「人と思想」シリーズ

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人と思想7『イエス』のまえがき+αを読んでみる

 

イエスについて

 

イエスと私

はじめてイエスのことを聞いたのはいつのことだったのか、父が内村鑑三の弟子で、家庭集会をしていたから、イエスのことはごく小さいときから聞かされていたに違いないのだけれど、子どもの頃のことはあまり印象にない。
小学校低学年の頃だったと思う。友だちと歩いていると妙に細い裏通りばかり選んで行く。わけを聞いてみたら、日曜学校で先生が言うには、「イエス様は『狭い門からはいれ、その道は細い』とおっしゃった」という。家へ帰って父に話したらひどく笑われてしまった。
大学生のときクリスチャンになり、やっとすすんで聖書を読むようになったのである。その頃イエスの言葉は、私の罪深さを照らしだす倫理としてしか理解できなかった。

 

つまり、イエスの十字架上の死は、われわれの罪のためのあがないなのである。だから私と直接にかかわってくるのは、イエスの死と復活であって、イエスの言行ではない。イエスの言葉は、われわれを十字架のあがないの信仰へと導くものなのである。こういうふうに考えていた。
しかし新約学を専攻するようになってから、いろいろ考えてみると、どうもそうではないのである。イエスの言葉は直接そのままでわかる。「敵を愛しなさい」とか、「私のもとにきて、父母・妻子・兄弟姉妹また自分の生命まで憎むのでなければ、私の弟子となることはできない」というようなずいぶん滅茶苦茶(めちゃくちゃ)な言葉がある。実際、私もこうした言葉に散々苦しめられた覚えがある。

 

しかしよく考えてみると、このような言葉は人間の現実、奥深く隠れてはいるがしかし否定しようのない現実をありのままに言い表わそうとしているのである。その現実に目をとめればイエスの言葉は暴言ではない。
イエスの言葉が出て来る根源に目を注がないで、その文字面だけを見ると暴言になるのである。こういうふうに、ただイエスが命令したというだけの外面的な理由で、「右の頬(ほお)を打たれて左の頬を向ける」ようなことをしたら、裏道ばかり歩いた坊やたちとあまり変わらない。
根源を把握するのは容易ではない。しかしこうしなければイエスはわからない。そしてこうすればイエスの言葉は直接私自身の現実にかかわって来る。家の言葉はそのままでわかる。単純素朴に、あらゆる人にかかわる現実を語り示している。

 

だから本書もこういう立場で書いた。つまり、イエスの言葉を手がかりにして人生の現実に触れ、次にこの奥深い現実からしてイエスの言葉を理解することに心がけた。結局ひとりひとりがこの現実に自分で触れてみなければイエスの言葉はしばしば聞くにたえない暴言にすぎないのである。
それにしてもイエスを論ずるのはむずかしい。たとえばカントの場合、カントの人と思想を論ずるということになれば、当然哲学の中心問題に触れて来るだろう。しかしカントという人間をどう把握するかということ自体が、そのまま哲学の中心問題だということにはならない。

 

ところがイエスの場合は、イエスという人をどう理解するかということそのことがキリスト教神学の中心問題に属するのだ。だからイエスについて書くとなれば、単にイエスの人と思想をわかりやくす紹介するということだけではなく(これだって大変なことだが)、どうしてもキリスト教の根本問題に対して何かのかたちで態度決定を要求されることになる。だから読者もそのつもりで、多少の難解さは忍耐していただきたい。本書の性質上、「キリスト教の本質」論に焦点を合わせることはできなかったけれども、イエスの言葉はそのままでわかるというのがすでにキリスト教に対するひとつの態度決定なのである。イエス論の場合はこんなこともあるのだということを頭において、イエスが語った現実を、私たち自身に直接かかわりのある問題として考えていただきたい。

 

新約聖書

キリスト教ははじめてだという方のために、簡単に新約聖書について説明をしておく。これには二七の文書が含まれているが、大体紀元五〇年頃から二世紀はじめにかけて、原始キリスト教団のひとびとが書いたものである。著作の場所は、ローマ、ギリシア、小アジア、シリアなどに及んでいる。ほかにも多くの文書が書かれたが、二~四世紀の教会が長い紆余曲折(うよきょくせつ)をへて編集し教会の正典と決定したものが新約聖書である。
新約聖書のはじめにマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが書いたとされている四つの福音書がある(しかしマタイとヨハネは著者ではあるまい)。これはイエスの生誕・言行・受難・復活を記しているが、詳細は本書第Ⅱ章を見られたい。四つの福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカによるものはイエスの見方が似ているというので共観福音書とよばれている。

 

次にイエスの死後エルサレムに教会が成立し、福音がローマに及ぶ次第を書いた「使徒行伝」がある。著者はルカである。
そのあとに教会を迫害しているうちに回心してクリスチャンとなり、世界伝道をしたパウロの書簡がある。しかし真正のパウロ書簡は、ローマ人への手紙、コリント人への手紙Ⅰ・Ⅱ、ガラテヤ人への手紙など数通である。内容は、当時の教会のさまざまな問題に直面して、パウロがキリスト教の真髄を、理論・実践の両面にわたって述べたものである。
それから著者不明の「ヘブル人への手紙」、ヤコブ(イエスの弟)、ペテロ(イエスの弟子)、ヨハネ、ユダ(ヤコブの弟)が書いたとされている、全教会あての書簡、最後に世の終わりとキリスト来臨の預言である「ヨハネ黙示録」がある。
歴史のイエスに直接言及しているのは福音書だけだと言えるくらいである。そして福音書の記事を相互に比較してみると、共通点と相違があって、そのままに信頼できない部分も多く、こうして学問的なイエス研究が必要とされるわけである。福音書は原始教団のキリスト信仰の立場から書かれているし、また福音書のおのおのに強い個性があるので、これを史料として用いる際には十分慎重でなくてはならない。

 

イエスは自分では何も書き残さなかった(これは釈迦、孔子、ソクラテスも同様である)。福音書にはイエスの容貌や性格や趣味や教育や経歴は何も書いてないし、また家系や誕生や幼時やさらにはイエスの公生涯の具体的経過についてさえ、確かなことはほとんど何もわからない。ただ、イエスが語り、福音書が伝え、そして新約聖書全体がさし示している事柄、それは「真に必要なものはただひとつだけだ」という事柄なのだが、それが問題の中心なのであって、わたしたちひとりひとりにかかわっているのである。ここをはずしたら、イエス伝を書いたり読んだりするのは、閑人の遊びと大差ないであろう。

 

なお、本書で用いた写真は、現地で撮影をしてこられた小田切信男氏、吉田泰氏および重田忠保氏のご厚意によるものである。もちろん、写真は現在のイスラエルであって、イエス当時を示すものではないが、多少なりとも理解の助けになればと思って用いることにした。本書で用いた聖書の訳文は、現行の協会訳と塚本虎二氏の個人訳を参考にした私訳である。出版については清水書院の方々にたいへんお世話になった。心から感謝の意を表したい。

一九六七年十一月二日
調布にて
八木誠一

 

目次

イエスについて
Ⅰ イエスの時代を中心とするユダヤ民族の歴史

イエス当時のパレスチナ
ユダヤ民族の歴史
ローマのパレスチナ支配
ユダヤ戦争とその後・むすび

Ⅱ 研究史・研究の方法

研究の歴史
伝承の性質
「イエス」叙述の方法-どこにピントを合わせるか
奇蹟と奇蹟物語

Ⅲ イエスの生涯と思想

A イエスの生い立ち
B イエスの思想

人生
律法
神の支配

Ⅳ イエスの死・復活と原始キリスト教の成立

史的イエスから宣教のキリストへ

参考文献
さくいん

Ⅰ イエスの時代を中心とするユダヤ民族の歴史

 

イエス当時のパレスチナ

今から二千年ほど前のパレスチナの生活、それは確かに現代の生活と同じではない。しかしわれわれが理解できないほど違ったものでもない。二千年前の地中海沿岸の暮らしは、ともするとわれわれが思い浮かべがちな未開な生活ではなく、それより遙(はる)かにわれわれに馴染(なじ)み深いものなのである。
たとえば、紀元七九年にヴェスヴィウス火山の噴火のために埋没した南イタリアの都市ポンペイの遺跡を訪れ、博物館にはいって発掘された品々を見る人は、当時生活に必要なものは結構なんでもそろっていたし、現代と比べて違うのは、結局のところ機械と動力源がなかったぐらいだ、という感をさえ抱くのである。

 

もちろんパレスチナはイタリアではないし、ポンペイほどの都市も数少なかった。イエス当時のユダヤ民族の本国は、地中海の東、おおよそ現在のイスラエルのあるところで、大体北緯三一度から三三度、東経三四度半から三五度半、すなわち南北二〇〇キロ弱、東西一〇〇キロ(つまり熊本・宮崎・鹿児島三県ぐらい)の狭い地域だった。
地中海岸にはヨッパやカイザリアなどの都市があり、低地で、シャロンの平原のような平野があるが、東にゆくにつれて、海抜数百メートル程度の山地となり、当時人口の十万ほどの首都エルサレムも六〇〇~七〇〇メートルの高地に位する。さらに東にゆくと今度は下りで地中海の水面より低くなる。ここは南北に走る陥没(かんぼつ)地帯で、北にガリラヤの湖があり、ここからヨルダン川が約一〇〇キロ南の死海に注ぐ。死海の水面は海面下四〇〇メートルほどである。その東はふたたび山地で、アラビアの砂漠に連なる。
夏と冬が長く、春と秋は短い。地中海的な気候であるが、砂漠から熱風が吹く。雨期は十月と三月である。北のガリラヤは肥沃であるが、南のユダヤの山地には荒野が多かった。
ジッカルやハイエナが出没し、旧約聖書にはライオンも登場する。塩分の濃い死海には魚は棲(す)まないが、ガリラヤの湖には豊富である。はげたかや、はとのような鳥類も多かった。

 

農民は牛を使って畑を耕し、大麦、小麦、ぶどう、オリーブなどを栽培した。漁民は舟を出し、網や釣で魚をとった。羊飼いは羊や山羊の世話をし、牧草を求めて山野をさすらう。ろばも重要であった。馬は少なかった。
貨幣が通用し、商人が店を構え、あるいは隊商を組んで各地を交易する。銀行もあった。衣類などの日用品は家庭で作られたが、職人がいて、かまやすきを作り、家を建てた。普通の民家は煉(ね)り土や煉瓦(れんが)でつくり、たいてい一間きりであった。食事はパンに野菜、少量の魚や肉や乳にぶどう酒が主であった。
社会の単位は家族で、父が一家の主人として大きな権力をもっていた。子は父に、妻は夫に従わなければならなかった。娘は一二、三歳で嫁にやられた。めとる若者は一七、八歳であった。婚礼や葬式は盛大にとり行なわれた。子どもは家庭や会堂付属の学校で教育を受けた。ローマほどではないが奴隷(どれい)もいた。

 

法律は――後述のようにきわめて特色あるものであったが――よく整備され熱心に研究された。学問や芸術はギリシアのようには発達しなかった。生活全体に対して決定的な意味をもっていたのは宗教である。
民族最大の苦悩は政治問題であった。地図を開いてみればわかるように、パレスチナは強国に囲まれ、しかも重要な交通路に位しているから、ユダヤ民族は絶えず強大な外国の支配下に置かれたのである。だからユダヤ人の生活は決して平和ではなかった。それどころかイエス前後の時代はユダヤ民族にとって運命の時であった。

 

ユダヤ民族の歴史

 

前一三世紀~前六世紀

紀元前一三世紀、ユダヤ民族はモーセに率いられてエジプトを脱出し、パレスチナに侵入してここに定着した。この民は前一一世紀にサウルを王として王国を形成し、ついでダビデ王のもとに、この民族にとっては忘れがたい繁栄と栄光の時を迎えた。しかし次代の王ソロモンが死ぬと王国は北王国イスラエルと南王国ユダに分裂した(前九二〇年頃)。そして北王国イスラエルは前七二二年アッシリアに攻略され、南王国ユダは前五八七年バビロニアの前に滅亡した。ユダの指導的な人々はバビロニアに連れ去られた。いわゆるバビロニア捕囚である。

 

ユダヤ教の成立

前五三九年、ペルシア王クロスはバビロニアを征服すると、翌年捕囚民の解放を布告し、捕囚の民は前五三七年第一次の帰還を許され、ただちに神殿の再建に着手した。前五世紀後半にエズラ、ネヘミアが帰国して、新しい法典のもとに民族の再建をはかった。
普通、旧約宗教と区別された意味での「ユダヤ教」はここにはじまるとされ、また新約聖書の時代史もここから書きはじめられることになっている。
祭儀はもちろんユダヤ教の中で重要な地位を占める。だから捕囚民は帰還するとすぐにエルサレムに神殿を再建したのである。エルサレムは神殿都市となった。しかしユダヤ教のもっとも大きな特徴はその律法主義だといえる。ユダヤ教によると、天地の創造主ヤハウェはユダヤの民を選び、これと契約を結んだ。すなわちユダヤ民族はヤハウェの民となり、神はユダヤ民族の神となったのである。神と民とのこの関係の内容を具体的に示すものが、ヤハウェがモーセを通じて民に与えたという律法なのである。これはいわゆる旧約聖書の立法書に記されている。ユダヤ民族はこの律法に義務づけられる。もし民が律法を守るならば平和と幸福と繁栄とが民に臨(のぞ)み、逆にもし民が異なる神々を拝して律法からそれるならば、民には罰としてもろもろの災いが下る。

 

現代の私たちは、宗教というと、なにか学問や芸術はもちろん、政治や経済、法律や道徳とも違ったものだと考えている。宗教的義務は決して国民一般の義務ではない。しかし当時のユダヤではそうではなかった。律法は、祭儀の規定はもちろん、私たちが法律や道徳というものをも含み、それだけでなく、律法を守るかどうかということはまさに民族の政治的、経済的運命にかかわることとされたのである。この点をはっきりつかまなくては、ユダヤ教の、ほとんど常軌を逸した律法熱心は決して理解されないだろう。
だからユダヤ教徒は、律法を学び、それを正しく実生活に適用するにはどうしたらよいかということを、まさに人生第一の関心事とした、と言っても言いすぎではない。民は契約を憶(おぼ)えず、律法を守らず、異なる神々に香を焚(た)いた。だから民族にもろもろの不運が臨んだのだ、これは神の罰なのだ、従って唯一の主へと立ちかえり、その律法を行なわなければならない。そうしてはじめて民に平和と独立と繁栄が訪れるだろう。かれらは堅くこう信じたからこそ、律法のもとに、民の再建をはかったのである。

 

シリア支配下のユダヤ民族

さて、マケドニアの王アレクサンダーは前三三四年東方遠征を開始し、ギリシアからエジプト、インダス川流域に及ぶ大帝国を建設した。この帝国建設はギリシア語とギリシア文化を東方に広めたという文化史的意義をもっている。アレクサンダーは前三二三年六月、三二歳の若さで熱病にたおれた。そのあと、大帝国はエジプト、シリア、トラキア、小アジア、マケドニアに分裂して、パレスチナはまずエジプトの、ついで前一九八年頃シリアの支配下に置かれた。当時シリアを治めたのはセレウコス王朝である。

 

そうすると優勢なギリシア文化が神殿都市エルサレムになだれ込んできた。しかし熱心なユダヤ教徒にとっては、異教徒と異教文化は、唯一の神をも律法をも知らない汚れた存在なのである。異教的なるものに対するこの烈しい嫌悪は、宗教的情熱に支えられた民族主義・国粋主義の産物だと言ったら、ある程度見当がつくかも知れない。しかも前述のように、宗教には民族の盛衰がかかっている。異教の汚れは、文字どおりともに天をいただくことのできない敵、滅ぼすか駆逐するか、あるいは自分がその汚れのために滅びるほかない敵なのである。そしてまた、ユダヤ人は、汚れた異教的なものは、聖なる神の尊厳の前に必ず滅びるはずだと考えた。しかしそのためには、まずユダヤ人が律法を守り、神の意志に従う潔(きよ)い存在でなくてはならないのである。唯一の神のみを拝し、偶像崇拝を忌み、それゆえ決して人や獣の像を作らず拝まないというのが基本的な誡(いまし)めであった。しかし悪いことに、ユダヤ民族を支配した外国人は、このようなユダヤ人の心情を必ずしも理解しなかったのである。

 

アンティオコス=エピファネスのユダヤ教迫害

前一七五年、アンティオコス四世がシリア王に即位した。この王は自分を神の「顕現者」(エピファネス)と称し、神として振舞い、あれはエピマネス(狂人)だと皮肉られた。かれは大祭司オニアスを廃して、オニアスの弟ヨシュアに大祭司職を売りつけた。このヨシュアはヤソンというギリシア名をもったほどの外国かぶれで、ユダヤのギリシア化政策を推進するならさらに金を払うとアンティオコス四世に約束したのである。一般に優勢な異質文化に直面するとき、これを学び消化する前から、いわば盲目的に、穢(けが)れたもの、諸悪と禍いの根源とみなして排斥する人がいる。逆に、同様盲目的に、外国文化を崇拝してしまった、自国の伝統を何か恥ずかしいもの、醜悪なものと感じ、自国のものを捨て去って外国文化に同化しようとする人も現われる。さすがのユダヤにも後者がいた。

 

こうしてギリシア化が進められた。エルサレムにも競技場や浴場がつくられ、体育場(ギュムナシオン。ギュムノスは裸の意)では裸で体育をした。ところがユダヤ人は割礼を受けている。割礼というのは、男子生殖器の包皮の一部を切り取る手術であるが、神とユダヤの民との契約の印であり、これを受けることはユダヤ人男子の聖なる義務であった。割礼を受けないものは「民のうちから断たれる」。それなのに割礼を恥じて体育場でそのあとを隠そうとした若者があり、正統派ユダヤ人の怒りを買った。

 

ハシーディーム

そこで他方では契約と律法を重んじる忠信なユダヤ教徒の激しい反応が起こった。かれらは団結した。この人々はハシーディームと呼ばれる。かれらによれば、ユダヤ民族の不幸は唯一の神に対する背信のゆえである。ここでギリシア文化に膝を屈したらユダヤ民族はどうなるのか。かれらは「昼も夜も」律法を思い、律法の中に神の意志をたずね、決してこれに違反せず、むしろ律法によって実生活の全般を律しようと努力した。聖書の研究と解釈と適用とが、社会生活を指導しなければならなかった。ハシーディームは後述のパリサイ人の母胎である。

 

さて大祭司ヤソンは三年後罷免(ひめん)されたトビア家のメネラオス(メナヘム)が多額の金をアンティオコスに払って大祭司職をヤソンから奪取したのである。ヤソンとメネラオスの対立にエジプトとシリアの確執が、さらに反シリア派と親シリア派の争いがからんだ。そしてアンティオコス四世は、反シリア派=親エジプト派と正統的ユダヤ教徒とを同一視したので、ユダヤ教の禁圧を決意した。彼は法律を発布して律法生活を禁止した。聖書を持つことも、安息日を守ることも、割礼も禁止された。エルサレムの神殿はゼウスの聖所となり、神殿の祭壇の上に小祭壇が築かれ、豚が献(ささ)げられた(豚はユダヤ人には不浄の動物であり、禁忌<タブー>であった)。ディオニュソス祭儀も導入され、神殿売春も始まった。しかしユダヤ教の祭儀は死刑をもって禁じられたのである。ここには、逆にシリア側がユダヤ教をけがれた「異教」として禁圧しようとした意図がみえないだろうか。とにかくこうしてユダヤ側には早速殉教者が出た。

 

マカベア戦争

ユダヤ人の中にはこの命令に従ったものもあり、荒野に逃れて律法生活を続けた者もあった。しかし大多数はシリアに反抗して独立戦争に参加した。エルサレムの北、モディンに、祭司マタテヤが五人の子(ヨハネ=シモン、ユダ=マカベウス、エレアザル、ヨナタン)と共に住んでいた。村に王の役人が来て異教の神に犠牲を献げることを強要したとき、かれはこれを拒否した。すると他のユダヤ人が立ち上がって祭壇に犠牲を献げた。マタテヤは怒り、走っていってこの男を殺し、ついでに王の役人も殺して、同志を募って山に逃れた。するとこれを聞いて、律法に忠実なものハシーディームが続々と彼のもとに集まった。こうしていわゆるマカベア戦争が始まった(前一六八年頃)。

 

シリア軍は安息日に攻撃をかけた。安息日は今の土曜日にあたるが、神が創造の業を終えて七日目に休んだことに起源をもつとされ、作業をいっさいしてはならない聖日と定められている。シリア軍に攻撃されたとき、律法には忠実な人々は安息日の掟(おきて)を守った。そして無抵抗のまま殺されてしまった。その数は一千人であったという。しかしこれでは戦争に勝つ見込みはないので、解放軍は安息日にも防衛戦争をすることを決議し、一連の戦闘に勝利を収めた。

 

マタテヤは前一六七年頃病死し、その子ユダ=マカベウスが指揮をとった。かれはゲリラ戦が得意だった。前一六五年、ユダはエルサレムに入城し、汚されていた神殿の浄(きよ)めの礼をとり行なった。キスリウ付きの二五日で、それ以来この儀式は毎年キスリウ月の二五日から八日間行なわれることになり、ヨハネ一〇・二二の宮潔(みやきよ)めの祭りがこれである。次にヨナタン、さらにその子シモンが指揮の任にあたった。戦いは三〇年近く続いた。前一四二年、シモンがエルサレムにあるシリア軍の拠点を攻略し、ユダヤ人の独立を達成した。そして最後のシリア王アンティオコス七世の死後、前一三五年、シモンの子で後継者でもあるヨハネ=ヒルカノスがユダヤ国の王となった。これがハスモニア王朝である。

 

戦いの実際をみると、ユダヤ人は第一に律法に従って生活できる条件を求めたのであった。ハシーディームはこれ以外の何も目的としなかったようである。しかしマカベア家は、ただそれだけではなく、不虔(ふけん)なる者を探し出して迫害し、背信者をイスラエルから絶ったといわれる。マカベア家は律法化を実力をもって遂行しようとしたのである。さらに神がユダヤ民族に与えると約束した地から、ユダヤ教徒以外のものを駆逐しようとした。だからマカベア家が権力を握ったとき、ユダヤの南のイドマヤと、ヨルダンの東の民は、割礼を受けてユダヤの律法を受け入れるか、あるいはそれを拒(こば)んで死ぬかの選択を迫られた。こうしてイドマヤ、ペレアの民、民族的にはユダヤ人ではないのに、ユダヤ教を受容することとなった。

 

サマリア

ガリラヤもユダヤ王国に編入された。サマリアだけは例外であった。北王国イスラエルが前七二二年アッシリアに滅ぼされ、指導的な人々がメソポタミア、メディアに連れ去られたあと、サマリアにはバビロンなどから異教の民が移住しきたり、イスラエル人と混血したため、バビロン捕囚の民がユダヤに帰還して後、ユダヤとサマリアは反目抗争するようになったのである。サマリア人はゲリジム山に神殿を建設し、モーセの五書だけを正典として認めたのである。あとになると、サマリア人は全くの異邦人とされたる

さてこのようにして、ハスモニア王朝は独立してほぼダビデ王の全版図を回復したことになる。
しかし独立の喜びは長くは続かなかった。ユダヤ民族の行く手にはシリアより遙かに強大な敵、ローマが立ちふさがったのである。

 

 

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人と思想34『サルトル』のまえがき+αを読んでみる

 

サルトルと私

 

サルトルにひかれた理由

私がサルトルの思想に親しむようになったことの理由は、大別すると二つあるように思われる。その一つは、サルトルが現代二〇世紀に生きる思想家であり、このわれわれの生きている時代をよく哲学的に表現することができたからである。もう一つの理由は、サルトルばかりでなく、ボーヴォワールをもふくめて、かれらの哲学者として、また芸術家としての生き方の姿勢、むしろ彼らの人間的個性に共感するところが多くあったからである。

 

哲学は時代の子

ヘーゲルは、その『法哲学』のなかで、「もともと各人は時代の子である。哲学もまたそうであって、思想のうちに把握されたその時代なのである」といっている。サルトルもサルトルの哲学も、やはりその意味で「時代の子」なのである。私個人も広い意味でサルトルと同時代人であり、同じ時代の関心に生きているのである。では、サルトルが把握した現代とはどのようなものでありまた、どのような意味でサルトルの哲学と文学は時代のよき概念的把握でありえたのであろうか。

 

サルトルが生まれた時代

サルトルが生まれたのは、一九〇五年六月二一日である。つまり、二〇世紀のほぼ初頭にこの世に現れたのである。この時代とは一八七〇年頃から徐々に進行しはじめた資本主義の独占化が軌道にのり、いわゆる「帝国主義」の段階がはじまる時期なのである。資本主義による組織的収奪が軌道にのりはじめたといってもよい。この時代は、一方ではマルクス・エンゲルスの思想を受けついだレーニンの思想がその力を発揮しはじめた時代であった。

 

しかし他方では社会や組織に絶望した知識人が、「この世の外ならどこへでも」(ボードレール)という形で、社会から逃避・離脱して消費的享楽的な個人主義へと敗退して行く、こういった二つの風潮の交錯(こうさく)した時代なのであった。この社会から離脱した個人は、「呪(のろ)われた詩人たち」とよばれ、いわゆる「世紀末」のデカダンス芸術を、あたかも夕映(ば)えのようにかざっていたのである。

 

マルクス主義か実存主義か

しかし、一夜があけて世紀が変わると、世界では暗黙のうちに戦争への不吉な準備がすすめられ、享楽的な風潮にも一抹(いちまつ)の無気味さが加えられるにいたるのである。文明の名において先進資本主義国が、植民地への野蛮な収奪を行なう「ボーア戦争」の史実から霊感を受けて、ロマン=ロランが戯曲『時は来らん』を書き、時代への抗議の声をあげたのは、一九〇二年であった。サルトルが生まれたのは、ちょうどこういった時期、つまり組織対組織の収奪や階級闘争の激化の段階がはじまりかけた時期であり、また同時に、資本主義社会に寄生しつつも、これを呪い、これから逃避するといった「呪われた詩人」、この社会の私生児が、その生活を円熟させきった時期でもあったのである。
社会の発展を必然性で描くマルクス主義と個人をその個別性で把握する実存主義とが、時代を大きくひきさいていったのである。

 

生まれながらの実存主義者

サルトルの出生の個人的情況は、実存主義者サルトルを形成するのに、まったくあつらえむきの条件をそろえていた。サルトルは早く父を失い、祖父の家に母とともにひきとられる。サルトルは家族全員の寵愛(ちょうあい)を受けるが、ちょっと調子にのってはしゃぐと、母が「静かになさい、ここは私たちの家ではないのですから」といってたしなめるのである。サルトルは、たしかに家族には属してはいたが、いつもよそ者であり、よけい者であると感じていた。この姿勢は、ブルジョア社会に寄生する「呪われた詩人」の姿勢にまったく等しいのである。つまり、サルトルは、一九世紀のブルジョア文化の成果を自らの出生の条件とするという不思議な宿命のなかに投げ入れられていたのである。

 

個人から集団へ

ところが、成人するにつれてサルトルは変貌する。サルトルの(いままでの)全生涯はこの呪われた個人から出発しつつ、この個人がどうして組織や社会と一体化しうるか、その方法や理念をおいつめる一生であったと思う。これが、実存主義者サルトルのマルクス主義への接近という形をとるのである。もちろんサルトルの組織論や革命観には批判すべき点は多い。けれども、個人から出発しつつも、これを組織の時代、階級闘争の時代といわれる現代に迫ろうとするその方向において、サルトルの哲学が現代の哲学であり、時代の哲学でありうる理由があるのである。

 

二〇世紀後半の現代は、ますます組織の時代、階級闘争の時代でありつづけると同時に個人の問題への正しい解答が要求されている時代でもあると思う。組織の問題と個人の問題との正しく統一ある解答を提出することのできる哲学が、現代を導く哲学となることができるのではないかと思う。その意味でサルトルの哲学は、現代社会が投じた設問への解答の一つとしてある重要な地位をしめるものであると思う。その意味でサルトルの哲学は、現代社会が投じた設問への解答の一つとしてある重要な地位をしめるものであると思う。しかし、サルトルの見解が果たして真に正当な解決のすべてをいいつくしているか否か、これは大いに検討してみる必要がある。ともあれ、ここでは、まず、よくサルトルの哲学をみつめ、これを理解し、そのうえに立ってこれを評価し、批判していくことがたいせつであろう。

 

たぐいまれな率直さ

つづいて、私がサルトル、ボーヴォワールに共感する第二の理由、彼らの人間的個性について。まず第一にあげたく思う点は、彼らの個人的態度がしめす、たぐいまれな自己欺瞞(ぎまん)のない率直さである。ボーヴォワールは、彼女の自伝『或(あ)る戦後』のなかで「私がずっとたいせつに守ろうとしてきた美点の一つをたいていの人は認めてくれた。それは、自慢からも自虐(じぎゃく)からも程遠い率直さである。私は三〇年以上も前から、サルトルとの会話でその修練を積んできた」とのべている。世は自己PRの時代、宣伝しなければそんだと考え、いつしか嘘(うそ)までほんとうだと自分自身が信じこんでしまうような時代。何々のためという大義名分で自分を正当化して、自分で自分を聖者に仕立ててしまう。反面「謙虚(けんきょ)な人だ」と世の人が評価するような人物は、意外に卑屈(ひくつ)でうらみっぽく、神がかっているものである。しかし、サルトル、ボーヴォワールは、これらの自己欺瞞や卑屈さから遠い。彼らは聖者でも英雄でも偉人でもない。彼らはただあるがままの人間として、精いっぱいの姿勢で生きていく。

 

なれなれしさ

幼い頃からサルトルは古今の名作とよばれる作品を親しむ。そんな関係もあって、サルトルには「歴史上の偉人たちを学友たちのように扱い、ボードレールやフローベルに関して、歯に衣(きぬ)着せずに意見をのべる」といった「なれなれしさ」の態度が残っている。私は研究者の態度として、こういった「なれなれしさ」が好きである。わが国では、たとえば演奏者が作曲家に対して、研究者が思想家に対して不必要に卑屈ではないだろうか。謙虚にふるまったからといってわかりが早くなるわけではない。友人のような忌憚(きたん)のない意見交換のほうが先決である。私個人に関していうならば、サルトルを尊敬すべき大思想家としてではなく、何か私のライバルのような気持で意識していた。先日、私はサルトルに関する小さな研究書を出版したが、その時、ある友人に、「サルトルが『存在と無』を書いたと同じ年頃に、俺はそれの解説を書くんだからちょっとできがちがうな」といったら、その友人は笑って「だいぶちがうんじゃないかね」といった。しかし、すぐ私をなぐさめるような調子で「だが、とにかく、お前とサルトルとはライバルのようなものだったからな」といってまた笑った。私はこれでいいのだと思う。どちらが偉人で能力があるかないか、それは二の次で、まず「なれなれしく」対決すべきではないだろうか。

 

愛情に神話はいらない

ゲーテは『ファウスト』のなかで「およそ生活でも、自由でも、日々これをかち得て、はじめてこれを享受(きょうじゅ)する権利を生ずる」といっている。ボーヴォワールは彼女の恋愛論のなかで、「永遠の愛」といった、一度獲得すれば、あとはそれに頼っていればよいといった姿勢を、きっぱりとしりぞける。ボーヴォワールは、何か神がかった「愛の神話」などをきっぱりとしりぞけるのである。人間の愛情はたえまなく新しく創造しつづけられなければならない。この創造的情熱どうしの日々新たに獲得される結合にこそ真の愛情がある。彼らは神がかった宗教的な真実さよりも、不断の創造をこととする芸術的情熱のほうを重んずるのである。

 

同じくゲーテの詩に「新しい恋、新しい生命」という一節があるが、サルトルとボーヴォワールは、まったくこの「新しい生命」をともに生きついできたのである。もちろん、ボーヴォワールの愛情論には、結婚という形の情熱のあり方についての論述が乏しい。何か愛情論を恋愛論に解消する傾向がないわけではない。しかし、神秘化された愛情の欺瞞を拒否する彼女の姿勢に共感すべき点が多い。

 

サロン哲学者

サルトルは彼の原稿をサロンやレストランの片隅(すみ)で書くことがある。だから、彼のことをサロン哲学者だといって悪口をいう者がいる。劇作家として一流で哲学者として二流だとか、ほめたりくさしたりするような批評もある。大変おもしろい批評だが、とにかく、古代から哲学者には、ソクラテスやデオゲネスのように巷(ちまた)で哲理を説く哲学者と学校の机の上でだけ哲学を説く哲学者との二つのタイプがあった。どちらが一流でどちらが二流かは知らないが、サルトルははっきりサロンのなかばかりでなく、場合によってはトイレのなかにまで哲学をもちこむ種族に組みしている。アカデミックな哲学に私生活のすべてまで注ぎこむという意味で哲学に忠実な人種と、生活のどの隅にまでも哲学をもちこんできて、その意味でいたるところ哲学でいっぱいといったタイプとでは正反対である。どちらを選ぶかは個人の好みかも知れないが、私はサルトルの態度のほうが好きである。

 

とらわれの身

サルトルには実にたくさんの顔がある。哲学者としてばかりでなく文学者としての活動も多様である。現代の若い諸君が、いったい、サルトルのどんな側面に共感を感ずるのか、私には大変興味深いことがらである。私自身、最初にサルトルにふれたのは、心ならずも大学受験にとじこめられていた頃、短篇『壁』を読んだのがそもそものはじまりである。同時にロマン=ロランの『内面の旅路』の一節「私はとらわれの身だ」という箇所を発見し、「胡桃(くるみ)の殻(から)にとじこめられたまま自分を無限の空間の王として見出すことができたらいい!」という若きロランの観念的な祈願に共感していた。ところがサルトルの主人公は、自分をとらえた牢獄のなかから、ほんの偶然のチャンスで脱出する。脱出に成功した主人公は「涙が出るほど笑って笑って笑いこける」のである。これはちょうど、入りたいとねがってはいても受験もしていない大学から、何かのまちがいで合格通知がまいこむようなものである。私は「存在は偶然である」という趣旨のこの小説を読んで「ふん」といった感じであった。

 

選ぶ前の待機

やがて、大学の教養部の時代、『実存主義はヒューマニズムなり』を読んで、「人間は、最初は何者でもない。人間はあとになってから人間になるのであり、人間は自らがつくったところのものになる」という一節を発見した。教養部にいて、どの学部のどの学科を選ぶか漠然と考えごとをしていた私は、この一節がよくわかるような気持がした。私には専門も決まっていず、したがって専門的能力も知識もなく、もちろん地位も財産も職もない。つまり「何者でもない」と思った。そして、何になるか、これから自分で選択し、自分の何者かをつくって行かなければならない。いまは、何者でもなく、自分を「待機」させている。夏目漱石の「三四郎」も、自分を「待機」させ、うろうろしながら学生時代を終わるのである。私は一方ではこの「待機」を楽しみ、他方ではあせりにあせりながら青春の何ヵ年を送るのである。

 

人間の弱さと強さ

私が学部に進んだ頃、レッドパージの嵐が吹き、朝鮮戦争の暗雲が目先を暗黒にぬりつぶしていた。サルトルの『文学とは何か』のなかで「束縛(そくばく)の文学」という言葉を知り、「私は拷問(ごうもん)に耐えられるだろうか、と考えずに眠りにつくことのなかった世代に属する」という発言に共感した。学生運動の経験のなかで(当時はつよがりをいっていたが)とてもおそろしいと感ずることがないわけではなかった。ベテランの活動家からは、小林多喜二の時代はこんなものではなかった、といわれ劣等感をとぎすまされた。そんな時、サルトルの文学の人物は、ある時は英雄的に、ある時は率直に「駄目(だめ)な男」の役を演じているのをみて、人間とはそのいずれの面も真実なのではないかと思った。生まれながらの英雄などいるものではない、「駄目な男」が英雄にもなり、英雄もきっと時々は「駄目な男」なのだ。そのどちらを選ぶかは、その人の自由によっている、というサルトルの考えには一概に賛成はできず、その人をつくる思想の内容を無視して、単に自由な決断といっても抽象的だとは思ったが、「駄目な男」の率直さが好きであった。要は、強さ弱さをもふくめて、ありのままの人間から出発しながら、その人間的弱さの一つ一つを克服することのなかに人間性の勝利があるのではないだろうか。私はロマン=ロランの『ジャン=クリストフ』のなかで「悩み、戦い、やがては勝利する魂」の姿勢について学び、マルクスから、現代人が、どうしたなら歴史のなかで価値ある存在となることができるのか、という点について学んだ。サルトルからはありのままの人間をありのままの目でみつめる態度、誰もみていなくても自分にだけは嘘をつかない態度少なくとも自分で自分に恥じるような態度だけはとりたくない――つまり自分自身にたいするプライドのようなものについて学んだ。

 

年をとったライバル

このようにして、折にふれサルトルに接触しながら私の青春時代はすぎていった。哲学を専業とするようになってからは、ヘーゲルとマルクスとサルトルの三つの柱が私の思索の中心をなすようになっていた。サルトルの思想は現代二〇世紀の現況を鋭くつくものとして、たえず私の関心の的であった。もちろん、サルトル自身の個人観や社会観と私自身のそれとがまったく同一のものではありえず、むしろ、正反対の場合もないわけではなかった。しかし、たとえその解答の結果において正反対であっても、問いかける問題意識において、私はサルトルとふれ合うものを多く感じていた。だから、その結論がくいちがったり、反対であればあるほど、私はサルトルをいっそう強く意識した。私がサルトルを私個人にとって対決すべき相手、つまりライバルだと感じたのはこういった次第によってなのである。とはいっても、サルトルは私より二〇歳か年上の兄貴分であり、私がこの兄貴分を知った時、彼はすでに壮年であった。その後一〇年、二〇年と年月がすぎたが、私は心のなかでは、いつまでもサルトルは壮年のままだと思いこんでいた。先日訪日したサルトルが、すでに六〇歳をこえたということをあらためて意識して、私は自分の年齢を思わず数えなおした。いつまでも若いと思いこんでいたボーヴォワールも、目下、人間の「老い」という現象の研究に打ちこみこれを完成させたという。このサルトルの思想が、私よりすでに一世代あるいは二世代も若い諸君のどんな共感をそそるのか、今度は私のほうから問いかけたい気持でいっぱいである。そんな意味もあって私個人のサルトル体験の一端にもふれてみたのである。

 

本書のねらい

最後に本書のねらいについてふれておこう。一口にサルトルの思想と生涯といっても、その思想には哲学から文学作品、評論にいたるまで、きわめて多岐(たき)にわたっている。生涯といっても、サルトル自身の自伝『言葉』からボーヴォワールの自伝にいたるまでくわしく紹介すれば、それだけで十分に一冊の分量となる。また、哲学的大著の名著解題的な紹介も、原著が大部のものであるだけにとうてい十分のことはなしえない。ともあれ書物がまがりなりにも一つの生命をもち、独自の個性をもつものであるためには、書物の大小にかかわりなく、その書物独自のねらいがあってしかるべきである。本書は大別して二つの目標のもとに書きすすめられた。

 

その一つは、サルトルとマルクス主義との関連はどういうものなのかといった点について解明すること、それにつれてサルトルの思想と位置を確定し、サルトルの哲学的・文学的主張の要点を定型化することである。二つめとして、サルトルの思想的変貌の謎というか、変貌の論理というか、その変転の諸段階を論理的に把握しようというねらいである。この二つのねらいを基準としてサルトルの思想と生涯を概観し、要所要所の理論や作品を論じながらサルトルという一人の人物の全体像に迫ってみたい。もちろん、サルトルの全体像とは「全体化する全体性」なのであり、しかも、いまだ存命中の人物に完結した全体像などありえない。だからこそ変貌のなかでサルトルを論じようと思うのである。

 

目次

Ⅰ サルトルという人

サルトルとボーヴォワール
サルトルの歩んできたみち

Ⅱ サルトルの思想

 明晰(めいせき)なる無償性

哲学的私生児
無神論的実存主義

保留された自由

即自存在と対自存在
待機
演技(他者の前での物化)
束縛の文学

客体化された自由

変貌(へんぼう)するサルトル
自由の化石
客体への責任

集団となった自由

『弁証法的理性批判』
サルトルの実存主義

 

あとがき
年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ サルトルという人

 

サルトルとボーヴォワール

 

その出生

ジャン=ポール=サルトル、一九〇五年、六月二一日パリに生まれ、一九〇七年に海軍の技術将校であった父を失う。その後、母とともに母方の祖父母にひきとられる。祖父はすぐれたドイツ語教師であったが、アルベルト=シュヴァイツァーは、祖父のおいにあたる関係なのである。祖父は読書家であり、大変な蔵書家でもあったので、幼いサルトルは自然と書物に親しむ習慣を身につけ、幼くして物語を創作したりする。一九一六年、母は再婚する。義父は父と同じような造船関係の技術者。幼くして父を失い、母の再婚を経験するという点で詩人ボードレールと同じ経歴をたどった。その意味で、後年サルトルがボードレール論を書き、幼年期の体験が詩人ボードレールの形成に大きな役割を果たした次第を強調する理由がわかる。

 

一九一五年、アンリ四世高等中学校に入学。級友のなかに、のちのコミュニスト作家、ポール=ニザンがいる。精神的に大きな影響を受ける。義父の勤務先の関係で、ラ=ロシェルに移転し同地の高等中学に転校。一九二四年、パリの高等師範学校(エコール・ノルマル)に入学する。この高等師範学校は、文科系の学校としてはフランス随一の優秀校であり、外交官、知識人のなかにすぐれた先輩をもっている。ロマン=ロランも同校の卒業生である。事実、サルトルの同期生にはすぐれた人材が多く、ポール=ニザン(作家)、レイモン=アロン(パリ大学社会学教授)、モーリス=メルロ‐ポンティー(サルトルとならぶ現代フランスを代表する哲学者。リヨン大学、ソルボンヌ大学、コレージュ‐ド‐フランスの教授。サルトルとともに雑誌『現代』を創刊する。のちサルトルと論争。一九六一年急死)、ジョルジュ=ポリツェル(マルクス主義哲学者。フランス唯物論哲学のもっとも指導的な思想家。ナチスの占領下で知識人の抵抗組織をつくったが、ゲシュタポにとらえられ、激しい拷問(ごうもん)の末、一九四二年銃殺された)、シモーヌ=ド=ボーヴォワール(サルトル夫人。作家・哲学者)などがいた。

 

高等師範学校(エコール・ノルマル)

サルトルが一九歳の時、三つ年上の不思議な美女カミーユと大恋愛劇を演ずる。大恋愛というより、大変ご執心といったほうがいい。世のなかには娼婦(しょうふ)だか文学少女だか文学的大天才だかはっきりしない得体(えたい)の知れぬ女性が存在するものである。おそらくカミーユもその種族の一員であったのにちがいない。「ふさふさとした金髪、青い服、きめの細かい肌、魅力的体つき、非のうちどころのないくるぶしと手首」をもった美女。高級娼婦のような友人づきあいを誰かれとなく行ない、長い髪をほどいて素裸でストーブの前に立ち、ニーチェを読んでいた。もちろん、カミーユもいつまでも娼婦をつづけるつもりはなかったが、つつましやかな家庭婦人になる気もなかった。そこに、一九歳のわがサルトルが登場する。サルトルは、「彼だけが彼女を田舎(いなか)の月並の生活から救い出すことができると説き、カミーユが自分の知性に賭(か)け、教養を高め。書くことをすすめ、自分が道を開く手助けをしてやる」といった(ボーヴォワール『女ざかり』)。若きナイトの大熱演である。サルトルは、しばしばカミーユのもとにおとずれ、眼をさますと彼女はニイチェの『ツァラトストラ』の一節を大声で読んでいた。しかしカミーユは「自分がジョルジュ=サンドのようになる日を待ちながら、今までの生き方をちっとも変えようともしなかった。」(ボーヴォワール『女ざかり』)

 

世にはいかがわしい情熱というものがある。通りいっぺんのいかなる情念よりもきらびやかで、魅力にみち、生命感にみち、活力にみちている……。これが美女の体内で輝くものである時、それに若干の本能がともなうなら、いっそう、何が知性で何が向上心だかわからなくなる。ニイチェは、生きて行くもの、動くもののなかに情念を発見していた。それが破壊であれ、混乱であれ、それは問わない。この情念が大女優を生むのか、大女流作家を生むものやら、インチキな生の哲学を説くあやしげな娼婦にすぎぬものやらわかったものではない。げてもののなかで輝く知性、インチキ情念のつくる運動は本物の真珠よりも、ヴェアトリーチェよりも、崇高にみえる。わがサルトルは多分にげて物趣味、救い主気どりの女性解放論者。全然げて物的情念をもたないボーヴォワールが、そばですっかりコンプレックスをもちはらはら、いらいらしたのも道理である。しかし、カミーユは演出家のデュランと結婚し、交友はつづいたとしても一応の結末に達したのである。

 

ボーヴォワールとの恋愛

ほんとうにすぐれた女性、自分と同等の知性をもち、自分にふさわしい情念をもった女性を、サルトルはボーヴォワールに求めていた。彼らは同じ高等師範学校で哲学を学ぶ同窓生として親しく交際していた。サルトルは特に、ニザン、エルボーと親しく、それにボーヴォワールを加えたグループでは、誰もがボーヴォワールに親切だった。もちろん、ニザンもエルボーもすでに結婚していたので、結局サルトルがもっぱらボーヴォワールのお相手をする順序になっていった。しかし、ボーヴォワールに「カストール」というあだ名をつけたのはエルボーであった。ボーヴォワール Beauvoirを英語風にもじるとBeaverとなり、英語では「海狸(ビーバー)」の意味となる。この「海狸」を逆にフランス語に求めると「カストール」になるわけなのである。サルトルは生涯ボーヴォワールのことを「カストール」と呼び、彼の処女作『嘔吐』には「カストールにささぐ」という献辞がついているほどである。先日訪日したサルトルは、「美しい紅葉した木を緑のなかで発見したり、往来でめずらしいものをみつけると、いつも『海狸(カストール)、見てごらんなさい』『海狸(カストール)、あの山のきれいさ……』と事ごとにボーヴォワールの名を呼んだ」(朝吹登水子『ボーヴォワールとサガン』)、全日程行動をともにした朝吹登水子は書いている。

 

ボーヴォワールは、彼女の大著『第二の性』のなかで彼女がもって自らの根拠とする恋愛のあり方を論じているが、それらのすべては彼女とサルトルとの間でつくりあげられた愛情生活を理論化したものなのである。彼女の恋愛論のもって理想とすべき姿は、『第二の性』のなかでスタンダールのロマネスクを論じた箇所に集約された形で説かれている。ボーヴォワールがスタンダールを高く評価する理由は、スタンダールが、情熱においては男女は平等であるという見解を実践した点にある。ボーヴォワールはいっている。「女をもっとも誠実に考えた時代は、男が女を同等者と考えた時代である。女のうちに一個人の人間的存在を認めることで男の生活経験は貧しくはならない。それが主体と主体の相互関係に行なわれるならば、豊富さも強さもけっして失わないはずだ」。とさらに、ボーヴォワールは、真の情熱は個人の自由のまっただなかでとらえられなければならないと主張する。「真正の愛または高貴な情熱は、恋する者の自由な投企のなかではじめて現われるものである。すなわち恋人たちが彼のらの自由を相互に自覚しつつ与えあい取りあう喜びから、生理的な愛はその力と品位をひきだすのだ。」ボーヴォワールは、その情熱が真に自由なものである時にのみ、自分を高め、また相手の情熱を自由なものへと高めることができると主張する。情熱は自由と一致してはじめて本来的なものとなることができる。「わが自由を純粋にして保存していた女性たちは、いったん自分にふさわしい対象にであうと、情熱によってヒロイズムにまで高揚する。」

 

さらにもう一つつけ加えておきたいことは、ボーヴォワールの自由への投企は、きわめて情熱的行為であったので、自由とは単に理性的人格の満足につきず、常に幸福との一致を理想としていたということである。ボーヴォワールは『女ざかり』のなかで、「私は一生のうちで自分ほど幸福にたいする本能に恵まれた人間に会ったことはないし、また私ほど頑強にしゃにむに幸福に向かって突進して行った人間も知らない。もし人が栄光を私に差し出してくれたとしても、それが幸福にたいする喪(も)であったら、私は栄光を拒否しただろう」とのべている。このボーヴォワールの自負は、地上に生きる者が、生あるかぎり、地上での喜びのすべてを味わいつくし、来世の幸福などみむきもせず、地上を花とかざって死んでいく、こういった現世と人間を讃美するこころの現われなのだ。反面、名誉より幸福を、というボーヴォワールの考えは、彼女特有の女性らしい執着心と素直な女のこころを感じさせる。

 

ボーヴォワールは文学的名声を得た時、その名誉ゆえの喜びより、このことがきっかけとなり、普通ならとうてい得られないような交友を得た、その喜びのほうが大きかったと語る。他方、サルトルはボーヴォワールと若干ニュアンスがちがって、一応の文学的野心にもえ、自分の作品を心ひそかに未来の文学史のなかに位置づけていたのである。すぐれた作品であればあるほど生前はあまり評価されず、死後になってはじめて名声を得るものだと頭からきめてかかっていたサルトルは、思いがけず早くやってきた名声の前で、かえってとまどい不安になるのである。名声を得たということは、作品が俗悪なものだという証拠ではないか、と。「いっぺんに有名人でしかも破廉恥漢(はれんちかん)にされてしまったサルトルは、かねての野心を越え、かつそれと矛盾する名声を得たことに不安を抱かずにはいられなかった」とボーヴォワールはのべている。思いがけずやってきた幸運のかげで「死の床で栄光に包まれる」という「呪われた詩人」のイメージを失ったサルトルは、この喪失を転じて、「一時的なもののなかに絶対性を置こう」と決心するのである。「自己の時代に閉じ込められた彼は、永遠を排してこの時代を選び、時代とともにまったく滅び去ることを受け入れ」たのである。このボーヴォワールとサルトルに共通する態度は、単に世間的な栄光や名誉に安んぜず、それを常に人間的充実でうらづけ、この人間的充実のゆえにこの地上と現在を肯定するという現世主義者としての姿勢である。

 

自由な男女の二つの主体が、その時々の情熱の投企に愛情の発現を賭けて行く、というサルトル=ボーヴォワールの恋愛論は、反面、情念の永続的な共同体としての結婚という形態を拒否するという結果となる。彼らの愛情論は、いわば永遠の恋人であることを求めるものなのである。二つの自由な主体の情熱的投企のつづくかぎりしか、愛情関係は存在しえない。恋愛と結婚の両立の不可能を結論とする彼らの愛情論は、虚偽にみちたブルジョア的結婚制度への批判を動機としているものであるとはいえ、やはり、その点に最大、唯一の欠点があるといえる。両性が自由、平等であるままで、一つの共同体を形成することは不可能であろうか。マルクスは、「個人的定在における人間が同時に共同的存在となる」関係を男女関係に認めていた。結婚という共同体がそのまま各個人の独自性と自由をみたす。

 

サルトル・ボーヴォワールと結婚論

では、なぜ、サルトルとボーヴォワールは結婚という形態を拒否するのか。それは彼らの自由論から由来している。彼らの自由は、何らかの事物・自然を超越して行く人間投企のなかにしか認められないものなのである。事物や自然に依存して生きる態度を内在的態度とよんでこれを激しくしりぞけるのである。自由とはこの内在を超越し、内在を支配する反自然的行為においてのみ成立する、と彼は考えている。したがって、愛情もまた同様に内在をこえる情熱的投企である以外のものでありえないということになるのである。愛情はそれが真に自由と一致するものであるなら、内在的な共同体をしりぞけ、超越する二つの自由の情熱的投企の合致点において以外成り立たない。だから、二人の男女は、それぞれ一個人として、自由人として単独に生活し、情熱的投企において共同性に到達するという次第となる。サルトル=ボーヴォワールにあって、結婚否定論の根拠となるべき理由は、大別して二つあるように思われる。(i)一方の自由は相手の支配超越となり、一方が自由なら他方は物となる。(サルトルとボーヴォワールは、相互に相手を尊敬し合っているし、実践的には相互承認が成立しているので、この理由はあまり彼ら二人については適当でない) (ii)超越的投企を強調するあまり、内在的共同生活を軽視する結果となった。(この理由が、彼ら二人の場合にあてはまる)

 

確かにボーヴォワールの愛情論には、べったりとした、マイホーム的奥様族の内在主義がもつ反社会的姿勢への激しい攻撃がある。また、女性天職論とでもいうべき、女性の血縁的部落への埋没をしりぞける点で大いに賛同すべき点が多い。しかし、情熱の自由は、すべて反自然的投企にのみ認められるものであるとして、内在的自然の充足のいっさいを否定するのはどうだろう。恋愛の時期には、求めあう二つの主体の激しい投企がすべてである。しかし、結婚にあっては、求めあう両性の一致点は、激しく燃えて追求する努力の彼方に存在するのではなく、日常の生活の、毎日のできごととして実在するようになる。その時、両性の合致点はすでに求めて追求する対象ではなく、そのなかに住んで安らう出発点となっている。結婚における情念とは、人間的自然の深い充足の共同性にほかならないものであると思う。この人間的自然の充足という内在性が、結婚した人間にとって、さまざまの人間的投企・行動のエネルギーの源泉となっているのである。この充足感情は、表面は静かであっても実に深く激しい情熱にみちたものなのである。この人間的自然の充足という結婚の情熱を、すべて内在主義としてしりぞけるボーヴォワールの考えには一概に賛同しがたいものを感ずる。

 

この内在的自然性としての個人が結婚という形での共同生活をおくる場合、これがどういう形の共同生活であるのかということが、当然問題とならざるをえないであろう。これが、没個人的・血縁的家族主義への埋没という形で果たされる時、われわれはボーヴォワールとともにこれを激しく拒否しなければならない。だからといって、内在的共同性そのものをまでしりぞける必要はない。それぞれの個体としての独自性と主体性をもったままで、二つの個体の個性的な充足の連帯関係をつくりあげることが可能であるはずではないか。また男女の連帯はそれ自身で一つの充足体を形成するという側面も決して忘れるべきではないと思う。

 

必然の恋と偶然の恋

ボーヴォワールは、その自伝『女ざかり』のなかで次のようにいっている。「サルトルは一夫一妻制度向きではなく、二三歳の彼は、さまざまな女の魅力をあきらめるつもりは全然なかった」と。さらにサルトルは「十八番(おはこ)の言葉」で、「僕たちの恋は必然的なものだ。だが、偶然の恋も知る必要があるよ」といっては、ボーヴォワールに説得するのだった。まったくサルトルとは調子のいい男である。

 

ボーヴォワールは、このサルトルの説明に対して、次のような解釈を加えている。「私たちは同じ種族の人間であって、私たちは生命のつづくかぎり仲良しでいるだろう。それは、異質の人間たちとの出会いの束(つか)の間の豊かさを凌駕(りょうが)するものではないが……」と。世の結婚は大別して二種類ある。その一つは、似た者どうしの結婚、同質の者どうしの結婚であり、他は異質の者どうしが、それぞれお互いの性格・個性が反対であるがゆえにひき合うという関係のうえに成立した結婚である。世のなかの結婚は一夫一婦制のうえでは、どちらかを選ぶ以外にはない。だから、どちらを選んでも、他のタイプを欠如して感ずることはさけがたい。その意味で、完全な愛というものは天上にも地上にもどこにもありえないものなのである。だから、両性面の結合の普遍妥当的な原理といったものは存在しない。あるものは個性と個性との、同質どうし、同質・異質いずれかの結合形態のみである。個性と個性との間における相対的に長期間の共存、これがいつわらざる現実である。これが結果として、「一つの生涯に一つの恋」という形をとる場合もあるであろうし、一夫一婦制を前提とすれば離婚と再婚という形態をとる場合もあるであろうし、サルトル流に、一夫一婦制を積極的に肯定せず、二つの恋を同時に併行させて行く場合も可能であろう。ちなみに、エンゲルスは「愛にもとづく婚姻だけが道徳的であるならば、おなじく愛の存続する婚姻だけが道徳的である。しかし、個々人の性愛発現の存続は、個々人によってひじょうに相違する。とくに男性の場合においてそうである。そして、愛情がげんに終熄(しゅうそく)したり、新しい情熱的な恋愛によって駆逐(くちく)された場合には、離婚は、当事者双方にとっても、社会にとっても善行である」とのべて、離婚・再婚の可能性について論求している。

 

さて、ボーヴォワールはサルトルとの恋愛を同質的結合と断定している。これは大局的にみてその通りだと思う。サルトルは、同質的結合のほうを必然の恋と断じているが、これは一概に断定しがたい――ただ、ボーヴォワールとの結合が必然的ということなのであろう。ボーヴォワールのほうは、よりリアルに、同質的結合のほうが、つねに異質的結合を豊かさにおいて凌駕するとは限らない、と考えている。ボーヴォワールの処女作『招かれた女』は、この主題を発展させたものである。知的情熱において同質的な一組の男女の前に、感覚的情熱において鋭い一女性が現われる。男は異質な女性グザビエールにもひかれるようになる。女主人公は結局、この愛の相剋(そうこく)の結末を、自分のライバルの殺害、つまり他者の絶対的排除によって以外解決しえなかったのである。この『招かれた女』の内容となった事柄は、実在するできごとをモデルとしたものなのである。サルトルとボーヴォワールとオルガという少女との関係がそれである。もちろん、実在する関係では、オルガは田舎(いなか)の両親のもとに帰り、破局に達することはなかったが、いずれにせよ、同質の結合を維持しながら、同時に異質の女性の魅力もあきらめない、というこのサルトルの恋愛劇も単純に平和ムードで両立できるものではありえなかったことだけは確かである。

 

 

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人と思想4『釈迦』のまえがき+αを読んでみる

 

釈迦について

 

釈迦という名の由来

この本で釈迦(しゃか)と呼ぶ人は、仏教の開祖のことである。しかし、釈迦とはかれが生まれた種族の名であって、かれの本名は「ゴータマ=シッダッタ」(「サルヴァールタ=シッダ」と記す本もある)であった。釈迦と呼ばれるようになったのには、つぎのような事情がある。かれが出家して悟りを開いたので、人びとが尊称して、かれをシャーキャムニと呼んだのである。シャーキャムニとは、シャーキャ族出の聖者という意味である。そしてインドの仏典を、昔中国人が訳したときに、シャーキャムニを釈迦牟尼(しゃかむに)と音写したのである。それがさらに省略されて、釈迦と呼ばれるようになったのである。また釈尊(しゃくそん)という呼びかたもあるが、これは釈迦の釈と、牟尼(むに)の意訳である尊者の尊をあわせたものである。

 

生存年代の諸説

つぎに釈迦の生存年代について、ひとことのべておきたい。なにぶんにも古い時代の人である点と、インドでは信頼できる歴史の本がほとんどなかったため、釈迦の生存年代に関しては、いろいろな説が展開された。セイロンを中心とした南方仏教徒は、一般に釈迦の生存年代を、西暦紀元前六二四年~五四四年としている。そして去る一九六六年に、南方諸国では釈迦入滅(にゅうめつ)(釈迦死亡)二五〇〇年の記念式典を行なったのである。しかし学問的な研究によれば、釈迦の実際の生存年代は、ややくだるようである。いままでの学者の研究成果は、二つの大きなグループに分けることができる。一つは、入滅を紀元前(西暦紀元、以下同じ)四八〇年代と推定するものであり、もう一つは、生誕を紀元前四六〇年代、入滅を紀元前三八〇年代と推定するものである。この両者間にすでに一〇〇年の差異がある。紀元前五四四年入滅とする南方仏教徒の説と、紀元前三八〇年代入滅の最もくだった年代をとる説(正しくは、前三八三年入滅)との間には、じつに一六一年の開きがある。このような差異がでてくる原因は、いい伝えの違い、依っている資料の違い、資料の解釈の相違などによるものである。古代史における年代決定(とくに紀元前における年代決定)がむずかしいことは、世界の歴史において常のことである。そして、インドの歴史においては、とくにそうなのである。

 

個別よりも普遍の重視

古代において、インド人は、哲学・宗教に関する文献を多く残した。ところが、信頼できる歴史書は、ほとんど残さなかった。そのことは、かれらが個別的な歴史記述に興味をしめさなかったことを意味するであろう。つまりかれらは、普遍的なものに興味を感じたのであり、個別的なものにはあまり関心をもたなかったのである。いいかえると、かれらは、真理や、価値や、あるべき実践などの探究に関して、その成果を個人の名前に結びつけるようなことは、あまりしなかったのである。それが、真理であるならば、それをだれがいったってかまわないのであり、真に価値あることであるならば、それはだれの言葉であろうともかまわない。それが真にあるべき実践ならば、だれの実践であろうとかまわないわけである。要は何が真理であり、何が真の価値であり、何が真に実践されるべきことであるかということである。したがって、だれの言であり、だれの実践であるかということは、問題ではないのである。

 

釈迦の伝記や思想を書くむずかしさ

インドの古代においては、このように普遍的な真理・価値・実践の探究が中心問題であり、個人崇拝の考えかたは弱かった。そのため、個人の名前に結びつけた伝記や思想を再現しようとすると、ひじょうな困難をともなうのである。じじつ、釈迦に関する伝記が書かれ、像が彫られ、絵が描かれることなどによって、個人崇拝の傾向が強められてくるのは、釈迦の没後数百年をすぎたころからなのである。このようなわけで、釈迦の伝記を書き、思想を再現するには、いまだに困難な問題が多々あるのである。この本の記述は、ある資料によったものであるが、その論拠はそのつど、のべることにする。

 

目次

Ⅰ 釈迦の生涯

はじめに
誕生
少・青年時代
当時のインドの社会
出家
苦行時代
覚者となる
伝道布教の時代
伝導の旅から旅へ
旅の途中での死

Ⅱ 釈迦の思想

はじめに
仏教の根本思想

根本思想
倫理思想

原始仏教の探究

第一の仏教

根本思想
個人的領域の思想
社会的領域の思想
第一の仏教の一般的性格

第二の仏教

根本思想
個人的領域の思想
社会的領域の思想
第二の仏教の一般的性格

社会的基盤との関係

釈迦年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ 釈迦の生涯

 

はじめに

 

生涯を書くにあたって

釈迦の伝記としては三つの基本的な文献がある。それらは『マハーヴァストゥ』『ラリタヴィスタラ』『ブッダチャリタ』である。本書ではこれらのうちでも、特に有名な『ブッダチャリタ』を中心にして、釈迦の生涯を紹介したい。

 

しかし、この三つの文献のいずれも、多分に神秘化・美化・超人化されており、書かれている内容のすべてが、歴史上の釈迦の実話とは考えられない。

 

そこで、比較的無難と思われる線で、内容の取捨選択を行ない、釈迦の生涯を紹介したい。

 

『ブッダチャリタ』について

この本は二世紀の仏教詩人アシヴァゴーシャによって書かれたものである。原文はサンスクリット語で書かれ、もともとは、二八章あったらしい。

 

だが現存するサンスクリット本は一七章までである。さらにそのうちでも、一四章までがアシヴァゴーシャの自作であって、一四章末から一七章までは一八三〇年にアムリターナンダか補書したものと考えられている。1)

 

ところが、幸いなことに、二八章すべてが、漢訳(北涼天竺三蔵曇無讖(ほくりょうてんじくさんぞうどんむせん)訳1)『仏所行讃(ぶっしょぎょうさん)』として残っているのである。

 

 

漢訳『仏所行讃』を現存のサンスクリット本と比較すると、一四章前半までがサンスクリット本と一致している。ところがその後、西域地方から『ブッダチャリタ』の断片と思われるものが発見された。そして、研究の結果、これが漢訳の第一六章の一部と合致することが明らかにされたのである。

 

この結果、アシヴァゴーシャ2)の『ブッダチャリタ』はもともと二八章あり、漢訳はその翻訳であることが確信されるにいたったのである。

 

そこで本書では、完結した形で残っている『仏所行讃』3)を中心にして、その内容を紹介したいと思う。

 

 

誕生

 

ルムビニー園での誕生

釈迦は、シャーキャ族の王シュッドダナを父とし、マーヤーを母として、この世に生を享(う)けた。母マーヤーは、子の誕生が近づいてきたとき、シャーキャ族の首都カピラヴァスツの、そうぞうしい城をかけ、泉が流れ、花と実が茂る、静かなルムビニー園に行くことを望んだ。王は妃(きさき)の願いを入れ、多くの男女のお供をつけて、ルムビニー園に行かせた。そしてこの清澄な園で、釈迦は、太子として生まれたのである。ルムビニー園は、現在のネパール国の南部、インドとの国境付近にある村のことである。生まれたのは、清和の気あふれる四月八日だという。父王が生まれた太子を見ると、常人と異なった奇特(きどく)の相をしていた。王は驚き緊張し、喜びと恐れの思いとが、交互に胸にせまってくるのを禁じえなかった。

 

バラモンの相(そう)占い

そのとき、園のなかに、相を見ることにすぐれた名高いバラモン(祭祀をつかさどる最高の階級のもの)がいた。かれはやってきて、太子の相を見ると、とびあがらんばかりによろこんでいった。「このようにすぐれた相の人は、かならず悟を開くだろう。そして、もしこの世間にとどまるならば、武力を用いずに世界を統一することのできる、転輪王(てんりんおう)となるであろう。またもし家を出て山林に住まうようなことになれば、専心に解脱(げだつ)を求めて、真の智恵を成就して、普(あまね)く世間を照らすようになるだろう、」と。転輪王とは、武力を用いずに、世界を征服する徳のすぐれた王という意味である。王はバラモンのいうことを聞いて歓喜し、バラモンにたくさんの供養(供え養うこと。後世、死んだ人に対しても追善供養の意味で用いられるようになった。)をした。そして王は、すぐれた子を生んだことをよろこび心にこう決めた。「この子は自分の王位をついでくれるだろう。わたしはすでに年をとったから、この子が大きくなったら、わたしは家を出て、山林で清い行(ぎょう)を修めよう。そして、この子に世を捨てて、山林に行かせるようなことは、させないようにしよう、」と。

 

アシタ仙の相占い

そのころ近くの園林に、アシタと名づける仙人がいた。かれは、長いあいだの苦行生活によって鍛えあげた仙人で、相を見ることにもすぐれていた。仙人が王宮にやって来たので、王は太子を仙人に見せた。仙人は、容貌きわめて端厳(たんげん)で、天人とほとんど異ならない太子を見ると、涙を流して、長いためいきをついた。王は仙人が泣いているのを見ると、にわかに心がおののき、思わず座より立ちあがり、仙人ににじりよっていった。「なぜ泣くのだ。この子は寿命が短いとでもいうのか、」と。仙人はいった。「王よ、そうではない。恐れることはない。この子はのちに、五欲(目・耳・鼻・舌・身の欲)に執着することを嫌い、聖王の位を捨てて、出家して、覚者(かくしゃ)となるであろう。そして真実を語り、もろもろの群生(ぐんじょう)のために迷いを取り除いてくれるだろう。わたしはすでに年をとりすぎている。この子が悟を開いて覚者となり、正しい法を説くときまで、わたしは生きていられない。わたしが泣いたのは、そのことを思ったからである、」と。王や群臣たちは、この話を聞いて安心した。ただ王は、太子がのちに出家するという占いには、積極的に喜べなかった。しかし奇特(きどく)の子を心から敬重し、天下に大赦(たいしゃ)を施し、牢獄をことごとく開いて、いっさいの罪人を許したのである。また、そのころ信仰されていたいっさいの天神を祭り、もろもろの群臣や国中の貧乏人に、施しを与えたのである。

 

母マーヤーの死

幼ない太子にとって、また王にとって悲しい出来ごとが起こった。太子の母マーヤーが太子の誕生七日目に、産後の肥立ちが悪くて死んでしまったのである。王や親戚はたいそう悲しみ、太子の養育をだれにまかせようかと、いろいろ思い悩んだ。あれこれと考えたすえ、王は太子の養育を、母マーヤーの妹であるマハーブラジャーパティに、まかせることにした。かの女は、実母のごとく太子を養育し、りっぱに育てあげ、のちに、釈迦の父であるシュッドダナ王の妃となり、一子をもうけた。

 

少・青年時代

 

勉学

太子はいっさいの徳を備えているという意味で、サルヴァールタ=シッダと名づけられた。マーヤー夫人の妹であるマハーブラジャーパティは、この幼くして母を失った太子を、自分の子のよう愛育した。太子もまた、かの女を実の母の如く敬愛した。太子はこのような環境の中で、日一日と生長し、また生まれながらのすぐれた顔貌(がんぼう)も、ますます徳相を増した。身には価のつけようのない栴檀(せんだん)の木からとった香や、その他の香や、身を護る神仙(しんせん)の薬と瓔珞(ようらく)(玉をつなげた首かざりのこと)とをつけていた。隣国の王たちは太子の誕生を聞いて、めずらしい牛車や羊車や馬車や、そのほか宝物や装飾品を贈って、太子の心を喜ばそうとした。このようにして、絶えず、すばらしいものや、めずらしい玩具(がぐ)で、太子はとりまかれていたのである。しかし太子は、そういうすばらしいものだけではなく、ちょっとした玩具にも心を止めて、豪華な雰囲気に、自ら染まろうとする傾向は、あまりなかったようである。こういうところにもかれの物質的・外面的なものよりも、精神的・内面的なものへの傾向が、強かったようである。太子は七歳になると勉強を始めたようである。その内容は字の習得と算数から始められた。やがて十二歳になるころまでに、後の国王として、必要ないっさいの学問や武芸などを学び、身に修めたようである。なかなか聡明な子であって、ひとたび聞けば師匠を越えるほどであった。

 

結婚

シュッドダナ王は太子の聡明、深慮な態度を見て、太子にふさわしい娘をかれの妃としてさがすことになった。父王は広く有名な豪族や、しつけのりっぱな家々を訪れ、ついに容姿端正なヤショーダラーという娘を見つけた。父王はこの娘を太子の妃として迎えようと思い、娘を宮殿に招き、太子の心に止めさせたのである。やがて、志高遠にして、徳の盛んなる太子と、美しき容貌と淑妙なる姿のヤショーダラーとは結婚し、結婚生活をいとなんだのである。インドでは昔も、また今日でも、一般に、男女の結婚年齢は若いのである。そして結婚生活はおおらかで、のびのびとしている。太子もその例にもれず、十七歳のときに結婚したといわれる。そして王は、かれらのために、清浄なる宮を建ててくれた。それは広くてきれいで、すばらしい装飾がなされ、高く虚空にそそり立ち、暖かさ、涼しさが春夏秋冬に適するようにくふうされていた。また伎女(ぎじょ)たちは太子をとり囲み、妙(たえ)なる音楽をかなで、まるでそこは神々の住む天のようであった。このようにして、父王は、アシタ仙の予言もあったので、太子に厭世の想いを起こさせないようにしたのである。

 

やがで賢妃ヤショーダラーは、男の子を生んだ。その子はラーフラと名づけられた。シュッドダナ王は太子に子どもができたのを見て、心にこう思った。

 

「大師はすでに子を生んだ。これで、家系や相(あい)継続して絶えることはないであろう。太子はすでに子を生んで、その子を愛することは、自分と同じであり、出家を考えるようなことはないであろう。わたしは力(つと)めて善を修めよう。自分の心は大いに安らかであり、生天の楽しみに異ならないくらいである、」と。

 

当時の出家について

釈迦が生存した時代のインドでは、出家ということはそれほど特殊なことではなかった。このころのインドの社会は、家父長的家族制度が、一般的になりつつあったのである。したがって家長となる男の役目が重要なのであるが、このころ理想的な男の一生は、つぎのように考えられていた。

 

男の一生を四時期に分ける。学生期・家住期・林棲(りんせい)期・遊行(ゆぎょう)期の四時期である。学生期とは現在の生徒・学生と同じように、将来一人前のりっぱな人となるために、先生について勉強する時期である。家住期とはひととおりの勉強が終わってから結婚し、子どもを養い、家長としての務を行ない、かつ社会的な責任を果たす時期である。したがって太子は、家住期にそろそろ入りつつあったわけである。林棲(りんせい)期とは、子どもも一人前に成長し、年をとってから、今までの世俗的な生活や、世俗的な欲望からいっさい離れて、家を出て、森林のなかで静かに生活する時期である。遊行期とは、林棲期において、自分の死期がだんだんと近づいて来たことを感じたとき、諸国遊行の旅に上り、旅の途上で死ぬのを理想としたのである。これがインドにおける四住期である。

 

釈迦の父シュッドダナ王も、釈迦が一人前になってくれたら、適当な時期に、出家して、林棲期の生活を送ろうとしていたのである。その釈迦が結婚し、ラーフラを生んだので、子を愛し、世俗的なことに熱中してくれるものと思って自分は安心して引退できる、と思っていたのである。また当時のインドの社会では、林棲期における出家のほかに、もう一つの出家があった。これは必ずしも年齢に関係なく、哲学的思索に打ち込むことによって、人生ならびに宇宙の根本原理をきわめよう、とする人たちであった。かれらはシュラマナと呼ばれ、伝統的なバラモンと区別された。釈迦の父シュッドダナ王が釈迦について恐れていたのは、シュラマナとして出家することに対してであった。

 

太子の厭世

シュッドダナ王の国は、小国ではあったが、ヒマラヤの南側にあって米作を主産業とした豊かな国であった。そこで太子の日常の生活は、物質的には何一つ不自由のないものであった。それでいながら、かれはこの宮殿の生活に、満足できなかったのである。かれは人が一生のうちで、だれもが経験しなければならない、生きてゆくこと、老いてゆくこと、病にかかること、そしてやがて死んでゆくことに対して、あれやこれやと思い悩んでいたのである。この生・老・病・死に対して、悩み始めた経過を「四問遊観(しもんゆうかん)の説話が説明している。これはあくまで説話であるが、かれがどのようなことを問題にしていたかを知るには、やはり参考になるのである。そこでその概略を述べておこう。

 

老衰の人をみる

太子の宮殿は虚空にそそり立つみごとなものであった。だが宮殿のそとにもいろいろな林があった。そこには、泉が流れ、清涼な池があった。そして木々は生い茂り、気持のよい木陰を作っていた。またもろもろの奇鳥が飛びかい、戯れ、水陸の花は、色あざやかに咲き乱れ、妙香(みょうこう)を放っていた。伎女(ぎじょ)たちは奏楽し、絃歌しながら、太子にそこへ行くことをすすめたのである。太子はその話を聞くと、自分もそこへ行ってみたくなった。父王は、太子がかの園に行きたいというのを聞き、さっそく、群臣たちに、宮殿からその園までの道をきれいにさせ、また老人や病人や、かたわの者を、太子の目に触れさせないように、ととのえさせた。やがて、出発の日がやってきた。道すじには花がまかれ、かざりたてた馬車に乗って、太子らの一行はでかけたのである。途中までくると、衰えきった一人の老人に、ばったり出会ってしまった。太子はそのような老人を、あまり見たことがなかったので、御者に問うた。「この人は、いったいなんなのだ。頭は白く、背はかがみ、目はくらみ、身は小さくふるえており、杖にたよって、弱々しく歩いておる。にわかに変じて、このようになったのであろうか、それとも、生まれながらにこうだったのだろうか、」と。御者は答えていった。「この人は、色が変わり、呼吸はかすかとなり、憂いが多く、歓楽は少なく、喜びはとっくに忘れてしまい、もろもろの感覚器官は弱っている。こういう状態は、老衰の相と、名づけられるのです。この老人ももとは、嬰児であり、母の乳によって長養せられ、子どものときは、遊びたわむれ、壮年のときには、五欲を恣(ほしいまま)にし、年をとってから形が朽ちはててきて、今は老いのためにこわれそうになっているのです、」と。

 

太子「ただかれだけが老衰するのであろうか。それとも、われわれもまたこうなるのだろうか。」

 

御者「太子もまたこうなるでありましょう。時が移れば形は自(おのずか)ら変じて、必ずこのようになるのです。少壮なるものが、老いない例はないのです。」

 

太子は老衰の人を見、かつ御者の話を聞いて、すっかり意気消沈してしまった。一瞬一瞬自分も老衰に向かっていることを思うと、もはや園林に、遊びに行く気にもなれなかった。そのまま車をめぐらして、宮殿に帰ったのである。

 

病人・死人を見る

太子が沈んでいると聞いて、王は再び、この園林に、太子を出遊させることにした。その途中、こんどはまた、病人に出会ってしまった。病人は、身体はやせて衰えているが、腹だけは水がたまって、ふくれあがり、呼吸はせきをしており、手足は引きつれたように枯燥(こそう)して、悲しく泣きながら、呻めいていた。太子は御者に問うた。「この人は何なのだ、」と。御者は答えた。「この人は病人です。身体の構成要素が、すっかり弱ってしまって、回復できないのです。ただ横になって、他人の助けを待っているのです、」と。

 

 

太子「かわいそうなことだ。だけど、この人だけが、病んでいるのか。それとも他の人たちも、またこうなるのだろうか。」

 

御者「この世間の人は、だれでも、このようになるでしょう。身体があれば、必ず患(うれい)があるのです。」

 

 

太子は病人を見、かつ御者の話を聞いて、大恐怖を生じ、心身ことごとくが、ふるえてきた。太子は、病苦の問題が解決しなければ、物見遊山(ものみゆさん)どころではない、と念じ、また車をめぐらして、還(かえ)ってしまったのである。そして日夜憂愁(ゆうしゅう)の思いで、老人のことや、病人のことを、自分の身に引き替えて考えていた。

 

王は、太子が病人を見手、還ってきたことを知ると、非常に不安がり、道路係の者を、きびしく責めた。そして太子が厭世的にならないようにするため、太子を取りまく伎女たちの数も増し、また音楽も、前よりも盛んにした。王自身、さらに勝妙の園を探しに出かけ、そこを見つけると、えりぬきの美艶最上の采女(うねめ)(宮廷内で仕えている女の人)たちを、そこに配置して、太子を待たせた。また御者にも、こんどは途中で還ってきてはいけないと強く命じて、太子たちの一行を送り出した。一行が途中まで来ると、四人で、輿をかついでいる一行に出会った。その輿の後には、人々が従い、あるものは憂(うれ)いに沈み、あるものは髪を乱し、泣きながら、従っていた。太子と御者がまず気がついた。太子は御者に問うた。「これは、なんの輿だろう、」と。御者は答えた。「死人です。もろもろの感覚器官の働きがなくなり、命が絶え、心は散じ、記憶したり、考えたりする力が失われてしまっているのです。働きがなくなり、形だけが枯れ木のように硬直しているのです。親戚や、朋友たちの恩愛は、もとより綿々たるものがあったであろうが、今は、喜んで見ることもできず、空しく遠い墓場へ棄てに行くところです、」と。太子は死ということばを聞いて、悲痛の思いにみたされながら、さらに問うた。「ただこの人だけが死ぬのだろうか。それとも、天下の人がまたみな、そうなのだろうか、」と。御者は答えた。「だれでもみなそうなのです。始めがあれば、必ず終わりがあるのです。老いていくものも幼いものも、身体があれば、滅びないものはないのです、」と。太子はおおいに驚き、身を車軾(しゃしょく)の前にたれ、息もほとんど絶えそうであった。太子は御者に命じた。「車をめぐらして還れ。遊戯の時ではない。いつ死が訪れるかもわからない。どうして心をほしいままにして、遊んでいられようか、」と。御者は、王からかならず園林に行くように、厳命されていたので、王を恐れてあえてめぐらそうとしなかった。そのまま、馬車を超スピードで走らせて、かの園林に到着してしまった。

 

園林での太子

太子の一行が到着した園林は、木々が緑に美しく、変わった鳥や獣どもが飛走し、喜んでいた。園林全体の明かるい美しさは、天のナンダヴナ園(ヒマラヤの北にあるインドラ神の森)のようであった。太子が園林にはいってくると、多くの女たちが太子を出迎えた。かの女たちは、太子に、まれにしか会えないことを思い、競い合って、太子に媚びた。おのおの、たくみにポーズを尽くして太子に仕えた。ある者は太子の手足をとり、あるものはあまねくその身をなでた。またある者は向かいあって言笑し、ある者はうれいにいたむようなポーズをして太子をよろこばせようとした。しかし、太子はいっこうに陽気にならなかった。女たちは太子が少しも心を動かさないのを見て、互いに顔を見合わせ、だんだんと寂しくなり、シュンとして言葉もなくなってしまった。このようすを見た太子の友人ウダーイバラモンは、女たちにこう告げて、はげました。「あなたたちは、端正聡明であり、技術も多く知っている。色力の方も常人を越え、男女の機微にも、よく通じている。容色すばらしいあなたがたには、天の神々でさえ、見ればその妃をすてて、やって来るだろう。仙人でも心が傾くであろう。どうして人王の子である太子の心を、動かせないことがあるであろうか。今この太子は、心を堅固にして、清浄の徳を備えているが、女人の力には勝てないのだ。昔、美女スンダリーは大仙人の心を動かし、愛欲を習わせたではないか、長い間苦行したガウタマも、天后のために、愛欲に溺れたし、ヴィシュヴァーミトラ仙も、一万年もの間、修道したのに、深く天后に傾いたため、一日のうちに破滅したではないか。このように、美女の力というものは、清い修行の力にも勝るものなのだ。ましてやあなたがたのように、技術にすぐれているものが、どうして太子を感じせしめないことが、ありえようか。さあ、もっと勤めて、わが国のあとつぎに、出家の心など起こさせないようにしてくれ、」と。

 

そのとき、采女たちはウダーイの説を聞いて、たいそうはげまされ、喜んだ。かの女たちは良馬にむちを加えたように、喜び勇んで、太子の前にいたり、おのおの、とっときの秘術を披露した。かの女たちは、歌ったり、踊ったり、あるいは言笑し、眉を揚げて白歯をあらわしたり、美しき目で斜に見たり、薄い衣に身体の線を現わしたり、なまめゆかしくゆったりと歩いたりしているうちに、太子にようやくなれて来て、かの女たちの方で、先に情欲が高まってきた。

 

一方太子の方は、心が堅固であるので、傲然(ごうぜん)として容(かたち)を改めなかった。それはあたかも、巨象が、群象に囲まれているようであった。それでも、かの女たちは、さらに拍車をかけた。まさに太子は、シャクラデーヴェーンドラ(天の神々の中でも中心的な神)が、天女たちに囲まれているようであった。かの女たちはだんだんとなれてきたので、太子のために、太子の衣服を整えてあげたり、手足を洗ってあげたり、あるいは香を身に塗ってあげたり、あるいは花でもって飾ってあげたり、瓔珞(ようらく)を着けてあげたり、身を抱いたりした。あるいはまた、かの女たちは、太子に寝やすいように枕を整えたり、身を傾けて密話したり、あるいは世の中のおもしろい話や、情事に関するような話までもした。最後には、かの女たちはみんなして、男女のもろもろの欲形まで作って、太子の心を動かそうとした。普通の人ならば相好(そうごう)をくずし、よだれをたらし、溶けてしまいそうな雰囲気であった。

 

だが、太子の目には、馬鹿が徒手体操をしているほどにしか、映らなかった。

 

生活の転換を願う

太子は、なに一つ不自由のない生活にあっても、また歓楽のかぎりをつくしても、満足することができなかったのである。このため、かれは現にすごしている生活とは縁を切って、別の生活をしたいと、思うようになってきた。この思いは、時とともにつのり、ついに、かれをして王国も、妃も、子どもも、その他いっさいをも捨てて、出家することに踏み切らせてゆくのである。

 

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