「人と思想」シリーズ

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人と思想66『ダーウィン』のまえがき+αを読んでみる

 

序言

 

いま日本における生物学史の最前線の研究者であり、とくにダーウィンに関し長年にわたって造詣を深めてこられた江上生子さん――ダーウィンの著作その他の資料の翻訳者でまた多数の研究論文の著者である――によって、新しいダーウィンの伝記が書かれたことを、私は心からうれしく思う。私の喜びは、まず何より私自身がこれまでしばしば江上さんと共訳者であり共同研究者であって、本書に江上さんのすぐれた研究成果の凝縮が見られることに深い感銘を受けるからである。だが私は、自分のこのような喜びを、本書のすべての読者にたいしても期待できると信じる。それは、本書が科学史という学問の立場から見て真に本格的な科学者伝記として評価されると思うためである。

 

おそらくすべての歴史がそうであるように、伝記もまた時代によって書き改められなければならない。過去の人間の生涯があとで変わることはないけれども、その存在意義はそれぞれの時代で見直されていくであろう。しかもダーウィンの場合、死後百年に近い現在なお個人的生涯に関する重要な資料――江上さんはその多くのものの訳者、紹介者である――が相次いで発掘されている。そしてこんにち、彼の学説や思想――生涯の間に変化もあるが――にたいして、信頼を強める人もあれば新たに問題を提起する人もあり、再検討、再評価が要請されつつある。実際、ダーウィンほど多くの伝記書がでている科学者はないのだが、ダーウィンのすべてがそれらでつくされてしまってはいない。本書は、まさに右にのべた要請にこたえるものである。

 

とはいえ、いうまでもなく、伝記がみな時代とともに古びて、存在価値を失っていくわけではない。それぞれの時点での全資料によって保証された客観性を土台として、筆者が自分の精神をこめて人物像を構成しえがきだす場合、それは人物分析の方法や人間観や人間精神の歴史的意義や、そのほかいろいろの面で、時代をこえた独自の存在価値をもつであろう。科学者の伝記においても、またそうである。本書は伝記のその規準に完全にかなうものであると信じる。

 

ダーウィン像の構成における著者江上さんの独創性は、書物の組立ての全体をつうじてあらわれているが、変異と遺伝、また学説の他の諸要素にたいして詳細な吟味にもとづき与えている個々の解釈や評価にもちりばめられている。本書が日本の生物学史における、そして江上さん自身における、ダーウィン研究の一層の発展のために、揺るぎない礎石となることを願わずにはいられない。

 

八杉龍一

 

目次

 

序言

ダーウィンへのアプローチ

Ⅰ ダーウィンのあゆみ

冒険の夢
「進化」の旅へ
進化理論をうちたてるまで
人間ダーウィン

 

Ⅱ ダーウィンの進化論

進化論と『種の起源』
発生・遺伝・進化
ヒトは何か
世界への視野
おわりに

 

年譜
参考文献
さくいん

 

 

ダーウィンへのアプローチ

 

貝・昆虫・鳥というようなさまざまな形の動物、細菌・蘭・松のような種々の植物――これらはどのようにして生じたのか。

 

神が個々の生物を創造したという考え方(個別創造説)がある。それに対して、諸々の生物は、自然の中で、自然の力で徐々に形づくられたという考え方(進化説)がある。

 

もし、進化説を採るとすれば、「いかにして」生物が形成されたのかが問題になる。この進化の機構の問題に「自然選択」という回答を与えたのがイギリスの博物学者チャールズ=ダーウィン(Charles Darwin, 1809〜82)である。

 

これからダーウィンの生涯、思想の概略について述べるわけであるが、そのまえに、ダーウィンに関する資料・研究、私とダーウィン研究とのかかわりなどについて記しておきたい。

 

二〇年余りも昔のことになるが、チャールズ=ダーウィンとアルフレッド=ラッセル=ウォレスが自然選択による進化理論を発表してから百年経った一九五八年、それを記念する事業の一つとして、ダーウィンの自伝が出版された。ダーウィンの自叙伝は、実はもっと昔、ダーウィンの死後五年を経て、息子フランシス=ダーウィンの編集による『チャールズ=ダーウィンの生涯と書簡』に収められていた。しかし、この自叙伝を公にするに当たって、当時健在であったダーウィン夫人や娘への配慮から、少なからぬ部分が削除されていたのである。それで新たに、ダーウィンの孫娘ノーラ=バーロウ女史によってそれまで伏せられていた部分が復活され、自伝の完本が出版されたのであった。

 

こうしてダーウィン自身が書いたとおりの形に戻された自伝についてのバーロウの解説に、ダーウィンの四男、レナード=ダーウィンの手紙が紹介されている。その手紙はバーロウに、かつての情況を伝えたもので、自叙伝の編集に際して、ダーウィンの長女、ヘンリエッタ=リッチフィールド夫人の意見が強く作用したことを示唆している。昔をふりかえってレナードは、「いまでは、『自叙伝』出版にかんして当時どんな感情の高ぶりが起こったかを思い出せる人間は私一人になりました」といい、ヘンリエッタが「出版をやめさせるために訴訟を起こすことも口に出す」ほどであった、という。また、未亡人、エンマ=ダーウィンが問題の箇所の出版に「反対して決定的なことば」をフランシスに与えたことをも暗示している。その結果、宗教に関する見解、人物を批評した部分などの六○ヵ所余りが削除されることになったのであった。

 

長短さまざまではあっても、重要な問題にもかかわるそれらの削除箇所が復活され、一九五八年に自伝が出版されたことは、ダーウィン研究上、大きな意義があったわけであるが、その邦訳が出たのは、それから十四年後である。

 

すでに戦前から進化思想の研究をされ、『近代進化思想史』(中央公論社)、『進化学序論』(岩波書店)、『ダーウィンの生涯』(岩波書店)を出しておられた八杉龍一先生(当時、東京工業大学教授)は、自伝の翻訳を意図され、たまたま当時、その研究室にいた私に、それをまず訳させ、共訳として出してくださった。それが私の「ダーウィン研究事始」であった。

 

『ダーウィン自伝』(筑摩書房)となったその訳業は思いのほか手間どり、始めてから三年ほどかかったと思う。自伝そのものの検討もさることながら、付録として加えられている豊富な資料の、細かな部分を調べるのにも時間がかかった。それは、ビーグル号の航海に関する文書類、夫人の宗教についての手紙、結婚の是非について考察した若いころのメモ、晩年のサミュエル=バトラーとの論争等々である。

 

伝記を書く場合、その人の自伝があれば、それに頼るというのは、ある意味では当然ともいえるのだが、私がダーウィンを書く場合、あまりに自伝に頼りすぎているとの批判が生じるかもしれない。ダーウィン研究の中でまず自伝の翻訳にたずさわったために、ともすればそうなりがちなのを、今恐れている。私は努めて、その自伝が書かれた背景を考慮し、また自らを語る場合に陥りがちな誇張や、逆の控え目な表現、そして自己弁護といったようなもの等々を、吟味しなければならないと思う。そうした上で、ダーウィンの自伝に依り、また多くの資料を参照して、この第Ⅰ編生涯編を描いていきたいと思う。

 

自伝の翻訳の整理をしながら私は、ダーウィンを育てたものは何だったのか、進化理論を生みださせた原動力は何だったのか、思いをめぐらせた。

 

ダーウィン研究は世界的に盛んで、ダーウィン関係の論文や研究書は、読むのが追いつかないほど、次々と発表される。かりに、①新しい資料の発表を主としたもの、②科学方法論的な問題を論じたもの、③優先権(プライオリティ)など史実的な問題に関するもの、④その他、と便宜的に内容を分けてみると、最近一○年間に出版された書物に限っても、①に属するものとして、R.C. Stauffer(ed.), “Charles Darwin’s Natural Selection”(『自然選択』)、①および②にまたがるものとして、H.E. Gruber, P.H. Barrett, “Darwin on Man”(『ダーウィンの人間論』)、②に属するものとして、M. Ghiselin, “The Triumph of the Darwinian Method”があり、③には、ごく最近出版された L. Eiseley, “Darwin and the Mysterious Mr. X”があるが、ウォレスの側からこの問題を扱った H.L. Mckinney, “Wallace and Natural Selection”もあり、④には、E. Manier, “The Young Darwin and His Cultural Circle”(『若きダーウィンと教養』)というように、非常に多い。

 

はじめの二冊について簡単に紹介しておこう。最初に挙げた『自然選択』は、ダーウィンが、『種の起原』の執筆にとりかかるまえに計画していた大著の草稿で、結局、未完となったものである。『種の起原』は、あとで述べるような事情(八四ページ参照)から、急いでまとめられたものであり、『自然選択』の要約であった。今、この草稿が活字となって出版されて、ダーウィンが当初書こうとしたものがどのようなものであったか、明らかになったのである。

 

次に挙げた『ダーウィンの人間論』は、ダーウィンの思索の発展を研究した部分と、新たな資料である、人間やモラルの問題についてのダーウィンのM・Nノート(man, moral の頭文字を使って“M”と呼んだのかもしれない)の内容を活字にした部分との二つからなる。前半の著者グルーバーは、発達心理学者の立場から、ダーウィンの認識の発展、創造的思考、を分析している。ダーウィンの時代、環境などを描く「知的背景」、自然選択の理論がつくられた過程を問題にする「進化的思考の展開」、人間についてのダーウィンの考察に注目した「人・心・唯物論について」の三部から成る。とくに、一八三七〜三九年という若い時代に焦点をしぼって、理論の形成、変容、新たな形成……が、構造主義に基づいて解明されている。

 

バレット編の資料の部分は、ダーウィンののちの著作、『人間の由来』、『ヒトと動物の感情の表現』と関連する内容も少なくないが、ダーウィンが日々記した覚書である。断片的で理解が困難な点もあるが、思考は飛躍し、速記的でおもしろい。

 

ダーウィンという、科学のみならず、世界の思想の上に大きな足跡を残した人物の原稿やノートが、死後百年近く経た今日、やっと出版されて読むことができるようになったというわけである。④に挙げた『若きダーウィンと教養』は、こうした新資料に基づいた、ダーウィンの研究である。

 

新しい資料によって、これまでのダーウィン像が全く変わってしまうということはないにしても、いくつかのこれまで知られていなかった側面も発見されることになった。そうした新知見に基づいたダーウィン像を、本書に描いていきたいと思う。

 

『ダーウィンの人間論』の翻訳の話がでたのは、八杉先生が早稲田大学に移られたあと、かなり経ってからであった。私は、八杉先生のあとの職を継がれた道家達将先生のところで、相かわらず、生物学思想史の勉強を続けていた。しかし、頻繁に八杉先生の指導を受ける条件にないところで、しかも私が中心になって進めていかなければならない仕事ということで不安はあったが、その翻訳は、道家先生の指導の下に、研究室の若い二人の研究生であった月沢美代子、山内隆明の両氏と私の力でなんとかやりとげることができ、『ダーウィンの人間論——その思想の発展とヒトの位置』(講談社)となった。

 

とはいえ、翻訳は、前半のグルーバーの著した部分だけで、後半のノートの内容を主とした新資料については、日本語では、未だほとんど紹介されていない。こうしたノートの類は、必ずしも翻訳という形が適切とは思われないが、機会があれば何かの形で紹介したいと思っている。

 

前後するが、その翻訳の作業が半ば終了したころ、八杉先生は、出版社からの依頼で、ダーウィンの著作からの抜萃(ばっすい)と解説を付した書物を編む準備をしておられた。先生は、私が、M・Nなどのノートに目を通しているのを知っていてくださり、『ダーウィン』(平凡社)というその本の中の人間観の章を担当するようにすすめられた。そこで、『人間の由来』、『ヒトと動物の感情の表現』からの抜萃と、M・Nノートなどのメモを抜き出して配列し、小さなものであったが、「ダーウィンの人間観」(と私が思うもの)をまとめて一つの章とした。

 

この二つの仕事を通して、私は、ダーウィンの人間を見る目、人間をとらえる心を観察することができた。それは、これまで思い描いていたダーウィン像に、もっと生き生き輝く目と、柔軟な心をつけ加えたように感じた。また、M・Nノートで興味深いのは、ダーウィンがその時々に挙げている人の意見、本や著者の名である。彼がどんな人の、どのような発言に触発されたか、そこから垣間みることができる。こうしたものについてもっと突っこんで分析したいと思いながら未だ十分に実現はできないでいるが、本書の思想編のところで、できるだけそれに触れたいと思う。

 

仕事の上で私がこれまで、ダーウィンとどうかかわってきたか、どのようにダーウィンに近づいてきたかを述べながら、本書へむかう私の希望を書いてきたが、ここで、これを執筆するために、どのようにダーウィンに近づいていこうとしているのか、もう少し具体的に記しておきたい。

 

ダーウィンに近づく、あるいはダーウィン像をつくるといいかえてもよいかもしれない。そのためには、これまで私のしてきた仕事が軸になるには違いないのであるが、それに加えて私は、いくつかのことを本書の中に示したいと思う。その一つは、当然のことながら、ヨーロッパ、イギリスの思想の上にダーウィンの思想を置くということである。もう一つは、古い資料も見直すということであり、三番目は、これまで余り紹介されてこなかった側面にも目をむけるということである。

 

最初の点については、イギリスでは誰もが読んでいるような古典とダーウィンの思想を照らしあわせてみたいということであり、また、ダーウィン以前の進化論とダーウィンのそれとを比較したいということである。ダーウィンが読んだホワイトの『セルボーン博物誌』やフンボルトの『南アメリカ旅行記』、マルサスの『人口論』、ロックの著作などが持った意味を考え、また、『種の起原』の思想を、エラズマス=ダーウィンやラマルクの進化論と比べてみたいのである。

 

二番目の点は、フランシス=ダーウィンの編集による『生涯と書簡』の書簡やノラ=バーロウ編『ダーウィンのビーグル号日記』など、邦訳されていないが、基本的な資料を入れていきたいということである。『生涯と書簡』には、息子の眼から見た父親ダーウィンの回想も付され、自伝には記されていない最晩年のダーウィンの姿を伝えている。『ビーグル号日記』は、内容的に『航海記』に吸収されている部分が多いが、ダーウィンの新鮮な感動を直接日記から読むのもおもしろいと思う。

 

最後の点については、初期の地質学者としてのダーウィンの活動、『種の起原』以前のダーウィンの考え方、進化理論の構想、といったものに触れたいということである。

 

これまで私の仕事と、この三つをもとにした方法によって完全なダーウィン像が描けるなどとは考えていないのだが、可能なかぎり鮮明な像を描きたいと思う。

 

以上に言及したもののほかにも、日本で最近出版されたダーウィン関係の書物は、翻訳も含めると、かなりな冊数になる。今西錦司著『ダーウィン論』(中央公論社)、ノーマン=マクベス著『ダーウィン再考』(草思社)、ド=ビア著『ダーウィンの生涯』(東京図書)がある。また、バジル=ウィリー著『ダーウィンとバトラー』(みすず書房)もごく最近邦訳されたし、筑波常治編『ダーウィン』(講談社)も予定されているときく。

 

今西氏は、以前にも「ダーウィンと進化論」(中央公論社『ダーウィン 人類の起原』所収)を書かれているが、『ダーウィン論』では、氏の独自の生態学的研究成果を踏まえてダーウィンの自然選択説を批判している。マクベスの『ダーウィン再考』は、法律家である著者が、論理の問題としてダーウィンの理論を批判したものである。マクベスが生物学のアマチュアであるのに対し、『ダーウィンの生涯』の著者、ド=ビアは、ダーウィンの種の問題についてのノート(B・C・D・Eノートと名づけられている)を一九六〇年に活字にして出版したダーウィン研究家であり、また、比較発生学を専門とする生物学者でもある。ド=ビアによるダーウィンの伝記は、むしろ、「科学者ダーウィン」とでもいったほうがよいほど、科学者としての側面、業績が詳しく解説されている。

 

本書の読者の方々が、これら広い範囲のダーウィン関係の書物を併せ読まれることを期待したい。

 

 

Ⅰ ダーウィンのあゆみ

 

冒険の夢

 

出発の日

一八三一年の暮れ、一二月二七日、イギリス海軍の測量船ビーグル号は、ようやくプリマス州のデヴォン港を出帆した。ヴィクトリア女王の治下、イギリス国内はヨーロッパ諸国に先がけて産業革命が進行しつつあった。手作業が機械に置きかえられ、鉄道が開通し、自由主義が盛んになってきた。

 

そのころ、チャールズ=バベジは、計算機の作成にとり組んでいた。フランスのジャカール織機に着想を得た彼の発明による計算機は、「ちょうどジャカール織機が花や葉を織るように、解析機関は代数的な模様を織る」(ゴールドスタイン著 末包良太ほか訳『計算機の歴史』共立出版)といわれるようになる。

 

悪天候にさいなまれて二度も引き返した末、この日の出港となったビーグル号の目的は主に南アメリカ沿岸の測量であった。前の航海で傷んだ箇所を補修したため少し重量が増して二四二トンとなった三本マストのビーグル号は、それから五年間、六四〇〇〇キロ以上の航海をすることになる。この船、ビーグル号が、のちに、進化論の確立者ダーウィンの名、そして、進化の島ガラパゴス群島の名と並んで、科学史上、最も有名な船となることなど、当時は誰も想像しなかったにちがいない。

 

ダーウィンが航海の途についた前年、ドイツでは、「七月革命が勃発したというニュースが今日ヴァイマルへ届き、すべてが興奮のるつぼに投げこまれた」という。詩人で形態学者でもあった晩年のゲーテは、しかし、革命ではなく、同じフランスのアカデミックな論争——キュヴィエとジョフロワ=サンチレールの動物形態学上の——を話題にし、サンチレールという「強力な同盟者を得た」と述べている(エッカーマン『ゲーテとの対話』岩波文庫)。

 

一方、七月革命の影響はイギリスへも及び、三二年の選挙法改正をもたらす。が、これはブルジョワジーのみの利益になるもので、労働者には選挙権が与えられなかったことを不満とした労働者階級の運動は、やがて大規模な選挙権獲得の運動、チャーティスト運動に発展する。それは、ダーウィンが航海を終えていよいよ進化理論の構築を進める時期であり、日本では、天保の飢饉、そして、大塩平八郎の乱など、徳川幕府のゆらぎ始めたころのことである。

 

無給の博物学者としてビーグル号に乗り組んでいたダーウィンは、ケンブリッジ大学神学部に学んだB・A(バチェラー―オブ―アーツ)という肩書きだけの二二歳の青年であった。はじめて長期の旅に出掛けるダーウィンは、憧れの南アメリカに向けて帆走する船上で、冬の海をみつめていた。出港の日の日記は、一週間後にメモ風に記録されているだけで、そこに彼の気持ちを読みとることはできない。「一一時に錨を引きあげた。……時速七、八ノットで走った。当日夕方は船酔いはしなかったが、早くベッドに就いた。」(『ビーグル号日記』)

 

快い風にのって走る船のベッドで、彼は何を思っていたのであろう。乗船に至るまでのあやうかった経緯(いきさつ)を回想していたかもしれない。あるいは、フンボルトの『南アメリカ旅行記』を読んで以来の憧れの南半球行きに、はやる心を鎮めようと努めていたかもしれない。あるいはまた、港に足止めされた二ヶ月間——「かつて過した時のなかでもっともみじめな」——を反芻していたかもしれない。

 

 

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人と思想6『アリストテレス』のまえがき+αを読んでみる

 

アリストテレスについて

 

「われわれはギリシアに何を負うているか。」ブッチャーの古典的な名著『ギリシア精神の諸相』はこの句ではじまっている。西欧の人びとは古典ギリシアの自分の魂の故郷を認めている。たしかに、その科学も文化も文学もギリシアにその源を発している。だが、古典ギリシアの真の意味の解明は、ヒースがその『ギリシア数学』で謙虚にいうように、まだ手をつけられたばかりである、といえよう。

 

それにしても、ギリシアは何を寄与したのか。科学や哲学の領域でかれらが用いた方法はしばしば誤ったものであり、その結論も不条理であった。それにもかかわらず、なお人びとが賛嘆と畏敬(いけい)の念をもって古典世界に目を投じ、自分の思考をぶつけるのはなぜなのであろうか。一口にいって、そこでわれわれのふれるギリシア精神とはどういうものであろうかわれわれは、ブッチャーのいうところを聞いてみようではないか。

 

ギリシア人はたじろがない眼をもって遭遇するあらゆるものを、人間と世界とを、生と死とを観察した。かれらは自然に向かって問いかけ、狐疑もなく躊躇もなく、自然からその秘密をもぎとろうとした。ひとたび真理への情熱にとりつかれるや、勇敢にも理性に信頼し、その尊きに従ったのである。「論証が導くところへは、どこであろうと、そこへ進もうではないか。」このプラトンの言葉は、この一面をはっきりとあらわしている。

 

一般的にいって、東洋の民族は宗教心を刺激する漠然とした知識に満足して、薄明の境にさまようことを愛していた。人間の眼から神をおおいかくしているベールをひきのけることを冒瀆と考えていた。神聖なものに対するこの畏怖からは、原因の研究だの起源の探究などはでてこない。沈黙のうちに体験される漠然たる神人一体感、自然との合一感至上のものであるようにみえる。ギリシアはこういう沈黙を突き破った。そして、確固とした悦ばしい本能をもって知識の追求をはじめた。時にはばまれ、時に途方にくれることもあったろう。が、その探究はあくことを知らなかった。あたかも思考の実験室のように、ありとある思考をこころみ、相互にたたかわせた。そして、その間に一つの共通の観念を生み出したのである。それこそ東洋の知らなかった、しかし近代科学の出発点となった観念であり、その内容は「自然は法則によって働くのだ、」という観念であったのである。

 

この観念は、経験的な知識の領域をこえて、人知を学問的な知識へとおしすすめようとした衝動が形をとったものといえよう。とはいえ、かれらがこの衝動のおもむくままに思考をすすめ、敬神の念などまったくなかった、というわけではない。ピタゴラスは有名な数学の定理――直角三角形の斜辺と二辺に関する定理――を発見したとき、感謝のために神に犠牲(いけにえ)を捧げたといわれる。プラトンは、神は幾何学する、といった。これらは、法則が宗教的根拠をもっていることを確信していた。すすんで、澄明な法則の凝視こそ神の理性を認めることであった。つまり、かれらにあっては、知識の探究と敬神とは同体のものと考えられていたのである。だからして、アリストテレスが最善の生活として観照的生活をあげたとき、その観照というのは理性を完全に働かせることである。漠然とした神人一体感を味わう冥想ではなかった。

 

ギリシア精神は、いってみれば科学的精神といえよう。どこまでも未知のものを解明しようとする精神である。そして、もしこの面で代表的人物を求めるならば、アリストテレスこそその人であろう。世界第一の賢者といわれ、万学の祖といわれるこの人こそ、改めて見なおされるべきであろう。というのは、かれの哲学ほどいろいろなとりあつかいをうけたことはなかったろうから。まず、その死後、著作は散じてしまった。ようやく、全集としてまとまったのは、その死後、二世紀半もたってからであった。しかも、中世を通じて、かれの哲学は排斥され、ようやくアキノのトマスを通じて中世の権威となったのは一三世紀のことであった。だが、ルネサンスとともに、教会と結合しているとの理由で、かれの科学は攻撃のまととなり、一七世紀初頭にはガリレイの実験によって、アリストテレスの落下法則の誤りが指摘されている。こういう事情をみてくると、いったいアリストテレスは真に理解されてきたであろうか、という疑問すら生じてこよう。アリストテレスの結論とした落下法則が誤っているにしても、そういう結論を導き出すにいたったかれの思考そのものが誤っているとはいえまい。誤りに陥らざるをえない条件があったとした(そういう条件は、二〇〇〇年の時間のへだたりを計算にいれれば、ありうることとだれも思うであろう――)、アリストテレスの思考そのものが誤っていたことにはならないであろう。そして、われわれが学ぶのは、教会の権威となったり、学の権威づけのために必要なアリストテレスではなかろう。むしろ、どこまでも真理を追求してやまない科学者の態度であろう。それこそ、現代の人にとっても肝要な態度であろうから。

 

それにしても、アリストテレスは難解である。その膨大な著述のいずれもが、いつどこで書かれたのかわからない。その年代決定はむしろ不可能といったほうがよかろう。しかも、その研究領域はきわめて多岐にわたる。その間に一貫したアリストテレスの思想をつかみだすのは容易でない。その点を追求するとき、わたくしはかつてアリストテレスの解釈の基礎となったイエーガーの所論には満足できなかった。そこで、主としてデューリングの見解を参照することにきめたのである。真珠玉のような各領域でのアリストテレスの研究をつらぬく金の糸を、この書が暗示しているように思われたからである。

 

 

目次

 

アリストテレスについて

 

Ⅰ アリストテレスの生涯と著作

生涯

伝記の資料とアカデミー入学まで
アカデミーの学員時代
遍歴時代
巨匠時代

著作

アリストテレスの著作についての伝承と編集
アリストテレスの著作と発展史的研究

 

Ⅱ アリストテレスの思想

論理学

倫理学の諸要素
アリストテレス倫理学の意義

第一原理

プラトンとの比較において
アリストテレスの第一原理

イデア論の批判

イデア論の批判の時期について
イデア論批判の主要点

自然の根本現象

人間の生活

倫理学
政治学

アリストテレスの存在論

存在としての存在の探求
実体論

 

年譜
さくいん

 

 

Ⅰ アリストテレスの生涯と著作

 

生涯

 

伝記の資料とアカデミー入学まで

 

伝記資料

アリストテレスの伝記については、他の哲学者と同様に、いちばんよくひかれるのはディオゲネス=ラエルチオス(三世紀中ごろの人)の『著名な哲学者の生涯と教説』である。この著作自身は、哲学の内容に深く立ち入ったものではなく、しばしば逸話のようなものを記載している。が、この種の著作で現存しているものはまれなので、最も広く利用されている。この著作中のアリストテレスの項は、前半まではいろいろな伝承をたよりに生涯の経緯を記載し、やがてかれがいったといわれる言葉や、他人の批評を、最後に著作目録をかかげ、それの簡単な内容解説をつけて終わっている。

 

もちろん、前述の検討を要する事項も含んでいる。以下にわたくしが記録した内容は、デューリング『古代の伝記についての伝承におけるアリストテレス(I. Düring:Aristotle in the Ancient Biographical Tradition. 1959)』を参照にしたものである。

 

アカデミー入学以前

ディオゲネス=ラエルチオスの記載をみてみよう。そこで次のようにいっている。「アポロドロス(前一八〇年ごろの生まれ)は、その年代誌の中で、『アリストテレスは九九オリンピア紀の第一年(前三八四/三年)に生まれた。プラトンになじみ、一七歳でその弟子となり、二〇年間かれの許にあった。一〇八オリンピア紀の第四年(前三四五/四年)エウブーロスがアルコンのとき、ミチレネに行った。プラトンが同じオリンピア紀第一年(前三四七/六年)テオプィロスがアルコンのときに死んだとき、かれはヘルミアスのところー行き、そこに三年滞留した。』と。」かれの生まれた場所は、ストリューモン湾にのぞむカリキジケ半島のイオニア人の植民市スタギーロスであって、その家は代代マケドニア王に仕える医師であった。かれの父ニコマコスも、アレキサンダー大王の祖父にあたるアミンタス三世(前三九三~前三六九年ごろ在位)に仕えた侍医であった。だから、アリストテレスはその幼少期をベラの王宮になじんで過ごしたであろう。父は早くしてこの世を去ったが、その年代はわからない。後見人となったのはプロクセノスである。

 

プロクセノスとアリストテレスの関係ははっきりしない。ある伝承はかれが母方の叔父であったといっているし、ある伝承はかれがアタルネウスの生まれで、アリストテレスの義兄であったといっている。で、この際、かれの遺言や伝承から、アリストテレスの家族関係を大胆に推察して、図のようだといわれている。かれの家は、遺言にもあるように、スタギーロスの家屋、カルキスの母方の家屋、かれの世話をした数人の人物などがあったのだから、かなり裕福な家庭であったろう。アリムネストスも子どもをもたずに死んでいるのだから、父祖の遺産はアリストテレスに帰したものと思われる。純粋にかれの相続した分はよくわからないが、いずれにしても相当なものと考えられよう。また、この家族関係から考えて、プロクセノスもおそらく医者であったと思われるのであって、そのアタルネウスでの生活もゆとりのあるものだったにちがいない。なお、かれが母方の叔父ということになる、叔父と姪が結婚したことになる。が、このような事例はギリシアの社会では普通のことであり、とくに相続分を守る際にとられる手段ですらあった。

 

で、プロクセノスは、かれをアタルネウスに連れていき、そこで指導したであろう。だが、このアリストテレスの若いころについては、なんの報告もない。推察しうることといえば、かれが子どもの頃よりアタルネウスの市をよく知っており、裕福な医者のかかり人として、当時の最上の基礎的な教育をうけたであろう、ということだけである。後になって、医者も実際の仕事をするためには、やはり基礎的な科学的・哲学的教養を必要とする、といっている点からすれば、かれは知的環境に育ち、若い時から当時の学問上の著作に接していた、と思われる。もちろん、その中にはプラトンの著作も含まれ、その哲学に深い感銘をおぼえていたことであろう。そうでなかったら、プロクセノスにともなわれてアテナイに来たとき、数ある学派(なかでもイソクラテスの修辞学は傑出していた)の中で、とくにプラトンのアカデミーをえらぶ理由はなかったであろう。

 

 

アカデミーの学員時代

 

アリストテレスのアカデミー入学

前三六七/六年、アリストテレスは一七歳でプラトンのアカデミーに入学した。きっとかれの希望にしたがって、プロクセノスが連れてきたのだろう。このときのアカデミーの状況はどうであったか。プラトンは六一歳に達していたが、二回目のシシリー旅行に出発していた。シシリーの僭主ディオニソス一世はこの年に没し、その義弟のディオンはディオニソス二世をたすけて、プラトンの理想政治を実現しようとして、かれを招いたのであった。プラトンはそこでディオニソス二世の師となる予定であった。プラトンは喜んで出発した。が、結果はきわめて不首尾なものであった。ディオンは宮廷の派閥抗争の結果追放され、プラトンは城内に留置され、願った帰国も許されなかった。ディオニソス二世はほんのしばらくの間であったが、プラトンの教えをうけ、その偉大さを知っていた。僭主としては、世間体を考え、帰国を許すことができなかったとも想像されよう。のち僭主が自ら戦場におもむかねばならなくなった時期になって、ようやく、必要なときにはいつでも帰ってくるという条件つきで、帰国が許可された。プラトンはこれよりのち前三六一年のはじめに三たびシシリーに旅立つことになるが、その間プラトンがアテナイにいた期間はわずか三年ほどと考えられる。つまり第二回シシリー旅行から帰ったのは、前三六五/四年ごろのことであったろうと推定されよう。

 

アリストテレスが入学したのはこの時期である。アカデミーでは、プラトンにかわって、エウドクソスが学頭の代理をつとめていた、といわれる。そこでまずアカデミーで、アリストテレスに影響を与えたと思われるエウドクソスについて述べておこう。ディオゲネス=ラエルチウスによれば、クニドス生まれのエウドクソスは幾何学・天文学・医術・法律に卓越した人物だとのことである。つまり、幾何学はタレンツームのアルキタスに学び、かれの同心球でもって天体の運動を説明する着想もアルキタスに負うところ大であったという。かれは前三六五年に盛期(アクメー)に達したとのことであるから、その生年は前四〇八年ごろであり、五三歳で没したというからその没年は前三五五年であると推定されている。二三歳のとき(前三八五年ごろ)、かれはソクラテスの学派の名声にひかれ、医者テオメドンとともにアテナイに来たといわれる。かれは非常に貧しく、ピレウスに滞在し、毎日歩いてアテナイにとぼとぼとかよい、二カ月の間、哲学や説得術などの講義に出席し、とくにプラトンの講義を聞いたといわれる。かれがアルキタスに幾何学を、フィリスティオンに医学を学んだ時期は、アテナイ訪問以前であったであろう。アテナイからクニドスに帰り、その後アゲシラオスからもらったネクタネビス王宛紹介状をもってエジプトに渡っている。その時期は前三八一/〇年のことであろう。エジプトに一六カ月滞在したのち、キジコスに行き、そこでかれは学派をひらき大勢の弟子にかこまれることになったが、こえて前三六八年にはかれらを連れてアテナイに移住した。プラトンとかれの関係については、いろいろに伝えられている。すなわち、エウドクソスはいつもプラトンに敵対していたとか、逆にプラトンとともにエジプトへ行ったとか、前三六一年にはいっしょにシシリーへ行ったとか、というようなものである。だが、いずれも信じがたいもののようである。

 

一七歳の入学したてのアリストテレスにとっては、四〇歳の円熟したエウドクソスは魅力的であったにちがいない。後年『ニコマコス倫理学』の中で、エウドクソスの「快楽がすなわち善」の説を引用している所では、アリストテレスはこういっている。「この論議は、論議それ自身のゆえによりも、より多くかれの倫理的性状の卓越性のゆえに信用を博した。というのは、かれはきわだって節制的なひとであると考えられていたからであり、だからして快楽の友としてかれがそういうのではないと考えられ、ほんとうにその通りなのだろうと考えられた。」と。また、その『形而上学』の中ではエウドクソスの『速度について』の一部を引き合いに出している。つまり、アリストテレスは、人格の面からも学問の面からもエウドクソスからつよい影響をうけたであろう、と推察されよう。

 

やがて、プラトンは帰国した。この時期をプラトンの思想発展のうえからみると、ちょうど中期より後期への移行時期にあたっている。対話篇でいえば、『ファイドロス』『パルメニデス』『テアイテトス』の諸篇の書かれた時期である。これらの諸篇はいずれも、中期に頂点に達したイデア論に省察を加え、より正確なものにしようとしている著作である。この著述をめぐってアカデミー内部でも、イデア論をめぐる論争が絶えなかったことであったであう。アカデミーの雰囲気は、学頭がドグマを押しつけるような重苦しいものではなかった。弟子たちが自由に共同に討議をし、したがってまた、弟子たちの間での論争もはげしいものであったであろう。もしそうだとしたら、アリストテレスの『イデアについて』なる断片は、この時代のものなのではあるまいか。イエーガーはこの断片を前三四八年より前三四五年にいたるアリストテレスのアソス時代のものとしているが、そのように早急に断定できるであろうか。このことは思想編で述べるとして、これだけにしておこう。

 

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ソクラテスについて

 

ソクラテスの死と現代

われわれは、自分に最大の贈物をするとしたら、なにをおくるであろうか。また、他人にそうしたいときには、なにをするだろうか。今、おまえはかならず死なねばならぬ、と宣告されたとしたら、なにを考えるであろうか。あなたには、死と交換しても、惜しくないものがありますか、ときかれたら、なんと答えるであろうか。さらに、われわれのもっとも深いよろこびはなんであろうか。それはどういうばあいであろうか。はたしてわれわれは、真の幸福を求めているのだろうか。

 

ソクラテスは、これらの問いに明白な答をしている。すくなくとも、右の問いの一つには解答をあたえている。それをたんにことばで行なったのではない。かれの行動をとおし、身をもって示している。だから、かれは、われわれがこれらの問題にぶつかったとき、その実例をひっさげて迫ってくるのであろう。

 

ソクラテスは殺されてしまったではないか。死が答であったというのでは、現代人はなっとくしない。かれは逃げれば逃げられたのに、みすみす死刑になったではないか、しかも、無実の罪だというではないか。たしかにそうである。しかし、逃げなかったがゆえに殺された、そこに多くの人は、とまどいながらも、ひきつけられたのではなかったか。ソクラテス!ソクラテス!なぜおまえは逃げなかったのか。そう問いながら、われわれはかれの魅力のとりことなったのではないか。おそらくわたしだったらそうはしない。しかし、かれにはよほどの理由があったに相違ない。そのように、なかば疑い、なかば共感し、逆にソクラテスから、おまえの本心はどうなのか、と質問されて、ぎくりとしたにちがいない。不思議に思いながら、その糸をたぐりよせていくわれわれの心のなかに、いつのまにかソクラテスがはいりこんでいて、ちくりちくりと良心を刺しているからである。かれはわれわれと一心同体になれるなぞの人物なのである。そのなぞがかくもながいあいだ、無数の人びとをひきつけてきたのではないか。それに終止符をうとうとする。ここに現代の一つの課題がある。

 

罪のない人が殺されてはならない。いかなる理由があるにせよ、人を殺してはならない。戦争とて例外であってはならない。われわれがソクラテスにセンチメントをささげるのは、かれがこういう精神をうったえているからであろう。そればかりではない。かれはだれよりも人間の真実を明らかにしようとし、それによる幸福を求めた。それがなんであり、いかなる状態であるかを示した。いつ、いかなるときでも、信念をすてなかった。たとえ信念と死との交換を迫られても、知を愛し求めるという信念はすてなかった。無知であることが、どんなに恥であるかを自覚していた。われわれはこのソクラテスにも同感する。もし現代人が、このソクラテスを誠実に生きようとすれば、いったいどうなるか。われわれはそれをよく知っている。ソクラテスの生き方が、人間にふさわしいことを認めておりながら、そう生きる人はきわめて少ないということである。これが現代人の一つの矛盾である。だから良心がとがめるだけではなく、そうできない自分を、はがゆくも思う。そうして、ソクラテスを、なぜ逃げなかったのか、と問うていた自分自身がむしろ哀れになり、それにしても逃げない真意はなんであったのか、とあらためて自問自答するのである。これはソクラテスが多くの人に共通な真実をなげかけている証拠にならないだろうか。このように、かれのなげかけた波紋は、大きい。ある意味で、無限大である。だから、すべての人が、それを、しっかり見つめ、うけとめるべきであろう。つまりソクラテスを生きることである。それがソクラテス問題に終止符をうつことであり、そのとき初めてかれの死の意味が、われわれにおいてよみがえった、ということができるであろう。こういうことを念頭におきながら、われわれがあらためてかれの前に立ったとしても、かれはそれはまちがっていると一笑にふしてはしまわないと思う。

 

ソクラテスの思想

ソクラテス(Socrates)は、紀元前五世紀のギリシア人である。この時代のギリシア哲学を代表する思想家・哲人である。若いころからすでにかれは有名であった。その一つは怪異な風貌である。そのうえまったく身なりをかまわない。いつも裸足である。しかも人を卑下するようなことをしない。だれかれの別なく話しかける。かれと一度でも話をすれば、忘れることができない。かれはそういう魅力をもっていた。

 

ソクラテスは中年から晩年にかけて、戦争のなかに生き、人間性潰滅の危機にぶつかった。ペロポネソス戦争である。人心の腐敗と堕落である。そしてかれは、こういう時代が人間に教えるありとあらゆることを、だれよりも血とし、肉とした。しかも、かれは特異性を失わなかった。たとえば、あるときには一晩中、戦場では一昼夜も、同じところに立ちつくすことがあった。瞑想をしている。神の声をきいているのだともいう。また、自分を虻に、悪の巷と化しつつあるアテナイを馬にたとえたりして、堕眠をさますのだといった。しかし、かれはたんなる奇人でも天才でもなかった。

 

生涯、真実を愛し求めている。どんなときでも、真実を基準にして行動する。そういう透徹した人間愛にもえていた。それは「なんじ自身を知れ」にめざめ、「無知の知」を自覚してからも、一貫して変わらない。もうこれでよい、ということはけっしてなく、たえず哲学しなければならないような状態に自分を置く人である。むしろ、探求が人生であるようなそういう方法を見つけだした人である。

 

アテナイの守護神アポロンはかれに注目した。神はこの、どうしようもなくなりつつあるアテナイを、見るに見かねていた。そこでソクラテスを自分の使者として、アテナイ人を救済すべく送った。ソクラテスはそのように想像し、不動の信念にささえられ、「無知の知」の吟味とその普及にのりだした。しかし、それが禍の一因となり、同じアテナイ人に生命をうばわれてしまった。

 

ソクラテスは一冊の本も書いていない。しかしかれは、プラトンという偉大な弟子を残した。われわれは、そのプラトンの対話篇を主たる手がかりに、たぐいまれな不世出の哲人ソクラテスの生涯と思想を、できるだけ追跡してみた。そしてソクラテスの思想は「死命の思想」といえるのではないか、という新しい視角をえた。

 

最後に、村治能就先生には、かずかずの御教示を賜わったばかりではなく、原稿全篇にわたって厳しい慈眼をそそがれた。しかしそのご高配によく答え得ているかいないかは筆者の責任にぞくする。さらに清水書院にたいへんお世話になった。厚く御礼を申し上げたい。

 

一九六六年盛夏 中野幸次

 

 

目次

 

Ⅰ ソクラテスの生涯

永遠の哲人

ソクラテスの死――謎――

ソクラテスの生きた時代

ソクラテスの生まれた前後のアテナイ
ソクラテス盛年時のアテナイ
ソクラテス思想誕生の背景
ペリクレスの死とソクラテス

ソクラテスの活動

ソクラテスの前半生
ソクラテスの回心
ソクラテスの後半生
ソクラテスとソフィスト
ソクラテスの弟子

 

Ⅱ ソクラテスの思想

アポロンの使徒
無知の知
産婆術
永遠なるもの(イデア)
最後にさし示すもの
ソクラテスの遺産

 

年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ ソクラテスの生涯

 

永遠の哲人

ソクラテスの死――謎――

 

死刑の情景

紀元前三九九年、アテナイの牢獄で、ソクラテスは死刑の宣告をうけた。

 

ソクラテスには妻と三人の子どもがあったが、かれは自分の死刑に家族を立ち合わせる気持になれなかった。せっかくやってきた家族には家に帰ってもらった。

 

やがて毒薬を持った獄吏が現われた。ソクラテスはその男に、やあありがとう、君は用い方を知っていますね、とたずねた。

 

毒薬は砕いて杯の底に沈めてあった。

 

やたらに生きていようとするのは、中身がからっぽになった杯をけちけちするようなもの、というソクラテスに、クリトンはじめ弟子たちは、何をしてよいかわからず、涙を流し、泣きわめいた。

 

死ぬときは、しずかにしていなければいけない、ときいている。ソクラテスはそういうのである。この巨人の最期に当たって、弟子たちのできることといえば、ソクラテスの死を見守っているほかはなかった。

 

ソクラテスは、もっとも高貴で、思慮と正義にかけてはならぶもののない哲人にはちがいないが、死刑を控えてのゆとりは、筆舌を越えて、堂々としていた。

 

「われわれはアスクレピオス様に雄鶏の借りがある。とにかく忘れずに返して下さい。」

 

これがソクラテスの最後の言葉であった。遺言になったわけである。

 

アスクレピオスというのは医の神である。ソクラテスは、生前この神に願をかけていた。雄鶏はその奉納の品である。あるいはソクラテスは死ぬことによって、魂が肉体の束縛から解放される、と考えてのことである。それのみか、ソクラテスは、死刑による死に臨みながらも、自分の死を、この世からあの世への転居のように考え、神に祈りながら、息をこめて一滴のこらず毒杯を飲みほした。

 

そのあと、ソクラテスはゆっくり弟子たちの傍を歩き回ったが、そのうちに足が重たくなり、あおむけに横になった。親友クリトンは、ソクラテスの遺言をようやく理解して、たしかにそういたします、と答えたが、すでに返事はなく、ソクラテスの眼は死者の持つ別のひかりをたたえていた。

 

実にソクラテスは獄吏の教えた通りに、死を行なったのであった。

 

こうして、人類史上偉大な哲人思想家ソクラテスは、生涯を閉じたのである。それは二月か三月のことである。およそ七〇歳であった。

 

 

毒を飲む前

毒薬は「どくにんじん」の種子を砕いて汁をしぼりだしたものである。ソクラテスがそれを飲む前の日没までに、まだしばらくの時間があった。死刑執行の時刻は、日没と法律で定められていたからである。

 

太陽は地平線下にすっかり沈んでいない。アテナイの北東の方向にあるヒメトス山のいただきにまだ太陽は残っている。それに、死刑の知らせがあってから、ずいぶんたって毒薬を飲んだものも多いことを、親友のクリトンは知っていた。そこでかれはソクラテスに、大いに飲んだり食べたり、好きな人といっしょにねたりすることをすすめたのである。おそらく普通のものならクリトンのいうとおりにしたかも知れない。しかし、ソクラテスは、一笑にふしてしまった。そればかりではない。「そんなことで得をしたと思っているのだけれど、わたし自身はそうはしないだろう。それもそれ相当の理由がある」という。すこしばかりおくらせて毒を飲んだからといって、この自分に笑いをまねくだけで、なんの得もない、と確信している。ソクラテスにおいては、ただ生きのびるのではなくて、よく生きることが問題なのである。

 

だから、抽籤で任命され、獄中の人びとの監督や罪人の死刑、告発者の裁判所への提訴などをつかさどる十一人衆の下役は、ソクラテスにいったのである。「あなただけはすくなくとも他の人たちにみられるようなまねはなさらないでしょう。かれらは主たちの強制だから毒薬を飲まねばならない、とわたしが告げますと、わたしに腹をたてたりののしったりするのです。しかしあなたはこの獄屋におられた期間、とくに今までここに入った人たちのうちで、もっとも男らしく、おだやかで、また高貴であったことを、わたしは知りました。ですから、今も他の人たちには腹をたてても、わたしにはお怒りにならないことをよく知っています。御気嫌よろしゅう、では運命をできるだけ楽に忍べますようお努め下さい。」こういって涙を流しながら立ち去ったほどである。ソクラテスはこの言葉どおりにしようとする。

 

弟子たちは、ふたたびめぐりあえないであろう師の最期を、不幸だと思っている。いろいろ腹の底から話しあうのも当然である。しかしソクラテスは、いっこうに不幸だとは考えていない。むしろ、あの世で死者にめぐりあえる、とよろこんでいるようすすら見える。しかし、弟子たちにとってはたまらないものがあった。父を亡くしてからの生活を送ろうとする孤児のように思えたのである。ソクラテスはクリトンをつれて、体を浴するために水浴みにいき、そこで長男のランプロクレスと二人の幼児ソフロニコスとメネクセノスと言葉をかわしていた。やがてソクラテスは子どもたちに立ち去るように命じ、弟子たちの中に加わったが、日没は刻々と迫ってくる。日没になれば、ソクラテスはどうしても毒杯をうけねばならない。弟子たちには、ソクラテスの死後のことが気になってならないのである。

 

ソクラテスの墓場

ソクラテスは、自分の死後の埋葬については、さほど神経質ではなかった。クリトン、元気をだしてわたしの肉体を埋めるといってくれ、それも、君の好きなように、習慣と思われるところにしたがってやってくれ、と平然としていた。

 

クリトンには、死んだソクラテスのその屍体が、ソクラテスだと思えてならない。だからクリトンは、ソクラテスをどう埋めたらよいか、と迷うのである。ところがソクラテスは、毒薬を飲んだら、もうこの世にはいない、と思っている。この世を去って、たしかに福者の住む、なにか幸福なところへ行くと信じている。ソクラテスは、クリトンをはじめ弟子たちにも、そう思ってほしいのである。そうすれば、それぞれにとって、慰めになるであろう。たとえ、ソクラテスの肉体が焼かれたり、埋葬されたりするのを見ても、ひどい目にあっている、と腹をたてることもないだろう。

 

運命がまねく時は、人はだれも旅立たねばならない。いかなる人も死をさけることはできない。今、ソクラテスを運命がまねいている。ソクラテスは、七〇歳の生涯の肉体の終わりの時がきたと迷わない。しかし、弟子たちには、この期をのがして、ソクラテスからなにもきく機会はなくなってしまう。クリトンは、ソクラテス亡きあと、その遺児たちに、なにをすべきかを、ソクラテスにきいた。

 

日頃いっている以外に別にこれといって新しいことはない。君らは君ら自身のことに気をつけてくれ。なんでもちょうどよいときにやっておくべきである。今、われわれの意見が一致しなくてもいい。ただ自分自身のことをなんら世話もせず、これまでいってきたことにならって生きようとのぞまないならば、たとえ現在あれこれと強く同意したところで、たいして益はあるまい。」

 

こういって、ソクラテスは、水浴に行くときがきた、水浴をして薬をのみ、女たちに屍体を浴みさせるめんどうをかけないほうがよかろう、と冷静そのものであった。しかし、クリトンは、この最期を迎える前に、ソクラテスに対して、アテナイの牢獄からの遁走をすすめ、計画もしていたのであった。

 

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