「人と思想」シリーズ

センチュリーブックス

人と思想81『シェイクスピア』ぱらぱら見

シェイクスピア_表紙

シェイクスピア_肖像

 

「ハムレット」「ロミオとジュリエット」「リア王」など数え切れないほどの名作を生み出したシェイクスピア。400年前のイギリスの偉大な劇作家とは思えないほど、私たちに身近な存在です。今日もどこかで舞台を観て、あるいは本を手にとって、その世界に魅了されている人も多いことでしょう。

一方で、その生涯については、ほとんど知られていません。生活の様子の記録が極めて少なく、日記も手紙も残されていないそうです。本書は、そのような困難な状況の中で書かれたシェイクスピアの入門書です。代表的な作品を紹介しながら、その時代背景やシェイクスピアの置かれた状況を踏まえて、分かりやすく解説しています。読み進めるにつれ、シェイクスピア作品を舞台で観たい、読んでみたい、という気持ちが高まってくることでしょう。

 

目次

シェイクスピア_目次

 

 

Ⅰ 新世界へ向けて

生まれと育ちと時代

シェイクスピア_p10-11

ウィリアム=シェイクスピアは、1564年、父ジョン=シェイクスピア、母メアリーの第三子で長男として、イギリス中央部のストラットフォードで生まれました。誕生日は、4月23日だったらしい。「らしい」というのは、はっきり分からないけれども、幾つかの理由によって一応この日に決められたとのこと。ちなみに、亡くなったのも4月23日です。

 

シェイクスピア_p14-15

父は、手袋製造業の店を営み、商売に成功すると町の政治に参加するようになり、町議会議員、収入役などの要職を次々と務め、最後には町長にまでなりました。

 

シェイクスピア_p20-21

少年シェイクスピアは、町の文法学校で教育を受けたらしい。これも記録が残っている訳ではないですが。よくシェイクスピアは無教育と言われますが、実際は、ラテン語を中心に、ローマ・ギリシャ作家の作品を教科書とした高度な文学的教育を受けていたのではないかと想像されます。

 

Ⅱ 劇作家への道のり

情熱と挑戦の習作期

シェイクスピア_p52-53

「この時期に彼が書いた作品群は、『ヘンリー六世』の三部作、『ヴェローナの二紳士』、『間違いつづき』、『じゃじゃ馬馴らし』、『リチャード三世』、『タイタス=アンドロニカス』、『恋の骨折損』。そして物語詩の『ヴィーナスとアドニス』と『ルクリース凌辱』である。シェイクスピアは30歳。ほぼ10年の時間で新進劇作家として名声を博すまでになっていた。」

 

飛躍から安定へ

シェイクスピア_p92-93

シェイクスピアが活躍した時代は、エリザベス女王(一世)の治世にあたります。女王の政治力のもと、当時のイングランド王国は大きな発展を遂げました。演劇好きだった女王の保護のもと、ペスト流行による劇場閉鎖などの苦難を乗り越えながら、イギリス演劇界も大きく成長しました。
1594年、シェクスピアは、宮内大臣がパトロンとなった宮内大臣一座に、俳優、劇作家、劇場経営者として関わることになりました。この時期、『ロミオとジュリエット』、『夏の夜の夢』、『ヴェニスの商人』など、いずれも観客の琴線に触れる作品を次々と制作しています。

 

Ⅲ 広大無辺の宇宙へ

新しい劇場、新しい活動

シェイクスピア_p112-113

1596年〜1599年にかけて、『ヘンリー四世』の第一部・第二部と、『ヘンリー五世』を制作します。この中には、シェイクスピア中期作品の傑作登場人物の1人、「フォルスタッフ」が登場します。

 

シェイクスピア_p124-125

1599年の秋には、かの「グローブ座」が完成します。

 

深まりいく人生

シェイクスピア_p152-153

「悲劇『ハムレット』が書かれたのは、1601年頃であった。この頃からシェイクスピアは、連続して悲劇の制作に取り組んでいる。その冒頭の作品が、理想主義的な青年を主人公にした、この作品である。」

 

シェイクスピア_p188-189

『あらし(テンペスト)』は、シェイクスピア最後の単独制作作品になりました。
1613年頃、若手の有望劇作家、ジョン=フレッチャーと共作した『二人の血縁の貴公子』、『ヘンリー八世』がシェイクスピア最後の作品となりました。

 

<内容と構成>

はじめに

Ⅰ 新世界へ向けて

生まれと育ちと時代

 

Ⅱ 劇作家への道のり

情熱と挑戦の習作期
飛躍から安定へ

 

Ⅲ 広大無辺の宇宙へ

新しい劇場、新しい活動
深まりいく人生
あとがき

 

年譜

参考文献

さくいん

 

 

<書籍購入>

Amazonで購入

 

人と思想12『パスカル』ぱらぱら見

パスカル_表紙

パスカル_肖像

 

「人間は考える葦である」「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら…」

どこかで一度は聞いたことがあるフレーズですね。17世紀フランスの哲学者、物理学者、数学者であったパスカル。これらは、その死後にまとめられた随想録『パンセ』に出てくる言葉です。

「考える葦」以外にも、数学のパスカルの定理や、圧力の単位パスカル(Pa)にも名前を残しています。天気予報で使われるヘクトパスカルはお馴染みですね。

これだけの業績を残している天才であったことは分かりますが、その生涯や人物像についてはあまり知られていないことでしょう。本書は、パスカルの思想と生涯を分かりやすく解説した入門書です。あの名言はどのようにして生まれたのか。気になる人はぜひ本書を手にとってみてください。

 

目次

パスカル_目次1

パスカル_目次2

 

Ⅰ はじめに

パスカルという人

パスカル_p10-11

「わたくしがはじめてパスカルの名前を聞いたのは、中学校の物理の時間においてであった。例の「パスカルの原理」(水圧機の原理)を学んだ。その時の中学校の先生はパスカルの生涯や思想について説明もしなかったし、したがってわたくしも、特別にパスカルという人について興味をもったわけでもなかった。」

 

Ⅱ パスカルの生涯と思想

子ども時代

パスカル_p30-31

パスカルは、1623年6月19日、フランスのオーベルニュ州クレルモン-フェランのデグラ通りの家に生まれました。身体は病弱でしたが、パリに移り、父エティエンヌ=パスカルによって独特の教育を授けられたパスカルは、11歳で三角形の内角の和の証明をするなど、早熟の天才ぶりを発揮していました。

 

ルアンの時代

パスカル_p40-41

1639年に父の仕事の都合でルアンに移り、ここで16-25歳までを過ごすことになります。父の仕事は税金の徴収で、その計算の苦労を軽減させるために、パスカルは「計算機」を発明します。この発明を機に、幾何学から物理学に興味が移り、当時の主要な問題の1つ、「真空」について実験を行いました。

 

決定的回心

パスカル_p82-83

病状は思わしくない中、社交生活の快楽を追求していたパスカルは、自分の仕事や社交界でのよろこびが本当に自分自身や人間にとって相応しいものであるか疑いはじめていました。パスカルは次第に神への信仰を深めて行き、決定的な回心がなされ、32歳のときにポール-ロワイヤル修道院に入ります。

 

ポール-ロワイヤル

パスカル_p96-97

修道院に入ったパスカルは、人が変わったかのように神の道に励みました。かつて医師に禁止されていたことを無視して徹夜や断食さえも行いました。かえって健康状態はよくなったそうです。

 

プロヴァンシャル

パスカル_p112-113

パスカルは、当時ジェズイットとジャンセニストの間で激しく戦わせられていた論争に巻き込まれます。ジャンセニストの陣営に加わったパスカルは、匿名で、ジェズイットを攻撃する一連の手紙「プロヴァンシャル」を書き続けました。

 

晩年

パスカル_p138-139

パスカルの健康は悪化し始めます。
苦痛と戦いながら、再び数学の研究に取り組みました。
後に、『パンセ』としてまとめられる著作の構想を始めるものの、未完に終わります。1662年8月19日、39歳2ヶ月の生涯を閉じました。

 

Ⅲ パスカルの人間論的思想

幾何学の精神と繊細の精神

パスカル_p158-159

「パスカルが「幾何学の精神」と「繊細の精神」の「二つの精神」を考えたことは、思想史的にも重要であり、直接にはデカルトに反対したことになる。しかし、それだけではなく、人間的にみても鋭い指摘であり、今日のわれわれにとっても切実な問題である。」

 

考える葦

パスカル_p172-173

パスカル_p174-175

「人間は自然の中で一番弱い一本の葦にすぎない。
しかし、人間は考える葦である。
人間をおしつぶすには、宇宙全体が武装する必要はない。
一つの蒸気、一滴の水でも
人間を殺すのには十分である。
しかし、宇宙が人間を押しつぶすときにも、
人間を殺す宇宙よりも、人間の方が高貴である。
なぜなら、人間は自分が死ぬことを知っており、
宇宙が人間よりもはるかに強力であることを知っているからである。
宇宙はそのことを何も知らない。」

 

<内容と構成>

Ⅰ はじめに

パスカルという人
パスカルの時代
パスカルの生活と業績

 

Ⅱ パスカルの生涯と思想

子ども時代
ルアンの時代
最初の回心
社交生活
決定的回心
ポール-ロワイヤル
プロヴァンシャル
晩年

 

Ⅲ パスカルの人間論的思想

幾何学の精神と繊細の精神
考える葦
気晴らし

 

年譜

参考文献

さくいん

 

 

<書籍購入>

Amazonで購入

 

人と思想84『アダム=スミス』ぱらぱら見

アダム=スミス_表紙

アダム=スミス_肖像

 

アダム=スミスといえば『国富論』が有名ですよね。経済学の父とも言われる18世紀のイギリスの経済学者・哲学者です。学校の授業で習った人も多いのではないでしょうか。

「アダム=スミス」の名前や著書『国富論』、その中に登場する「見えざる手」という言葉を社会のテストのために覚えたとしても、人物像や著書の内容を知っている人は少ないかもしれません。

本書は、アダム=スミスの生い立ちや時代背景、著書の内容に触れながらスミスの思想について優しく解説している、いわばアダム=スミス入門書です。『国富論』などスミスの著作を読む前に目を通しておくと、きっとより興味を持って読むことができるでしょう。

 

目次

アダム=スミス_目次

 

Ⅰ スミスの時代と生涯

ふるさとの町

アダム=スミス_p26-27

1723年に、カーコールディのハイ-ストリートで生まれたアダム=スミスは、14歳でグラスゴー大学に進学しました。当時は12歳前後での大学進学が普通だったので、身体が弱く遅れたようです…

 

大学教授として

アダム=スミス_p50-51

オクスフォード大学への留学を経て、1751年にグラスゴー大学論理学教授に就任しました。

翌年には、自らの希望で道徳哲学の教授に転じ、自然神学、倫理学、正義(法と統治)論、政治経済論の4部門に分けて講義を行いました。スミスの講義は評判がよく、特に最初の著作『道徳感情の理論』が出版されると、名声は国際的になり、他国からの留学生もやってきました。

 

フランス旅行

アダム=スミス_p58-59

グラスゴー大学の学部長、副学長を務めた後、大学教授を辞任し、バックルー公爵のフランス遊学に家庭教師として付き添いました。この時期、フランスの社交界とかかわりを持ち、思想家たちと交流を深めました。

 

『国富論』の誕生

フランスからの帰国後、いよいよ本格的に『国富論』の執筆に取り組みました。約10年後の1776年3月9日、ようやく『国富論』が刊行されました。この本は、スミスの生前に5版を重ね、すぐにドイツ、フランス、デンマークなどで翻訳されて、国際的に広がりました。

 

 

Ⅱ スミスの思想と学問

人間の把握

アダム=スミス_p94-95

「つまり、人間は利己的ではあるけれども、他人の幸不幸に関心をもたせるものを本源的にもっており、他人の幸福を必要なものたらしめる、というのである。」

 

商業社会

アダム=スミス_p130-131

「スミスは、富概念のコペルニクス的転回を行ったといわれる。つまり、スミスは、ほんとうの富は、お金ではなく、生活の必需品や便益品などの労働生産物だと考えたのである。お金は、それ自体では何らの人間の欲望も必要も満たしてくれない。お金で食料や衣服などを購入して、はじめてわたくしたちは、欲望や必要を満たすことができるのである。」

 

富裕への道

アダム=スミス_p156-157

「スミスは、社会の総資財は三つに分けられるという。第一は、消費者の手に渡って消費を待っている消費財である。第二は固定資本であり、第三は流動資本であって、利潤を生むのに使用されるのは、この二つである。家賃のような、利潤、賃金、地代のいずれかからの派生所得をもたらすにすぎない、貸家のようなものは資本に入らない。」

 

独占と特権への批判

アダム=スミス_p170-171

富裕への自然な歩みを妨げるものとして、長子相続制や同業組合、何よりもスミスが「商業の体系」と名付けた、重商主義の考え方と政策などを随所で批判していました。

 

国家の役割

アダム=スミス_p184-185

 

Ⅲ スミスと現代

スミスと日本

アダム=スミス_p202-203

『国富論』は、明治維新より10年ほど前に、ドイツ人医師のシーボルトによって、日本に持ち込まれていました。(ドイツ語訳版)

その後、明治17年から21年にかけて、イギリス版の最初の翻訳が出版されました。ただ、最初の翻訳書名は『富国論』だったそうです。

 

<内容と構成>

はじめに

Ⅰ スミスの時代と生涯

ロッホ-ローモンドの歌
ふるさとの町
文芸の興隆
大学教授として
フランス旅行
『国富論』の誕生
晩年の日々

 

Ⅱ スミスの思想と学問

人間の把握
社会形成の原理
富と道徳と法
新しい歴史観
商業社会
三大階級の社会
富裕への道
独占と特権への批判
国家の役割

 

Ⅲ スミスと現代

スミスと日本
スミス研究の意義

 

あとがき

年譜

参考文献

 

<書籍購入>

Amazonで購入

 

「人と思想」
おすすめ書籍

ページトップ