「人と思想」シリーズ

センチュリーブックス

ルソーってどんな人?

ルソーと聞いて学校で習った思想家だと思った人が多いかもしれません。それもそのはず、中学校や高校の教科書には必ず登場し、著書『学問芸術論』『人間不平等起源論』『社会契約論』『エミール』とともにフランス革命、そして後の民主主義、個人主義、近代教育思想に多大な影響を与えた啓蒙思想家として紹介されています。
教科書に載るということは、とても重要な人物だったのではないでしょうか。ルソーが今日のわたしたちにどのような影響を与えたのか、改めて知る機会になればと思います。

 

「人と思想」は、世界の思想家の生涯と思想を、時代背景や本人にまつわるエピソードを交えながら、分かりやすく解説した思想の入門書です。このシリーズの『ルソー』を参考に、Q&A形式で人物像を探ってみましょう。

 

 

Q.ルソーは何をした人ですか?


ジャン=ジャック・ルソーは、今から約250年前にフランスで活躍した思想家です。『社会契約論』や『エミール』など代表的な書物を出版し、後のフランス革命に大きく影響を与えた人物です。

 

ルソーは、著書『社会契約論』・『人間不平等起源論』において、人間の理想的な状態や幸福を自然の中で見だし、文明や社会による堕落から人間をいかに回復させていくのかを追求しました。要するに、個人の私的利益を追求する意思(特殊意思)・特殊意思の総和である全体意思は不平等であり、各人が公共の利益を求める意思(一般意思)は、自由と平等を保障するために全員がそれに従うことによって自由が保障されると考え、それにより、特殊意思・全体意思も満たすことになると説きました。
このような平等主義思想が、『フランス人権宣言』に大きな影響を与えました。

また、著書『エミール』は今でも教育学の名著として読み継がれるもので、教育思想家としても歴史に名を残しています。

 

Q.ルソーはどんな子供時代だったのでしょうか?


ルソーは、1712年6月28日、スイスのジュネーヴで時計職人の子として生まれましたが生後間もなく9日目で母を亡くし父方の叔母の養育を受け、父を手本に文字の読み書きなどを教わり、7歳頃から父とともに読書量が増え、亡き母が残していった小説や歴史書を好んで読む幼年期でした。この頃からルソーの思想は培われていたのでしょうか。

 

しかし、10歳の頃彼の人生は一変し、父が蒸発し孤児同然となり13歳のときに彫金師のもとへ奉公に出されますが、ルソーは日常的に虐待を受け、暴力に耐えきれずその後脱走します。生活環境が悪化していたけれど、読書の習慣は続いていて貸本屋で本を借りてたくさん読んでいたようです。
16歳の頃ヴァラン男爵夫人と出会い、お世話をしてもらいながら独学で哲学や歴史や音楽を学び、生活のために家庭教師や音楽教師・楽譜の筆写などをして働きました。

 

 

Q.ルソーはどのようにして思想家になったのですか?


ルソーは30歳の頃パリに出て、妻となる女性テレーズと出会い5人の子どもをもうけますが、生活苦から全員を孤児院に送っています。そして、1749年37歳の頃、友人のディドロの影響で『百科全書』の音楽のページを執筆します。38歳でアカデミーの懸賞論文として書かれた、学問や芸術が人間を堕落させるものであるという『学問芸術論』が見事受賞し出版され、徐々に思想家として頭角を現します。

 

その後、1762年50歳の時、後に影響を与えた『社会契約論』『エミール』を刊行し、それが危険思想と見なされ、逃亡し最期はパリ近郊で孤独と貧困のまま生涯を終えました。
ルソーは、人間の自由と平等をとなえ民主主義を表明し、結果的に「近代の父」と呼ばれるのにふさわしい思想家となりました。

 

 

Q.ルソーから影響をうけた人物は誰ですか?


『エミール』を読んでいたと言われる哲学者のカントは、ルソーから影響を受けた人物として有名です。また、ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ、フィヒテやヘーゲルなどにも影響を与えドイツ観念論の主軸に強い影響を及ぼしています。

 

また、日本では1882年(明治15年)に思想家・政治家である中江兆民が、『民約訳解』としてルソーの『社会契約論』を翻訳しています。兆民は「東洋のルソー」と呼ばれるようになり近代日本の自由民権運動にも大きな影響を与えました。
このように、ルソーが後に与えた影響はとても大きいものになりました。

 

 

Q.ルソーの名言はどんなものですか?


「はじめはなにもしないことによって、あなたがたはすばらしい教育をほどこしたことになるだろう」

 

「自然に帰れ」

 

「人間は自由なものとして生まれた。しかしいたるところで鉄鎖につながれている」

 

「われわれはいわば二度生まれる。一度は生存するために二度目は生きるために。一度は人類の一員として二度目は性をもった人間として」

 

「一般意思は万人に由来し、万人に適用されるものであるべきだ」

 

 

Q.主な作品について教えてください。


『学問芸術論』『人間不平等起源論』『社会契約論』『エミール』など。

 

 

ルソーについて、もっと詳しく知りたい方は、ぜひ人と思想シリーズ『ルソー』を手にとってみてください。

Amazonで購入する

シェイクスピアってどんな人?

シェイクスピアほどよく知られた劇作家はいないのではないでしょうか。もし名前は知らなくとも、『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』は聞いたことがあると思います。

ただ、どんな人物だったかと問われると、せいぜいイギリスの人とか、肖像画を見たことがある、程度で、なかなか具体的には答えられないことでしょう。

実は、シェイクスピアは、数多くの現代でもよく知られた作品を残したにも関わらず、日記も手紙も残っておらず、謎の多い人物です。そのため、シェイクスピアは実在の人物ではなく、同時代の哲学者フランシス=ベーコンが正体ではないか、のような説が唱えられたりしました。

 

「人と思想」は、世界の思想家の生涯と思想を、時代背景や本人にまつわるエピソードを交えながら、分かりやすく解説した思想の入門書です。このシリーズの『シェイクスピア』を参考に、Q&A形式で人物像を探ってみましょう。

 

 

Q.シェイクスピアは何をした人ですか?


ウィリアム=シェイクスピアは、今から400年以上も前にイギリスにいた劇作家です。『ハムレット』『ロミオとジュリエット』『リア王』など、現代でも世界各地で盛んに上演されている多くの作品を残しました。その作品には、多種多様な人物が登場し、数々の名セリフと共に、活き活きと描き出されています。

 

 

Q.シェイクスピアが活躍したのはどんな時代ですか?


シェイクスピアは、1564年にイギリス中央部のストラットフォードに生まれ、1616年に52歳の生涯を閉じました。この時期のほとんどは、イングランド王国のエリザベス女王の治世に当っています。社会的には、ルターの宗教改革による大変動が一応終息し、王国は安定にたどり着きました。同時に、ヨーロッパ全体が中世から近代へと移行しようという時期でした。

 

 

Q.家族はいたのですか?


シェイクスピアの父、ジョン=シェイクスピアは、革手袋を製造する店を営んでいました。商売に成功すると、町の政治にも関わるようになり、最後には町長にまでなりました。その父ジョンと、母メアリーの第三子で長男としてウィリアム=シェイクスピアは生まれました。兄弟姉妹は8人いましたが、半数は若くして亡くなっています。シェイクスピアについて残された少ない記録には、妹のジョウンがよく登場します。仲の良い兄妹だったようです。

シェイクスピアは、18歳でアン=ハサウェイと結婚し、翌年には長女スザンナ、2年後には男女の双子ハムネットとジュディスが生まれました。

 

 

Q.どんな子供時代を過ごしたのですか?


シェイクスピアが育ったストラットフォードは、エイヴォン川のほとりに開けた豊かな農業地域の中心地でした。エイヴォン川の北西には緑豊かな森林地帯が広がり、鹿やウサギの棲み家となっていました。夏には野の花が咲き乱れ、小鳥がさえずる美しい森だったそうです。シェイクスピアはその森でよく遊んだらしい。この体験が、ロンドンに住みながらも、シェイクスピアが田園詩人であり続けた理由でしょう。

 

少年シェイクスピアは、町の文法学校で教育を受けたと思われます。文法学校の教育は厳しく、朝の6、7時の祈祷からはじまり、途中わずかの休息を挟みながら、夕方5、6時まで授業が続きました。ラテン語の文法にはじまり、読解、作文などの訓練がなされ、シェイクスピアは文章創作の基礎をここで身につけたことでしょう。教科書には、ギリシャ・ローマの作家の作品が用いられ、ラテン語だけでなくギリシャ語にも及ぶ高度な教育でした。

 

 

Q.どのようにして劇作家になったのですか?


町長まで務めていた父は、商売に失敗し、政治からも遠ざかります。シェクスピア家は困窮してしまいます。その後も、シェイクスピアは文法学校で学び続けたのではないかと思われますが、詳しくは分かっていません。分かっているのは、18歳のときにはストラットフォードにいて結婚したということです。3人の子が生まれた後、1585年のどこかで、ロンドンの新しい世界に目を向けることになります。

 

アンとの結婚から、ロンドンに出て最初の数年の間、シェイクスピアに関する記録がまるで残っておらず、「失われた年月」と呼ばれる記録上の空白期になっています。1592年に、他の作家がシェイクスピアのことを「俳優にして劇作家」と言及していることから、どこかの一座に、俳優兼劇作家あるいはそのどちらかとして雇われていたのではないでしょうか。

 

1592年に、演劇界の先人で大学出の劇作家ロバート・グリーンに、「成り上がり者の烏」と罵倒を浴びせかけられたシェイクスピア。すでにこの頃には自分の作品をいくつか制作し、大衆の人気を得ていたのではないかと思われます。グリーンら大学出の作家にすれば、学問も家柄もなく、大衆の心を掴んでいるシェクスピアを苦々しく思っていたのでしょう。

 

こうしてシェイクスピアはロンドン演劇界に登場しました。

 

 

Q.主な作品について教えてください。


1594年〜1596年頃に制作された『ロミオとジュリエット』は世界各国でももっとも人気が高い作品の1つです。同時期には、『ヴェニスの商人』や『夏の夜の夢』も制作されました。

 

グローブ座の完成後、古代ローマのシーザー暗殺とその後の政権抗争をテーマにした『ジュリアス=シーザー』を制作し、1601年頃からは連続して悲劇の制作を行います。四大悲劇と呼ばれる『ハムレット』、『オセロ』、『リア王』、『マクベス』です。特に『ハムレット』は、シェイクスピア作品の中でもっとも人気が高いと言っても過言はないでしょう。

 

 

シェイクスピアについて、もっと詳しく知りたい方は、ぜひ、人と思想シリーズ『シェイクスピア』を手にとってみてください。

シェイクスピア_表紙

Amazonで購入する

福沢諭吉ってどんな人?

福沢諭吉といえば、「教科書に出ていたなぁ」とか「一万円札の人」とか、そういう印象ですよね。「慶應義塾」の創設者として知られているかもしれません。お札になるくらいですから、日本の偉人には違いないのですが、実際にどんなことをした人かと問われると、答えられない人も多いでしょう。

「人と思想」は、世界の思想家の生涯と思想を、時代背景や本人にまつわるエピソードを交えながら、分かりやすく解説した思想の入門書です。このシリーズの『福沢諭吉』を参考に、Q&A形式で人物像を探ってみましょう。

 

Q.何をした人ですか?


明治維新後の「文明開化」の指導者として近代文明の発展に大きな影響を与えました。その思想をまとめた著書『学問のすゝめ』は当時のベストセラーとなりました。冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉は、今の学校でも習うくらい有名ですね。
思想家であるだけでなく、教育者(こちらが本業か)としての功績は大きく、「慶応義塾」を創設しました。

 

Q.どんな子供時代だったのでしょうか?


1835年1月10日、豊前国中津藩(大分県)の蔵屋敷(大阪・堂島)に会計官吏として勤める下級武士福沢百助の二男三女の末っ子として生まれました。父は、役目がらにも似合わず、学問好きとして藩内で有名だったそうです。ただ、諭吉が2歳にもならないときに父が亡くなり、母は5人の子供を連れて中津に戻り、そこで暮らすことになりました。

次男坊ということで、読み書きも習わず放おっておかれて、ようやく13、4歳ごろから塾に通うようになりました。学んだのは主に漢学で、孟子・論語からはじまって詩経・書経や左伝・戦国策・老子・莊子を読みました。歴史は、史記をはじめ前後漢書・元明史略などを読み、ひととおり漢学者の前座がつとまる程度に上達しました。素質はあったようです。

 

Q.なぜ西洋近代文明に詳しくなったのですか?


最初のきっかけは、19歳のときに兄にすすめられた長崎での蘭学修業でした。中津藩でも西洋流の砲術を学ぶ必要性が議論され、まずは原書を読める人材を育てようということになったそうです。
1年後に大阪に移り、蘭方医・緒方洪庵の適塾に入門して本格的に蘭学を学び、やがて塾長となりました。
その後、1858年に江戸の中津藩邸で蘭学を教えることになり、江戸に移り住みました。1859年にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと結んだ修好通商条約の規定により、ひらけたばかりの横浜を見物にいった諭吉は、蘭学がまったく役に立たないことを思い知ります。これからは英語を学ばなければならないと覚悟を決めて、英学の勉強に取り組み始めました。
1860年には、幕府の咸臨丸に乗ってアメリカ・サンフランシスコを訪問する一行に加わります。帰国後、幕府の外国方に召し抱えられ、幕府の書物を自由に読む機会をえました。1861年には、幕府の遣欧使節に随行し、フランス・イギリス・オランダ・ドイツ・ロシア・ポルトガルを訪れます。
この間、並行して、塾で英学の授業も続けていました。
これらの経験と、書物による研究を通じて、西洋近代文明に詳しい英学者として名が通ってきました。

 

Q.代表的な著書は?


筆頭は『学問のすゝめ』、そして『文明論之概略』でしょう。日本の啓蒙思想を代表する著作として、今日では国民的な古典となっています。
その他、西洋の制度や社会状態、理念を紹介した幕末の代表作『西洋事情』や自叙伝『福翁自伝』など多くの著作があります。

 

Q.どのようにして「慶應義塾」を作ったのですか?


慶応義塾の起源は、1858年に中津藩江戸藩邸で蘭学を教え始めたことです。最初は、自身が2度も洋行したり、蘭学から英学に移ったりと、基礎も固まらなかったため、塾生はあまり多くありませんでした。
本格化するのは1863年から。参勤交代制度がゆるまり、藩邸の長屋が空き家になったため、5軒続きの一棟をまるごと借りたのです。それから、塾生が増え始め、1871年には三田に移転し、東京随一の私立学校となりました。

 

 

 

福沢諭吉について、もっと詳しく知りたい方は、ぜひ、人と思想シリーズ『福沢諭吉』を手にとってみてください。

 

福沢諭吉_表紙

Amazonで購入する

 

 

 

 

「人と思想」
おすすめ書籍

ページトップ