何物でもない。それならば、老子は文化を否定したのかというとそうではない。真の文化とは、文飾ではなくして、人間存在のまさしく根源にたち帰って求められるべきものでなければならない。老子はしきりに、「もとに帰れ」という。「嬰児に復帰す」「無極に復帰す」「樸(ぼく)に復帰す」(以上二十八章)の嬰児・無極・樸は、すべてもとの意であって、結局、それは老子のもっとも明らかにしたい〝自然の道〟に帰ることでもある。樸に徹した人間社会こそ、本来の人間の文化が成立する根底である。

 

それゆえに老子は「天地は不仁(ふじん)、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は不仁、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。」(五章)という。芻狗とは、祭祀に使うための草で作った犬。祭りが終われば捨ててかえりみない。天地はものの自然(ものがおのずからそう在る~成ること)にまかせて、何らの作為を加えないから、かえって万物がおのずからそれぞれに落ち着きを得て生かされる。聖人もまた天地とその無為の徳を合するがゆえに、万人をそれぞれの個性に従って生かす、というのである。「不仁」はまた無為の意でもある。ごくわかりやすく通俗的にいえば、ふかなさけをかけないこと、おせっかいをしないこと、といった意味だろうか。

 

為すなくして為さざるなし

こうして、問題は「無為」ということにある。無為とは「道は常に為すなくして為さざるなし――無為而無不為」(三十七章)とあるように、文字通り何もしないということではない。無為であることによって、かえって全体を為し尽くすのである。『老子』に注釈を施した魏晋時代の王弼(おうひつ)(二二六~二四九)という若くして亡くなった学者は、無為と「自然に順(したが)う」ことだといった。しかも「無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」は道の常の働きそのものである。とすれば、老子における道とはいかなるものなのか。開巻第一章に「道の道とすべきは常道(つねのみち)にあらず。名の名とすべきは常名(つねのな)にあらず。……」という。常道・常名は、個々のもの・ことを対象として、それにつけられた道や名ではなく、むしろ差別相としての個物によって構成される現象の世界を超えた一般者、道を道とするもの、また個物に付与される名に対して、むしろその名を名とするもの――それを常道とか常名といったのである。

 

しかし、老子において表現しようとしている窮極(きゅうきょく)のもの、およそ存在するものの真の在りかたは、常道とか常名といった言葉に表現されるもので満足することはできない。道といってしまえば、もうすでにそれは人の往来する道を予想し、万物の由(よ)るべきところを定めてしまう。逆にいえば、由るところがあるから道というのである。万物の由るところという意味においては、たしかに道は表現し得る最大のものである。しかし、まだそれは何とも表現できないもの、すなわち王弼(おうひつ)のいわゆる〝無称(むしょう)の大〟にかなわない。そこで老子はついに、「自然」をもって無称の言、窮極の辞とする。なぜ道よりも「自然」が老子のいい表わそうとするものの当体を得ているか。「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。」(二十五章)といわれるように、道もまたその働きと性格において「自然」にのっとるからである。

 

「自然」とは「もののありのままの姿」そのものである。老子の関心はまさにこの一点に集中する。「もののありのままの姿」したがって、ものが「おのずからそう在る~成る」実相そのものこそ、老子の把握した存在の窮極であった。これについてかりにあざ名して道といい、そしてその道が常に、無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」とされたのである。無為とは、こうして、ものの自然に順うことであり、もののおのずからそう在る~成るところにまかせきって作為を加えないことである。ものの自然にまかせて作為しなければ、かえってものはその本来のいのちに生きることができる。「為さざるなし」とは、およそ存在するものをその本来の在りかたに即して生かしきることでなければならない。もののいのち、ものの本来の在りかた――それがまた先にいった老子の〝樸(ぼく)〟である。そして、人がこのような道を体得したとき、そこに無為の徳が実現する。

 

老子のいう「上徳」とは、また無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」である。これは先の道についていわれたのと同じである。つまり、徳とは、この「無為而無不為」としての道を日常具体のなかに実現する、または実践を通して道を証示することである。作為すればものの自然を失い、不作為なればかえってものはおのずから働いて自己自身に生きる。それが道につき順うことによって実現される老子の徳である。

 

まことに老子の思想は、虚無(きょむ)にさまよう逃避・隠遁(いんとん)の弁(べん)ではなくして、個物の実存を見きわめてそれに徹し、ものの自然にすなおに順うことによって、かえってものを生かす思想である。人間とはそもそも何であったのか――老子を通してわれわれはもう一度その問いの根源にたち帰って深く考えることを余儀なくされるであろう。

 

本書の執筆を依頼されてから長い日時が経過してしまった。理由はいろいろあるが、とにかくシリーズとして企画された清水書院に対し、多大のご迷惑をおかけしたことをここに深くお詑びする次第である。

 

(なお、本文に述べてあり通り、『老子』なる書は、それを書いた老子という人物の実在も、またこの書ができあがった年代も、明確にはわからない。したがって、老子という人物の年譜を、本シリーズの他の思想家同様につくることはとてもできないので、これを省略してあることをおことわりしておきたい。)

 

昭和四五年五月 高橋 進

 

目次

 

Ⅰ 老子と『老子』書

概説
漢代の学問
司馬遷父子の思想と生涯
『史記』の老子伝
『史記』老子伝の問題点
老子および『老子』書をどうみるか

 

Ⅱ 『老子』書の背景

春秋・戦国時代
百花斉放、百家争鳴

 

Ⅲ 老子の思想

哲学の意義
道について
徳について
聖人の徳
治政――聖王の治
もとに帰る
あとがき

 

参考文献・テキストなど
さくいん

 

 

Ⅰ 老子と『老子』書

 

概説

 

貴重な人類の文化遺産

何か新しい資料が出てくれば、混乱し不明であるとされていることがらが、はっきりと断定されるであろう。『老子』という書物、および老子という人物について、これまで、数多くの学者が長い間研究してきているが、ついに、老子という人物がいつごろのどんな人であったか、いや、いったい老子という固有名詞をもった個人が実在したのかどうか、また、『老子』という書物は老子という個人によって書かれたものなのか、いつごろできたものなのか、……などなど、いろいろな説はあるが、ついにはっきりと断定できるほど、十分に説得力のある見解は出てきていない。

 

とにかく、老子および『老子』書は、それほど古い中国における文化的な遺産なのである。秦・漢帝国が成立する、それより何百年も前にすでに出現していたこの書物が、それにもかかわらず、最も中国人に愛読されてきたこと、中国人ばかりでなく、われわれ日本人にも、いや、世界の国々の人々に翻訳され、読み継がれてきたことは、まぎれもない事実である。つまり『老子』という書を書いた人物もはっきりわからなければ、いつごろできた本であるかも正確にはわからないのに、二〇〇〇年以上も経た現在に至るまで、その書物が存在し、世界の人々によって読まれてきている。それほど、この『老子』という書物は魅力のある本なのである。

 

いったいに、世界のどこの地域においてもそうだが、古い時代のことはよくわからない。歴史の源流に近づけば近づくほど、いわゆる歴史的事実も、その事実を構成した人物たちのことも、ぼんやりとした霞(かすみ)の向こうにおかれてしまう。いまここで文明の精神史的源流について語る余裕はないが、そういう源流、つまり文明の源には、こんにち生きるわれわれ世界人類にとって、まことに魅力のある人物が出現していたのである。インドのシャカ、ギリシアのソクラテス、中国の孔子やここで問題にされる老子という人物も、またそのひとりであるといえよう。しかし、文明の原点近くに存在した人物のことは、はっきりとした生没年や、その人の名にかけられた文献や書物とともにわからなくても、それがこんにちまで伝承されてきて、しかも、いささかも何千年も前に形成された価値を失っていないということは、考えてみると不思議なことである。人類の歴史が始まって二千数百年もたてば、そうとうに人間は進歩しそうなものである。確かに、人間の知識は進歩したから、現在、社会主義とか自由主義とか、その政治体制を異にしても、世界の国々の形成した科学文明は、いわゆる宇宙時代を現出している。しかし、人間の精神というか、生き方というか、そういうものは、二千数百年くらい経たところでは、それほど変わっていないのであろう。それなるがゆえに、古い時代の、著者の生没年もはっきりわからず、確かにその人物が書いたかどうかもわからない書物が、重要な文化遺産、人類の知恵として愛されているのであろう。

 

だから、文明の原点近くには、そういうはっきりとわからない人物に仮託された、そのころの人間たちの知恵の集積があったのだ、そういうものが、こんにちの文明社会を形成するエネルギーになったのだとも、またいえるであろう。話題が少しそれたようだが、老子という人物にかけられた『老子』という書物を読んでみると、原点近くに生存した人間の、賢さ・知恵・透徹さが感じられる。

 

さて、老子および『老子』書であるが、これについて全くわからないというわけではない。老子という人物の伝記がこんにちまで残されているのである。その最も古いものは、前漢中期、紀元前二世紀から紀元前一世紀ごろの大歴史家、司馬遷(しばせん)の書いた『史記』にみえる「老子韓非列伝(かんぴれつでん)」である。

 

われわれはまず、この司馬遷の残した資料を検討してみることにしよう。その前に、司馬遷という人がどんな人物だったか、かんたんにふれてみたい。

 

漢代の学問

 

経書の成立と歴史学

漢代の学問・思想の特徴といえることはそれ以前にはまだ諸子百家(しょしひゃっか)の一つにすぎなかった儒家思想が前漢武帝(紀元前一四一~紀元前八八)の時、董仲舒(とうちゅうじょ)の建言をいれて儒学を尊重する方針がきまり、以後漢王朝の指導~支配理念としての国教的性格をおびるようになり、諸子学に優位していちじるしく興隆したことである。儒学が官学になるにつれて、儒家思想のよりどころである経典(テキスト)の編成・整備が行なわれ、また、これに対する字句の解釈や注釈が、主として学問をする者の重要な任務となった。これを一般に訓詁(くんこ)の学風という。

 

どうしてこのような学問傾向になったかというと、それには理由がある。前代の秦帝国を創立した有名な始皇帝は、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)といって、思想統制のために史官秦紀以外の書物を焚(や)いたうえ、儒者を大量にとらえて穴埋めにした。やがて秦が滅び、漢代になってその統制が解かれると、天下に広く隠されている書物を求めることになった。貴重な書物、めずらしい書物を献上すると賞さえも出たということである。

 

とにかく禁令が解かれた漢代の儒者たちは、先秦時代の古書をあちこちと探り出して、これを研究することが仕事となった。最初に済南(チーナン)の伏生(ふくせい)という学者――秦から漢にかけて生きた人で、漢代の儒者にとっては古老ともいえる――の口伝えによって書きおろされた〝経書〟ができた。このテキストは、漢代の新体(その時の現代文字)で書かれたから、これを今文(きんぶん)という。のちになって、孔子の旧宅の壁中などから出たといわれるものは、先秦の旧体だったので、これを古文(こぶん)という。たとえば、『尚書(しょうしょ)』などはその代表的な経典で、口伝えで書かれた新しいものを『今文尚書(きんぶんしょうしょ)』、旧体の方を『古文(こぶん)尚書』という。今文の教書は簡単であるが、古文のものはかなり詳細である。しかし、今文といい、古文といっても、両方ともすでに原始儒家思想からは遠く離れており、いちがいにそのどちらが正しく、どちらが非であるともいえない。そこで、今文をテキストとして研究するグループと、古文をテキストにするグループとに分かれ、それぞれ一家の見解をたてようとしたのである。さらに同じテキストを用いても、それの解釈は異なってくるから、やはり『易(えき)』には五家、『今文尚書』には三家というように多くの学派が形成された。しかも前漢時代の学者には、とくに一経専問が多く、師の学説を墨守(ぼくしゅ)していたから、テキストの混乱がひどかった。

 

後漢時代になると、ようやくひとりで数経に通ずる学者が出てきたが、その末期に出た馬融(ばゆう)・鄭玄(じょうげん)というふたりの学者は、どの経典にも精通し、詳しい注釈をほどこした、また、前漢以来の諸説紛々(ふんぶん)たるテキストでは学生の教育にも困るので、後漢章帝の建初四年(七九年)には、多くの学者を宮中の白虎観(びゃっこかん)に集めて五経の本文の異同を議論させ、『白虎議奏(ぎそう)』というものをつくらせた。こんにち伝わる『白虎通』または『白虎通義』はこの時の記録である。このようにして、漢代の学問は、もっぱら伝承された儒家経典のテキスト-クリティークや、訓詁(くんこ)注釈の傾向にあった。

 

しかし、この反面、古典に対する統一的見解を求めたり、国家権力によって経文の異同を決定させることは、一種の思想統制であるから、漢代の学問、とくに儒学が独創的な性格をもち得なかったことも事実である。他面、テキスト-クリティークによって、『周易』『礼記(らいき)』『儀礼(ぎらい)』『春秋公羊(こうよう)伝』『春秋穀梁伝(こくりょうでん)』『春秋左氏(さし)伝』『尚書』『論語』など、最近では一部漢代の偽(ぎ)作だともいわれるように、その創造的側面は決して見のがし得ないものがあった。

 

わけても、漢代の学問で重要な成果は、歴史学の発達である。西洋のヘロドトスに比べられる司馬遷(しばせん)の『史記』や班固(はんこ)の『漢書』、荀悦(じゅんえつ)の『漠紀』などの傑作があいついであらわれ、また、『淮南子(えなんじ)』や『論衡(ろんこう)』のような思想的に深い著書も出現していたのである。

 

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