「人と思想」シリーズ

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人と思想24『フロイト』のまえがき+αを読んでみる

 

フロイトについて

 

タバコと旅行の好きなフロイト

もしわれわれが、一九世紀から二〇世紀にかけての思想について語ろうとするならば、フロイトとマルクスを避けて通るわけにはいかない。また、もしわれわれが有史以来の偉大な思想家を二〇人選び出すとするならば、やはりフロイトをその中に入れたい。かれの思想については、数多くの非難や批判がよせられているにもかかわらず、それは精神医学や心理学はもちろん、文学・芸術・思想などきわめて多くの分野に偉大な影響を与えている。このような大きな足跡をのこしたフロイトとは、その日常生活においてどんな人物であっただろうか。二、三のエピソードからそれをうかがってみよう。

 

フロイトは、大変なタバコ好きであった。なにしろ一日平均で葉巻を二〇本も吸ったというから、これでは習慣というより中毒といった方がよい。こういうわけで、いざタバコが切れたとなると、大変な苦しみであった。かれの死因が口中の癌であったことも、このものすごいタバコ好きと無関係ではなかったであろう。ところが、酒の方はあまり飲まなかった。わずかにブドウ酒をたしなんだ程度である。これは、かれが禁酒主義者だったからではなく、むしろ酒はちょっとでも飲むと精神がボヤけてフラフラするのがきらいだったからである。フロイトは、いつも自分の精神がハッキリしていることを望んでいたのである。

 

タバコとならんでフロイトの好きだったことは、旅行であった。八〇年余も住みつづけたウィーンのさまざまなわずらわしさから逃避するという楽しみ、新しい風景や美しいものの探究、まったく旅行は楽しいものである。かれはどこかよそに旅行にでると、まるで子どものように喜んだが、なかでもとくにイタリアあこがれていた。そして、生涯のうちに何度もイタリア旅行を行なっている。それほど旅行好きであったにもかかわらず、かれの方向感覚はまるでゼロであった。それは、ちょっとした遠出の散歩のときでさえ、そうであった。父と一緒に散歩にでた息子たちは、いざ家に帰るだんになって父親がとてつもない方向に向かって歩きだすので、よく驚かされたものであった。しかし、かれ自身も自分の方向感覚がゼロであることはよく知っていて、そこはすぐに息子たちの道案内に従った。こんな調子であるから、旅行のこまかい部分についてもきわめてうとく、汽車にのりおくれないためにとほうもなく早めに駅につくようにしたりして、大変な用心のしようであった。それでも荷物の宛名を書きまちがえたり、なにかを置きわすれたりすることがしばしばあったというから、かれの用心もなんと役に立たなかったことであろう。

 

優美な冒険家

どちらかといえば、かれの性格は綿密に計画をたて、時計のように正確にそれに従って動くというようなタイプではなくて、むしろある直観に導かれてそこに情熱を傾けるというタイプであった。かれ自身も冗談半分に、「私はほんとうは科学者ではなく、観察者でもなく、また実験者でも、思想家でもない。私は、ただ独特の好奇心と粘り強さをもった一種の冒険家であるにすぎない」といっているが、この言葉は、かれの性格の特徴をよくあらわしている。だから、大学で講義をするときなども、事前に準備をしっかりするなどということは、めったになかった。ましてメモを用いるとか、あるいは原稿をそのまま読んだりするようなことは決してなく、大半はそのときのインスピレーションによっていた。あるときアーネスト=ジョーンズが教室にいこうとしているフロイトに、「何を話されるのですか」と聞いたら、かれは「それがわかっていたらなあ!」と答えたといわれるのも、フロイトらしいエピソードである。

 

それでいてかれの講義は、名講義であったというから、かれはたしかに名文家である。一九三〇年に、フランクフルトでゲーテ文学賞を受けたというのもよくそれを物語っている。その美的感覚にもとづいた、ウィーン風のしなやかな、優美な、それでいて簡潔な文章は、読む人の心をとりこにするものであった。しかし、一面そのしなやかさのために、ときには論理的・科学的にみてあいまいな表現となることもあったが、それについて質問されると、かれは笑いながら「どうもわたしはだらしがないので」と答えたといわれている。

 

このようなフロイトであったから、およそ「かまえる」とか、「気取る」とか、「見栄をはる」などということは、はっきりきらいであった。また当然、「如才(じょさい)なさ」というようなことにも、あまり価値を認めなかった。そして、静かな態度と自然な威厳を備えていた。それにもかかわらず、かれは非常に近づきやすい人で、たとえ無意味な好奇心からかれを訪れる人があっても、会うことを断ることはめったになかった。そして、当然のことではあるが、親しい人びとの前では非常に呑気な態度であった。

 

このようなかれの性格や、また若い時代にきわめて貧しかったことなどもあって、かれの業績がほんとうに輝き出し、その個性的な能力が十分発揮されたのは、中年をすぎてからであった。天才の伝記としては、このようなことは、あまり例のないことである。よく「人は生活の完成か、仕事の完成か、どちらかを選ばなければならない」といわれるが、このように生涯と業績をきり離して考え、「不完全な」生活の中から「完全な」仕事が出てくることに特別な価値を感ずるのは、現代特有のかたよった好みである。フロイトには、そのような業績と生涯の分離はなかった。かれの生涯と業績は、格調高く調和していたのである。

 

 鈴 村 金 彌

 

目次

 

Ⅰ ジグムント=フロイトの生涯

フロイトの誕生
学生フロイト
若きフロイト
風雪に耐えた孤独の十年
輝ける精神分析学の開花
老いたフロイト

 

Ⅱ フロイトの思想

フロイトの思想の特色
欲動 ――人間をゆり動かすもの
心的装置 ――パーソナリティ
無意識のうちに働く心のメカニズム
夢の分析と解釈
文化論

 

年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ ジグムント=フロイトの生涯

 

フロイトの誕生

 

モラビアの春

モラビア1)の春は、駈足(かけあし)でやってくる。口に入れる野菜にも乏しく、眼を楽しませる草花もない、暗く厳しい冬は長い。ひと月の平均気温が零下五度以下で、植物もその活動を停止するかに思われる季節は五か月にもおよび、冬はまさに灰色の季節である。その長い冬が終ると、急に草花は活動をはじめ、陽光も輝きを増してくる。春は、わが国は想像もできないほど、待ち望まれているのである。その春の日の光さざめいた日、一八五六年五月六日午後六時三〇分、ジグムント=フロイトはモラビアの一小都市フライベルク(現在のプリボール)のシュロッサーガッセ一一七番地で生まれた。この年、わが国ではアメリカ総領事ハリスがはじめて伊豆下田に駐在することとなり、またヨーロッパではあのナイチンゲールで名高いクリミア戦争が終結したのであった。

 

時代の息吹き

フロイトが生まれる少し前、一八四八年二月二二日、パリ市民の蜂起からはじまった二月革命が、二日間の市街戦ののち成功を収めて王政を倒し、フランス第二共和政を樹立すると、それはヨーロッパ諸国に深刻な影響を与えた。この革命がすでに社会主義的背景をもち、階級闘争の性格をもっていたことは、時勢の変化をはっきり物語るものであり、また革命の成功は封建勢力の決定的な壊滅と自由主義的勢力の最後的な勝利を意味するものであったので、おくれた社会体制をもった国々に、急速に革命が波及したのである。すなわち、二月革命の翌月、まずオーストリアの首都ウィーンに革命運動がおこり(三月革命)、反動時代の主役であった宰相メッテルニヒはイギリスに亡命してしまい、続いてハンガリー・ボヘミアなどにも民族独立運動がおこるなどして、いわば新らしい時代の波がフロイトの生まれ故郷を強く洗いはじめていたのである。そして、「人間はすべて、自由で平等の権利をもつ」という自覚と、「民族の自由・統一・発展を要求する」というこの新しい時代の精神は、やがて資本主義が次第にはっきりと利益の追求をめざして発展するにつれて、いよいよ高まったのである。このような時代を背景として生まれたフロイトは、まさに画期的な思想を生みだすのにふさわしい条件をになっていたといえよう。

 

つぎに、フロイトの生まれた時代をいろどる文化の特色を見てみよう。言うまでもなく、近代史のにない手はブルジョアジー(市民階級)であり、従ってフロイトの時代の文化の形成者は、産業革命を遂行した立役者である市民階級であった。それゆえ、政治・経済・社会にわたって旧制度を打破し、個人の自由と解放を求めていったかれらの情熱が、そのまま新しい市民文化創造のエネルギーであった。こうして形成された一九世紀後半の近代市民社会の文化の最大の特色は、自然科学の驚異的な発達であった。もちろん、そのかげには、資本主義経済の強い要求やそれに基づく近代市民階級の活発なエネルギーがあったのであるが、これによって物質文明は高度に発展し、人間生活は多方面にわたって豊かで、便利になったのである。そのために思想や芸術の分野にもいちじるしい影響を与え、自然科学的な考え方はこれまでの哲学に代ってほとんど唯一絶対の確実な知識の源泉であるかのように信頼されるにいたったのである。それはあたかも、中世文化における宗教にもひとしい雰囲気をかもしだしていたのであった。そして、これこそフロイトの誕生を待ちうけていた文化的な土壌なのであり、かれの思想をはぐくんだ基盤なのである。この自然科学尊重の風潮の中で、フロイトにもっとも深い影響を与えたものは「エネルギー論」と「進化論」であった。これらがいかにかれの思想に影響を与えたかは、のちに詳しくのべよう。

 

父と母

かれの父、ヤコブ=フロイトは、ナポレオンがウォーターローで運命の敗北を喫した年、一八一五年一二月一八日、ガリシアのテュスメニッツで生まれた。かれの先祖は、長い間ケルンに住んでいたが、一四~五世紀頃のユダヤ人迫害にあい、東方に逃れ、一九世紀に入ってからリタウエンからガリシアを通ってオーストリアへもどってきたという迫害の歴史をになった生粋のユダヤ人であった。かれは主として毛織物の販売に従事しながら家族を養っていたといわれている。かれは中年にして妻を失い、一八五五年、四〇歳のときアマリア=ナタンゾーンという二〇歳の若く美しい女性と再婚した。ジグムント=フロイトは、この第二の妻の最初の子である。

 

はじめて男の子を得た若い母が喜びに浸っていたある日、ひとりの老婆が「この坊ちゃんは世界的な人物になる」と予言した。この予言が単なるお世辞であったかどうかは、どうでもよいことである。問題は、これを聞いたものがどう受けとったかである。当時、フロイトの母はわずかに二一歳、しかも先妻の子がすでに二人もおり、そのうえ、親子ほども年の違うヤコブのところに嫁に来たのであるから、はじめて生まれた男の子ジグムントをどんなに喜んでいたかは想像にかたくない。だから老婆の予言を聞いたとき、かの女はわがことのように喜び、絶えずそれを口にし、いつしか自分はもちろん家族全員にもこれを信じこませるにいたったのである。それゆえ、後年フロイトもその著『夢の解釈』の中で「……私がなにか偉いものになりたいと熱望したのも、このためであるかもしれない……」と述べている。すなわち、老婆の予言は、後のフロイトの生活を支配する暗示的な力となったのである。かの女はフロイトが七四歳になるまで生き、九五歳の天寿を全うした人であるが、常にフロイトのそばにあってかれを励ます力となっていた。かの女は老いて白髪をいただくようになってしまったフロイトをつかまえては、相も変わらず「私の宝、ジーキ(ジグムントの愛称)」と呼んでいたといわれている。母から受けたこのような深い愛と信頼とが、後のフロイトの学問と生活に対するたくましい力となったことは、フロイト自身も認めているところである。

 

では、フロイトの父、ヤコブはどんな人だったであろうか。当時のヨーロッパ社会は、日本と同様に父権支配の社会であったので、フロイト家においても世間並みに父親はひとつのおごそかな権威であり、父のしつけは厳しく守らされていた。しかし、ヤコブはもともと心の優しい人であった。そのうえ、かれはジグムントを深く信じ、また尊重していた。ヤコブは父親と言い争いながら街路を歩いていた知り合いのピアニストに会ったとき、「……おとうさんに口答えするとは何ですか。うちのジグムントはわしより数段頭がいいが、決してわしに口答えなどせんよ……」といったというエピソードは、これをよくあらわしている。このように父母に信じられ、期待されていたことが、どんなにかれの魂の発展を支えたことであろうか。

 

ユダヤの子

フロイトが一〇歳か一二歳の少年の頃、父はいっしょに散歩しながら自分の人生観をぽつりぽつりと語って聞かせたものであった。そんなある日、父はつぎのような話を聞かせた。「わしの青年時代のことだが、いい着物を着て新しい毛皮の帽子をかぶり、土曜日の町を散歩していたのだ。するとひとりのキリスト教徒が向こうからやって来て、いきなりわしの帽子をとってぬかるみへ叩きつけたんだ。そうしてこう言った。≪ユダヤ人! 歩道を歩くな!」」「それで、おとうさんはどうしたの?」とフロイトがせきこんで聞くと、父は平然として答えた。「わしか? わしは車道へおりて帽子を拾ったのさ。」この答は、どう考えてもかれの手を引いて歩いていたがっしりした体格の父親にふさわしいものではなかった。そして、不満とくやしさでいっぱいになったフロイトの胸の中には、第一回ポエニ戦争で敗れたカルタゴの貴族、ハミルカル=パルカスが少年ハンニバルに祖先の霊前でローマ人への復讐を誓わせた情景が浮かんだのであった。ハンニバルとローマは、それぞれユダヤ人の頑張りとキリスト教会のシンボルのように思われたのである。こうして、ローマを訪れ、ハンニバルの通った道をたどってみたいという願望が芽ばえ、後年かれはそれを実行するのである。

 

母のアマリア=ナタンゾーンもまたユダヤ人であったので、フロイトはまさに生粋のユダヤの子であった。このことが、かれの生涯になんと大きな意味をもったことであろうか! このことについては、これからもたびたび触れるであろう。

 

反ユダヤ主義

いったい、ヨーロッパ人のユダヤ人嫌悪はどこからくるのであろうか。それは、要約すれば、宗教と経済と民族主義の問題の三つになるであろう。宗教とは、言うまでもなくユダヤ教である。ユダヤ人はみずからを選ばれた民と信じ(選民思想)、旧約の教えを固く守り、今日でも豚肉やエビ・カニ類を食べようとしない(旧約のタブー)。イスラエルでは金曜日の夕方、空に三つの星が輝くときから安息日が始まり、商店は店を閉じ、交通機関は停止し、飛行場も閉鎖される。ユダヤ人の中でも正統派と称されているもっとも熱狂的な人びとは、刃物で顔を剃るなというエホバの言葉を忠実に守り、頬髭をのばしたままである。このかたくななまでの殉教さ! 国を滅ぼされたユダヤの民が、国家なしに二千余年も生き続けるという世界的奇蹟をなしとげることができたのもこのためであり、また他の宗教の信者たちから嫌悪されるのもこのためである。キリスト教が現世の権力と妥協しながら世界的な宗教へと脱皮していったのに、ユダヤ教はがんとして妥協せず、また宗教改革のチャンスをもみずから避け、宗教における古代性をのこしたままで二〇〇〇余年の歳月を生きながらえているのはひとつの驚異であるともいえよう。

 

キリストがユダのために銀三〇枚で売られて死んだとき、キリスト教徒のユダヤ人迫害がはじまったと言ってよい。それゆえにこそ、キリスト教の僧侶たちは叫ぶのである。

 

「ユダヤ人はわれわれの預言者であるキリストを殺した。その罪によって彼らはいま家を失ない、永遠の流浪を運命づけられているのだ。いつの日かキリストが再び現われて、ユダヤ人を許すまでは!」

 

このような迫害を受け、法律の庇護もなく、祖国もない民族ユダヤが生きのこるためのよりどころは、神と金と団結しかなかったのは当然である。かれらはどこにいても常に団結し、そのすぐれた商才を駆使してしだいに富をたくわえていった。第四回十字軍が、ベニスのユダヤ人商人の奸策にひっかかって、同盟国であった東ローマの首都コンスタンチノーブルに上陸し、略奪したのは有名な話であるが、十字軍以後ヨーロッパに商業が復活・発達し始めると、ユダヤ人の経済力はますます強大になっていった。そして、それに応じてユダヤ人迫害もますます激しくなり、ついにはユダヤ人は魔法を使って金をもうけているのだという噂さえ流されたのである。勘のいいこと、相手に調子を合わせるのがうまいこと、相手を決して怒らせずにしかも最大の利益をえることなどがユダヤ商法だといわれているが、これは一面においては二〇〇〇余年の迫害の結果であり、また他面においてはかれらの嫌悪される理由でもあるのである。

 

一九世紀に入ってからは、ドイツを中心とする汎ゲルマン主義がその攻撃の矛先をユダヤ人に向けた。これを受け継いで狂信的なまでに高めたのがヒトラーであった。その過程において、中世以来のユダヤ人に対する悪魔的伝説はいっせいによみがえり、ついにはフロイト自身もその犠牲となってロンドンに亡命せざるをえなくなるのである。ヒトラーの一派は叫んだ。「アーリア人は世界でもっともすぐれた民族であり、人類を支配すべく約束された民族であり、人類の究極の美の姿である。これに反してユダヤ人は美を汚すものであり、今日のドイツの完全な破壊をめざしてそそのかしている者である。世界中のドイツ攻撃の文書はすべてユダヤ人によって書かれたものであり、従って反ユダヤ主義はわれわれの民族的イデオロギーの主軸でなければならない!」この狂信! この憎悪! まことにユダヤの子は悲劇の子である。

 

フロイト家の人々

フロイトの生後、わずかに十一か月で弟のユリウスが生まれたが、かれは一年たらずで死んでしまった。その後も母はつぎつぎに子どもを生み、五人の妹と一人の弟が得られた。こういうわけで、フロイトは母の愛を十分受けていたとはいえ、つぎつぎに生まれた弟妹たちのために母の関心はそちらへ向けられ、自分がかえりみられなくなる不安をしばしば体験した。母に甘え、母を独占したいという無意識的な願望をもちながら、現実にはそれができないという事実を常に体験したのである。そのうえ、フロイトの家庭は複雑であった。かれが生まれたとき、父ヤコブには、泣き妻との間にすでに一歳の子ヨハネスをもった長子イマヌエル=フロイトがあった。従ってジグムント=フロイトはヨハネスの年下の叔父として生まれたのである。しかもイマヌエル一家はジグムントたちとほとんど同居というべき状態であったといわれているところから、家庭的にさまざまの問題をひきおこしたであろうことは十分想像される。フロイトは父母から重要視され、いつも家族の中心として認められていたから、ヨハネスから見ればシャクの種であったであろう。ヨハネスには、自分の方が年長だという意識がある。それゆえ、しばしばフロイトを牽制した。こうして仲の良いときはよいが、まずくいくと盛んに憎み合い、いがみ合うことになった。フロイトは後年この頃の心理状態をふりかえって、次のように述べている。「三歳の終わり頃までは、われわれは互に離れがたい存在であった。われわれは互に愛し合い、競い合った。子どもの頃のこの人間関係は、その後の私の人生において、自分と同年輩の男との交際における私のすべての感情を決定づけた。」

 

フロイトの場合、このような家庭環境、その中におけるさまざまな体験は、すべて考えさせるものであった。老齢の父と若い母、伯父のような異母兄、同時に愛と憎の対象であるヨハネス、つぎつぎと生まれてくる弟妹たち、このような環境にあって母の第一の寵児であったかれは、家庭における自分自身の地位を確保しようとして不満に直面するたびに勇敢にそれと戦っていったのである。これが後に学問に対しても、世間に対しても、自己の信ずるところを貫くためにあくまで戦いぬき、あのような輝かしい業績をなしとげることができたフロイトを形成していったのである。

 

かれの兄弟については、かれ自身と妹のローザがしばしば神経衰弱にかかりやすかったという点をのぞいては、特記すべきことがない。このうちかれ自身が神経衰弱にかかりやすかったことは、後にかれが神経症を研究し、精神分析学を創設するのにかなりプラスになったであろう。かれに近い血縁者には、精神薄弱者が一人、一九歳で精神障害にかかった男子が一人、てんかんで死んだ男子が一人あるといわれている。かれの尊敬していた父、イタリア統一の英雄ガリバルディに似ていた父ヤコブは、かれが『ヒステリー病因論』の中ではじめて「精神分析」という言葉を使った記念すべき年一八九六年の一〇月二三日、他界した。

 

故郷を離れて

フライベルクはモラビアの南東、シレジアの国境に近く、ウィーンの北東一五〇マイルにある静かな町である。フロイトの生まれた頃は人口約五〇〇〇であったが、その大部分はローマ‐カトリック教徒でユダヤ人はほぼ二%であった。それゆえ、ユダヤの子には、聖マリー教会の鐘の音も、敵意をもって鳴り響いたことであろう。父のヤコブはこの町の毛織物商人であったが、この町の主要な収入源であった織物業は過去二十年間に落ち目になっていた。産業革命の結果、手工業は急速におびやかされていたのである。一八四〇年代には、ウィーンからくる新しい北方鉄道がフライベルクを迂回してしまい、そのうえ一八五一年の王政復古のあとインフレーションとなったので、一八五九年頃までには町はよほど衰微してしまっていた。ヤコブの商売も、直接その影響をうけていた。しかし、かれの不安を増すもっと不吉な前兆があった。それは、町の布地製造業者であるチェック人たちが、かれらが苦境にあるのはユダヤ系織物商人のせいであると考えはじめていたことである。ユダヤ人やその財産に直接危害が加えられたことはなかったらしいが、それでもプラハの革命はユダヤ人織物業者に対するチェック人の暴動によってはじまったものであった。経済的な困難は、勃興しつつあった民族主義と結びついて、伝統的な身代わりのいけにえであるユダヤ人に対する敵意を生んだのである。

 

たとえそういうことがなかったとしても、衰えつつある小さな町の教育機関では、フロイトに老婆の予言を実現させる見込みはなかった。ヤコブは、どう見てもこのフライベルクには自分や自分の家族の未来はないと考えた。そこで一八五九年、ちょうどフロイトが三歳のとき、一家はウィーンに移ることとなった。ウィーンに移る少し前、ライプチヒに行く汽車の中から生まれてはじめてガス灯の火を見た。それはまるで地獄で燃えている人魂(ひとだま)のようであった。汽車旅行に対する「恐怖症」がはじまったのもこのときからである。これは、後に汽車の時間にまに合うかどうかについていささか必要以上の不安を感じるという形でのこったが、また一面において自己の精神を分析するひとつの素材として重要な意味をもつものとなった。

 

ウィーンの森

森の都ウィーン。フロイトがその生涯の大部分、約八十年をすごしたウィーン。この町の歴史はすでに紀元一世紀頃、ローマ時代にヴィンドボナとよばれた頃から始まる。中世に入ってからは主として市場として栄え、一一~三世紀のあの十字軍の時代にはその通路として栄え、一四三九から一八〇六年にいたる間はほとんど常に神聖ローマ帝国の首都として栄え、帝国の経済および文化の中心となっていた。今日ではその人口は二〇〇万に近く、旅人は町並みのすぐ端まで迫っている落葉樹の森(ウィーンの森)にたたずむもよし、地下にもぐってカタコンベ(地下墓地)を見るもよし。細い石畳のガッセ(横町)、古びたたたずまいのカフェー、あてもなく狭い道を歩けばところどころの家には銅板がはめ込まれていて、オーストリアの国旗が掲げられている。足をとどめてそれを見れば、それはかつてシューベルトの住んでいた家であり、ベートーベンの住んでいた家である。音楽家だけ拾っても、ヨハン=シュトラウス、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンなどすぐれた音楽家の遺跡が数多くある。美しい音楽ならいつでも、そして季節によってはすばらしい宗教音楽が響いているのがウィーンである。ウィーンの人は一日に一度は、ときには朝食でさえもカフェーにいくという。卵と小型のパンとバターとジャムと……あるいはゆっくりコーヒーを飲みながら、新聞を読んだりおしゃべりをしたり、時に興ずればトランプ・チェス・玉突きからダンスまで。だからカフェーにはいつでもワルツのメロディーが流れている。社交好きで、はなやかで、それでいてどこか物淋しさを漂わせているウィーンの人びと。そこには、長年にわたる異民族の支配の交代の中をくぐりぬけて来た歴史の陰影がきざまれているのである。フロイトはこの町に住み、その思想を育てたのである。

 

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人と思想1『老子』のまえがき+αを読んでみる

 

老子について

 

哲学や思想は、それを形成した人がみずからの哲理に生きる、生きようと努力することなしには、存在する意義をもたない。人間が自己をも含めて、現にこのように生きている――このことに十分に自覚的でない哲学や思想が生起することは、<哲学の貧困>を物語るのである。現代における哲学や思想の形成にとって、真に緊要なことは、たんに人間疎外の諸状況を現象的に捉え、そのような現象を直接的に打破していこうとするレディ-メイドの方法原理に立つことや、人類文化の現在までの到達度をもって推論の根拠とし、「文明の未来学」に現状改変の夢を託することではない――むしろ変革すべき現状を招来したほかならぬ人間存在の根源に立ち帰るところから、現代における哲学や思想の形成は出発しなければならないという点にあるのではなかろうか。

 

樸(ぼく)に帰れ

このように考えてくるとき、ここに一冊の書物として取り出した『老子』は、われわれにとって、いかなる意義があるのだろうか。端的にいって、『老子』思想の根底に一貫して流れているものは、人をも含めたあらゆる存在を、そのよって立つ根源に立ち帰って、個性的に生かすということである。あらゆる作為を廃して、個を、その存在の原点のところ、その存在の真の在りかたにすなおにまかせきることによって、かえって本来的に生かすのである。

 

「賢(けん)を尚(とうと)ばざれば民をして争わざらしむ。得がたきの貨(か)を貴(とうと)ばざれば民をして盗みを為さざらしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば民の心を乱れざらしむ。」(第三章)

 

これを愚民政策の典型だとこきおろす偏見者はさておき、二千数百年も前にいわれたこの言葉は、すでに人類文化の至るべきなれの果てを予言しているといってもさしつかえないのではなかろうか。

 

いったい、文化・文明の〝文〟とは〝質(しつ)〟〝樸(ぼく)〟に対する語である。『老子』では、〝文〟はすべての人の作為するところ、そこは文はあり得ても、ものの真の在りかたは失われている、とされる。とすれば、人の要らざる作為をくわえない〝樸〟なる状態こそが、人の求めてやまぬ「ものの本来の在りかた」であろう。こざかしい知恵者をもてはやし、富や名利をたいせつなものとし、どうでもいいものをむやみにひけらかす――そこに華美と偽巧は見られようとも、かえってそれによってものの真なる姿は失われてしまう。ものがおのずからそう在るところ、そう成るところにすなおに順おうとしない文化・文明は、かえって人心を困惑させる以外の何物でもない。それならば、老子は文化を否定したのかというとそうではない。真の文化とは、文飾ではなくして、人間存在のまさしく根源にたち帰って求められるべきものでなければならない。老子はしきりに、「もとに帰れ」という。「嬰児に復帰す」「無極に復帰す」「樸(ぼく)に復帰す」(以上二十八章)の嬰児・無極・樸は、すべてもとの意であって、結局、それは老子のもっとも明らかにしたい〝自然の道〟に帰ることでもある。樸に徹した人間社会こそ、本来の人間の文化が成立する根底である。

 

それゆえに老子は「天地は不仁(ふじん)、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は不仁、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。」(五章)という。芻狗とは、祭祀に使うための草で作った犬。祭りが終われば捨ててかえりみない。天地はものの自然(ものがおのずからそう在る~成ること)にまかせて、何らの作為を加えないから、かえって万物がおのずからそれぞれに落ち着きを得て生かされる。聖人もまた天地とその無為の徳を合するがゆえに、万人をそれぞれの個性に従って生かす、というのである。「不仁」はまた無為の意でもある。ごくわかりやすく通俗的にいえば、ふかなさけをかけないこと、おせっかいをしないこと、といった意味だろうか。

 

為すなくして為さざるなし

こうして、問題は「無為」ということにある。無為とは「道は常に為すなくして為さざるなし――無為而無不為」(三十七章)とあるように、文字通り何もしないということではない。無為であることによって、かえって全体を為し尽くすのである。『老子』に注釈を施した魏晋時代の王弼(おうひつ)(二二六~二四九)という若くして亡くなった学者は、無為と「自然に順(したが)う」ことだといった。しかも「無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」は道の常の働きそのものである。とすれば、老子における道とはいかなるものなのか。開巻第一章に「道の道とすべきは常道(つねのみち)にあらず。名の名とすべきは常名(つねのな)にあらず。……」という。常道・常名は、個々のもの・ことを対象として、それにつけられた道や名ではなく、むしろ差別相としての個物によって構成される現象の世界を超えた一般者、道を道とするもの、また個物に付与される名に対して、むしろその名を名とするもの――それを常道とか常名といったのである。

 

しかし、老子において表現しようとしている窮極(きゅうきょく)のもの、およそ存在するものの真の在りかたは、常道とか常名といった言葉に表現されるもので満足することはできない。道といってしまえば、もうすでにそれは人の往来する道を予想し、万物の由(よ)るべきところを定めてしまう。逆にいえば、由るところがあるから道というのである。万物の由るところという意味においては、たしかに道は表現し得る最大のものである。しかし、まだそれは何とも表現できないもの、すなわち王弼(おうひつ)のいわゆる〝無称(むしょう)の大〟にかなわない。そこで老子はついに、「自然」をもって無称の言、窮極の辞とする。なぜ道よりも「自然」が老子のいい表わそうとするものの当体を得ているか。「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。」(二十五章)といわれるように、道もまたその働きと性格において「自然」にのっとるからである。

 

「自然」とは「もののありのままの姿」そのものである。老子の関心はまさにこの一点に集中する。「もののありのままの姿」したがって、ものが「おのずからそう在る~成る」実相そのものこそ、老子の把握した存在の窮極であった。これについてかりにあざ名して道といい、そしてその道が常に、無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」とされたのである。無為とは、こうして、ものの自然に順うことであり、もののおのずからそう在る~成るところにまかせきって作為を加えないことである。ものの自然にまかせて作為しなければ、かえってものはその本来のいのちに生きることができる。「為さざるなし」とは、およそ存在するものをその本来の在りかたに即して生かしきることでなければならない。もののいのち、ものの本来の在りかた――それがまた先にいった老子の〝樸(ぼく)〟である。そして、人がこのような道を体得したとき、そこに無為の徳が実現する。

 

老子のいう「上徳」とは、また無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」である。これは先の道についていわれたのと同じである。つまり、徳とは、この「無為而無不為」としての道を日常具体のなかに実現する、または実践を通して道を証示することである。作為すればものの自然を失い、不作為なればかえってものはおのずから働いて自己自身に生きる。それが道につき順うことによって実現される老子の徳である。

 

まことに老子の思想は、虚無(きょむ)にさまよう逃避・隠遁(いんとん)の弁(べん)ではなくして、個物の実存を見きわめてそれに徹し、ものの自然にすなおに順うことによって、かえってものを生かす思想である。人間とはそもそも何であったのか――老子を通してわれわれはもう一度その問いの根源にたち帰って深く考えることを余儀なくされるであろう。

 

本書の執筆を依頼されてから長い日時が経過してしまった。理由はいろいろあるが、とにかくシリーズとして企画された清水書院に対し、多大のご迷惑をおかけしたことをここに深くお詑びする次第である。

 

(なお、本文に述べてあり通り、『老子』なる書は、それを書いた老子という人物の実在も、またこの書ができあがった年代も、明確にはわからない。したがって、老子という人物の年譜を、本シリーズの他の思想家同様につくることはとてもできないので、これを省略してあることをおことわりしておきたい。)

 

昭和四五年五月 高橋 進

 

目次

 

Ⅰ 老子と『老子』書

概説
漢代の学問
司馬遷父子の思想と生涯
『史記』の老子伝
『史記』老子伝の問題点
老子および『老子』書をどうみるか

 

Ⅱ 『老子』書の背景

春秋・戦国時代
百花斉放、百家争鳴

 

Ⅲ 老子の思想

哲学の意義
道について
徳について
聖人の徳
治政――聖王の治
もとに帰る
あとがき

 

参考文献・テキストなど
さくいん

 

 

Ⅰ 老子と『老子』書

 

概説

 

貴重な人類の文化遺産

何か新しい資料が出てくれば、混乱し不明であるとされていることがらが、はっきりと断定されるであろう。『老子』という書物、および老子という人物について、これまで、数多くの学者が長い間研究してきているが、ついに、老子という人物がいつごろのどんな人であったか、いや、いったい老子という固有名詞をもった個人が実在したのかどうか、また、『老子』という書物は老子という個人によって書かれたものなのか、いつごろできたものなのか、……などなど、いろいろな説はあるが、ついにはっきりと断定できるほど、十分に説得力のある見解は出てきていない。

 

とにかく、老子および『老子』書は、それほど古い中国における文化的な遺産なのである。秦・漢帝国が成立する、それより何百年も前にすでに出現していたこの書物が、それにもかかわらず、最も中国人に愛読されてきたこと、中国人ばかりでなく、われわれ日本人にも、いや、世界の国々の人々に翻訳され、読み継がれてきたことは、まぎれもない事実である。つまり『老子』という書を書いた人物もはっきりわからなければ、いつごろできた本であるかも正確にはわからないのに、二〇〇〇年以上も経た現在に至るまで、その書物が存在し、世界の人々によって読まれてきている。それほど、この『老子』という書物は魅力のある本なのである。

 

いったいに、世界のどこの地域においてもそうだが、古い時代のことはよくわからない。歴史の源流に近づけば近づくほど、いわゆる歴史的事実も、その事実を構成した人物たちのことも、ぼんやりとした霞(かすみ)の向こうにおかれてしまう。いまここで文明の精神史的源流について語る余裕はないが、そういう源流、つまり文明の源には、こんにち生きるわれわれ世界人類にとって、まことに魅力のある人物が出現していたのである。インドのシャカ、ギリシアのソクラテス、中国の孔子やここで問題にされる老子という人物も、またそのひとりであるといえよう。しかし、文明の原点近くに存在した人物のことは、はっきりとした生没年や、その人の名にかけられた文献や書物とともにわからなくても、それがこんにちまで伝承されてきて、しかも、いささかも何千年も前に形成された価値を失っていないということは、考えてみると不思議なことである。人類の歴史が始まって二千数百年もたてば、そうとうに人間は進歩しそうなものである。確かに、人間の知識は進歩したから、現在、社会主義とか自由主義とか、その政治体制を異にしても、世界の国々の形成した科学文明は、いわゆる宇宙時代を現出している。しかし、人間の精神というか、生き方というか、そういうものは、二千数百年くらい経たところでは、それほど変わっていないのであろう。それなるがゆえに、古い時代の、著者の生没年もはっきりわからず、確かにその人物が書いたかどうかもわからない書物が、重要な文化遺産、人類の知恵として愛されているのであろう。

 

だから、文明の原点近くには、そういうはっきりとわからない人物に仮託された、そのころの人間たちの知恵の集積があったのだ、そういうものが、こんにちの文明社会を形成するエネルギーになったのだとも、またいえるであろう。話題が少しそれたようだが、老子という人物にかけられた『老子』という書物を読んでみると、原点近くに生存した人間の、賢さ・知恵・透徹さが感じられる。

 

さて、老子および『老子』書であるが、これについて全くわからないというわけではない。老子という人物の伝記がこんにちまで残されているのである。その最も古いものは、前漢中期、紀元前二世紀から紀元前一世紀ごろの大歴史家、司馬遷(しばせん)の書いた『史記』にみえる「老子韓非列伝(かんぴれつでん)」である。

 

われわれはまず、この司馬遷の残した資料を検討してみることにしよう。その前に、司馬遷という人がどんな人物だったか、かんたんにふれてみたい。

 

漢代の学問

 

経書の成立と歴史学

漢代の学問・思想の特徴といえることはそれ以前にはまだ諸子百家(しょしひゃっか)の一つにすぎなかった儒家思想が前漢武帝(紀元前一四一~紀元前八八)の時、董仲舒(とうちゅうじょ)の建言をいれて儒学を尊重する方針がきまり、以後漢王朝の指導~支配理念としての国教的性格をおびるようになり、諸子学に優位していちじるしく興隆したことである。儒学が官学になるにつれて、儒家思想のよりどころである経典(テキスト)の編成・整備が行なわれ、また、これに対する字句の解釈や注釈が、主として学問をする者の重要な任務となった。これを一般に訓詁(くんこ)の学風という。

 

どうしてこのような学問傾向になったかというと、それには理由がある。前代の秦帝国を創立した有名な始皇帝は、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)といって、思想統制のために史官秦紀以外の書物を焚(や)いたうえ、儒者を大量にとらえて穴埋めにした。やがて秦が滅び、漢代になってその統制が解かれると、天下に広く隠されている書物を求めることになった。貴重な書物、めずらしい書物を献上すると賞さえも出たということである。

 

とにかく禁令が解かれた漢代の儒者たちは、先秦時代の古書をあちこちと探り出して、これを研究することが仕事となった。最初に済南(チーナン)の伏生(ふくせい)という学者――秦から漢にかけて生きた人で、漢代の儒者にとっては古老ともいえる――の口伝えによって書きおろされた〝経書〟ができた。このテキストは、漢代の新体(その時の現代文字)で書かれたから、これを今文(きんぶん)という。のちになって、孔子の旧宅の壁中などから出たといわれるものは、先秦の旧体だったので、これを古文(こぶん)という。たとえば、『尚書(しょうしょ)』などはその代表的な経典で、口伝えで書かれた新しいものを『今文尚書(きんぶんしょうしょ)』、旧体の方を『古文(こぶん)尚書』という。今文の教書は簡単であるが、古文のものはかなり詳細である。しかし、今文といい、古文といっても、両方ともすでに原始儒家思想からは遠く離れており、いちがいにそのどちらが正しく、どちらが非であるともいえない。そこで、今文をテキストとして研究するグループと、古文をテキストにするグループとに分かれ、それぞれ一家の見解をたてようとしたのである。さらに同じテキストを用いても、それの解釈は異なってくるから、やはり『易(えき)』には五家、『今文尚書』には三家というように多くの学派が形成された。しかも前漢時代の学者には、とくに一経専問が多く、師の学説を墨守(ぼくしゅ)していたから、テキストの混乱がひどかった。

 

後漢時代になると、ようやくひとりで数経に通ずる学者が出てきたが、その末期に出た馬融(ばゆう)・鄭玄(じょうげん)というふたりの学者は、どの経典にも精通し、詳しい注釈をほどこした、また、前漢以来の諸説紛々(ふんぶん)たるテキストでは学生の教育にも困るので、後漢章帝の建初四年(七九年)には、多くの学者を宮中の白虎観(びゃっこかん)に集めて五経の本文の異同を議論させ、『白虎議奏(ぎそう)』というものをつくらせた。こんにち伝わる『白虎通』または『白虎通義』はこの時の記録である。このようにして、漢代の学問は、もっぱら伝承された儒家経典のテキスト-クリティークや、訓詁(くんこ)注釈の傾向にあった。

 

しかし、この反面、古典に対する統一的見解を求めたり、国家権力によって経文の異同を決定させることは、一種の思想統制であるから、漢代の学問、とくに儒学が独創的な性格をもち得なかったことも事実である。他面、テキスト-クリティークによって、『周易』『礼記(らいき)』『儀礼(ぎらい)』『春秋公羊(こうよう)伝』『春秋穀梁伝(こくりょうでん)』『春秋左氏(さし)伝』『尚書』『論語』など、最近では一部漢代の偽(ぎ)作だともいわれるように、その創造的側面は決して見のがし得ないものがあった。

 

わけても、漢代の学問で重要な成果は、歴史学の発達である。西洋のヘロドトスに比べられる司馬遷(しばせん)の『史記』や班固(はんこ)の『漢書』、荀悦(じゅんえつ)の『漠紀』などの傑作があいついであらわれ、また、『淮南子(えなんじ)』や『論衡(ろんこう)』のような思想的に深い著書も出現していたのである。

 

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人と思想20『マルクス』のまえがき+αを読んでみる

 

マルクスについて

 

――マルクスを、勉強するようになったわけ――

 

貧しい農村の暗い思いで

農村でくらした少年時代のことを思いだすと、わたしは、なにか暗い気もちになる。そのころの日本は、中国との戦争にあけくれていた。どこで、どういうわけの戦争をしているかを、わたしは、聞いたり、読んだり、教わったりした。もちろん、りっぱな正義の戦いをしているのだと思っていた。でも、日々の生活はつらかった。なにか遠くにあって、わたしたちには見えない戦争よりも、身じかな生活の貧しさが、つらかったのである。わたしだけでなく、わたしが育った農村のひとたちは、みんな貧しかった。それが、わたしを、ゆううつにさせたのだった。学校の背性は、立身出世をせよ! と教えてくれた。でも、貧しいものにはなりようがなかった。たったひとつ、兵隊になり、戦争にいってえらくなる道があったといえよう。しかし、それも、わたしのごとく体の弱いものには、だめだった。

 

とにかく、父母たちの苦労を思うだけでも、わたしには、楽しい青春どころではなかった。たがいに助けあい、はげましあって暮らした小学校時代の友だち、そのなかには、すぐれたひともいた。にもかかわらず、上の学校へいって勉強するわけにはいかないひとが、大部分だった。

 

おさな心のわたしは、そういうことに、なにか暗い矛盾のようなものを、感じないわけにはいかなかった。でも、こういう矛盾が、なににもとづくかなどということは、とうていわからなかった。考える力はないし、教えてくれるものはないし、また、考えたところでどうにもならぬことだった。わたしたち百姓は、汗水たらし、泥まみれになって働いた。それでも貧しくて、啄木の詩が、思いだされてくるのだった。

 

はたらけど

はたらけど猶(なお)わが生活楽(くらしらく)にならざり

じっと手を見る

 

悔いと反省からマルクスへ

父母たちのおかげで、わたしは、さいわいにも学生生活をおくることができた。しかし、父母が、息子の学費のために苦労していたあの姿を思いうかべると、なにか、いまだに、わびてもわびきれないような気もちになる。

 

中国との戦争は、ますます拡大して、ついに、米英をも敵とする、あの大戦争にまでなっていった。わたしは、その間に教師となり、哲学や倫理を教えることになった。もちろん、もはや、マルクス主義を、公然と勉強したり、しゃべったり、教えたりすることは、できなかった。ゆるされたことは、マルクス主義を、アカとして、てっていてきに非難攻げきすることだけだった。

 

戦争は、あのような形でおわった。わたしの教え子たちが、戦場で散っていった。友人たちが、戦争の犠牲となった。よき兵としてたたえられた農村の若者たちの多くが、骨となってかえってきた。空襲で、多くの市民たちが死んでいった。広島や長崎の惨状は、ほんとうのことがあきらかになるにつれ、この世の地獄をおもわせた。……かずかぎりのない戦争の悲劇。

 

そして、わたいはなにをしていたのか。なにをどう勉強し、なにをどう教えていたのか。わたしは、いまここで、わたしの勉強の誤りや、教師としての罪や責任や恥をくわしく語るゆとりはない。よく歴史の本などにでてくる写真に、神宮外苑での「学徒出陣」というのがある。わたしは、あのとき、女子学生とともに、旗をふって、出陣学徒を見おくった。あのなかの多くの学生が、戦場で死んでいったことであろう。わたしは、あの写真をみるにつけ、いいしれぬ恥ずかしさと責めに苦しめられるのである。なんとおろかな、無責任な教師であったろうか、と。なんというバカな哲学者であり倫理学者であったことか、と。わたしは、哲学とか、倫理とか、思想というものの勉強のしかたを、おかした罪にたいする責めとして、また、つぐないとして、反省しないわけにはいかなかった。

 

そういう悔いと反省のなかから、わたしはマルクスを勉強するようになった。貧乏のわけ、戦争の原因、労働者の解放、ほんとうの意味での人間の自由や平等や幸福、それらをあきらかにし、それへの道を訴えるマルクス主義が、多くのものを考えさせてくれたからである。戦争にも反対して、平和をさけんできたマルクス主義者たちに、胸うたれたからである。わたしは、考えた。とにかく、この理論を勉強してみよう! と。

 

マルクスのみりょく

マルクスは、貧乏人どころか、ゆたかなインテリ市民の家庭で生まれ、めぐまれた学生生活をした。かれの妻イェニーは、郷土きっての名門貴族の出であり、美ぼうをうたわれた才媛であった。それにもかかわらず、マルクスは、貧しい労働者の解放のために、一生をささげた。かれは、労働者をはじめとする下づみの人たちの貧困や、苦労や、奴隷状態や、堕落が、おカネ(資本としてのおカネ)が支配している、この社会のしくみに由来するとした。こんにちの戦争もまた、利潤をもとめてやまない資本の争いによるとした。およそ、あらゆるひとが、カネの奴隷となって、ほんとうの人間らしさを失っているのは、この、「ことはカネしだい」の社会が原因だ! だから、労働者を解放してほんとうに自由にするためには、そしてまた、およそ人間を解放してほんとうに人間らしくするためには、この、資本の私有を金科玉条としている社会(資本主義)を、変革しなくてはならない、と考えた。そして、この資本主義を打倒するための力ないしエネルギーを、プロレタリアート(労働者階級)に期待した。マルクスは、そういう革命のための理論を、プロレタリアートにとき、そのための実践を、プロレタリアートにうったえた。かれの生がいは、こういう理論のための勉強と、それを実行するための活動とにあけくれたのだった。とうぜん、そこには、迫害や中傷や追放がつきまとった。それとともに、ドン底の生活や、家庭の不幸(子供の病死)や、病苦が、かれをはなさなかった。だが、かつて郷土の花とうたわれた妻イェニーの愛は、よく夫をささえた。また、きわめてゆたかな商店主の息子として生まれたエンゲルスが、マルクスのこのうえない友人として、マルクスを助けたのだった。

 

こういう愛情や友情にたすけられて、マルクスは、こんにち、いたるところで問題になっているマルクス主義を、つくりあげたのである。

 

マルクスが生まれてから、まだ一五〇年そこそこである。かれの主著『資本論』が世にでたのは、一〇〇年ほどまえのことである。にもかかわらず、こんにちの世界の三分の一が、すでにマルクス主義にもとづく社会体制をとっている。そうでない国や民族も、大なり小なりマルクス主義の影響をうけているし、うけないわけにはいかない。世界史のうえで、かつてこんな思想があったであろうか。

 

こんにちの問題

しかし、かつて貧しかった農村も、いまはずいぶんゆたかになったようだ。戦争にまけたにもかかわらず、今日の日本は、まえにもまして、目をみはるばかりの姿となった。だから、わたしが、いまのべてきたことなど、若いひとには、老人の昔ばなしか、グチのようにきこえよう。

 

しかし、わたしは、こんにちの世のなかに、また暗いものや矛盾を、感じないわけにはいかない。そういう矛盾をみていると、こんにちの世にもてはやされている、えらいひとのおっしゃることが、なにかそらぞらしくきこえてくる。

はなしを、身じかのことにむけてみよう。みんなこんにちまで、しのぎをけずって競争してきたし、これからも、そうしないわけにはいかない。競争であるからに、ひとを負かして、自分が勝たなくてはならない。そのため、みんな、ずいぶんいやなゆがんだ勉強や生活をしてきたし、また、しなくてはならない。学歴が人間の価値をきめる。そこで、大学へ行けないひとのことを思うと、わたしは、また暗い気もちになる。これほど平和がさけばれながら、いま、世界のあるところでは、戦争がおこっている。おそろしい核兵器は、たえず、わたしたちをおびやかしている。なにが友情だ! なにが自由だ! なにが平等だ!なにが平和だ! とさけびたくもなる。「ことはカネしだい」の世のなかでは、ひとはカネのために狂奔しないわけにはいかない。ひとは、カネの奴隷になっている。こういう状態を、わたしたちは、「現代の矛盾」とか、「疎外」(人間が、人間のほんとうのありかた、人間らしさ、を失っていること)とよんでいる。「人間らしさを取りもどせ!」とさけんでみたところで、むりなはなしであろう。問題は、そういうふうにならないわけにはいかない状況にあろう。こういう状況のなかでは、授業の時間などに並べられる、友情・仲よく・自由・自主・平等・平和などといったコトバが、実際をもってピンとこないのは、むりからぬことであろう。

 

新しい社会づくり

問題は状況であり、社会である! こういうてんから、世のゆがみや矛盾をなくしようとしたのが、マルクスであったともいえよう。

 

ひとは、ひとりで生きているのでなく、また、ひとりでは生きられない。日々の生活、またそのためのものの生産、を考えてみてもわかる。それ、社会の多くのひとたちの協力によってはじめて可能である。にもかかわらず、貧富のはげしい格差があったり、たがいにしのぎをけずって競争しあい、敵対しあい、いがみあわねばならぬとは、どうしたことだろう。そこでは、仲よくしろとか、信頼しろとか、自主的であれとか、えらくなれ、などといってみたところで、それだけでは、ことはかたづくまい。問題は、みんなが仲よくしあえ、信頼しあえ、自主的に個性をのばすことができ、みんなが価値(えらさ)をもちうるような社会をつくることに、あるのでなかろうか。こういう人間関係をつくりあげること、それを、マルクスも、ねがったのであったといえよう。

 

わたしが、数年前、西欧のある大学にいたころ、自由主義圏のなかのかれら学生たちも、ねっしんにマルクス主義を勉強していた。かれらは、マルクス主義にたいしてどういう態度をとるにしろ、とにかく、この主義をよく勉強しなくては、という思いにせまられていた。そうでなければ、世界の平和の問題を論じる資格はない、と考えているようだった。

 

この書を世におくるにさいして、わたしは、恩師である、坂崎侃先生のことを、思わずにはおれない。戦後、先生は、とまどっていたわたしたちのために、マルクス主義の研究会を、つくってくださった。わたしたちは、そこで、マルクス主義のすぐれた研究者から指導をうけ、先生を中心にし、いろいろな問題にかんして、話しあいや討論をすることができた。それは、実のりの多いものであった。マルクスを勉強するばあい、わけても新しい社会づくりを考えるばあい、こういう共同の勉強や、話しあいや、討論がだいじだと思う。つたないこの書が、そうした勉強の、手がかりとなってくれるよう、ねがってやまない。

 

目次

 

マルクスについて ――マルクスを勉強するようになったわけ――

Ⅰ 幸福な生いたちと自己形成

この人を探訪しよう!
マルクスが登場してくる舞台
幸せな幼少時代と、その理想
多感な学生時代

Ⅱ 波らんといばらの道 ――理論形成と実践活動――

青年ヘーゲル学派
『ライン新聞』での体験と反省
人間の解放をめざして ――パリ時代のみのり――
唯物史観と剰余価値論の育成
『共産党宣言』
二月革命と『新ライン新聞』
ロンドン亡命とどん底生活
科学的社会主義の仕上げ ――『資本論』の完成――
最後の力をしぼって実践活動へ ――第一インターナショナルの創立から解散へ――
肉体は死んでも、仕事は生きつづける

あとがき ――さらに勉強しようとする人のために――

年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ 幸福な生いたちと自己形成

 

この人を探訪しよう

 

マルクスの生地をたずねて

一九六三年、九月のことである。当時西ドイツのフランクフルトで勉強していたわたしは、早朝、下宿をたって、ルクセンブルクとの国境近くにあるトリールへ向かった。西欧では、すでに秋風が感じられた。

 

「トリールに行くって? それはすてきだ!」と、下宿のおじさんも、近所のおかみさんも、また知りあいの友人たちも喜んでくれた。みんな異口同音に、トリールの町のすばらしさを、あれこれ説明してくれた。しかしそのすばらしさとは、ローマ時代のみごとな遺跡のかずかずが残っている、歴史の町の、それであった。

 

だが、わたしがこの町へ旅だった第一の理由は、ここが、現代の世界をゆり動かしているマルクス主義の生みの親、カール=マルクスのふるさとであったからである。

 

なじかは知らねど心わびて

昔の伝えはそぞろ身にしむ

わびしく暮れゆくラインの流れ

入日に山やま赤く映ゆる

 

わたしたち日本人にも親しまれている、ハイネの「ローレライ」の詩である。ハイネも、マルクスの友人であった。貧しいユダヤ商人の子に生まれたかれもまた、社会主義思想と新しい世界を求めてさまよい、波らんの生涯をおえたロマン的詩人だった。……汽車はライン川にそって走り、このロマンチックなローレライにさしかかる。かつて船でここを通ったときに、船のかなでてくれる「ローレライ」の曲につられ、わたしも人なみに旅愁をそそられ、故国を思いだしたものだった。だが、トリールをめざしての汽車の旅のこの日は、なにかあこがれの未来をもとめるような、しかもわたしを待っていてくれる未知の恋人にあうような、いわば前向きのロマンチシズムに心をはずませていた。

 

汽車はまもなくコーブレンツに到着する。わたしはここでライン川とも別れて、トリール行きに乗りかえた。列車は、ぶどう酒で有名なモーゼル川の流域を、西南にむかってさかのぼっていく。

 

コーブレンツから約二時間。あこがれの町トリールは、街路樹のきれいな、いかにもこざっぱりした姿を、モーゼル谷あいの盆地に横たえていた。案内書でしらべてみると、たしかマルクス当時一万数千の人口であった町が、いまでは八万五千余になっている。トリールは、かつてのローマ支配時代、西方領域の中心であり、ドイツ侵略の拠点であった。なるほどドイツの友人・知人たちが教えてくれたように、いたるところに、小ローマ的な遺跡(城門・浴場・円形劇場など)が散在している。また古いドームや教会や宮殿は、この地がキリスト教的・世俗的権威の中心であったことを示してくれる。ただ、古い町でありながらも、いかにもいきいきとした雰囲気がただよっている。そこにひとは、かつて一九世紀、ドイツのなかでのもっともフランス的な町といわれた新しさ、若さ、自由さをよみとることができるであろうか。

 

いうまでもなくわたしは、ひとしおの感慨をもってマルクスの生家をたずねた。といっても、一部を戦災にやられ、戦後、修理してもとの形にしたものだそうだが。通りからの眺めでは、つくりは一般市民風である。が、なかなかの大きさは、かなり豊かな弁護士であったマルクスの父の生活を、しのばせてくれる。この印象この面影を忘れまいと、日本人らしく、カメラをなん回もパチリパチリやる。階下は、ドイツ社民党の支部事務所になっており、階上が、ささやかな記念館になっている。記念館には、写真、書簡、草稿、著作などが並べられていたが、書簡や草稿はいずれも原物ではなく、写真版だった。そのなかで、とくにわたしの心をとらえたものは、マルクス夫人の達筆であった。夫人は、やはりこの地の帰属の娘として生まれ、美ぼうで社交界の花とうたわれたのだった。この貴族出のかの女が、波らんの多い、苦難つづきのマルクスを、生涯かわらない愛情で助けたのだと思うと、みごとな筆跡が、よりいっそう光をはなつようだった。

 

いま世界をゆり動かしているマルクス主義の創設者、カール=マルクスは、いまを去る約一五〇年前の一八一八年五月五日、ここで誕生したのである。町の有力な弁護士であったハインリヒ=マルクスと、オランダの出で、やはり弁護士の娘であったヘンリエッテ=マルクスの三番目の子として。

 

しかし、マルクスにとって、トリールの思い出は、この生家などよりも、最愛の妻(イェニー)とのロマンスであったようである。後年の一八六三年一二月、当時ロンドンにいたマルクス、母死亡のしらせをうけてトリールに帰ってきた。そのさい、かれがもっとも心をひかれたものは、愛妻の実家、ヴェストファーレン家であった。かれは滞在中、毎日、昔なつかしいヴェストファーレン家のあたりをさまよった。そして町の人びとが、右からも左からも、かつてのトリールの「いちばん美しい乙女」であり、「舞踏会の女王」であった。イェニーはどうしているかと、たずねてくれるのに得意になった。かの女なくしてマルクスを考えることはできない。それほどのかの女であってみれば、マルクスをひきつけ、ロマンスの花を咲かせたこの家こそは、つきぬ思い出の泉であったであろう。……

 

人間らしい人間

ロンドンに亡命して、貧乏な生活をしていたパパ、マルクスは、あるときのこと、二人の娘(ジェニーとラウラ)のアンケートに、こんな告白をしている(ある部分の意訳)。

 

パパの好きな徳は? ――素朴!

パパの好きな男の人の徳は? ――強さ!

パパの好きな女の人の徳は? ――弱さ!

パパのおもな性質? ……ひたむき!

パパの幸福感は? ――たたかうこと!

パパの不幸は? ――屈従すること!

パパがいちばん大目にみて許す悪徳は? ――すぐにんじてだまされやすいこと!

パパの好きな仕事は? ――読書に没頭すること!

パパの好きな色は? ――赤!

パパの好きな名前は? ――ラウラ、ジェニー!

パパの好きな格言は? ――人間的なことで、わたしの心をとらえないものは、なにもない!

パパの好きなモットーは? ――すべてをうたがえ!

 

この告白は、まさにマルクスの人がらを表現して躍如たるものがある。この男、ひたむきの情熱をもって恋に没頭するかと思えば、またひたむきの情熱をもって友人と議論をしてゆずらない。こびることや屈従をきらって決然と雑誌編集長の席をすてるかと思えば、どんなに迫害されても追放されても、あくまでも自己を貫き通して屈しない。まったく本の虫になってすごし勉強をするかと思えば、貧しい労働者のために東奔西走してたたかう。すばらしい妻をめとり。小説のかれんなヒロイン、グレートヒェンにあこがれるかと思えば、愛しい子どもの馬となってよつんばいをする。生涯まったくの貧乏であったこの男は、あるときは食うものもなくて愛児をつぎつぎに死なせ、柩さえも買えなかった。奥さんを質屋におくってオーバーを質にいれるかと思えば、家賃が払えなくておいたてをくい、夜具その他の衣類から、子どものおもちゃまで執達吏(しつたつり)に差しおさえられてしまった。どうにもならないときに、友人や知りあい、とくにエンゲルスにお金の無心をした。それでいてこの男は、多くの人から愛され尊敬され信頼された。かれの家庭は、同志や貧しい人たちの、いこいと話しあいの場所ともなった。

 

たしかにこの男は偉大であった。しかしその偉大さは、超人間的であるからではなくて、人間的、あまりにも人間的なその生涯のゆえではなかろうか。それゆえにこそ、また、わたしは、この人に親しみをおぼえ、この人から教えられ、この人によって勇気づけられるのである。たしかにマルクスは幼少より秀才のほまれが高かった。マルクス夫人は、トリールでさわがれた才媛であった。しかし、この秀才と才媛も、あれだけの勉強と熱意と努力がなければ、あれだけのことをなしとげることはできなかったであろう。かれこそは、まさに、人間のなかでの、わけても人間らしい人間といえよう。そして、じつは、かれの究極の念願、かれの究極の目的は、この人間――資本主義でゆがめられ、非人間化され、人間らしさを失ってしまっている人間――を解放して、ほんとうの人間らしい人間にすることであった。しかし、そのためには、かれは、この人間をゆがめ、非人間化し、奴隷化した資本主義という社会を批判し、それに死刑の宣告をしなくてはならなかった。なにが、どういう状況か、かれをそうさせたのであろうか。

 

いまも生きているマルクス

考えてみれば、マルクスが生まれてからまだ一五〇年にもならない。かれの主著『資本論』の第一巻が出版されてから一〇〇年もたたない。ところがそのあいだに、世界は、マルクス主義の影響のもとで、たいへんな変わりかたをした。

 

理論の上で、また生活の面でマルクスを助けたのはエンゲルスという男であった。資本主義のいちじるしい発達に相応して、マルクス・エンゲルスの理論をさらに発展させたのは、レーニンであった。ひとは、これらの人びとの理論をひっくるめて、「マルクス=エンゲルス=レーニン」主義もしくは「マルクス=レーニン」主義、あるいは「マルクス主義」と総称している。周知のようにこのマルクス主義の旗のもとで、こんにちのソ連や中華人民共和国ができあがり、さらに多くの社会主義国が生まれて、現に世界は、二分している(自由主義国がわと社会主義国がわとへ)。そもそも歴史のうえで、これほどのおおきな力や影響をおよぼした思想が、ほかにあったであろうか。西欧をたずねてみるとき、いまさらながら驚くのは、キリスト教的な生活や、キリスト教的な見かた感じかたが、まさに本能のごとくに、西欧人の日常生活にしみこんでいることである。道徳はいうまでもなく、芸術にしても、思想にしても、教育にしても、さらには政治さえもが、キリスト教的な色あいをおびている。それが、日本で想像していた以上であるのに、びっくりすることもしばしばである。しかしキリスト教がこのように土着して、生活のすべてを支配するようになるまでには、あるところでは数百年ないし一千年、あるところでは千数百年の年月を要した。ところが、マルクス主義は、わずか百年そこそこで、世界をこれほどにも変えてしまったのである。「哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、だいじなことは、それを変革することである」という、かれのことばそのままに。まことにおどろくべき思想であり理論である。

 

もちろんマルクスの生まれたドイツでも、またかれのつぎつぎの亡命地、フランスや中欧諸国やイギリスでも、マルクス主義はそのままでは根をおろさなかった。それどころか、しばしば強い排げきをうけた。マルクス主義者は迫害をうけた。にもかかわらず、この主義は、これらの地にも、いろいろな面で、大なり小なりの影響をおよぼさずにはおかなかった。労働運動や労働問題においてはもちろんのこと、資本主義のやりかたや国の政策や近代的民主主義のありかたなどにおいて。(資本主義の修正とか、基本的社会権の確立とか、福祉国家の出現とか、社会保障制度の進展とか、社会民主党ないし社会党の政権獲得などにおいて、わたしたちは、マルクス主義の影響をみることができよう。)そして、第二次世界大戦後には、ドイツのなかで、経過はともかくとして、まっこうからマルクス主義の旗をかかげる東ドイツ民主主義共和国が、できあがってしまった。まことに矛盾したことには、マルクスを無視すればするほど、マルクス主義を排すれば排するほど、ますますマルクスが顔を出し、マルクス主義が浸透してくるように思われる。

 

わたしが、西ドイツのフランクフルト大学で学んでいたときのことである。そのおり、「マルクス主義の」とか、「マルクス主義に関する」とかいった名のつく講義や演習では、いつも学生が大いりだった。かれらは、好むと否とにかかわらず、また肯定すると否とをとわず、とにかくマルクス主義をよく勉強し、それをじゅうぶんに理解しなくては、こんにちのドイツや世界の問題は解決しないと、考えているようにみえた。

 

だから、死んだマルクスは、いまもなお生きている。これからも生きつづけるであろう。しかも、かれのやったことは、そのまま今日にあてはまるのではないとしても、いろいろな意味で、わたしたちを導く星として、ますます光り輝くであろう。

 

わたしたちは、これからこの人を探訪しよう。そして、探訪しなくてはなるまい。

 

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