「人と思想」シリーズ

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人と思想15『カント』のまえがき+αを読んでみる

 

カントについて――カントとわたし――

 

カントにひかれて

 

わからぬということが、わかるのはすばらしい!

もう三〇年以上もまえのことである。いまの高校生にあたるころ、わたしは、倫理(当時の「修身」)の先生らしからぬ、倫理(修身)の先生にでくわした。「D先生という先生であった。D先生は、大学(旧制の大学)の大学院で、哲学を勉強しているとのうわさであった。どういう風の吹きまわしか、学校のどういう教育方針にもとづくのか、わたしたちは、この若い先生から、およそおごそかで、近よりがたい倫理を学ぶことになった。だいたい倫理は、校長先生とか教頭先生とかの、年をとったえらい先生が教えることになっていた。

 

当時の日本社会には、いろいろな矛盾が、あらわれてきていた。世は不景気だった。とくに農村は、疲弊してあえいでいた。軍部の中国大陸への侵入と、国内でのファシズムへの傾斜とは、日ましに、強まっていた。こんな情勢のなかでの「倫理」だから、その時間に、どんなことが教えられ、どんな説教がなされたかは、およそ想像がつくであろう。

 

こういう社会情勢のなかにあって、さきのD先生は、最初の時間がはじまると同時に、教科書を非難しはじめた。「文部省検定済」といかめしく書かれた、わたしたちの「修身」の教科書を手にとって、「こんなバカな、インチキなことはない」と、内容を批判し非難しはじめた。それが数回つづいた。これは、ぼくたちにとって、たいへんなショックだった。むりもない。教科書、わけても倫理(修身)の教科書は、われわれにとって、いわば、おかすことのできない絶対の聖書であり、金科玉条であったのだから。「あのD先生は、アカだ!」とのうわさがひろがった。

 

そして、D先生は、けっきょく文部省検定済の教科書のかわりに、西田幾多郎の『善の研究』を使うと言明した。

 

『善の研究』の「第三編 善」をテキストにした授業が、はじまった。だが、二〇歳にもたっしないぼくたち青二才に、そうたやすく『善の研究』がわかろうはずはない。聞いても聞いてもわからなかった。読んでも読んでも、むずかしかった。「てんでわかりません」というと、先生いわく、「そうかんたんにわかっては、西田幾多郎が泣く。わからんことがわかるというのは、すばらしいことだ!」と。なんだか狐にだまされたようで、ますますわからない。ほめられているのか、けなされているのか、さっぱりわからない。……それでも、学期末の試験は近づいた。わかろうとあせればあせるほど、ますますわからない。といって、「わからんということがわかりました」とだけ書いて、すますわけにもいかない。そこで、まだ若かったわたしは、記憶力にものをいわせて、試験はんいの文を、はじめから棒暗記していった。幸か不幸か、試験はパス。だが、こんな学習をされては、それこそ西田幾多郎は泣いていたことであろう。

 

カント哲学との出あい

そして、ここでだいじなことは、この授業を通して、わたしは、「カント」という哲人の思想と、出あうことになったのである。といっても、その思想内容がわからないのだから、じつは、やっぱり、カントはわからんということが、わかっただけだった。D先生は、やたらに、「カント」とか、「カントの道徳律」とか、「人格」とか、「定言命法」とか、「善意志」とかいったむずかしいコトバを口にした。なんだか急にえらくなったような誇りを感じないわけでもなかった。が、けっきょくカントの哲学や倫理思想も、わたしに棒暗記されたものであるにすぎなかった。

 

でも、カントを教わったおかげで、わたしは、カントを、トンカなどとまちがえるような、へまはやらずにすますことができた。というのは、こんな笑いばなしがある。ジンメルという哲学者の書いた『カントとゲーテ』という本があり、その日本訳がでた。訳の標題が、横がきで、『カントとゲーテ』と書かれてあったのを、ある人、「テーゲとトンカ」と読んで、とくとくとしていたというのである。これに反し、わたしは、倫理の時間に、D先生からなんかいとなく、「カント」というコトバをきかされた。そのけっか、まる暗記のカント思想であったとはいえ、トンカとさかさまによむようなことだけは、せずにすんだのである。さいわいなるかな!

 

思えば小学校時代からこんにちまで、わたしにも、あの先生、この先生と、忘れえぬ、印象ぶかい先生が、なんにんかある。D先生は、その一人である。D先生の授業は、たしか週二時間で、たった一年間だけだった。そして、それだけで、D先生とは縁がきれてしまった。いご、顔をあわすこともなければ、文通をすることもなかった。だが、この先生のおもかげは、ふかくわたしの脳裏にきざみこまれたのだった。神聖化され、絶対でもあった修身の教科書――東京のある有名な教授が書いたもの――を、くそみそに批判した先生! 西田幾多郎とかカントとかの思想を、あんな青二才に、あきずに、しかもしんけんな顔つきで教えようとした先生! 「わかりません」といえば、「わかってたまるかい!」とか、「わからないということがわかってけっこう!」とか、いつも、なぞのようなコトバをかえしてきた先生! そういうD先生のコトバやおもかげが、いま、ほうふつとしてくる。

 

そして近ごろになって、やっと、あのころのD先生の意図がわかってきたように思われる。だんだんとゆがんだ道をたどろうとしている日本、そしてそういう日本の歩みにこび、その歩みに迎合しようとするような思想にたいし、先生は、きびしい批判をむけたのだった。先生とよぶには若すぎるほどのこの先生、そのうえ、およそ修身の先生らしからぬこの先生は、そういう批判こそ、もっともだいじな修身であり、倫理であると考えたのであった。権力とか時流におもねらず、こびず、迎合しないばかりか、それにたいするきびしい批判こそがだいじだと、いうのであった。そして、われわれ若いものに、上からあたえられた教科書などを金科玉条としないで、じぶんで考え、じぶんの理性でものごとをみ、なっとくのいかぬ不合理をかんぜんと批判するよう、よびかけたのであった。

 

わたしは、これから、カントを問題にしようとしている。そのカントは、批判の哲学を書き、人間とはなんであるかを問題にし、そして、「みずから考え、みずから探求し、みずからの脚で立て!」と、学生によびかけた。D先生は、そういうカントにあやかろうとしたのかもしれぬ。ただざんねんなことに、青二才は師の心を理解することができず、すべてを、棒暗記の材料にしてしまった。

 

デカンショで半年暮らす

その後、わたしは、東京のある学校(旧制高等師範学校)で、勉強するようになった。いろいろな関係の先輩たちが、新入生歓迎のコンパをしてくれた。いまと同じように、だんだんうちとけてくると、校歌とか、民謡とか、流行歌の合唱がはじまった。そして、手びょうしの「デカンショ」がうたわれた。

 

デカンショ、デカンショで半年暮らす、

よいよい

あとの半年や、ねて暮らす、

よーい、よーい、デッカンショ!

 

先輩たちは、この歌の意味を説明してくれた。デカンショとは、デカルト・カント・ショーペンハウエルのことである。青年、大いに哲学を勉強すべし! と。また、とくいげに、デカルトやカントの有名なコトバをひれきして、学のあるところをみせた。が、じっくり話しあってみると、反省じみた顔つきで、「とにかく、ドイツ語と、カントだけは、しっかりやっておけよ。……でないと、おれみたいに後悔するぞ!」と忠告してくれた。ピンとせまってはこなかったけれど、先輩の顔は、しんけんだった。

 

もちろん、「デカンショ」は、ほんらいは、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」ではなく、兵庫県篠山付近の盆踊歌であったらしい。農民の盆踊歌であったとするなら、デカルト・カント・ショーペンハウエルの意味でなかったのは、たしかであろう。おそらく「出稼ぎしょ」の意味であったろうといわれている。

 

ただ、問題は、当時(明治の末年から、大正・昭和にかけて)の学生たちが、デカンショを、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」の意味で、高唱していたということである。それは、デカルト・カント………といった人の思想、つまり、西洋近代の哲学論にあけくれていた、当時の学生気質(かたぎ)を、ほうふつさせるのである。教室でも、仲間どうしの議論でも、そして、コンパでも、「デカルトいわく……」、「カントによれば………」が、たえず口にされたことであろう。まさに、日々が、デカンショで暮れていったことであろう。

 

毎にち、カント、カント、カント

授業がはじまった。わたしは、文科のなかの、倫理・教育・法経を専攻するクラスに属していたので、そうした方面の授業が多かった。ところが、おどろいたことには、哲学や倫理学の授業はもちろんのこと、教育学の時間でも、さらに法学通論の講義でも、「カントいわく」「カントによれば」が、しきりととびだしてきた。わたしは、めんくらった。そして、首をかしげた。なぜ、カントが、そんなに問題になるのか、と。

 

ある先生はいった。「カント以前の哲学は、みんなカントへ流れこみ、カント以後の哲学は、すべてカントから流れでた」と。そういわれてみれば、諸先生が、「カントいわく」を口にするのも、なるぼどと了解できたのだった。かつて、お説教づくしの修身のかわりに、カント倫理学を手づるにして、善にたいする考えかたや批判態度の訓練をしようとしたD先生の気持ちが、わかってきた。しかし、もちろん、カント以前の哲学が、どのようにしてカントへ流れこみ、どのようにしてカントから流出していったかは、わからなかった。とにかく、わたしのばあいは、「カント、カントで半年暮らす、よいよい………」であった。

 

カントはドイツ人だから、カントの話がでると、さかんにむずかしいドイツ語が、口にされ、黒板に書かれる。それは、やむをえないとしよう。ところがどういうわけか、哲学や倫理学や教育学の講義には、やたらにドイツ語がとびだしてき、そしてそれが黒板に書かれる。黒板は、ドイツ語でいっぱい。まだろくにドイツ語を習っていないどころか、ABC………のアルファベットがはじまったばかりだ。カントいわく、ヘルバルト(ドイツの教育学者)いわく、の内容がむずかしいうえ、さらにそれがドイツ語の原語を使って説明されるのだから、ますますわからない。新入生たるもの、たまったものではない。「ドイツ語とカントはしっかりやっておけ!」との上級生の忠告が、もうはじめから身にしみるようだった。

 

もちろん、N先生はこういった。「デカルトいわく、カントいわく、ヘルバルトいわく……は、『デカルト、カント、ヘルバルト……は、こういったということだ』にすぎない。『こういったとさ』にすぎない。つまり、だとさだ。だから、だいじなことは、諸君が、みずから考え、みずからの脚で立つことである。哲学(フィロゾフィー)とは、哲学をおぼえるのでなく、みずから哲学すること(フィロゾフィーレン)なのだ」と。そういいながら、ただちにまた「カントいわく……」がはじまる。だから、「カントいわく」の内容が理解できないかぎりは、みずからフィロゾフィーレンするわけにもいかないのである。

 

いっきょりょうとく原書でカントを

「カントいわく……」「……」「……」……をきかされ、ドイツ語に苦しめられ、英語(語学の時間のほか、教育史の演習や西洋史の授業も、英語の原書)に時間をとられ、無我夢中で一年間は終わった。

 

春休みがおとずれた。わたしは、一大決心をした。ひとつ、ドイツ語の原書で、カントを読んでみよう、と。カント哲学の勉強ができ、同時にドイツ語の練習にもなるというなら、まさに、いっきょりょうとく(一挙両得)である。

 

わたしは、”IMMANUEL KANT:GRUNDLEGUNG ZUR METAPHYSIK DER SITTEN”(イマヌエル=カント『グルントレーグンク=ツア=メタフィジィーク=デア=ジッテン』)という、みどり色の、一冊の原書を手にいれた。世に「ビブリオテーク版」といわれている、あざやかなみどりで装ていされた、きれいな本である。そのときの感激は、たとえようもなかった。これが、世界一の哲学者カントの原書だと思うと、手にしただけで、心がおどってくるのだった。それこそ、じかにカントにふれ、みずからの力でこれを読破し、これを理解し、これをわがものにしてやろうと、胸がたかなるのを、禁じえなかった。この本の題名の意味は、「道徳哲学のための基礎工事」とでもいうべきものである。当時、日本訳は、『道徳哲学原論』(安倍能成・藤原正訳、岩波書店刊)という名で、世にでていた。わたしは、同時に、この邦訳を買いもとめた。(こんにちでは、さらに、『道徳形而上学の基礎』、『道徳形而上学原論』などという名の訳もでている。)原書と訳本の二冊を手にして、意気ようようとふるさとへむかった。なにか、すばらしい恋人か宝かを、手に入れでもしたような思いで。

 

しかし、やっとドイツ語の初級を終わったばかりのものにとっては、この本は、たいへんな難解だった。だいいち、単語がわからない。わたしは、どのページの余白もいっぱいになるほど、辞書を引いて、単語の意味を書きこんだ。訳をたどって、ともかくも一文章、一文章をたどっていった。一日じゅう、朝から夜おそくまで机にかじりついていても、なにほども進まない。この本(『クルントレーグンク』と略称されている)は一文章が長いことで有名である。覚悟はしていたが、それでも、ときに一ページ近くもの文にでくわすと、眼と頭がくらくらするようだった。まさに、難行苦行である。しかし、わたしにとって、ところどころにオアシスがあった。それは、かつてD先生から、またちかくはN先生から教わり、すでに知っていた名句にであったときである。「この世界ではもとより、およそこの世界の外においても、無制限に善とみなされることができるようなものは、善意志いがいには、まったく考えられない……」こんな句を見つけだしたときには、なつかしい友にでもあった思いで、カントじしんの直接のコトバを口ずさむのだった。

 

悪戦苦闘のすえ、春休みの終わるころ、とにかく読破した。快哉(かいさい)をさけばずにはおれなかった。この喜びが、家の人たちにわかろうはずはない。赤飯をたいてもらうわけにもいかない。じぶんひとりで、ふるさとの山野を歩きまわった。まるで、天下でもとったような思いにみたされて………。

 

はげまされたわが心

むずかしかった。ドイツ文の構造は、むずかしかったが、とにかく訳を参照にして、なんとか、じぶんなりに理解した。しかし、内容となると、そうかんたんにはいかない。まだわからないこと、なっとくのいかぬことは、ずいしょにあった。

 

しかし、一ページ、一ページとすすんでいくにつれ、なにか、力強く、わたしの心にせまってくるものがあった。カントは、若いわたしに、こんなふうにうったえてきた。

 

理解力・機智・判断力などの精神的才能は、なるほど望ましいものである。勇気・果断・堅忍不抜(けんにんふばつ)などの気質の性は、なるほど善いものである。また、権力・富・名誉はもとより、健康、身心の安泰、みちたりた境遇など、そうじて幸福とよばれるものも、善いものであり、望ましいものである。しかし、それらを、無条件に善いものというわけにはいかない。それらを、人間にとって、いちばん価値のある、望ましいものとみなすわけにはいかない。人間にとっていちばん価値があり、人間に人間らしい尊さをあたえるものは、善き意志である。善意志こそ、この世界ではもとより、世界のそとにおいても、無条件絶対に善とみなされうる、ただひとつのものである。それゆえ、もし、われわれの意志が善でなかったら、さきにあげたせっかくの才能や性質も、きわめて悪い有害なものとなりかねない。知恵があり、勇気があり、冷静である悪漢ほど、おそろしくて憎むべきものではないか。権力・富・名誉などといった幸福にめぐまれた人が、もし善意志を欠くならば、どういうことになるであろうか。かれは、得意になり、ときには思いあがって世に害悪をおよぼすであろう。わたしたちは、純な善意志のおもかげをつゆ持たぬ人が、この世に栄えていくのをみて義憤を感じないであろうか。あさましい人間として、その人を蔑視するではないか。まさに善意志こそ、いっさいをこえて光りかがやく尊厳であり、人間を人間たらしめる本質である。人格を崇高なものとする根源である、と。

 

わたしの才能は、貧弱だった。わたしの性質は、気が弱く、優柔不断だった。わけても小さいときから体が弱かった。あまり、権力や名誉にあこがれはしなかったけれど、また、巨万の富がほしいとは思わなかったけれど、貧乏はつらかった。身心の安らかさや、落ちついた境遇がほしかった。当時の疲弊した暗い農村のなかにそだったわたしの心は、かずかずの欲求不満にみたされていた。

 

カントの『グルントレーグンク』は、人間の尊厳や崇高さが、善意志のなかにあることを、くりかえし教えてくれた。力強く、わが心にうったえてくれた。暗かった青年の心に、光りが、さしこんできたようだった。哲人の書を読破しえた喜びは、同時にまた、行手になにか希望を見つけだした喜びでもあった。

 

 

わたしに投げかけられた問題

 

なんじじしんに不純はないか

しかし、他面、カントのコトバは、わたしの心の奥底へ、いわばことを審判する神の声のように、くいこんできた。それは、はたしてわたしじしんの意志が、純粋に善であるかどうかと、わたしの心にせまってくるのであった。そしてそれが、わたしじしんの不純さを自覚させ、かよわい青春の心を、苦しめるのだった。

 

『グルントレーグンク』によれば、絶対的な価値をもつ善意志、人間の尊厳の根源である善き意志とは、純粋に理性の声にしたがうことであった。逆にいえば、この世の幸福をもとめようとする人間の欲(本能・衝動)によって、意志が動かされたり、影響されてはならない、というのであった。幸福な生をいちばんだいじな目あてとするような生きかたは、カントによれば、悪である。人間のなすべきこと(道徳的な善)は、幸福追求ではなくして、幸福をさずかるにふさわしいということである。幸福をうけるにふさわしいとは、幸福を追うことではなく、むしろ逆に、幸福を意にせず、ときには幸福を犠牲にしても、ひたすら純粋に、理性にもとづいて行動し実践することである。生きたいから生きる、好きだから愛する、いっぱんに、こうしたいからこうする、というのでは、自然の性(本能・衝動)のままに動いているにすぎず、動物とかわりはない。そんなことでは、人間の尊さや価値は、どこにも見いだされないであろう。問題は生きたくない、死にたい、にもかかわらず、理性の命ずるところにしたがって、けつぜんと、義務感から生きぬこうとすることである。好きではない、にもかかわらず、愛すべきがゆえに愛することである。まさに、「なんじの敵を愛せよ!」である。『グルントレーグンク』は、こういうきびしい理性主義ないし「義務感からの実践」を、これでもか、これでもか、というほどに、わたしにせまってくるのだった。

 

わたしも人の子であり、青春の血に燃える青年であり、人間であった。おませでもあったわたしは、また、多情多感の若ものであった。権勢とか、カネもちにはそうミリョクがないばかりか、そういう人に義憤をさえ感じたが、しかしひとなみの幸福はほしかった。愛する女性(恋愛)がほしかったし、愛する女性を愛したかった。そのために若い心は動揺した。しかし、生涯、独身であったカントは、それを許しそうにはなかった。「清らかな愛」などと、自分で弁解し、自分でなぐさめてみても、だめだった。すくなくともじぶんのばあいは、義務からの愛どころか、人間の性(さが)にもとづく根強い欲だ! カント流にいえば、わが愛は、不純いがいのなにものでもないではないか! といって、わたしは、この内の思いを捨てさることもできないのである。義務からかの女を愛しているのではないし、義務からかの女を愛することはできない。わたしは、たちきれぬわが業(ごう)に、悩み苦しんだ。

 

わたしは、『グルントレーグンク』の最後の余白に、読み終えた日付と、読破に要した日数とを記入した。読み終えた感激や、カントの崇高な考えかたを、たたえた。そして、つけくわえた。「わたしは、カントから遠くへだたっている。純粋な善・善意志・理性から遠くはなれて、デモーニッシュな情欲・感性・恋愛のなかにもがいている。この世の幸福をもとめてあくせくしている。なんてくだらない人間なんだろう!だが、この両面、理性と愛、善と幸福の二面は、調和することができないものだろうか………」と。

 

わいてきた学問的情熱

休暇のさいには、いつでも『グルントレーグンク』を持参して帰省した。二回目、三回目、四回目……と、読破を記念する日付の回数は、ふえていった。それがふえるにつれ、書かれていることの内容や順序が、本を開いただけでわかるようにさえなった。

 

わたしの関心は、おいおいと、カントを学問的に研究してみようという方向へ、向いていった。日本ででていた、カント研究に関する著作をしらべた。経済のゆるすかぎり、そうした本を買い集めていった。当時(昭和一〇年ごろ)は、まだ、神田や本郷の古本屋をぶらつけば、こうした本が、たいてい見つかった。安いレクラム版(岩波文庫のような原書)の『実践理性批判』(『グリティーク=デア=ブラックティッシェン=フェルヌンフト』)、『永久平和のために』、『たんなる理性の限界内の宗教』などの原書を手にいれて、胸をおどらせた。カントの著作にかんしての訳も、だんだんとふえていった。

 

カントとは、いったいどういう人間なのか。まず、わたしは、カントの伝記をあれこれしらべては、うなずいたり、感心したりした。時計のようにきちょうめんであったという、カントの日常生活を、まねた。思想内容もおいおいわかってくるにつれ、わたしは、思わず、「カントいわく……」「カントでは……」を口にするようになった。こうして、ばんじ、カントにあやかろうとした。こんどは、諸先生がたから教えられるカントではなく、わたしじしんの自発的な意志による、「カント、カントであけくれ暮らす、よいよい………」であった。わたしは、カントのとりこになってしまった。

 

大学生活をおくるようになったころには、わたしは、カントを、卒業論文のテーマにすることに決めていたといえよう。カントが、わたしじしんのなかでしめていた場を思えば、卒論がカントになるのは、とうぜんであった。

 

あらたに、ビブリオテーク版の『実践理性批判』(クリティーク=デア=プラックティッシェン=フェルヌンフト)や、『純粋理性批判』(『クリティーク=デア=ライネン=フェルヌンフト』)や、『判断力批判』(『クリティーク=デア=ウアタイルスクラーフト』)を買いもとめて、本格的な勉強をはじめた。もちろん訳を参照しながら。同時に、哲学史のなかにおける、カントの位置や役わりについても、勉強しなくてはならなかった。つまり、カント以前の哲学が、どのようにしてカントへ流れこみ、カント以後の哲学が、どのようにしてカントから流れでたか、ということを。

 

T先生、M先生、K先生などの、カントにかんする講義や演習にでた。助手のIさんは、カントにかんするすぐれた卒論を、書かれたひとだった。いかにもカント研究者らしい、誠実で、純で、まがったことのきらいな人格の持主だった。このIさんから、身近かで、いろいろな教えをうけることができた。わたしは、このうえなくよき師、よき先輩に、めぐまれたといえよう。

 

哲人カントも人間であるはず

そもそもわたしが、カントの考えかたに感激したのは、つぎのことだった。すなわち、この世の幸福を追うのでなく、その幸福をうけるに値すること、つまり、道徳的義務の命令(純粋な理性の要求)にしたがうこと、それを、人間の尊さの源泉としたことだった。

 

しかし、いたらぬわたしは、どうしても、ひとなみのこの世の幸福がほしかった。また、女性との愛情(恋愛)に心がひかれるのを、たちきることができなかった。なんてくだらない人間だろうと、みずからわが身を叱ってみた。だが、好きな人に、おのずから向いていく愛は、大きく強くわが心を動かさないわけにはいかなかった。

 

理性と欲求、義務と快楽、正義と愛、禅僧的な学的修業と恋愛、なすべきこととしたいこと、…………この二つのあいだのカットウに、苦悩したのであった。

 

しかし、カントだって、人間であろう。人間であるかぎり、わたしがいだいたような苦悩が、カントにぜんぜんなかったはずはなかろう。たしかに理性は、人間にのみ許された尊いものであろう。しかし、この世の幸福をもとめてやまない欲求も、もし神がそれを人間にさずけたとするなら、神の眼には意義のあるものであったはずだ。

 

善と幸福

理性と欲望、善と幸福、幸福に値することと幸福にあずかること、両者は両立できないものだろうか。両者は調和できないのだろうか。もし両立し調和するとするなら、それは、どういう姿、どういう形で可能なのであろうか。それが、いまわたしにとって問題であった。人間くさい人間、わけてもわたしのようにくだらない人間が、人間でありながら、人間の尊厳をあらわしていく道はないのか。きびしく尊厳なカント哲学は、わたしのような人間にも生きる希望を、あたえてはくれないだろうか。

 

たしかにカントは、なすべきかいなかを、幸福になるかどうかによって決めてはならない、といった。しかし、幸福そのものがいけないとはいっていない。むしろ、幸福をうけるにふさわしい姿で、幸福にめぐまれることを望んでいるともいえよう。

 

『形式から内容へ』、それが、わたしの卒論の題目となった。それは「善意志から幸福へ」といいかえてもよかった。『形式から内容へ』という、わたしの論文は、善意志と幸福との関連を解明しようとしたのである。いうまでもなくわたしは、そのことによって、わたしの、この世での生、この世での幸福、この世での愛、それらの正しいありかたを求めようとしたのである。

 

 

カント的精神はいずこへ

 

理性的でない時代の流れ

だが、日本の現実は、ますます暗くなっていった。不景気がつづき、農村が疲弊し、政治が堕落していった。ファシズムないし軍国主義の風潮が、瀰漫(びまん)していった。中国とのいざこざがだんだん大きくなり、正義の名のもとに、中国への侵略がだんだん拡大されていった。そとでは、満州事変や日華事変がおこり、日独伊間の防共協定や軍事同盟が成立していった。うちでは、五・一五事件や二・二六事件がおこり、文化や思想の統制がはじまり、ついに、国家総動員法が発令されていった。学校や在郷での軍事教練は強化されていった。たんに若い青年だけでなく、中年の人たちまでも、召集をうけて、入隊していった。中国の戦場へ派遣される軍隊は、増加していった。そして、ある人たちは、戦死して、骨となって帰ってきた。太平洋戦争前の、まったく暗たんたる時代である。

 

多くの人たちや著作が、思想的な弾圧をうけた。カントのいう理性が、だんだんと失われていく時代であった。カント学者であり、『純粋理性批判』の訳者でもある天野貞祐さんの、『道理の感覚』は、わたしに強い感激をあたえてくれた。道理(理性)の存在とその勝利を確信する。この本の著者は、道理の感覚によって、時勢をするどく批判した。それは、わたしたちにとって、とくにカントを勉強しているわたしにとって、りゅういんのさがる思いをさせてくれた。しかしその本も、弾圧をうけ、著者は自発的に、発行の停止を申し出なくてはならなかった。カントの「永久平和論」などは、非現実的な夢となってしまった。

 

デカルトの、「われ思う、ゆえにわれあり」という考えかたは、近代人のものの見かたの、シンボルであった。しかし、それも、いま、国家という強大な怪物のまえでは、たわごとのごとくか弱いものにすぎなかった。こうして、「デカンショ」は、たとえ歌われたにしても、ほそぼそとした声での、かつてのよき時代へのノスタルジァ(郷愁)となってしまった。

 

カントにかわって、フィヒテの、愛国的な『ドイツ国民に告ぐ』がはやった。フィヒテは、カントの自由哲学をうけついだ哲学者で、当時(一八世紀の末から一九世紀のはじめ)のドイツの統一を念願する愛国者であった。『ドイツ国民に告ぐ』は、ナポレオンの占領下でなされた。愛国的な講演である。日本は、占領されてはいなかった。むしろ逆に、満州その他を占領していた。それでも、大陸への派兵は、やむにやまれぬ、いわば、われわれの生存のためのぎりぎりの線だと、政府やニュースや新聞は、宣伝した。そこでは、フィヒテ流の「日本国民に告ぐ」が、必要であったのかもしれぬ。とんでもない利用をされたものだ!と、ドイツの地下で、フィヒテは苦笑していたかもしれない。いや、嘆いていたかもしれない。

 

風にそよぐ葦

また、ヘーゲルがはやった。「国家は、世界史の審判にたえなくてはならない」というヘーゲルの考えかたは、さいしょは、時局を批判する意味で、喧伝(けんでん)された。日本の歩みが、世界史の審判に是認されなくてはならないとして、ゆがんでいく方向を批判しようとした。しかしのちには、日本の歩みこそ、世界史の審判にたえるどころか、世界史の新しい方向をしめすものだ、というふうに解釈されていった。こうして、ヘーゲルの考えかたは、対外的・対内的国策を哲学的に基礎づけ、美化するために利用された。ヘーゲルの『法の哲学』のなかに、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という有名な句がある。それにもとづいて、日本の現実が、理性的で正しいものと吹聴された。また、『法の哲学』は、国家こそは、地上における神であり、自由の実現であり、したがって、ほんとうに理性的なものである、とした。さらに、愛国心をたたえ、戦争の高速な意義を論じた。その本のなかで、ヘーゲルはいう。戦争によって国民の健康が保たれ、民族精神の固定化が防止される。戦争こそは、民族を強くし、むしろ国内における安静・統一をもたらし、平和からくる腐敗・墜落を防ぐものである。国家は、動的に(弁証法的に)発展していくものとして、戦争をもたないわけにはいかない………と。中国での侵略戦争にあけくれる日本。そういうとき・ところのなかで、この国家観ないし戦争観が流行したわけは、いわずとも明らかであろう。

 

いっそう時局が進展するとともに、ヒトラーの『わが闘争』とか、ローベンベルクの『二〇世紀の神話』が宣伝された。まもなく第二次世界大戦がはじまった。

 

そのころのことだった。わたしは、山手線の電車のなかで、ある旧制高校の一学生が、岩波文庫の『純粋理性批判』を、読んでいるのを見つけた。あれっ! と、自分の本でも読まれているように、おどろいた。わかるのかしら? ともいぶかったが、つよく胸をうたれ、頭のさがる思いがした。この学生は、明日は応召してでかけていくかも知れないのに……。

 

だが、「考える葦」(パスカルが、思索する人間をたたえたコトバ)の多くは、とうとうとして、「風にそよぐ葦」へとかわっていった。そして、恥ずかしいことには、かつて、カント的な理性を口ぐせにしていたわたしも、この、時の流れの誤りを理解することができなかった。批判し抵抗することもなく、「国策になびく葦」となってしまった。まことにカント研究者の名に値せぬ、カント研究者であった。なさけない、恥ずかしいカント研究者といわねばならない。

 

カントで、めしを食う男

多くの人が、あるいは国外の戦場で、あるいは国内の空爆下で、あるいは飢えで、死んでいった。身近かな、あの人、この人も帰らぬ人となった。疎開していたわが家族は助かったけれど、東京で、食うものも食わずにわたしを世話してくれた「おばさん」は、三月九日の大空襲で、焼け死んでしまった……。だが、わたしは生き残った。九死に一生をえて。

 

日本は敗けた。戦争は終わった。空には、侵入した米空軍が、勝利者として、爆音をとどろかせていた。思いもかけぬことだった。浦和の、ある好意ある一家の世話をうけていたわたしは、ここの一室から、うつろな気持ちで、この爆音をきいていた。心身ともに、生きる力もないほどに疲れはてていた。

 

ようやくにして、ともかくも立ちなおった心は、カントを求めた。やっぱり、心のふるさとが、なつかしかったのであろう。いちばん大じにして、さいごまで身のそばにおいていたものは、みんな焼失してしまった。だが、ふしぎにも、疎開させていた、カントの三批判書(『純粋理性批判』・『実践理性批判』・『判断力批判』)の原書など、大じなものが残っていた。

 

わたしは、『純粋理性批判』の原書を、ぼつぼつと、読みはじめた。読んでいくうちに、心のふるさとは、病みつかれた心を、だんだんと回復させてくれた。意欲もでてきた。ニコライ=ハルトマンというドイツの哲学者は、こんな本は、一日に一ページ以上を読んではならない、といったということである。じゅうぶんに考えるよう、教えたのである。だが、そんなことをしていたら、七六六ページあるこの本を読むだけでも、二年間あまりもかかってしまう。そこで、わたしは、プランをたてた。なん日間で読み終えるというプランを、さきだたせた。そして、一日に読まねばならぬページ数をわりだした。わりあての読了をきびしく守るよう、ちかった。だが、これは、たいへんな苦業であり、疲れた身に、ひどくこたえたようであった。

 

とにかく、「カント、カントでひねもす暮らす……」の日が、またはじまった。わたしは、すでに、数年前から、教師として、哲学や倫理学を教えていた。しかし、戦争中、とくに末期は、授業らしい授業はほとんどできなかった。学生は、今日は工場へ勤労動員されていったかと思うと、あすは召集をうけて軍隊へむかわねばならなかった……。が、いま、戦争が終わり、食うや食わずのなかで、ともかく授業をはじめることができるようになった。

 

わたしは、カントの『グルントレーグンク』を材料にして、授業をはじめようとした。が、学生には、ドイツ語の力はなかった。やむなく、アボットの英訳(T.K.ABBOTT;FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF THE METAPHYSIC OF ETHICS BY IMMANUEL KANT)をテキストにした。それでも、学生は、難解のようであった。

 

ある友人がひやかした。「カントでめしが食えるとは、きみは、けっこうな男だね。カント先生にお礼をいえよ」と。もちろん、わたしの机上には、もう一〇年近くも(戦争末期の一年間をのぞいて)、カントの肖像が、飾られてあった。

 

悔い・わび・反省

ただ、戦争が終わってみて、わたしは、自分じしんのとってきた態度について、深い悔いとわびの念に、責められねばならなかった。ゆがめられていく時の流れを正すために、わたしの、カントを中心にした勉強は、どれだけの寄与をしたであろうか。わたしは、政府から、ラジオから、また新聞から流されてくることを、そのまま信じこんで、この戦争の性格を見ぬくことができなかった。したがって、戦争にたいして、なんらの、正しい批判や抵抗を向けることができなかった。とうぜん、学生にたいしても、正しい認識や批判をのべることは、できなかった。それは、カント哲学の徒として、恥ずべきことではなかろうか。教師として、申しわけのないことではなかろうか。

 

間違ったのは、わたしだけではなかったように思う。カント、ヘーゲル……などのすぐれた研究者として、わたしが日ごろ尊敬さえしていた人たちのうち、ある人たちは沈黙した。ある人たちは、権力に屈した。ある人たちは、権力に追ずいした。ある人たちは、それに迎合した。ある人たちは、おもねった。いったいこれは、どういうわけなのだろうか。哲学者が、こういうありさまだとするなら、哲学の意義はどこにあるのだろうか。

 

敗戦のあとで、戦争に批判や抵抗をしめした人、またそのために何年かを牢獄ですごした人、獄死した人、さらには殺されさえした人……などが明らかにされてきた。そのなかには、名もなく、学のないような人もいた。が、また、学問的な知識や理論にもとづいて、批判や抵抗をした人もいた。そういう人の多くが、あるいは社会科学者であり、あるいは社会主義者や共産主義者であり、あるいはマルクス主義者であったというのは、いったいどういうわけなのだろうか。おそれられ、悪者あつかいにされたアカが、反戦と平和を主張し、忠良なる臣民とされた人が、その逆であったとは! カントは、すでに、一五〇年もまえに、永久平和論を、主張していたではないか!

 

わたしは、みずからを悔い、みずからの誤りをわび、そして、みずからの研究方法を反省しないわけにはいかなかった。

 

わたしは、そしてまた、いままでの日本の哲学者たちは、頭のなかだけで、カントやフィヒテやヘーゲルを、解釈していたのではなかろうか。日本だけではない。哲学の国ドイツは、性(しょう)こりもなく、二度もあんな戦争をおこして、世界をこまらせた。ドイツの哲学もまた、意識のなかだけのことで、現実を批判し是正するという力に、欠けていたのではなかろうか。

 

ようするに、哲学と、現実の政治権力・経済・社会などとの関係の問題である。たとえば、カント哲学は、そのころのドイツの政治や生活や社会状況と、どういう関係にあったのであろうか。またそれは、その後の哲学にたいしてだけでなく、その後のドイツ社会にたいし、どういう影響をおよぼしたのであろうか。そして、われわれ日本人に関していうならば、カント哲学はどういうわけで日本にとりいれられ、なぜ流行し、どういう影響をおよぼしていったであろうか。カント哲学が、解釈されるだけで、批判する力となりえなかったのは、なぜであろうか。そしてまた、市民社会ないし資本主義の矛盾がうんぬんされ、社会主義社会が台頭してきたこんにち、カント哲学そのものは、はたしてどういう意義をもちうるであろうか………。

 

わたしは、『グルントレーグンク』を読んでいらい、カント哲学を、煩悩に苦悩する人間の立場から、理解しようとしたのだった。そして、戦後の悔いとわびと反省のなかから、カント哲学を、社会の発展、歴史の歩み、という立場から考察しようとした。この小著もまた、そういうわたしの苦悩と、悔い・わび・反省との、ささやかなあらわれであるともいえよう。

 

目次

カントについて ――カントとわたし――

カントにひかれて
わたしに投げかけられた問題
カント的精神はいずこへ

Ⅰ カントの住んだとき・ところ

期待された不自然 ――片すみの、東プロイセンでの物語――
殿さまの時代からフリードリヒの世紀へ
住みなれた、ケーニヒスベルク

Ⅱ 哲学研究にささげられた生涯

つつましい一市民のせがれ
わが道を行く、大学教師
思想遍歴のスケッチ
老衰とのたたかい
人間カントのおもかげ

Ⅲ 人間とは何であるか ――カント哲学が探究したもの――

批判哲学の課題
人間は何を知りうるか ――『純粋理性批判』――
人間は何をなすべきか ――『実践理性批判』――
道徳と自然との調和 ――『判断力批判』――
人間は何を望んでよろしいか ――『たんなる理性の限界内の宗教』――
『永久平和のために』
けっきょく、人間とは何であるか ――『実用的見地における人間学』――

おわりに ――カントを活かす道――

カント年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ カントの住んだとき・ところ

 

期待された不自然――片すみの、東プロイセンでの物語――

 

欧州東北のはずれ

いまからおよそ二四〇年まえ、すなわち、一七二四年の春、哲人カントは、ケーニヒスベルクでここの声をあげた。ケーニヒスベルクだって? と、人はいぶかるであろう。むりもない。

 

ヨーロッパの地図を開いてほしい。ベルリンの東北、ワルシャワの北方、バルト海にのぞんだところに、カリーニングラードという都市がある。いま、ソ連領になっているこのカリーニングラードこそ、カントのふるさと、ケーニヒスベルクなのである。

 

カントは、ヨーロッパ東北の、この片すみの地に生まれ、しかも、この地に強い愛情をもった。かれは、八年余(一七四七~五五)の家庭教師の間を除いて、ほとんどこのケーニヒスベルクをはなれることがなかったといわれる。カントにとって、ケーニヒスベルクは、いわば、ただひとつのふるさとであった。ある人(クルト=シュターフェンハーゲン)は書いている。カントが、みずからの人格を、またみずからの偉大な思想をつくりあげたのは、このケーニヒスベルクにおいてであり、この都を通してであった。かれは、まさに全身全霊をもって、ケーニヒスベルクを愛した。かれの偉大な人生は、この都のものである、と。後でのべるつもりだが、カントじしんも、この都のすばらしさを書いている。

 

そこで、わたしたちは、まずなんとしても、カントをとりかこむエートス(カントの住みなれたふるさとの雰囲気、いっぱんの生活感情ないし生活意識)を、みてみる必要があろう。

 

あわれな家庭教師

もう一〇年ほども前になるであろうか。「家庭教師(ホーフマイスター)」という劇が、日本で演じられたことがある。これは、本国のドイツでも、また日本でもなかなか人気のある作家ブレヒト(一八九八~一九五六)が、レンツの「ホーフマイスター」を、改作したものであった。

 

レンツ(一七五一~九二)というのは、一八世紀のドイツの劇作家で、カントの講義をきいたこともあった。みずから家庭教師をした経験もあるレンツは、東プロイセン(ケーニヒスベルク付近の地方)を舞台にしたこの戯曲のなかで、当時(一八世紀後半)の、この地方の、社会的・道徳的・宗教的な雰囲気を、なまなましく描いたのであった。

 

わたしは、レンツの原作と、ブレヒトの改作との違いを、じゅうぶんしらべてはいない。が、この改作劇では、次のような諸点が、わたしに強い印象をあたえたのであった。すなわち、そのころの貴族階級の封建的な意識。召使とか家庭教師とかの身分が受けねばならなかった隷従的(れいじゅうてき)な取りあつかい。情欲のために罪をおかさないではいられないような人間、したがって霊と肉との葛藤に苦悩しないわけにはいかない人間の姿。支配階級に気にいるため、人間的情欲の根元をたちきり(去勢し)、バックボーンを売りわたしてしまうことによって、パンを得ようとした教師の像。そういうなかに姿をあらわしてくるカント哲学、などが。そしてブレヒトは、この作によって、ドイツの教育がたえず権力に屈従し、支配階級の手先きとなってしまう、ドイツの悲劇のいろはを表現しようとしたのであった。いうまでもなく、日本の演出者は、日本のなかにもあるこの悲劇を、訴えようとしたのであろう。

 

この、あわれな家庭教師の物語を、すこし、追ってみよう(岩渕達治訳による)。

 

青春とは罪なもの

場所は、インステルベルク(ケーニヒスベルクを流れるプレーゲル川の上流)の、少佐家の娘、グストヘンの部屋。顧問官(少佐の兄)の息子フリッツは、従妹のグストヘンと強い愛の誓いをかわしているところを、父に見つかってしまう。

 

「さあ、すぐみんな言ってしまいなさい。ここで何をしとった?………いいかフリッツ、………いまだいじなことは、ハレに行って勉強して人類の光明の担い手になることだ。おまえは、まず、この娘にふさわしい者にならなければいかん。そして、ほんとうの自由がなんであるかを、会得しなければいかん! このような自由こそ、人間を禽(きん)獣と分かつものなのだぞ。禽獣はしたいことをする。ところが人間は、それをせんからこそ自由なのだ。わかったか、フリッツ!(フリッツ、はずかしそうにうなづく。)だからわしは、おまえたちに、別に人から強制されず、自由意志で、どうしてもそうすべきであるような型で、お別れをしてもらいたいのだ。おまえたちのあいだで取りかわされる手紙は、かならず公明正大なものでなければならん。……考えることは自由だ。しかし書いたものは、かならず検閲する。……じぶんのしたいように、人がだれもみていないときにするようなのじゃいかん。……いいか。理性こそわれわれの厳正な支配者なのだよ。」

 

ザクセンのハレ大学で学ぶフリッツの友人ペートスは、カントの信奉者である。ペートスの主任教授ヴォルフェンが、カントの反対者であるため、ペートスは、試験がうからない。かれの友人ボルベルクは、「永久平和論」などをとなえているカントは、ぐまいで、大まぬけで、キ印じゃないかな、と、カントをあざける。だがペートスは、ゆずらない。かれは、奉公人として、とくに国王の奴隷として身をささげておれば満足しているドイツ人の奴隷根性を、批判する。カントにたいする反対も、ときを告げるオンドリをにくむ去勢鶏のようなものだ、という。しかし、それぼどのかれも、愛するかの女との結婚と就職のために、カント哲学をしばらくおあづけにして、妥協する。つまり、「戦争は万物の母なり」と書き、無事、たのしい小市民生活へはいりこむというわけ。

 

少佐家の家庭教師となったロイファーは、平身低頭してつかえるが、だんだん奉公人あつかいをされ、給料はへらされていく。娘のグストヘンと、グストヘンをも教えることになったロイファーとは、だんだんと肉体的に近づいていってしまった。帰省しない恋人フリッツを待ちきれないグストヘンは、ロイファーを代用にしようとしたのである。

 

少佐家の一行に追われ、射殺されようとしたロイファーは、近傍の村の学校(分教場)へ逃げ、そこの校長先生に助けられる。そこで、校長先生の助手をして暮らすことになる。ここには、かれに心の愛をそそいでくれる、養女のリーゼがいた。青春の情熱にうちかてなかったロイファーは、リーゼを抱ようして、キスし、見つかってしまう。追放を申しわたされたロイファーは、自分を責めつつも、なげくのである。

 

「しかし人間であるってことが、そんなに呪うべきことだろうか。この感情がどんなに肉的だろうと、どうしてそれが不自然だというのだ。おれを石につくらなかった自然こそ呪われよ、こんな不自然なものをつくりやがって。いったい、おれのどこがわるいんだ。馬丁だって男であることが許されているじゃないか。だのに、おれにはそれが許されないのか。……」

 

期待される教師像

この自然の矛盾のゆえに、追放されて職にありつけないロイファーは、みずから自然にそむいて、ことを解決しようとする。かれは、去勢して、自然のあたえた男性を否定したのだ! 校長先生から、こうほめられはしたが………。

 

「……りっぱな奴だ、おまえを抱かせてくれ、すばらしい、貴い戦士だ! 道はひらけた。この道をたどって行けば、おまえはきっと教育界の光明になれるだろう。教育界の明星と仰がれるだろう。……」

 

「……きみはいま、おのれのうちのあらゆる反対を滅し去り、すべてを義務の命ずるところに従わしめたのだろう? いまからきみは、後顧のうれいなく、人を自分どおりに教育することに専心できるわけだ。これ以上の進歩は望めんな。……前途は洋々たるものだ。」

 

おかげで、いまや失業の心配も、また情欲の心配もなくなったロイファーは、恋人リーゼの愛をうけて、精神的な結婚をする。「だめなんだよ! そいつはできない相談なんだよ」と、校長先生を慨嘆(がいたん)させながら。

 

エピローグ(おわり)に、家庭教師のロイファーになった俳優は、幕の外で、観客にこう訴えるのである。

 

「これがこの喜劇の結末でございます。みなさまはきっと、いささか嫌悪をもよおしながら、芝居をごらんになったことと存じます。

なぜって、みなさまは、ドイツの悲劇をごらんになりましたし、

ドイツに生をうけた人間が、一〇〇年前、いや一〇年前にも、めいめい、どうやって妥協し、おりあいをつけてきたか、おわかりになったことでしょうから。

いや、こんにちでさえ、こんなことが、どこにだって行なわれているのです。

…………………

かれは、われとわが身にとびかかって、苦しみと災いの種をつくる役にしかたたない生殖力の根源を、みずから絶ちきったのでございます。

と申しますのも、かれが自然のままにふるまっているうちは、

いつまでたっても上の方からは嫌われるからなんです。

平身低頭、膝を七重に折っていたうちは、その日の糧もとりあげられて、おあずけをくっていたんです。

かれが羅切(らせつ)〔去勢〕し、みずからの男を失った暁に、はじめて、やっと、上の方がたの知己を得ることができました。

しかしそのときは、かれのバックボーンは折れておりました。

これからのかれの義務は、自分の生徒たちのバックボーンを、骨ぬきにすることです。

わがくにの学校教師諸君! どうかかれのことをお忘れなく。

かれこそは、「不自然」の産物であり、その製造元であります。

新時代の教員生徒諸君、みなさんはよくよくかれの奉公人根性をごらんになって、みなさんは、こんなものとは縁を切ってくださいまし。」

 

劇は、これで終わった。わたしは、ふかいためいきをついた。日本の社会、日本の教育、わけても道徳教育や倫理学のことを考えたのである。こんにちの教育、こんにちの道徳教育や倫理学は、また社会は、どうだろうか。肉体的な去勢をしていることはなくとも、精神的な去勢や、精神的なバックボーンを折ることを、行なったり、強いたりしてはいないだろうか。

 

ところで、わたしたちの問題は、カントだ。わがカント先生は、義務法則や理性法則を、大いに強調した。八年間ほど、家庭教師もした。また、一生、独身であった(もちろん去勢していたわけではないが)。そのカントは、同じとき・◎ところの、あの家庭教師ロイファーを、教師として、また人間として、どうみるであろうか。カントにおける、期待される教師像は? また期待される人間像は?

 

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人と思想22『ニーチェ』のまえがき+αを読んでみる

ニーチェ_表紙

 

ニーチェについて

 

現代文明の病理

危機と動乱の世紀といわれる現代に生をうけたわたしたちは、人生に対する深い疑問と不安の念にさいなまれて、毎日の生をおくっている。窮乏と失業の不安、原爆の脅威、世界各地での悽惨な武力抗争など、そのどれをとってみても、現代の文明社会の病根の深さを思わせるものばかりである。こうした非人間的な状況を目の前にして、わたしたちは、人生に対する深い懐疑と暗い絶望の念にさそいこまれる。人生の目標や意義の喪失を告げるぶきみな虚無(ニヒル)の深淵が、わたしたちの足もとにぽっかりと口をあけて、片すみの幸福と片ときの平安をおびやかし、のみこんでしまう。

 

二〇世紀の現代を覆う、こうした虚無主義(ニヒリズム)の風潮は、一九世紀のもろもろの文化現象をとおして、すでにその徴候を見せはじめていた。理性の万能と人類の無限の進歩を信じた近代文化の行きづくりを思わせる一九世紀の西欧世界は、いわば潜在的なニヒリズムにむしばまれはじめていたのであって、華やかな浪漫主義(ロマンティシズム)個性主義、歴史主義、民族国家の理念などの内実は、生の衰退をあらわす世紀末的なデカダンスの病理に犯されつつあったのである。

 

ニーチェは、こうした一九世紀後半のヨーロッパ文明と徹底的に対決して、その病根をあますところなくえぐり出し、来るべき二〇世紀を支配するものはニヒリズムの亡霊であろうと予言することによって、現代西欧文明のすぐれた病理解剖学者としての実を示した。こうしてニーチェは、現代文明に対する数多くのすぐれた診断書と適確な処方箋を、わたしたちに書きのこしてくれた。

 

神の死と価値転換

ニーチェは、既存のいかなる価値や権威にもとらわれない自由精神の徒として、「善悪の彼岸」に立って「偶像の黄昏」を正視し、ニヒルの現実に徹底してそれを自らの運命として能動的に生きぬくことによって、強健な生へと快癒する「曙光」を招きよせ、やがては、あらゆる生に対して歓喜の肯定を体験しようとする、「超人」による「正午」の哲学を建設することをめざす。徹底的(ラディカル)で能動的(アクティブ)なニヒリストとしてのニーチェが、ここに誕生する。

 

徹底的ニヒリストとしてのニーチェが見いだした西欧文明の病根は、何であったか。それは、人生の真の目標である「より教権な生の実現、すなわち「権力(マハト)への意志」が蔑(いや)しめられて、もともと「権力の意志」の自己実現のための手段であり人生解釈上の視点に過ぎない「理想」や「価値」を絶対視するという、偶像崇拝的と手段の価値転倒」こそが、潜在的ニヒリズムの表現であるデカダン文明の真因であり、この真因を摘出しない限り、ニヒリズムの顕在化は必至である、とニーチェは警告する。

 

ニーチェは、このような価値倒錯をひき起こした元凶として、ソクラテスにはじまる西洋形而上学の伝統と、ユダヤにはじまるキリスト教文化の道統を指名する。こうしてかれは、ヨーロッパ文明をつくりあげてきたギリシア哲学とキリスト教文化との二大潮流に有罪宣言を下すことによって、既往の全ヨーロッパ文化を断罪して、ソクラテス以前のギリシア悲劇時代における自然世界への帰郷を説く。

 

ニーチェによれば、今や、もろもろの道徳理想(神々)は消滅し、唯一人格神である神も死んだ。これまでのすべての価値は、無に帰した。いや、それらがもともと、無への意志に基づいて立てられた偽りの人生解釈であることが、暴露された。今後は、わたしたちひとりひとりが、新たな価値定立の主体として雄々しく生きなければならぬ。そしてそのためにはまた、わたしたち各自の自由な所行によって、従来のいっさい価値の価値転換が試みられねばならない、と強調される。

 

孤高な背徳者(インモラリスト)

しかし、ニーチェが説くこの新しい人生肯定の途は、まとに嶮しい孤独な人生を、わたしたちに強いることとなろう。既往のいっさい価値の価値転換をめざす者は、既存の権威に安住しようとする世間からは、道徳を否認する背徳の徒(インモラリスト)、神をなみする不信の徒(アンティクリスト)として弾劾されることを、覚悟しなければならない。

 

未来の人類に対してより高貴な人生の可能性を贈ろうとする、「遠人愛」の使徒ニーチェをとりまく生の現実は、まことにきびしい孤独と寂寥の連続であった。世人からの中傷や無視という冷遇に耐えてニーチェは、インモラリストでありアンチクリストであることを、むしろ無上の誇りとして生きた。そのためにかれは、当時の学会や思想界からしめ出されただけではなくて、かれが愛してやまなかった母や妹や友人たちとの間に、つぎつぎと別離の悲運を招きよせることともなった。こうして著作家としてのニーチェは、だれひとりとしてその真意を理解してくれる者とてはないという、全くの孤独な人生に悩み苦しみとおさなければならなかった。

 

ニーチェはいう。こうしたインモラリストとしての生は、まことにけわしくて耐え難い、孤独の生ではある。現実のじぶんがそうした苦難に耐ええないとするなら、正直にそうした弱さを告白して、没落していくことこそが美しい。そうした下根(げこん)の人間にとっては、奴隷的な屈従の生こそがふさわしいのであって、かれには、人権の平等や人間性の高貴さを語る資格などないのである。かれが人間としての尊厳性をあえて主張しようと欲するならば、孤独の苦難に耐えて孤高な生をつらぬく強健な自己を練りあげていくために、無限の自己超克を積み重ねていかなければならない。本来の人生とは、こうした自己超克の過程そのものにほかならず、これによって、本来在るべきところのものに実際に成りいくことこそが、人間各自にとっての最高の課題なのである。こうして、衆をたのむ衰弱した末人(まつじん)や畜群のひとりとしての生を否認して、孤高に耐えて強健な主体的人生を生きる高貴な生きかたを選びとることによって、人類歴史の目標である「超人」を産み出すための架け橋となることこそが、人間本来の生きかたでなければならない、と。

 

ディオニュソス賛歌

わずか二四歳の若さでスイスのバーゼル大学の古典文献学教授に推された天才ニーチェが、高貴な生の典型として見いだしたのは、ギリシア神話のなかに生産と酒の神として登場する、ディオニュソスの世界であった。生のエネルギーを解放して荒々しい狂乱怒濤の陶酔に人々をさそいこみ、自らを八つ裂きにされながらその死灰を糧(かて)として雄々しく蘇生するディオニュソス神こそは、永遠の生成・自由な創造において生の歓喜を体験しようとする、ニーチェ哲学のシンボルであった。

 

さて、このディオニュソス的な価値観点からすれば、一義的な限定をゆるさない対極的な二元性の緊張をとおして、多面的に自己を肯定し実現していく内容充溢した生こそが、至高の価値をもつものとなる。快を苦痛の回避としてではなくその克服として、善を悪からの逃避としてではなくてその浄化として評価する人生こそが、偉大なのである。

 

こうした観点に立ってニーチェは、二元性の一方を切り捨てて他方のみを肯定しようとする卑小な人生解釈のいっさいに対して、強硬な異議をつきつけていく。ニーチェの思想が、真実の自己を発見し、自由な創造的人生を生きようとつとめるすべての人びとの魂に対して、魅力に満ちたよびかけの波紋を広げていく力をもっているのも、主としてこの面にあるであろう。

 

しかしもちろん、否定のための否定、破壊のための破壊などが、ニーチェの真意ではなかった。その価値を認めて尊敬し愛惜するがゆえにこそ喰いつくのであって、尊敬に値しないものに対してはそっとその傍を通りすぎる、というのが、ニーチェの批評活動をつらぬくモラルであった。

 

それゆえ、ニーチェが、利他主義に対してエゴイズムを、同情に対して敵意を、隣人愛に対して遠人愛を、神に対して超人を、道徳(モラル)に対して背徳(インモラル)を、価値に対して自然を、存在に対して生成を、意識に対して無意識を、大人に対して小児を、大衆(マス)に対して個人を、民主主義に対して貴族主義を、社会的平等に対して権力的支配を善しとするのも、一方的に前者を否定して後者のみを立てようとするのではなく、前者を後者との対立緊張の関係に置くことによって、前者のもつ真価を大きく肯定し直そうとする、ディオニュソス的な生存肯定の精神に基づくものであることを、見失ってはならないであろう。

 

ニーチェと反動思想

しかし、ニーチェが遺(のこ)した一つ一つの言葉の中にこめられているかれの真意を、正しく読みとることは、それほどたやすいことではない。合理的な思索や論理的な表現よりもむしろ、超合理的な生の神秘と錯綜した心理の深層を、自由奔放な千の遠近法(解釈観点)を駆使して探ろうとするのが、ニーチェであった。かれは、論理的な斎合性や客観的な一貫性を重んずる科学者であるよりも、音楽的な直観と詩的な形象を愛するという、芸術的な天分に恵まれた自由思想家であった。体系家であるよりも自由な批評家であるところに、かれの本領があった。こうしてニーチェは、その自由な探求の成果を、好んで短文型式の断章(アフオリズム)(箴言)や詩文によって表現した。このことがまた、かれの思想の真意をとらえることを困難ならしめる。その意味で、ニーチェほど、危険な誤解をさそう思想家もないであろう。

 

たとえば、神が死んだ、「真理はどこにもない、いっさいのことは許される」(『ツァラトゥストラ』第四部、影)という言葉は、これによって人間ひとりひとりに巨大な責任の自覚を促すというニーチェの真意とは全く逆に、惰弱な我欲の生を合理化するもの、という誤解をさそう危険性なしとすまい。「距離の感覚(パトス)を鋭く研ぎすまして、価値の低俗化をもたらすマス・デモクラシーや、群をたのんで個性を平均化する社会主義を攻撃する、ニーチェの精神的貴族主義の主張は、反動的な権力支配の政治を合理化するために利用されることともなろう。

 

たしかにニーチェには、古いポーランド貴族の家系に連なることを誇りとし、ドイツ皇帝ウィルヘルム四世の寵をうけた牧師の長男であることを名誉とする、大衆蔑視のブルジョワ的な偏見がある。実際にかれの思想は、のちに、ヒットラーのナチズムを合理化する武器として利用されもした。それゆえに、たとえばルカーチがその著『理性の破壊』で示したように、ニーチェをファッシズム権力政治への途を準備した反動理論家として解釈する試みも、出てくることとなるのである。

 

ニーチェが書き遺したアフォリズムのあれこれのなかには、たしかに、このような解釈を許す危険な断定が、数多く散見される。わけても、かれが発狂によって著作家としての活動を閉じる直前まで、その構想を練りつづけ、珠玉の断片をノートに書きとどめて完成につとめた遺著の標題として選ばれたのが、「権力への意志」であったことは、みぎのような解釈をさそう有力な根拠の一つともなろう。

 

しかし、このばあいでも、かれの権力意志説はもともと、他人を支配するよりも先に、自分じしんをきびしく律する自己超克の原理として掲げられたものであることを思うならば、ニーチェをナチズムと同一視して反動理論家よばわりすることは、行きすぎた解釈であるといわなければならない。

 

真の弟子として

ともあれ、わたしたちは、ニーチェが断定した一々の言説にとらわれることなく、かれの真髄にふれることをめざして、かれとの真剣な対話を重ねていかなければならない。そのときニーチェは、わたしたちを導いて、人生のもつ実にさまざまな可能性や、予想もしなかった生の陥穽に気付かせてくれるであろう。惰弱な安定を恥じる高潔な生への意欲を、よびさましてくれるであろう。しかし逆にわたしどもは、ニーチェの独断に対する深い疑惑と反撥を感ずるばあいもあろう。しかし、そのときにこそ実は、わたしたちは、ニーチェの最も近くに立っているのかも知れないのである。

 

ニーチェは、その主著ともいうべき『ツァラトゥストラ』の第一部のさいごのところで、かれに従おうとする弟子たちに、こうよびかけている。

 

「わたしはいま、君たちに命ずる。わたしを捨てて、君たちじしんを見いだすことを。君たちのすべてがわたしを否定して自立することができたとき、そのときにこそわたしは、君たちのもとに帰ってくることとなろう。」

 

本書は、読者のかたがたが、こうした意味で真のニーチェの弟子となり、かれを糧として真の自己を発見し、確立するための一助となることをねがって、書かれたものである。本書が、読者のかたがたとニーチェとの直接の対話を導く機縁とでもなりうるならば、幸せである。

 

秋田大学倫理学研究室にて

工藤綏夫

 

目次

ニーチェについて

Ⅰ ニーチェの精神風土

ニーチェ思想の反時代的な時代性
ニーチェが生きた時代
時代の三大思想潮流とニーチェ
ニーチェをとりまく自然

 

Ⅱ ニーチェの生涯

「小さい坊さん」の生い立ち ――幼年時代――
魂の独立を求めて ――ブフォルタ学院時代――
良師の理解ある導きのもとで ――大学生時代――
青年と時代の教師ニーチェ ――バーゼル大学教授時代――
たたかうニヒリスト ――新たな価値定立者としての自立――
狂気の中での生の黄昏 ――小児の心への帰郷――

 

Ⅲ ニーチェの思想

ニーチェ思想の根本性格
ニーチェ思想の発展段階
ディオニュソス的世界観
自由精神の哲学
ニヒリズム対決の倫理
ニーチェ思想と現代

 

年譜
参考文献
さくいん

ニーチェ_p16-17

 

Ⅰ ニーチェの精神風土

 

ニーチェ思想の反時代的な時代性

 

ニーチェ思想の運命

ニーチェほど、さまざまな受けとめかたをされた思想家も、そうないであろう。生前のかれは、すべての天才的な思想家がそうであったように、かれの同時代人たちからは、完全な無視や、敵意をこめた反感をもって遇せられた。かれの思想が、時流を追うよりもむしろ永遠をねがい、時代に背いてその病弊を苛責なく摘発するものであったからである。こうして生前のニーチェは、かれじしんも誇りをもって自認していたように、まさに「季節はずれ」のあだ花のような観を呈していたのであった。

 

しかし、ニーチェが一九世紀とその運命をともにしてその生を閉じた一九〇〇年は、新しい世紀の開幕の年であると同時に、ニーチェの声価の高まりを告げる幕明けの年でもあった。文明批評家としてのニーチェの名は、かれの生国ドイツを越えて全ヨーロッパに知れわたり、さらには大洋を越えて、わたしども日本人にも記憶されるようになる。情熱的な評論活動によって英雄的個人主義を鼓吹(こすい)した高山樗牛(ちょぎゅう)が、ニーチェを日本人に紹介したのは、早くも一九〇一年であったし、和辻哲郎の名著『ニーチェ研究』が公刊されたのは、一九一三年であった。また、一九一七年には、個性尊重の人格主義によって、大正期の青年たちに大きな影響を与えつつあった阿部次郎が、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を講じていた。そしてここでは、ニーチェは、卑俗な物質文明や喧噪な軍国主義を斥けて、個性的な内面生活の高貴さを教える自由な教養主義者として、迎えられていたのである。

 

ところが、第一次世界大戦後の混迷した世相のもとで、自由な知的教養という理念の無力さが暴露され、この欠を補うものとして、全体主義の政治権力が台頭してくるにつれて、ニーチェの権力意志説がにわかに脚光をあびて登場する。たとえばアルフレット=ローゼンベルクやフリッツ=ギーゼなどという、ナチスの御用理論家(イデオローグ)たちによって、ニーチェは、ドイツ「第三帝国」の危機を救済するための全体主義権力を合理化する、反動理論の提供者に仕立てあげられもしたのであった。

 

ニーチェを悪用したナチズムの暴力は、やがて、第二次世界大戦をとおして、歴史のきびしい裁断をうけた。しかも、この敗戦国ドイツや日本において、敗戦後の精神的な空白をうずめ、廃墟と化した泥土の上に平和的で文化的な国家を再建するための、新生の導師としてよび出されたのも、ニーチェであった。こうしてニーチェは、いわば、自らがその責任の一半を負わされた戦争の死灰を自らかき集めて、それを文化再建のための肥料たらしめるという役をも担わされる、ということともなったのである。

 

超時代的な生の遠近法

生前において、時流に抗して永遠を志向したニーチェの思想が、死後においては、一貫して時代とその運命を共にし、よかれあしかれ、いつでも革新の先導役を演じつづけてきたのは、なぜであろうか。それはおそらく、超時代的な遠近法主義(バースペクティビズム)を採用したニーチェの思考法に基づくものであろう。

 

ニーチェは、すべての真理や価値の意味を、それだけとして客観的に固定したものと考えてこれを絶対化しようとする、形而上的な思考法に反対した。かれによればいっさいの価値は、生命主体の生の展開と相関的にのみ、その意味が定まるものであるとされた。こうしていっさいの真理や価値は相対化され、生命主体を中心とし、生命主体が据える生存解釈の視点を中心として、遠近法的に配置されることとなった。

 

ここで、この遠近法の中心に据えられたのは、生の創造的な根元力としての「力への意志」であり、ヨーロッパ二五〇〇年の歴史を一挙にさかのぼって到達された、ギリシア悲劇時代の生産的自然であり、その象徴としてのディオニュソス的な活力であった。この自然、この活力は、破壊と再建のたえざる生成の渦中をとおして自らの本質を実現していく。そして、このたえざる自己実現の過程をとおして、さまざまの価値観点を設定してその生の秩序をととのえるとともに、さらにはそれをのりこえ、破壊して、より高い立場へとその価値観点を移動させ、ずらしていく。こうしたニーチェの遠近法的な人生解釈の哲学は、行きづまった時代の新しい発展方向を探求しようとする人びとを導いて自由な活路を指示し、新しい未来を切りひらく創造的活動の意力(エネルギー)を供給するという機能を果たすことによって、時代のすぐれた推進力ともなりえたのである。

 

偶像の破壊とニヒルからの出発

ニーチェの遠近法的な生存解釈の哲学は、すべての価値からその孤立的な絶対性を奪い去ることによって、必然的に偶像崇拝的な態度の破壊をもたきたす。とくにそれは、絶対性を潜称して万人をその前に拝跪(はいき)させようとする、その時代公認の支配的権威の空しい実体を暴露する、鋭い武器として機能する。

 

既存の社会秩序や公認の価値体系がゆらぎ、新しい秩序や価値の出現が待望される動乱の時代、危機の時代においては、多くの人びとが古い偶像の崩壊を実感するようになる。とくに、真実の価値を求め、正しい生の支えを見いだそうとつとめてやまない誠実な人たちにおいてこそ、この価値空洞化の実感はより切実なものとなって迫ってくる。

 

このとき、このような人びとにとって、いっさいの価値の相対性を告知して、偶像崇拝的な態度こそが生をむしばむ虚無感の成因であることを説くニーチェの哲学は、大きな救いとなる。この哲学の鉄鎚に打たれることによって人びとは、時代の偏見から自己を解放して、ニヒルな現実に耐えて永遠の生をめざそうとする強健な自己へと、自らを鍛え上げようとしたのである。

 

こうして、ふだんに既存の自己をのりこえ、既存の秩序や価値の絶対化を否定して、より高貴な自己と、より旺盛な創造活動の世界へと限りなく帰郷していくことが、危機の時代を生きるわたしたちの課題となる。この課題を正しく担うためには、むしろ時代的制約を一挙に超えて、あらゆる時代的特長を一望のもとに収めうるような、長いコンパスをもった眺望視点に立たなければならない。このような視点から見るならば、時代的に制約された特定の価値観点からする生の意味づけは、その絶対性を喪失して無に帰することともなろう。けれどもこの無はまた、これを積極的にうけとめて、そこから自己の新しい生きかたを再出発させようと決断する者にとっては、あらゆる自由、あらゆる可能性を生み出す創造原理へとひるがえる。このようにして、むしろこの無に耐え、この無を支えとして、真実の自己を確立し、与えられた現実を大きく肯定し直そうとするものが、ニーチェ思想の真髄である、というべきであろう。

 

生そのものの自由な創造活動以外のすべての価値観点の自立性・窮極性を否認する、このニヒリズムの哲学からすれば、世俗的な政治権力や特定民族の絶対的優越性を主張するナチズムの理論は、全くのナンセンスに属するものであるというべきであろう。

 

しかし、この哲学はまた、相対的な意味では、あらゆる立場や観点を許容するものともなる。したがって、自制と自己超克のきびしさを見うしなって、ニーチェ思想の一局面を安易に絶対化しようとする勝手な解釈の可能性が、そこにはふだんにつきまとっている。

 

時代の子ニーチェ

そこで、こうした安易な解釈をもてあそんでニーチェの真姿を見うしなわないためには、かれがあのような長脚の遠近法を用いざるをえなかった真意を、かれが生きた時代の状況に即してつきとめていかなければならない。こうしてこそ、ニーチェの真価とその限界を正しくおさえて、かれから正しく学んでいくこともできるであろう。

 

思えば、ニーチェほど、時代の運命と人類の将来を深く気にかけた人はいなかった。そこに容易ならざる病弊を見てとったからこそ、ニーチェは、世人の非難に耐えて時代を弾劾したのであり、この断崖を徹底的に遂行してその病根の根元をつくために、あのような反時代的な生の遠近法の立場を選びとったのである。このようにみるとき、ニーチェほど時代の要請に答えようとした思想家はなかったのだ、というべきであろう。

 

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ヘーゲルについて

 

――世界が大きく変わろうとしているときの哲学――

 

この本を読む人びとと、ともに

人はつねにその人にとっての現代を生きている。現代をどう生きるか、現代の問題をどのようにとらえ、どのように解決するかということは、現代に生きるわたしたちの最大の関心事である。わたしたちがヘーゲルを学ぶのは、たんに歴史的な興味からではなく、かれが当時の問題とどうとりくんだかを学んで、わたしたちじしんの問題を解決するための参考にしたいからである。

 

わたしたちはまず、この小著のなかで、歴史の大きく変わってゆく時代に、ヘーゲルが、一人の人間として「いかに生き、いかに考えたか」を知りたいと思う。そして、わたしたちは、この人の思想を、たんにできあがった思想体系や理論としてではなく、その成り立ちから理解するようにしよう。かれの思想のなかに、かれの時代や人生体験が、どのように結びついているだろうか。また、こんにちまで、かれは、革新的であるとか、あるいは保守反動的であるとかという、きわめて対立した評価をうけてきたが、その点は、はたしてどうなのだろうか。

 

からだの弱い人は、なんとかして強い人になりたいと願う。しかし、弱い人(ドイツ)はただちに強い人(イギリスやフランス)のまねはできない。強い人だって度をすごすと危険なこと(ジャコバンの独裁)になる。だから、弱い人は、弱い人なみに、その程度に応じた現実的な強化策(法治主義の原則に立った立憲君主制)が必要である。手術(共和主義の市民革命)をおこなうことができるならばと考えてみても、問題なのは本人の体力だ。まず、体力(エネルギー)をやしなわなければならない。その当時のドイツには、このような問題があったのではなかろうか。わたしたちは、これらの点を、もっと深くしらべてみよう。

 

ヘーゲルについての評価や批判が、こんにちまで極端なほど対立し、賛否両論まちまちである限り、わたしたちにとって、ヘーゲルの哲学像を一義的に決定することは困難であり、かれとの思想上の対決は現在もなお、残されているといわなければならないであろう。このことは、一方では、かれの思想の難解さに原因があるということもできるのであるが、他方では、ヘーゲルの思想の核心となっており、かつ、その思想を生みだす根源となっている問題が、いぜんとして、現代に生きるわたしたちの問題でもあるということを意味しているといえるのではなかろうか。

 

およそ、「古典」といわれるものは、いつの世でも、永遠の現在に生きる価値をもつものである。したがって、哲学上の古典は、現在でも問い求められ、しかも、古くから、いままでも問い求められてきたし、また、未来にむかって、これからも問い求められるであろうようなものを、つねに哲学の対象として保持し続けているといえるのである。

 

とにかく、歴史の転換期におけるさまざまな矛盾や限界と対決した偉大な思想家のもつ宿命といえばそれまでだが、わたしたちは、ヘーゲルについてのゆがめられた批判とか、公式化された理論や偶像にとらわれることなく、かれを、わたしたちにとっての古典として見なおし、何よりもまず、人間ヘーゲルを、当時の問題状況のなかで理解するようにつとめよう。

 

新時代の精神の探求

ヘーゲル(一七七〇~一八三一)は、産業革命やフランス革命、ナポレオンの出現とその没落など、ヨーロッパの歴史が大きく転換する一八世紀後半から一九世紀はじめのドイツに生きた。かれの生い立った時代のドイツは、神聖ローマ帝国と称していたが、帝国とは名だけであって、その内部は専制君主としての諸侯によって支配される数百の領邦に分裂しており、西欧の列強にくらべて、国民国家としての統一、近代市民社会の形成(中産市民階級の成熟)という点で、大変立ち遅れていた。

 

質朴(しつぼく)でまじめな、そして新教徒(プロテスタント)として信仰のあつい家庭で育ったヘーゲルは、いわゆる天才肌の人物ではなく、理知的ではあるが、どちらかといえば重厚で無器用なコツコツと仕事にうちこむタイプであった。そのかれも、多感な大学生時代に、フランス革命の嵐を経験して大いに熱狂し、世界が大きく変わろうとしていることを体験する。かれは、当時のドイツにおける一般の知識人たちが、一時はフランス革命に感激しながら、ジャコバンの独裁をみて、まもなく革命そのものにも否定的な態度をとったのとはちがって、終生変わることなく、この革命のうちにこそ、歴史の進むべき道(歴史的必然性)と近代社会の基本的な問題が含まれていると確信して疑わなかった。

 

かれは、新しい時代がおとずれているにもかかわらず、祖国の現状がいぜんとして近代以前の旧制度のもとにあることを憂え、どうしたなら、ドイツの社会において、人びとをめざめさせ、国民の自由を実現させることができるか、という課題ととりくんだ。したがって、かれの研究の中心は、民族のあり方(民族精神に関する問題)と近代社会の特質を明らかにすることであった。かれは、これらの問題を、世界史的な視野で、主として宗教(芸術・道徳を含む)と政治(経済・法律を含む)と歴史の面から追究した。かれは、青年時代の論文(手記『民族宗教とキリスト教』)のなかで、民族精神を一人の息子にたとえ、この息子を育てる父は時代すなわち歴史であり、母は政治であり、乳母(息子の教育者)は宗教であるといっている。そして、乳母が息子を教育する際に、補佐として芸術を必要とするとして、芸術は宗教の侍女であるともいっている。つまり、かれにとっては、歴史と政治と宗教(芸術)の三つは、互いに区別されながらも作用しあい、連関しあって統一を形づくり、民族精神を構成する主要な契機であったのである。かれは生涯をかけて、これらの契機の矛盾的な相互関係の道理を明らかにすることに専心した。

 

若い時代のかれは、フランス革命やカント哲学の影響を直接的にうけており、思想的には、理性を重んじて旧思想をうち破ろうとする啓蒙主義や民主的な共和主義の立場から、純粋に、新時代の精神と民族のあり方を探求した。しかし、壮年から晩年にむかうにつれて、現実がどうしてこうなったのか、という歴史的な条件や状況を重視するようになり、ただ頭のなかだけで、純粋に合理的に考えだした理想を、実現できるものだと思っていた若い時代の啓蒙主義・共和主義の限界を自覚するようになった。

 

かれのこのような考え方の変化には、かれじしんの実存的・哲学的な思索の深まりということもあるのであるが、とくに、かれの生涯のうちに完結しそうもない、「希望と恐怖」のくり返しともいえるフランス革命以後のめまぐるしい歴史的推移(ジャコバンの独裁・ナポレオンの出現とその没後・ウィーン体制・七月革命など)についての反省や、個人中心の近代市民社会に内在する宿命的な矛盾、ならびに一九世紀はじめのドイツの状況などが大きく影響しているといえるであろう。

 

そこで、かれは、ドイツの現実をふまえて、「理想(自由)と現実(権力)とをいかにして統一づけるか」という問題を、積極的に追究するようになった。一九世紀はじめのドイツの状況は、プロイセンとオーストリアの両国を中心に、いぜんとして小国に分裂しており、ナポレオンの没落後に、ヨーロッパを支配した反動主義の波(自由主義運動をおさえるウィーン体制)におされて、まだ立憲的な国家でさえなかったのである。「自由と統一と憲法」の問題、これが当時のドイツの課題であった。そこで、壮・晩年のヘーゲルは、現実的・客観的に眼前に展開しつつある近代市民社会を分析し、立憲君主制を肯定する立場に立って、民族(国家)のあり方を探求した。かれが、『法の哲学』という書物を著わして、国家における人間のあり方を、近代市民社会における諸問題をとりいれながら、根本的に追究したのも、ちょうど、このころ(一八二一)のことである。かくして、晩年のかれは、ゲーテが文学界を、ベートーベンが音楽界をリードしたように、完全に哲学界をリードするにいたった。

 

苦難をとおして

しかし、歴史の転換期における研究者の歩む道はイバラの道である。若い時代のかれは、物心両面にわたって、多くの試練とたたかわなければならなかった。とくに、一三歳で母を失ったこと。また、大学卒業後のながい暗かった七年間の家庭教師時代。そして、ようやく三一歳になって就職できたイエナ大学が、ナポレオン戦争の結果、閉鎖されて失職したこと。さらに四六歳までの約一〇年間を、地方の小さな新聞社で、インクにまみれて編集の仕事にたずさわったり、設備のととのっていないギムナジウム(高等中学校)で、薄給の校長として苦労したことなど。激動する世界のできごとと平行して、かれは波瀾と苦難にみちた時代をいろいろと経験する。学者の道を選んだものとして、まさに、人生の「冬の時代」ともいえる、きびしい、そして時には屈辱を感じて絶望におちいるこれらの生活を、かれはねばり強く耐えしのび、そのつど、先輩や友人たちの厚い友情によってのり越えていく。かれの残した若い日の手紙の多くは、この友情の記録であり、それは告白と感謝のことばでつづられている。しかし、かれは、苦難のなかでも、真理の探究をやめなかった。

 

のちに、かれがハイデルベルク大学およびベルリン大学で完成させた「哲学の体系」は、このもっとも不遇な時代のなかでその原型がめばえ、つぎつぎに形成されていったのである。自由や愛や運命の問題を探求した青年時代の諸論文や、不朽の名著といわれる。『精神現象学』、およびヘーゲル哲学の核心をなす『論理学』などの大著作は、「哲学の体系」の基礎となるものであるが、すべて、この苦難の時代に仕上げたものである。多くの苦難をとおしての自己形成・世界形成という点にこそ、ヘーゲル哲学の真髄があるとわたしは思う。

 

思想の湖にして巨峰

かれは、新時代の精神である「理性と自由」を、生涯を通じてのモット―として生きた。いうまでもなく、近代精神の本質は、人間性を肯定し、人間の能力(感性や理性)を信頼するということにある。したがって、近代哲学の課題は、①ちょうど、近代自然科学が純粋な学問として宗教から独立したように、哲学を神学の侍女としての地位から解放して、「学問(科学)としての哲学」にまで高めること。そのためには、②学問(科学)的な知識を成り立たせる基礎としての人間の能力(感性や理性)を再確認し、感性や理性の権能とその限界を明らかにすること。そしてそのことを通じて、③世界や歴史の主体としての人間の自由を確立することであった。イギリスのベーコン、ロック、ヒューム、大陸のデカルト、スピノザ、ライブニッツ、ヴォルフ、ルソー、カント、フィヒテ、シェリングなどは、それぞれ、これらの課題を追究した哲学者である。そしてヘーゲルは、これらの哲学者の極限に位置している。

 

ヘーゲルは、人間の理性や精神を究極の絶対者(神)の位置にまで高め、いっさいのものを、その絶対的な精神の発展するみちすじにそって、低きより高きへ発展的・段階的に位置づける壮大な「哲学の体系」(学問としての哲学)をきずいたのである。かれの思想体系の壮大さや思考の方法は、よくアリストテレス(古代思想の総決算者)のそれと比較されるが、ヘーゲルの哲学には、かれ以前のあらゆる思想が広くとりいれられている。

 

だから、ヘーゲルは、①カントにはじまり、フィヒテ、シェリングにうけつがれた一連の哲学(ドイツ観念論)の完成者といわれ、②近代精神の総決算をした人とみなされ、③ギリシア的理性(知識・ヘレニズム・合理主義)とキリスト教の精神(信仰・ヘブライズム・非合理主義)とを融合・統一したといわれている。またかれは、とくに、④弁証法という論理を確立した人としても有名である。

 

いつの世でもそうであるが、歴史的な大きな転換は、けっしてバラ色の道をとおってたんたんと進むものではない。ヘーゲルの生きた時代は、まさに、新しい世界像の形成にむかっての陣痛の時代である。したがって、先進国・後進国を問わず、それぞれ、新しいものと古いものとの対立や、理想と現実とのくいちがい、あるいは自由主義と反動主義とのあらそいなど、いろいろと解決の困難な問題や矛盾をかかえていた。ものごとを矛盾や対立をとおして、発展的・統一的にとらえるヘーゲルの見方や考え方(弁証法)は、このような複雑な歴史的・社会的な諸事情を反映してできあがったといえよう。また、「世界史は自由の意識における進歩である。」というかれの歴史に対する見方も、めまぐるしく移り変わってゆくこの時代における、かれの体験と思索に根ざしているということができる。

 

ヘーゲルは、『哲学史』や『法の哲学』のなかで、あらゆる哲学は、ちょうど個人がだれでも、もともとその時代の子であるように、その時代に属しており、その時代の制限をとび越えて外に出ることはできない、と述べ、哲学はその時代を思想においてとらえたものであり、哲学の課題は、存在するところのものをすじみちだててとらえること(概念的に把握すること)である、といっているが、ヘーゲルとその時代の人びとにとって、目の前にくりひろげられているこの「現実」を、根本から深く正しくとらえることが、なによりも大事な問題だったのである。

 

このことは、いいかえれば、哲学者ヘーゲルにとっては、「存在の認識」という伝統的な哲学観(形而上学=存在の根本原理を究明する哲学=存在論の立場)を保持しつつ、存在するものとしての歴史的現実のなかをつらぬき、かつ、リードしている理性(精神)の真の姿を、すじみちだてて明らかにすることであった。その意味で、ヘーゲルは形而上学者1)(論理学者)であるとともに、近代史のゆくえとドイツの現実とを見さだめようとした現実主義の社会哲学者・歴史哲学者であり、またドイツの国民的哲学者であったといえよう。

 

現実の枠をこえて進もうとするならば、わたしたちは、かえって過去のいっさいをうけついでいる現実を愛し、現実のなかにはいりこんで、そこに生きている存在の魂(理性)をとらえ、その魂に従うことによって、現実の運命をになわなければならない。ヘーゲルもまた、このように考えたのである。

 

ドイツの歴史学者ランケは、世界史におけるローマ史の意義について、「いっさいの古代史は、いわば一つの湖にそそぐ流れとなってローマ史のなかにそそぎこみ、近代史の全体は、ローマ史のなかから再び流れでるということができる。わたしはあえて、もしローマ人がいなかったならば、歴史の全体が無価値なものとなっていたであろうといいたい。」(ランケ『世界史概観』岩波文庫)と述べているが、このたとえを、もしヨーロッパの思想史のうえにあてはめるならば、ヘーゲル哲学こそ、過去の思想のすべてが流れこみ、未来の思想のすべてが流れでる湖であり、また、近代思想と現代思想との境目にそびえる巨峰であるということができるであろう。

 

「真理はつねにさまざまに語られる」

ところで、ヘーゲルの哲学はきわめて難解だといわれている。それは、第一には、ヘーゲルの文章がドイツ人じしんにとってもむずかしく、使っていることばの意味が、かれ独特で、読む人によって異なって解釈されやすいからである。第二には、ヘーゲルの弁証法が、「存在と思考」の両領域をつらぬいて変化し発展する論理であるために理解しにくいからである。そして、第三には、偉大な思想というものの宿命だが、思想の湖であり巨峰であるヘーゲル哲学は、ちょうど高い山や深い湖がそうであるように、それを見る人の立場や視点によっていろいろに解釈され、その全体像をあるがままにとらえることが困難だからである。

 

人びとは、ヘーゲルの思想を、それぞれ、宗教・論理・倫理・政治・経済・法律・歴史・芸術・悲劇などの各方面からいろいろと問題にしてきた。しかも、それらの見解はさまざまであり、必ずしも一致していない。

 

そこには、ヘーゲル哲学に対する多くの賛同者がいるとともに、また多くの反対者もいる。そして、その反対者のなかにも、ヘーゲル哲学が大きな成功をおさめたことへの敵対の気持ちから、プロイセンの御用哲学者であるとして、意図的に反対する人、ヘーゲルの用語が魔術的だとしてうけつけない人、またマルクスやキルケゴールのように、ヘーゲルをそれぞれの立場からきびしく批判し、非難しながら、かえって、ヘーゲルから多くの影響をうけている人などもいる。

 

ヘーゲル哲学は、その賛否両論の側から、実にさまざまに論議され、当時ではもちろんのこと、その後の哲学をはじめ、ひろく現代思想の各分野にも測り知れない大きな影響を与えている。マルクス主義や実存主義をはじめ、現代のおもだった思想は、いずれも何らかの意味で、ヘーゲルとの対決をとおして形成されているということができる。わが国においても、独自の哲学をうちたてた西田幾多郎をはじめ、田辺元の哲学、和辻哲郎の倫理学などは、いずれもヘーゲル哲学、とくにその弁証法思想との対決をとおして形成されているといえる。ヘーゲルを無視して、ヘーゲル以後の思想は理解できないのではなかろうか。ヘーゲル哲学そのものへの関心は、一九世紀の後半に一時おとろえたこともあったが、二〇世紀にはいって再び高まり、最近では、世界的に盛んにその研究が行なわれている。

 

「真理はつねにさまざまに語られる」ということばは、ギリシアのソポクレスのことばであるが、このことばは、幼少のころから、とくに、ソポクレスの書いた悲劇を愛したヘーゲルの哲学の性格と運命とを、もっともよく象徴しているとわたしは思う。かれの死後、かれの七人の友によって、ヘーゲル全集が編集されたが、このことばは、その各巻の扉に標語としてかかげられている。

 

人類の歴史への信頼

ヘーゲルの生涯は六一年間であった。そのうちの最後の数年間は、かれの全盛期で、ヘーゲル学派が形成され、最後の主著も完成し、大学総長に就任するなど、かれは哲学界に君臨した。だがそれは、苦悩をとおしての栄光というべきではなかろうか。とにかく、あるがままに人間ヘーゲルをみるならば、かれの生涯は「革命」ときりはなしては考えられないということに気づくであろう。かれは、ドイツの文学革命といわれるシュトゥルム‐ウント‐ドラング(疾風怒濤)の運動がおこった一七七〇年代に生をうけ、自我にめざめる青年期には、フランス革命とそのドイツへの波及を体験した。また、社会的に安定しなければならない壮年時代には、ナポレオン戦争とそれによるドイツの混乱のなかで苦しみ、落ちつかなければならない晩年には、自由主義と反動主義(ウィーン体制)とのはてしないたたかいの時代に生きた。そして、死の前年(一八三〇)には、かれ自身が予見していた新しい革命、すなわちフランスの七月革命とそのドイツにおける影響(自由主義運動)を体験する。かれは、このようにめまぐるしく変動する世界の限界状況のなかで、その生涯の大部分を、多くの苦難や絶望に耐え、希望と恐怖のいりまじった革命の時代に生きることを自己の運命として、世界や国家における人間のあり方を真剣に探求したのである。しかも、そのような革命の時代に生きる苦悩のなかで、かれはだれよりも強く人間に対する信頼、人類の歴史に対する信頼をもち続けた。わたしたちは、この力強さと英知を、この人から学びたいと思う。

 

わたしたちは、ながいあいだ、現代をおおっている不安・絶望・虚無の暗い谷間で、自己を見失ったまま低迷しすぎたのではなかろうか。

 

さあ、窓を開けよう! そして、わたしたちは、わたしたちのなかに生きている人間ヘーゲルとともに、世界や人生への愛と希望を語りあい、明日への勇気をやしなおうではないか。わたしたちの生きているこの二〇世紀後半の世界は、いまや、アポロ時代の到来とともに、大きく変わろうとしている。

 

 一九七〇年一月一五日

 大月の山荘にて

 澤 田   章

 

 

目次

ヘーゲルについて――世界が大きく変わろうとしているときの哲学

 

Ⅰ 若い日の体験と思想――自由・愛・運命の探求――

幼・少年時代のこと――非凡と凡庸――
立ち連れのドイツ
ヴュルテンベルクの事情
革命の時代の大学生活――チュービンゲン時代――
若い日の遍歴と思索――ベルンおよびフランクフルト時代――

 

Ⅱ 哲学者としての道――苦悩と栄光――

イエナでのヘーゲル――ナポレオンと不朽の名誉――
わが道―四十にして惑わず――ニュルンベルク時代――
ハイデルベルク大学でのヘーゲル――哲学体系の完成――
ベルリン大学でのヘーゲル――栄光の晩年――

 

Ⅲ ヘーゲルと現代思想

後世への影響

 

あとがき
年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ 若い日の体験と思想

――自由・愛・運命の探求――

 

幼・少年時代のこと

――非凡と凡庸――

 

友よ 太陽に向かって努力せよ!

人類の救済が 熟する日も近い

さえぎる木の葉や枝が なんだ

太陽のもとまで 突き進め!

そして疲れたら それもよかろう

眠りは それだけ深い

このことば(ヒッペル『人生行路』より)を、いつも自分にいい聞かせて、フランス革命にたいする期待とともに、祖国の人びとの立ち上がりをうったえていた若い日のかれ。

 

哲学者に生まれるなんて神に呪われているんだ!(『ヘーゲル書簡集』)と、苦悶し、逆境とたたかった壮年時代のかれ。

 

堅実で平凡な家庭

そのかれ、ゲオルグ=ヴィルヘルム=フリードリヒ=ヘーゲルGeorg Wilhelm Fried-rich Hegel は、一七七〇年八月二七日、苦悩の多い真理探究の一生を、ドイツのヴュルテンベルク公国の首都シュツットガルトで歩みはじめた。一七七〇年といえば、ジェームス=ワットが蒸気機関を発明してから五年後、ナポレオンがコルシカ島に生まれてから一年後であるが、ドイツでは、この年に、かの楽聖ベートーベンや詩人のヘルダーリンも生まれている。こんにち、わが国では、一九七〇年といえば、日米安全保障条約の改定をめぐって、問題の年といわれているが、この年は、ちょうどヘーゲルの生誕二〇〇年にあたっている。

 

ヘーゲル家の祖先は、一六世紀のころに、新教徒を迫害したオーストリア領内のスタイエルマルク地方やケルンテン地方の鉱山地帯からのがれて、ルターを信奉するヴュルテンベルク公国にきた新教徒の移住者の一人で、ケルンテンからシュワーベン地方にきたヨハネス=ヘーゲルという錫器(すずき)などの鋳造者(カンネンギーシェル)であったといわれている。移住してきたヨハネスは、のちの小都市の長(ビルガーマイスター)に選ばれたが、かれの子孫はこの国の各地で、手工業者、あるいは牧師や新教の監督、あるいは弁護士や市の書記としてさまざまな職業にたずさわった。一七五九年一一月一一日にマルバッハで、詩人シラーに洗礼を授けたのも、この一族の牧師ヘーゲルであった。

 

哲学者ヘーゲルの祖父は、ヴュルテンベルク西部にあるシュワルツワルト(黒森)地帯で、行政区の長をしたといわれている。また父のゲオルグ=ルードヴィヒ(一七三三~九九)は、ヴュルテンベルク公国の君主カール=オイゲン公につかえる実直勤勉な収税局書記官で、のちには遠征隊の参事官でもあったが、この国では高官に属する人であった。母のマリア=マグダレナ(一七四一~八三)は、この国の民会の役員をつとめるフロム家の出身で、一七六九年九月二九日に二八歳でルードヴィヒと結婚し、ヘーゲル家の人となったが、信仰にあつく、豊かな感情と知性をもった教養ある婦人であり、少年ヘーゲルにラテン語を教えたといわれている。

 

家庭のふんいきは質朴でまじめで、古風なプロテスタント的気風にみちていた。ヘーゲルは三人兄弟の長子で、下には弟と妹がいた。弟のルードヴィヒは軍隊生活に入り、公国の士官とした服務したが、ナポレオンのロシア遠征(一八一二)に従って戦死している。また妹のクリスティアーネは、大変な兄思いであって、ヘーゲルとはながく親交をむすんだが、ヘーゲルの死の翌年、不幸にも精神系の病いで不帰の客となっている。どこの家庭にも、よろこびや楽しみがあるとともに、また、秘めた悲しみや悩みごともあるものである。わたしたちのヘーゲルは、このような貧しくもなく裕福でもない、いわゆる堅実で平凡な家庭に生をうけたのである。

 

平和な中にきざしていた新気運

さて、人生のあけぼのともいえる夢多き幼・少年の時代を、かれは故郷のシュツットガルトで送った。平凡なようで非凡なヘーゲルの資質の多くは、すでにこの時代に芽ばえ、着実に形成されてゆく。かれは五歳でラテン語学校にはいり、七歳(一七七七年秋)から一八歳(一七八八年秋)までをこの地のギムナジウムで学んだ。

 

ギムナジウムというのは、大学へ進めための中等学校(高等中学校)で、時代や領邦によってその修業年限や組織や程度に多少のちがいはあるが、かなり高度の勉強が要求される学校であった。イギリスのパブリック‐スクール、フランスのリセやコレージがこれにあたっているが、こんにちでは小学校四年をおえてから入学し、在学期間は通常九か年間である。

 

ヘーゲルの幼・少年時代には、ドイツの文壇では、レッシングやゲーテ、ついで若きシラーが活躍しており、とくに、ゲーテとシラーはこの時期に、ドイツ文学史上の一時期を画する「シュトゥルム‐ウント‐ドラング」(疾風怒濤)といわれる革新的な文学運動を展開していた。そして、哲学界では、カントが、これまでのイギリス経験論と大陸合理論とを統合・統一したといわれる『純粋理性批判』▲1)(一七八一)を著わし、人間理性の価値を明確にして、注目されはじめていた。政治上では、一七七二年にプロイセンのフリードリヒ大王がロシアならびにオーストリアの皇帝らと共謀して、第一回のポーランド分割に成功しており、一七七六年には、アメリカ合衆国の独立宣言がなされている。また、一七七八年には、フランス革命を導く思想のうえで大いに貢献したルソーとヴォルテールがともに世を去り、一七八六年には、プロイセンの名君フリードリヒ大王も亡くなっている。なお、この時代にイギリスでは、資本主義の先進国として産業革命が進行しており、一七七六年に、アダム=スミスが『国富論』を著わしている。

 

そして、ヘーゲルの郷国ヴュルテンベルクでは、絶対主義の専制君主カール=オイゲン公と民会との多年にわたる争いが、のちに述べるような「相続協定」の成立(一七七〇)によっておさまり、以後二〇余年間におよぶ平和な時代を迎えていた(「ヴュルテンベルクの事情」参照)。後年、ヘーゲルは、この期間をもっとも祝福されたとき――もちろん理想化しているにしても――と賛美している。

 

つまり、かれの誕生とその幼・少年時代は、ドイツおよびヨーロッパ各地における現実否定の「革命」的な新気運と、ヴュルテンベルクにおける「平和」(対立をとおしてえられた現実)という異質的な二つの状況の交錯するなかに位置づけられていた。だが、幼・少年時代のヘーゲルは、外部の歴史的なできごとと直接にかかわりなく、郷国の平和のなかで、自由にすくすくと育っていったのである。かれは、ギムナジウムでは非常によく勉強し、どの学年でも賞を授けられる模範生であった。ただ、少年の日のヘーゲルにとって、生涯忘れることのできない悲しいできごとは、最愛の母と恩師を失ったことである。

 

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