「人と思想」シリーズ

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人と思想5『プラトン』のまえがき+αを読んでみる

 

プラトンについて

 

現実はきびしい。そう人はいう。そのきびしさは、なにをさしているのであろう。そう思う心だけがあるのではない。なにかがそう思わせているはずである。もし、生きることがきびしいのであるならば、生はそれ自体が、現実のなかに含まれていることになる。働けども楽にならない、人と人との関係は虚偽に満ちている。善意の人びとは雑草のようにふみたおされていく。しかも、戦争の恐怖は去らない。それらがきびしいと思わせたものであるならば、そう思う人はその反対のことを知っていることになる。そして、その反対の状態になりたい、と希求したことであり、同時にそうさせられた現実をつくっているところの一人であると、自分を自覚する一歩手前まで歩いた人であろう。

 

プラトンは現実を避けて通ろうとはしなかった。むしろより善い現実をうみだそうとした。しかし、かれの理想国は、あまりにも理想的でありすぎたではないか。かれの哲学として名高いイデア論も、観念論の典型ではないか。そう思うことはやさしい。今もいったように、きびしいと思った現実を、自分もつくり、したがってそのなかに自分も含まれているのであれば、その矛盾がそう思った人の内面と現実から、まずのぞき去られるように努力されないかぎり、いつも人は与えられた現実にあまんずることになろう。さらに、思うこと、考えることの多くが現実の投影であるとしても、見られた現実よりも知られたそれを現実としないかぎり、人は多くの幻影にまどわされることになろう。プラトン(Platon)はそのことをすでに教えていた。

 

プラトンは、これまでのすべての哲学者のうちで、もっともオリジナルで、もっとも影響力がある、といわれている。かれは哲学を、本格的な著作の形で世に問うた、最初の純粋なアテナイ人である。ソクラテスをのぞく、それまでの哲学者たちは、アテナイ以外の人たちであった。タレスもピタゴラスも、プラトンの弟子アリストテレスも、そうである。しかもかれは、名門貴族の出身のゆえに、偉大になったのではない。かれの八〇年にわたる生涯は、アカデメイアの創立による講義、教育、著作、理想国実現への努力など、そのすべてが燦然としている。天才思索力と想像力とを働かせて、未踏の世界を開拓した。哲学、思想の分野はいうまでもなく、学問の世界に金字塔を樹立した。

 

そのプラトンをうみだす動機はソクラテスにある。初めは政治家になろうとしたプラトンを、哲学に回心させたのは、ソクラテスその人の刑死である。ソクラテスとその時代がプラトンにたいして、現実と行動と精神を底辺とする、立体三角形の可能性への確信をあたえた。またそうしなければならない決心をさせた。いくら求めても、完全にはつかめないが、かならずあるにちがいない「善のイデア」の発見は、ソクラテスとその悲惨な時代の核であり、血肉化にほかならない。またその時代の人びとの彼岸である。イデアはそれと対照的なアトムとならんで、いかなるエネルギーでも破壊できない。それは不滅である。それを殺すことはだれにもできないが、求めつづけなければならない。そういう皮肉な運命をひらき、救いようのない時代と人びとに光をあたえた。

 

プラトンは幼少のころから青年時代にかけて、略奪と殺人をほしいままにする、ペロポネソス戦争の渦中に生きた。人間性は壊滅し、人は動物に還元してなおやまなかった。二七年のながい間、ギリシア全土を焦土化するほどに、荒れに荒れた。その中でかれは醒めていった。知性と芸術的感覚を鋭敏にしていた。その体験がかれに理想国を構想させ、それを著述させ、実現を図らせた。しかしついに果たせなかった。それでも、それを完全な無意に終わらせない用意周到さを怠らず、「善のイデア」という不滅のシャトウ(城)を創造することを忘れていない。それはどこにもない。しかし幻影ではない。いついかなるときでも、それにあずかるものは、精神の救済を直観できる。

 

純粋絶美なものにめぐりあう、あの純粋経験の直観は、人にその体験を求めることを忘れさせない。死ぬさだめにあることのよくわかっているわれわれは、死を経験することがないために、それを求めなかったり求めたりする。知ることと美に出会った経験は、花をつむときに萎れた花を思わない、あの瞬時の感銘に似ている。それは美をたえず手もとに置こうとする愛に発展する。プラトンはその原理の創造者となった。夕陽は落日の光景を描きながら、なお消滅しないように、太陽は永遠の意識の因となりながら、美を残して去ることはない。現実を永遠とかかわらせる方法の発見は、永遠があることの具体的な証明のあるなしに関係がない。永遠の存在証明ができなくとも、いっこうにさしつかえない。それによって現実の姿は、いかんなくあばかれるからである。方法があばくのである。

 

ギリシア哲学はミレトスのタレスに発し、二つの流れとなり、ソクラテス・プラトンを貫流するうちに完全化したという。しかし、完全なものはこの世にはない。それは精確ということとは別である。アトムの概念の創造は、魂の不滅観への契機となり、二種の不滅性となった。その一つが「善のイデア」である。それへの通路として弁証法という道がひらかれた。それによって、学の世界は有力な方法をえた。見ることも、触れることも、ロゴス化することもできないが、関与することだけをゆるすものへの探究というプロセスがある。それがあるかぎり、その対象がある。それは完全に知ることはできないが、弁証法によってつき進もうとするならば、そのかぎり存在するものである。まさに形而学上以上の次元である。それは高度な快楽の世界である。すべての人に、愛知への姿勢をくずさないなら、その喜びがあることを教えている。そういう哲学の独自性を、プラトンは示したのである。

 

プラトンの生涯と思想を、この小冊子にくまなくおさめることは無理である。かれの思想については、『ポリテイア』(理想国)の解説以外は、発展のあとを追うにとどめた。かれのいく冊かの書物をえらび、その解明ですまそうと、いくどか考えてみた。しかし、かれの思想の真実を限定し、断片化してしまうことを恐れてできなかった。プラトンには完全に理想があった。それはそれへの志向性と、その努力があるかぎり、現実化するという可能性を信ずることを意味する。そういうプラトンのイデアリスムスの精神にしたがって、かれをできるだけ追跡してみたのが、本書である。

 

一九六七年 初 春

中 野 幸 次

 

目次

 

Ⅰ プラトンの生涯

ソクラテスとの邂逅
プラトンの生まれた時代――戦争と頽廃――
ソクラテスの刑死――プラトンの回心――
プラトンの前半生――苦悩と遍歴の時代――
プラトンの活動――アカデメイア創立による講義と哲学の深化――
晩年のプラトン――理想国への情熱と著述――
プラトンの著作――多彩にして巨視的――

 

Ⅱ プラトンの思想

真理の旅人――永遠の発見とそれへの対応――
理想国における人間の条件――愛知への純粋無私なる参加――
学の形成とその方法の成立――弁証法の世界――
純粋存在と現象の世界――善のイデアとそれにあずかるもの――

 

年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ プラトンの生涯

 

ソクラテスとの邂逅(かいこう)

 

めぐりあい

もしプラトンがソクラテスにめぐりあわなかったならば、おそらくかれの生涯は別なものになっていたであろう。それほどこの二人のめぐりあいは劇的なものであった。しかし、それは、たんにドラマチックというものではない。たんなるドラマであったならば、プラトンは哲学史上最大の哲学者となるほどの邂逅をソクラテスとしたかいなかはあやしいからである。

 

ソクラテスは、人も知る巨人である。不世出の哲人である。しかもかれは、人類の意志を代表している。多くの人は、できることなら勇敢でありたい。正義の人でもありたい。だれよりもすぐれた精神のもちぬしでありたい。多くの徳と知識を身につけ、それらを自由自在に活用できたら、と願っている。どのような人も幸福をさがし求めているからである。ソクラテスは、これらの多くの人の願望を一人で実現したような人であった。いうなれば、人間の潜在意志を代弁している。いや、それを代行したのである。ただかれは貧乏なため、豊かな合理的な生活はできなかった。しかし、好きこのんでそうなったのではない。知を愛し求めることに精いっぱいであった。その点では、豊かな生活を求める現代人とはちがうのであろう。しかしかれは、すこしも貧しさをいとわなかった。むしろ知的な快楽を求めていたゆえに貧しかったのである。いついかなるときでも、知を愛し求めるという信念をすてなかった。本当の喜びを知っていたのである。感覚的・肉体的な快楽の「はかなさ」を痛感していた。求めても求めても、汲めどもつきない泉である、知恵を愛し好むことの喜びを、一生涯どんなことがあっても、すてることはなかった。そしてその知恵を活用する「使用の知」を身につけていた。そのためにかれは、紀元前三九九年、アテナイの牢獄の露と消えた。生命がうばわれようとも、信念や思想をすてなかったからである。「死命の思想1)」をうちたて、ひたすらそれに生きたからでもある。人類の意志は、すでに二千数百年の昔、アテナイに開花していた。そのソクラテスにプラトンはめぐりあったのである。それは「邂逅」ということば以外のなにものもそぐわないであろう。そのときプラトンは二〇歳であったといわれているが、あるいは、それより若かったのかも知れない。たぐいまれな芸術的天分と、創造的精神にあふれていた若き日のプラトンと、人類を代表する哲人との出会いは、いくらことばをかさねても、描きつくせないものをもっている。

 

若い魂はプラトンにおいてはなおさら鋭敏である。柔軟である。かれはソクラテスの全人格を直観したであろう。すでに有名なソクラテスは六〇歳をこえ、プラトンは二〇歳前後の青年である。二人のあいだにかわされた精神の火花は、その後の哲学史を二分するほどのプラトニズム成立の瞬間ともいえるであろう。ソクラテスはプラトンの将来を読みとったかも知れない。こうして、師弟のむすびつきは、その例をみないほどの典型にまで昇華していくのである。それから八年間、プラトンはソクラテスの弟子であった。かれはソクラテスの晩年を直接見聞した。プラトンは、もっとも充実した地上最高の先生から、じかに教えをうけたのである。その意味でかれはたいへんな幸福に恵まれたわけである。プラトンみずからソクラテスの時代に生まれたことを、一つの恩恵に数えていたと伝えられる。いやこのことは、ソクラテスにもいえるはずである。われわれが真のソクラテスに触れることのできるのは、このプラトンの書き残した対話篇によってだからである。もちろんソクラテスは、自分についてのこれほど真実をうがった記録を、弟子の一人があえてするとは想像もしなかったであろう。

 

ほんとうの誕生

人が出生しただけでは、まだ誕生したとはいえない。みずからを自覚し、人生の意味を苦悩のなかから学びとり、いかに生きるかを決意したとき、人は真に誕生するのである、というようなことをいったのは、たしかパスカルであった。プラトンは初め政治に志し、政治家になろうとしていた。そのかれを哲学に転向させたのは、まさにあのソクラテスの刑死であった。プラトンがプラトンでしかありえない成長をする決定的動機をえるのは、ソクラテスによってなのである。その意味で偉大なソクラテスの死は、哲学への警鐘と黎明を同時に告げた瞬間、ともいうべきであろう。

 

ソクラテスにおいて、ギリシアの哲学は、「新しい哲学」になろうとしていた。それまでの「自然哲学」は、「人間学」になろうとしていた。しかし、その人間学の生きた実践者であるソクラテスは、否定されてしまった。それこそ哲学の危機である。いや、人間の危機である。アテナイ人の危機である。ソクラテスは哲学への危険信号をなげかけつつ死んだことになる。それをプラトンほどの人が見のがすはずはない。かれは全生命をかけてソクラテスの遺産をひろわねばならない。もしソクラテスのなんであるかをみきわめておかなければ、その損失は計り知れない。永久に消失してしまうかもわからない。青年プラトンは、それを芸術的に直観したであろう。政治に志し、たとえ政治家になれたとしても、それ以上の仕事が哲学によってならできる。哲学でなければできないことがある。それこそソクラテスの意志をひきつぐことである。それは師ソクラテスの命令ではない。師の遺言でもない。だが、プラトンにしてみれば、それが恩師の強制であり、遺言であったとしても、光以外のなにものでもなかったであろう。かれは喜んでソクラテスの命令と遺言を実現しようとしたであろう。哲学は形式ではない。現象にばかりこだわることではない。そのイデー(理念)が問題である。そのよってきたる根拠こそ重大である。したがって、プラトンには、かれの芸術的直観を満たしたものを、ロゴス(言語)化することが問題なのである。ソクラテスのいおうとしたことはなんであるか。ソクラテスが生命と交換したものはなんであるか。ソクラテスはなにを実現しようとしたのであるか。青年プラトンの心中では、ソクラテスは殺されたのであるか、それとも自殺したのであるか、との葛藤があったであろう。計り知れない矛盾の渦が、かれをとりまいていたに相違ない。そこで、まずプラトンは、自分にできることはなんであるかを吟味したであろう。ソクラテスが死んだとき、プラトンは恩師のそばにいなかった。そのように、自分の書いた対話篇『パイドン』のなかでのべている。それは病気が理由であったとされている。しかし、よくよく考えてみると、なにをさしおいても、恩師の最期を見とどけようとするのが弟子のとるべき態度である。それをしなかったプラトンは、よほどの重病人でなければならない。しかし、そんなことは、だれ一人として伝えていない。とすれば、プラトンは、あらゆる努力をしても、ついに師の生命をひきとめえない現実にぶつかり、それまでの師とのつながり、あるいはなぜあれほどの哲人が殺されねばならないのか、などを総反省し、これからどうしたらようかと考えこんでしまったのかもしれない。こういう内面のできごとは、なかなか自分の著作にはおりこめないものである。ましてプラトンは、かれの手紙をのぞく全作品のなかで、自分の名前を三回しか使わないほどの人なのである。プラトンとソクラテスとの邂逅と訣別は、ひとことでいいつくせないものをもっていたといわねばならない。それは哲人と哲学者との邂逅であり、その別れは、この二人の運命を暗示する岐路ともいえる。ソクラテスはプラトンによってその人と思想と哲学が記録して残され、プラトンはソクラテスによって全運命がにぎられたからである。ソクラテスによってプラトンは、ほんとうのかれに生まれ変わるのである。しかし、プラトンには、自分が偉くなること、有名になること、自分だけが成長することなどは、第二のことであった。野心と虚栄にとりつかれていれば、ソクラテスとの出会いを無にすることになる。哲学に回心したかれには、まずすぐにとりかからねばならない仕事があった。それは、なんといっても、ソクラテスとのつながりにおいて、おこりつつあるかれの内面的変化についてであった。しかもそれは、ソクラテスとのつながりにおいてしかないものである。ソクラテスは死んだ。しかし、プラトンのなかでは、猛烈な勢いで蘇(よみがえ)りつつあるものがあった。かれはそれをなんとかしなければならない。

 

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人と思想14『ルソー』のまえがき+αを読んでみる

 

はじめに

 

ルソーは、今日にもっとも影響をおよぼした一八世紀の思想家の一人である。その影響はきわめて広い範囲にわたり、哲学・教育・文学・政治・宗教等の諸問題におよんでいる。人間の自由と平等をとなえ、民主主義を表明したルソーは、「近代の父」と呼ばれるのにふさわしい思想家であるが、今日においてなお、かれが問題としたものはわれわれの問題でもある。ここにルソーの新鮮さがあり、われわれを引きつけるものがある。

 

ルソーを理解しようとするとき、その人や生活を知ることも一つの重要な手段である。とりわけルソーの思想は、ルソーの全体そのものであろう。しかし、ルソーが問題としたものをみるとき、やはり、その時代や、先人および同時代の人々の影響も無視することはできない。ルソーの思想は、その特異な才能と性格におおいに依存しているとしても、けっしてそれからのみ生まれたのではない。このような意味と、また、この小著が含まれるシリーズ・「人と思想」の趣意に従って、本書においては、ルソーの一端でも知ってもらうために、最初の部分でその時代の概観を、次いでその生涯をみ、さらにルソーの思想をおもに「エミール」、「学問芸術論」、「人間不平等起源論」、「社会契約論」等によって、その教育思想と政治思想を中心として述べた。勿論、これによってルソーの思想のすべてを述べたことにはならないが、その概要は知ることができよう。さらに興味ある読者は、すすんで、ルソーの著作そのものを読むようにされたい。ルソーは、おおくのことを直接われわれに語ってくれるだろう。

 

なお、本書の出版にあたって、写真を提供してくださったスイス大使館、また、その労をとっていただいたクネヒト氏、ならびに清水書院の方々に大変お世話になった。ここに厚く感謝の意を表する次第である。

 

中 里 良 二

 

目次

Ⅰ ルソーの生涯

ルソーの時代
ルソーの時代の思想状況
ルソーの人とその影響
ルソーの生涯

放浪時代
自我形成の時代
パリの時代
著作の時代
逃走の時代
ルソーの晩年

 

Ⅱ ルソーの思想

ルソーの求めたもの
文明批判
人間の間の不平等はいかにして生まれるか
ルソーの教育思想

自然人の形成
消極教育

子ども尊重の教育

五歳以下の子どもの教育について

家庭教育
しつけの方針

五歳から十二歳までの教育

感覚教育

十二歳から十五歳までの教育

理性の教育の時代

十五歳以後の教育

感情教育

女子の教育

女性について

理想の社会―社会契約論―

社会契約

一般意志と主権
主権について
理想の国家

 

年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ ルソーの生涯

 

ルソーの時代

 

絶対王朝の成立

ルソーが生まれたのは一七一二年であり、それはほぼ、ルイ一四世の没年と時を同じくしている。周知のように、フランスではユグノー戦争の後、アンリー四世、その大臣のリシュリューやマザランが出て王権が強められたわけであるが、ルイ一四世はそれをひきついで絶対王朝を完成した。これによって封建領主の勢力は衰え、フランスにおける中央集権は確立されるにいたった。「朕は国家である。」とルイ一四世が本当にいったかどうかには問題があるが、かれはその強力な権力で、きわめて独裁的な政治を行なった。しかし、こうした政権は完全に封建制度を脱却したものではなく、本質的には中世的な宗教的権威にささえられていた。

 

ところで、ルイ一四世の権力の基礎となったものは、その強力な軍事力と官僚制度と経済力であった。自らの軍事力を持つことは、絶対君主の権力を強めるためには必須の条件であったが、ルイ王朝においては陸軍大臣のルーヴォアがでて、陸軍をまったく近代的なものにしあげているし、火薬の発明以来、変化した戦術に即応する兵器の製造技術もこの時代に発達した。また、封建勢力を弱め、その政治を国の末端まで行きわたらせるためには、官僚制度を整えることもたいせつであった。それまでは、地方の政治は諸侯が行なっていたが、ルイ一四世の時代では、代官や補助官がおかれて中央の政治を地方まで徹底させた。それによって諸侯や僧侶の勢力は衰えていった。

 

このように、軍隊や官僚は王の絶対的な権力の維持には不可欠のものであったが、そのためには大きな経済力が必要であった。そこで税制が整えられ、また、新興の商人やマニュファクチュアの人々との結びつきが強まれていった。したがって、重商主義の出現は当然のことであるといえよう。

 

コルベルティスム

フランスでは、コルベールがルイ一四世のもとで重商主義を完成させている。フランソワ一世以来、フランスでは国家財政上の困難はいちじるしいものがあった。国家は、官職を売ったり、王室領を売ったり、また、資本家から借金をしてそれを切りぬける手段を講じていたが、コルベールはそれらをやめ、むしろ、あらゆる種類の工業および商業を盛んにすることによって、国家の財政を豊かにすることをはかった。フランスでは、アンリ四世のころから工業が起こったが、コルベールは国家の保護を与えることによってそれを育成した。それはおもに武器製造、冶金(やきん)および織物などであったが、外国からの技術を導入したり、外国からの輸入品には重税をかけるなどして、それをますます発達させた。その結果、オランダ・スペインなどへの輸出も多く行なわれた。

 

絶対王朝の衰微

以上のような、ルイ一四世の治世のもとでは、また、はなやかな宮廷生活もくりひろげられた。そして、一六六一年のマザランの死後、ルイ一四世が直接外交を指導するようになってからは、戦争が起こった。ルイ一四世がその子アンヂュ侯をスペインの王位の継承者としようとして起こったスペイン王位継承戦争は、その代表的なものであった。一四年間も続いたこの戦争の失敗は、フランスに財政上の困難をもたらすにいたった。こうしてフランス絶対王朝の衰微が始まる。

 

太陽王と呼ばれ、ヨーロッパの中心的存在であったルイ一四世が一七一五年に没し、その後をついだのはまだ幼少のルイ一五世であった。ルイ一四世は莫大な借金を残して没したため、ルイ一五世の時代でもっとも緊急な問題は財政の建て直しであった。これを努力したのはジョン=ロー(一六七一―一七二九)であった。かれはスコットランド人であったが、銀行については非常に精通していた。かれは一七一六年に私設の銀行を起こし、紙幣を発行し、それを流通させることによって財政を救おうとした。かれのやりかたは、銀行の方法を国家の財政の領域に適用することにあった。すなわち、かれは、国家は銀行員でなければならないとし、国家は個人の金を受け取り、そして、それになんらかの収益を生じさせねばならないと考えたのである。

 

そこで、かれは一覧払いの銀行券を発行した。それは、通商や投機の増大にしたがってふえていった。その利益から国家は債権者に払おうとしたのである。しかし、銀行による莫大な紙幣の発行は、かえってインフレをひき起こす結果となった。また、ローは国家財政を救うために「西方会社」を設立し、アメリカ植民地における独占的商業を行なったが、それは一般の人の投機熱をそそった。しかし、実際の利益はなく、有価証券の暴落を招き、また、紙幣の価値もそれにつられて失われた。こうした一連のローの政策は失敗に終わり、財政はますます悪化したが、ローの唯一の功績は、金融制度の発達をもたらしたということにある。ローの後には、フルウソー・ショワズール・トゥレーなどがでて、それぞれ財政の再建に力をつくした。しかし、第一次七年戦争・第二次七年戦争などによって、ますます財政は困難になってゆくばかりであった。こうした状態をそのままルイ一六世はついだわけであるが、かれは特権階級に対する課税などを試み、それによって財政の建て直しをはかったが、成功せず、フランス王朝はこれによって崩壊した。

 

資本主義の芽ばえ

フランス絶対王朝においては、貴族の勢力はきわめて弱くなった。この時代の貴族は、その特権として税金の免除、軍務の免除、課税権やさらには裁判上の権利などをもっており、その勢力は三部会や地方議会において僧侶についでいた。しかし、その政治的権力は、この時代にほとんど失われた。これに対して、僧侶は財政的にも強く、また、それ自体の裁判組織をもつなど、その勢力はきわめて強かった。

 

このような情勢の中に、ブルジョアジー・農民・職人・労働者などからなる第三階級があった。この中でブルジョアジーは、すでに経済的な力が強く、政治的権力こそないが、その一部は貴族に成り上がるものもいた。王室はもちろん、当時、きわめてはでな生活をしていた宮廷の貴族も、このブルジョアジーから金を借りるものが多かった。しかし、下層のブルジョアジーは上層のブルジョアジーが金融貴族であるのに対して、ほとんど一般人民と変わりがなかった。

 

ところで、すでにみたようにブルジョアジーの成長は、ローの政策に起因するところが大であるが、産業の発展、交易の増大は、フランスの経済組織を根底から変えようとしていた。すなわち、それまでの土地所有の上に成りたっていた自然経済から貨幣経済への移行がそれである。当時の農民は、小作人と折半小作人とに分けられるが、それの所有する土地はきわめてわずかであり、生活はいちじるしく窮迫し、土地を手ばなすものが多かった。そして、かれらは多く手工業に従事することを余儀なくされた。また、ここには工業の機械化の芽ばえと資本の蓄積がみられ、資本主義が生まれつつあった。こうして、微力な親方や職人もブルジョアジーの強力な経済力のもとでは、もはやその経済的独立を保つことはできなくなってゆき、ついに商人になれなかったものは、単なる労働者に没落していった。

 

こうした第三階級が貴族や僧侶と比べて、とくに税金においてなんら保護を受けず、まったく不平等にあつかわれていたということは、とくに記さねばならないことである。すなわち、貴族などの特権の裏には、重税にあえぐ第三階級の大部分をなす農民の苦しみがあったのである。当時、戦争により、財政的困難はいちじるしかったが、それにもかかわらず、国王は乱費を続けていた。また、官吏の腐敗も財政の困難に輪をかけていたが、貴族・僧侶はタイユやカピタションをまぬがれていた。それを負担したのは、多くの農民であった。農民は、当時、約二、二〇〇万人ほどであり、フランス全人口の九〇パーセントを占めていたから、特権階級がまぬがれていた税金を、農民が大部分を負担していたことになる。また、そのほかに、デイームという租税があって、農民は、その収穫の一〇分の一を教会に納めねばならなかった。こうした惨状にあった多くの人々の不満と反抗は、やがてフランス革命において爆発するもとになった感情をかもしだすことになった。

 

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人と思想150『グーテンベルク』のまえがき+αを読んでみる

 

はじめに

 

今日のわが国においてグーテンベルクの名前はあまねく知れわたっている。中学の社会科や高校の世界史の教科書には、必ずといってもいいぐらいその名前が記され、その業績も紹介されている。たとえばそのうちのひとつには、次のように書かれている。

 

「ルネサンス時代には、技術の開発や発明もさかんにおこなわれた。そのなかでも三大発明といわれる活版印刷・羅針盤・火薬は、文化・社会全般の革新・発展に大きく寄与した。ドイツ人グーテンベルクの発明といわれる活版印刷が、ヨーロッパに広く普及したのは、良質の紙が比較的安く供給できる製紙法が知られていたからである。この結果、書籍が、それまでの写本にくらべ早く正確にしかも安くつくられた。人文主義・宗教改革の思想が各地にすみやかに伝播した理由もここにあった。」(三省堂:詳解世界史B、一九九五年三月初版発行)

 

筆者自身も、こうした内容のことを習ってきたし、多くの日本人にとっても受験などを通じて、これはほぼ常識となっているのではないだろうか?しかしグーテンベルクの活版印刷というものが、具体的にどのようなものであり、この人物がどのような生涯をだどったのかという段になると、はたしてどれくらいの人が知っているのであろうか?おそらく多くの日本人にとっては、ここに紹介した教科書の記述どまりだと思われる。

 

現在わが国で発行されている百科事典を広げてみても、その記述はあまり詳しくはない。またグーテンベルクに関する邦文の文献や書籍も極めて少なく、巻末に掲げた参考文献ぐらいのものである。しかもこれらはグーテンベルクの最大の業績といわれる「聖書」に関するものと、活版印刷がその後のヨーロッパの社会や文化に与えた影響に関するものであって、この人物がたどった生涯については、『グーテンベルク聖書の行方』(富田修二著)および『印刷文化史』(庄司浅水著)の中に比較的詳しく書かれているぐらいで、なお不十分なものといえよう。

 

筆者がこの「人と思想」シリーズのひとつとして、グーテンベルクについて書くようにと依頼されたときただちに引き受けたのは、わが国におけるこうした欠陥を埋めることができたら、という思いからであった。筆者は数年前、『ドイツ出版の社会史〜グーテンベルクから現代まで〜』(三修社)という書物の中で、ドイツの出版史を通史というかたちで著したことがあるが、その最初の部分においてグーテンベルクの業績と生涯についてごく簡単に触れている。もとよりこれは全体のごく一部を成すものであってまったく不十分なものだが、このときにグーテンベルクの生まれ故郷であるドイツのマインツにある「グーテンベルク博物館」や「グーテンベルク協会」を訪ねて集めた文献・資料などによって、ドイツではグーテンベルク研究が極めて盛んであることを知った。その経緯については、本書の「おわりに――グーテンベルク研究史」の中に記したとおりであるが、ともかく「活版印刷術の父」についてまとめてみたいという気持ちを、筆者はそのとき以来抱き続けてきたわけである。

 

今回本書を執筆するに当たって意図したことは、その生涯と業績を、ほぼ半々の比重で扱うことであった。巨匠の業績についてはわが国でも、とりわけその『四十二行聖書』を核とした特別展示のかたちでこれまで何度か紹介されてきたし、その書誌的側面については、先にあげた二冊の邦文書籍の中で、かなり専門的なタッチで詳述されている。

 

筆者としては「人と思想」という本叢書の性格を考えて、ひとつにはその生涯を、グーテンベルクが生きた十五世紀のヨーロッパないしはドイツの時代背景との関連で描くことと、もうひとつには活版印刷の技術的側面や書誌的側面をできるかぎりわかりやすく解説する、という二つのことを実現しようと尽力した。

 

その際に筆者にとって幸運だったことは、時代背景の中で生涯を描くという意図にまさにぴったりの研究書にめぐり合えたことであった。それは本文の中で幾度となく触れていることであるが、巻末の原書文献の第一に掲げたアルベルト=カプル著『ヨハネス=グーテンベルク〜人物と業績〜』(Albert Kapr:Johannes Gutenberg 〜 Persönlichkeit und Leistung 〜)である。その内容がどのようなものであるかという点については、本書の行間から十分にくみ取っていただけることと信じている。この書物は一般人向けに書かれたものとはいっても、極めて詳しい高度な研究書でもある。そして従来のグーテンベルク研究書にはあまり見られなかった社会的・文化的背景との関連に重点をおいて、もともと史料が少なくて謎の部分の多かった「活版印刷術の父」の生涯に、かなり大胆な仮説や推測を交えて切り込んでいる書物でもあるのだ。したがって、今回筆者が本書を通じて紹介した生涯についての記述は、わが国で発行されている百科事典などには記されていない部分も少なくない。

 

ところで活版印刷がヨーロッパのその後の社会や文化に与えた大きな影響については、初めに引用した高校の世界史の教科書にも書かれているとおりであるが、これについて深く、思想的・哲学的に考え、それを詩的洞察に満ちたタッチで描写したのが巻末にも掲げた『グーテンベルクの銀河系〜活字人間の形成』(マーシャル=マクルーハン著)である。ここで元来文学研究者であったマクルーハンは古今東西にわたる博引傍証によって、西欧近代の形成において印刷技術が果たした決定的な役割を詳細に検証している。そして活字(書物)が視覚的要素を促進し、それによって聴覚・触覚的要素を抑圧し、それを通じて近代のテクノロジー・個人主義・ナショナリズムなどを形成したプロセスをモザイク的方法によって浮き彫りにしている。

 

マクルーハンといえば、筆者がまだ若かった一九六七年に突如として旋風のようにわが国にもマスコミを通じて紹介されたのを覚えている。そのときの紹介の調子は、「メディアはメッセージである」というキャッチ・フレーズが前面に持ち出されて、今や活字文化が終焉し、電気=電磁波文化(映画・テレビ等)が到来したことを説くメディア論の専門家ないし社会学者としてマクルーハンを押し出していた、という印象を筆者は強くもっている。それはいわば活字文化の死刑宣告者といった調子での紹介であったが、今回『グーテンベルクの銀河系〜活字人間の形成』を読んでみて感じたことは、テレビ文化ないしはオーディオ・ビジュアル文化の内容には一切触れずに、一般の日本には苦手なカトリシズム的神秘思想の立場から、活字印刷術によって西欧人が体験した「失楽園」を、テレビを中心とした電波文化によって取り戻せるという強い願望を表現したものが本書である、ということであった。その意味で本書にはグーテンベルクというタイトルがついているが、印刷術がもたらした社会的・文化的な衝撃を、実証的にではなくて、文学的・思想的な作品からの膨大な引用を通じていわば形而上的に、しかも批判的に描き出したものなのである。

 

一方歴史学者の立場から十五世紀におけるコミュニケーションの変容について、実証的に研究したものが『印刷革命』(E=L=アイゼンステイン著)である。

 

この本の中でアイゼンステイン女史は、まず第一部で西ヨーロッパにおける写本から印刷への推移に焦点を合わせ、コミュニケーション革命の特徴を概説している。そしてその第二部においてコミュニケーションの変容の様子と、通常中世から近代初期への過度期のものとされている各種の進歩との関係を扱っている。これはつまり一般にもよく知られているルネッサンス、宗教改革、そして近代科学との関係である。その際著者は印刷術を、各種の進歩をもたらしたひとつの作用因と考えているだけである、と断っている。実証的な歴史学者としてこうした慎重な態度をとることについてはよく理解できるが、それにもかかわらず本書においてはコミュニケーション変容の姿が実に丹念に、具体的なかたちで分析・叙述されており、一般の読者にとってはマーシャル=マクルーハンの著作よりは、はるかにわかりやすいと言えよう。ここでその具体的な叙述を紹介できないのはまことに殘念ではあるが、印刷術が後世の社会や文化に与えた大きな影響について興味と関心を抱く読者には、ぜひこの本を読まれることをおすすめしたい。

 

ともあれ、本づくりが今日鉛合金活字を用いない電算写植方式に取って代わられたとしても、グーテンベルクが発明した活版印刷術の原理そのものは書物をつくる方法としては変わりがないのである。そしてマクルーハンの予言やその後のマルチ−メディアの発展にもかかわらず、文化の重要な担い手としての書物や印刷物は今後も決して消えていくものではない、と筆者は確信するものである。その意味でグーテンベルクの発明は、五百五十年を経た現在なお色あせるものではないのである。それゆえに「活版印刷術の父」の生涯と業績を、あらためて具体的なかたちで知る意味も十分あるものと筆者は信じている。

 

終わりに本書執筆へのきっかけを与えてくださった清水書院の清水幸雄氏に、この場を借りて深い感謝の念を捧げたい。また清水書院編集部の村山公章氏のご尽力にもお礼を申し上げる。

 

一九九七年四月

戸叶勝也

 

 

目次

 

はじめに

第一章 時代背景 ――十四・五世紀のマインツ

1 政治・経済・社会的背景
2 書籍を中心とした文化的背景

第二章 グーテンベルクの先祖、出生、青少年時代

1 グーテンベルクの先祖
2 グーテンベルクの出生と青少年時代
3 成人後のグーテンベルク

第三章 シュトラースブルク時代

1 シュトラースブルク居住の直接の動機
2 シュトラースブルクでの仕事

第四章 マインツへの帰還

1 新たな出発
2 マインツにおける初期印刷物
3 活版印刷技術の完成へ向けて

第五章 発明のクライマックス ――聖書の印刷

1 『四十二行聖書』の印刷
2 フスト、グーテンベルクを提訴

第六章 グーテンベルク工房とフスト&シェッファー工房の並立

1 ペーター=シェッファーの登場
2 フスト&シェッファー工房の発展
3 グーテンベルクのその後の活動

第七章 マインツにおける騒乱と晩年の生活

1 マインツ大司教の座をめぐる争い
2 マインツにおける熱い戦い
3 エルトヴィルへの亡命と晩年の暮らし
4 グーテンベルクの死

第八章 活版印刷術の伝播

1 ドイツの他の都市への伝播
2 ヨーロッパ諸地域への伝播

おわりに ――グーテンベルク研究史

年譜
参考文献
さくいん

 

 

第一章 時代背景――十四・五世紀のマインツ

 

1 政治・経済・社会的背景

 

黄金の町マインツ

ヨハネス=グーテンベルクが生まれ、育った町マインツは、西部ドイツのライン川とその支流であるマイン川が合流する地点にある。ここは北イタリアからアルプスを越え、ライン峡谷に沿って北上し、オランダなど低地地方に向かう交通の要衝にあるが、そのためすでに古代ローマの将軍ドルススによって軍隊の駐屯地とされていた。その後、民族大移動の混乱のあと、急速に勢力を増したフランク王国の中核地のひとつとなり、七四七年には大司教の鎮座地となった。そしてマインツ大司教はドイツの約三分の二のキリスト教会を支配する大きな存在となって、歴代国王から各種の特権や多くの所領を与えられた。つまり当時の大司教は宗教的に巨大な存在であったばかりか、政治的にも大きな役割を演じていたのである。たとえば、一一八四年にはこの町で、皇帝フリードリヒ=バルバロッサは、帝国の諸侯がいならぶなかで、その二人の息子を騎士に任命する大々的な祭典を催した。また一二九八年以降大司教は、ドイツ皇帝を選ぶ選帝侯の一人としてドイツの政治を左右する存在になった。

 

こうした政治面ばかりでなく、経済的にもマインツはケルンとともにライン地方の商業の中心地として重要な役割を果すようになった。とりわけ大司教からの全国的規模の注文によって、織物や金細工製品などの取り引きが促進された。大規模な遠隔地商業に従事する大商人の経済力が高まるとともに、自治を求める彼らの動きも強まり、ついに一二四四年には大司教の支配から脱して、マインツは皇帝直属の帝国都市(自由都市)となった。こうした基盤のうえに、一二五四年にはライン都市同盟の指導者にもなったのである。こうしたなかで、「商人ギルド」に結集していた大商人階級は、マインツの都市行政を担う「市参事会」の中枢メンバーになっていた。そしてさらに周辺農村地主との合体や市内における土地保有などを介して、特権的な「都市貴族」になっていった。

 

いっぽう遠隔地商業だけではなく、モノの製造面でもマインツは活発な動きを示していて、手工業者や中小商人によって、よく組織された職種別の「同職ギルド」(ツンフト)が形成されていた。彼らの勤勉さと優れた仕事によってマインツの富は生まれていたわけだが、そうしたことへの自信に裏づけられて手工業者たちの力も増し、やがて都市行政にも参与することを求めて、都市貴族と対立するようになっていた。こうしてグーテンベルクが生まれる前後の一四・五世紀のマインツには、大司教を中心とする宗教的権力、富裕な都市貴族、そして新興のツンフトという三つの勢力が、互いにしのぎを削っていた。そしてそうした諸勢力拮抗のなかで、中世都市のひとつの典型であったマインツには、司教座大聖堂をはじめとして幾多の教会の塔がそびえ立ち、豊かなラインの流れを媒介とした華やかな商工業活動によって、「黄金の町マインツ」と呼ばれる繁栄をこの町は謳歌していたわけである。

 

大司教管理機構と都市貴族

マインツ大司教は、皇帝、諸侯、司教と同様に家人や宮廷人に取り囲まれていたが、大商人たちはその経済力にものを言わせて、こうした家人として宮廷の官職につき、騎士の生まれと同等とされて貴族(都市貴族)に加えられた。つまり彼らは大司教という中世キリスト教社会における権威に寄り添うかたちでその特権を拡大し、享受していたのである。じつはこれからお話するグーテンベルクの先祖の大部分は、こうした都市貴族だったのである。

 

大司教管理機構の頂点に立っていたのは宮内長官であったが、彼は大司教のすべての財産と収入を管理し、裁判権、関税事務、貨幣鋳造権を握り、同時に大司教の職人たちの監督にも当たっていた。ただしマインツ市の行政は市長が代行していた。この宮内長官の下に、市場と都市警察を管理する責任者、貨幣鋳造を監督する責任者、裁判業務の責任者そして管理行政一般の責任者などがいた。これら上級の官職は、特定の家系が代々独占するようになっていて、都市貴族として互いに姻戚関係で結びつき、都市における特権的な支配階級を形成していた。

 

先に述べたようにマインツは自由都市になったわけであるが、その具体的な現れとして、従来封建領主や騎士たちがライン川を航行する船舶に恣意的に課していた関税が撤廃され、そのかわりに大商人たちは船舶が運ぶ物品の集散権を獲得したのであった。これはライン川を上り下りするすべての船がマインツの港で全商品を積み降ろし、数日間それを売らなければならないというものであった。豊かになった都市貴族は、さらに税金の減額や免除まで大司教から勝ちとったのである。そのうえ彼らは、市参事会における支配を利用して、交互に利子の有利な終身年金を支払う制度までつくったのである。この終身年金はグーテンベルクにも大いに関係があるので、ここですこし説明しておきたい。

 

当時利子を取って金を貸すことは、教会によって一般に禁止されていたが、都市貴族たちはそれへの対応策としてひとつのからくりを考え出した。それが終身年金制度であったのだ。金持ちの都市貴族たちは、その子どもたちや若年の親類縁者たちのためにこの年金を買ったわけであるが、それには高い利子(通常五パーセント)がついてふくらんでいった。そしてそれを受益者である子どもや若い親類たちは簡単な手続きで取り戻すことができたのであった。つまり彼らは、たいていの場合、支払った金額よりもはるかに高い金額を受け取り、その差額はマインツ市の財政から支払われたのである。都市貴族たちは自分たちの相互の利益を、市の財政を食いつぶすようなかたちで得ていたわけである。都市行政をぎゅうじっていた市参事会であり、そのメンバーはもっぱら都市貴族によって占められていたことを考えれば、このからくりは理解できよう。

 

こうした特権階級たる都市貴族への年金支払いは、しだいにマインツ市の財政を圧迫していき、税を負担する側の不満も増大していった。なかでも都市にあってその繁栄に貢献していたにもかかわらず、市参事会から締め出されて、税を負担するばかりで、終身年金などの利益享受のなかった中小商人や手工業者たちは、「同職ギルド」(ツンフト)に結集して、都市貴族と対立するようになっていったのである。

 

グーテンベルクが生まれた一四〇〇年ごろのマインツはこうした状況にあったわけであるが、都市貴族出身であったグーテンベルクの生涯は、まさにこのような階級間の対立抗争によって大きな影響を受けたのであった。

 

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