「人と思想」シリーズ

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人と思想4『釈迦』のまえがき+αを読んでみる

 

釈迦について

 

釈迦という名の由来

この本で釈迦(しゃか)と呼ぶ人は、仏教の開祖のことである。しかし、釈迦とはかれが生まれた種族の名であって、かれの本名は「ゴータマ=シッダッタ」(「サルヴァールタ=シッダ」と記す本もある)であった。釈迦と呼ばれるようになったのには、つぎのような事情がある。かれが出家して悟りを開いたので、人びとが尊称して、かれをシャーキャムニと呼んだのである。シャーキャムニとは、シャーキャ族出の聖者という意味である。そしてインドの仏典を、昔中国人が訳したときに、シャーキャムニを釈迦牟尼(しゃかむに)と音写したのである。それがさらに省略されて、釈迦と呼ばれるようになったのである。また釈尊(しゃくそん)という呼びかたもあるが、これは釈迦の釈と、牟尼(むに)の意訳である尊者の尊をあわせたものである。

 

生存年代の諸説

つぎに釈迦の生存年代について、ひとことのべておきたい。なにぶんにも古い時代の人である点と、インドでは信頼できる歴史の本がほとんどなかったため、釈迦の生存年代に関しては、いろいろな説が展開された。セイロンを中心とした南方仏教徒は、一般に釈迦の生存年代を、西暦紀元前六二四年~五四四年としている。そして去る一九六六年に、南方諸国では釈迦入滅(にゅうめつ)(釈迦死亡)二五〇〇年の記念式典を行なったのである。しかし学問的な研究によれば、釈迦の実際の生存年代は、ややくだるようである。いままでの学者の研究成果は、二つの大きなグループに分けることができる。一つは、入滅を紀元前(西暦紀元、以下同じ)四八〇年代と推定するものであり、もう一つは、生誕を紀元前四六〇年代、入滅を紀元前三八〇年代と推定するものである。この両者間にすでに一〇〇年の差異がある。紀元前五四四年入滅とする南方仏教徒の説と、紀元前三八〇年代入滅の最もくだった年代をとる説(正しくは、前三八三年入滅)との間には、じつに一六一年の開きがある。このような差異がでてくる原因は、いい伝えの違い、依っている資料の違い、資料の解釈の相違などによるものである。古代史における年代決定(とくに紀元前における年代決定)がむずかしいことは、世界の歴史において常のことである。そして、インドの歴史においては、とくにそうなのである。

 

個別よりも普遍の重視

古代において、インド人は、哲学・宗教に関する文献を多く残した。ところが、信頼できる歴史書は、ほとんど残さなかった。そのことは、かれらが個別的な歴史記述に興味をしめさなかったことを意味するであろう。つまりかれらは、普遍的なものに興味を感じたのであり、個別的なものにはあまり関心をもたなかったのである。いいかえると、かれらは、真理や、価値や、あるべき実践などの探究に関して、その成果を個人の名前に結びつけるようなことは、あまりしなかったのである。それが、真理であるならば、それをだれがいったってかまわないのであり、真に価値あることであるならば、それはだれの言葉であろうともかまわない。それが真にあるべき実践ならば、だれの実践であろうとかまわないわけである。要は何が真理であり、何が真の価値であり、何が真に実践されるべきことであるかということである。したがって、だれの言であり、だれの実践であるかということは、問題ではないのである。

 

釈迦の伝記や思想を書くむずかしさ

インドの古代においては、このように普遍的な真理・価値・実践の探究が中心問題であり、個人崇拝の考えかたは弱かった。そのため、個人の名前に結びつけた伝記や思想を再現しようとすると、ひじょうな困難をともなうのである。じじつ、釈迦に関する伝記が書かれ、像が彫られ、絵が描かれることなどによって、個人崇拝の傾向が強められてくるのは、釈迦の没後数百年をすぎたころからなのである。このようなわけで、釈迦の伝記を書き、思想を再現するには、いまだに困難な問題が多々あるのである。この本の記述は、ある資料によったものであるが、その論拠はそのつど、のべることにする。

 

目次

Ⅰ 釈迦の生涯

はじめに
誕生
少・青年時代
当時のインドの社会
出家
苦行時代
覚者となる
伝道布教の時代
伝導の旅から旅へ
旅の途中での死

Ⅱ 釈迦の思想

はじめに
仏教の根本思想

根本思想
倫理思想

原始仏教の探究

第一の仏教

根本思想
個人的領域の思想
社会的領域の思想
第一の仏教の一般的性格

第二の仏教

根本思想
個人的領域の思想
社会的領域の思想
第二の仏教の一般的性格

社会的基盤との関係

釈迦年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ 釈迦の生涯

 

はじめに

 

生涯を書くにあたって

釈迦の伝記としては三つの基本的な文献がある。それらは『マハーヴァストゥ』『ラリタヴィスタラ』『ブッダチャリタ』である。本書ではこれらのうちでも、特に有名な『ブッダチャリタ』を中心にして、釈迦の生涯を紹介したい。

 

しかし、この三つの文献のいずれも、多分に神秘化・美化・超人化されており、書かれている内容のすべてが、歴史上の釈迦の実話とは考えられない。

 

そこで、比較的無難と思われる線で、内容の取捨選択を行ない、釈迦の生涯を紹介したい。

 

『ブッダチャリタ』について

この本は二世紀の仏教詩人アシヴァゴーシャによって書かれたものである。原文はサンスクリット語で書かれ、もともとは、二八章あったらしい。

 

だが現存するサンスクリット本は一七章までである。さらにそのうちでも、一四章までがアシヴァゴーシャの自作であって、一四章末から一七章までは一八三〇年にアムリターナンダか補書したものと考えられている。1)

 

ところが、幸いなことに、二八章すべてが、漢訳(北涼天竺三蔵曇無讖(ほくりょうてんじくさんぞうどんむせん)訳1)『仏所行讃(ぶっしょぎょうさん)』として残っているのである。

 

 

漢訳『仏所行讃』を現存のサンスクリット本と比較すると、一四章前半までがサンスクリット本と一致している。ところがその後、西域地方から『ブッダチャリタ』の断片と思われるものが発見された。そして、研究の結果、これが漢訳の第一六章の一部と合致することが明らかにされたのである。

 

この結果、アシヴァゴーシャ2)の『ブッダチャリタ』はもともと二八章あり、漢訳はその翻訳であることが確信されるにいたったのである。

 

そこで本書では、完結した形で残っている『仏所行讃』3)を中心にして、その内容を紹介したいと思う。

 

 

誕生

 

ルムビニー園での誕生

釈迦は、シャーキャ族の王シュッドダナを父とし、マーヤーを母として、この世に生を享(う)けた。母マーヤーは、子の誕生が近づいてきたとき、シャーキャ族の首都カピラヴァスツの、そうぞうしい城をかけ、泉が流れ、花と実が茂る、静かなルムビニー園に行くことを望んだ。王は妃(きさき)の願いを入れ、多くの男女のお供をつけて、ルムビニー園に行かせた。そしてこの清澄な園で、釈迦は、太子として生まれたのである。ルムビニー園は、現在のネパール国の南部、インドとの国境付近にある村のことである。生まれたのは、清和の気あふれる四月八日だという。父王が生まれた太子を見ると、常人と異なった奇特(きどく)の相をしていた。王は驚き緊張し、喜びと恐れの思いとが、交互に胸にせまってくるのを禁じえなかった。

 

バラモンの相(そう)占い

そのとき、園のなかに、相を見ることにすぐれた名高いバラモン(祭祀をつかさどる最高の階級のもの)がいた。かれはやってきて、太子の相を見ると、とびあがらんばかりによろこんでいった。「このようにすぐれた相の人は、かならず悟を開くだろう。そして、もしこの世間にとどまるならば、武力を用いずに世界を統一することのできる、転輪王(てんりんおう)となるであろう。またもし家を出て山林に住まうようなことになれば、専心に解脱(げだつ)を求めて、真の智恵を成就して、普(あまね)く世間を照らすようになるだろう、」と。転輪王とは、武力を用いずに、世界を征服する徳のすぐれた王という意味である。王はバラモンのいうことを聞いて歓喜し、バラモンにたくさんの供養(供え養うこと。後世、死んだ人に対しても追善供養の意味で用いられるようになった。)をした。そして王は、すぐれた子を生んだことをよろこび心にこう決めた。「この子は自分の王位をついでくれるだろう。わたしはすでに年をとったから、この子が大きくなったら、わたしは家を出て、山林で清い行(ぎょう)を修めよう。そして、この子に世を捨てて、山林に行かせるようなことは、させないようにしよう、」と。

 

アシタ仙の相占い

そのころ近くの園林に、アシタと名づける仙人がいた。かれは、長いあいだの苦行生活によって鍛えあげた仙人で、相を見ることにもすぐれていた。仙人が王宮にやって来たので、王は太子を仙人に見せた。仙人は、容貌きわめて端厳(たんげん)で、天人とほとんど異ならない太子を見ると、涙を流して、長いためいきをついた。王は仙人が泣いているのを見ると、にわかに心がおののき、思わず座より立ちあがり、仙人ににじりよっていった。「なぜ泣くのだ。この子は寿命が短いとでもいうのか、」と。仙人はいった。「王よ、そうではない。恐れることはない。この子はのちに、五欲(目・耳・鼻・舌・身の欲)に執着することを嫌い、聖王の位を捨てて、出家して、覚者(かくしゃ)となるであろう。そして真実を語り、もろもろの群生(ぐんじょう)のために迷いを取り除いてくれるだろう。わたしはすでに年をとりすぎている。この子が悟を開いて覚者となり、正しい法を説くときまで、わたしは生きていられない。わたしが泣いたのは、そのことを思ったからである、」と。王や群臣たちは、この話を聞いて安心した。ただ王は、太子がのちに出家するという占いには、積極的に喜べなかった。しかし奇特(きどく)の子を心から敬重し、天下に大赦(たいしゃ)を施し、牢獄をことごとく開いて、いっさいの罪人を許したのである。また、そのころ信仰されていたいっさいの天神を祭り、もろもろの群臣や国中の貧乏人に、施しを与えたのである。

 

母マーヤーの死

幼ない太子にとって、また王にとって悲しい出来ごとが起こった。太子の母マーヤーが太子の誕生七日目に、産後の肥立ちが悪くて死んでしまったのである。王や親戚はたいそう悲しみ、太子の養育をだれにまかせようかと、いろいろ思い悩んだ。あれこれと考えたすえ、王は太子の養育を、母マーヤーの妹であるマハーブラジャーパティに、まかせることにした。かの女は、実母のごとく太子を養育し、りっぱに育てあげ、のちに、釈迦の父であるシュッドダナ王の妃となり、一子をもうけた。

 

少・青年時代

 

勉学

太子はいっさいの徳を備えているという意味で、サルヴァールタ=シッダと名づけられた。マーヤー夫人の妹であるマハーブラジャーパティは、この幼くして母を失った太子を、自分の子のよう愛育した。太子もまた、かの女を実の母の如く敬愛した。太子はこのような環境の中で、日一日と生長し、また生まれながらのすぐれた顔貌(がんぼう)も、ますます徳相を増した。身には価のつけようのない栴檀(せんだん)の木からとった香や、その他の香や、身を護る神仙(しんせん)の薬と瓔珞(ようらく)(玉をつなげた首かざりのこと)とをつけていた。隣国の王たちは太子の誕生を聞いて、めずらしい牛車や羊車や馬車や、そのほか宝物や装飾品を贈って、太子の心を喜ばそうとした。このようにして、絶えず、すばらしいものや、めずらしい玩具(がぐ)で、太子はとりまかれていたのである。しかし太子は、そういうすばらしいものだけではなく、ちょっとした玩具にも心を止めて、豪華な雰囲気に、自ら染まろうとする傾向は、あまりなかったようである。こういうところにもかれの物質的・外面的なものよりも、精神的・内面的なものへの傾向が、強かったようである。太子は七歳になると勉強を始めたようである。その内容は字の習得と算数から始められた。やがて十二歳になるころまでに、後の国王として、必要ないっさいの学問や武芸などを学び、身に修めたようである。なかなか聡明な子であって、ひとたび聞けば師匠を越えるほどであった。

 

結婚

シュッドダナ王は太子の聡明、深慮な態度を見て、太子にふさわしい娘をかれの妃としてさがすことになった。父王は広く有名な豪族や、しつけのりっぱな家々を訪れ、ついに容姿端正なヤショーダラーという娘を見つけた。父王はこの娘を太子の妃として迎えようと思い、娘を宮殿に招き、太子の心に止めさせたのである。やがて、志高遠にして、徳の盛んなる太子と、美しき容貌と淑妙なる姿のヤショーダラーとは結婚し、結婚生活をいとなんだのである。インドでは昔も、また今日でも、一般に、男女の結婚年齢は若いのである。そして結婚生活はおおらかで、のびのびとしている。太子もその例にもれず、十七歳のときに結婚したといわれる。そして王は、かれらのために、清浄なる宮を建ててくれた。それは広くてきれいで、すばらしい装飾がなされ、高く虚空にそそり立ち、暖かさ、涼しさが春夏秋冬に適するようにくふうされていた。また伎女(ぎじょ)たちは太子をとり囲み、妙(たえ)なる音楽をかなで、まるでそこは神々の住む天のようであった。このようにして、父王は、アシタ仙の予言もあったので、太子に厭世の想いを起こさせないようにしたのである。

 

やがで賢妃ヤショーダラーは、男の子を生んだ。その子はラーフラと名づけられた。シュッドダナ王は太子に子どもができたのを見て、心にこう思った。

 

「大師はすでに子を生んだ。これで、家系や相(あい)継続して絶えることはないであろう。太子はすでに子を生んで、その子を愛することは、自分と同じであり、出家を考えるようなことはないであろう。わたしは力(つと)めて善を修めよう。自分の心は大いに安らかであり、生天の楽しみに異ならないくらいである、」と。

 

当時の出家について

釈迦が生存した時代のインドでは、出家ということはそれほど特殊なことではなかった。このころのインドの社会は、家父長的家族制度が、一般的になりつつあったのである。したがって家長となる男の役目が重要なのであるが、このころ理想的な男の一生は、つぎのように考えられていた。

 

男の一生を四時期に分ける。学生期・家住期・林棲(りんせい)期・遊行(ゆぎょう)期の四時期である。学生期とは現在の生徒・学生と同じように、将来一人前のりっぱな人となるために、先生について勉強する時期である。家住期とはひととおりの勉強が終わってから結婚し、子どもを養い、家長としての務を行ない、かつ社会的な責任を果たす時期である。したがって太子は、家住期にそろそろ入りつつあったわけである。林棲(りんせい)期とは、子どもも一人前に成長し、年をとってから、今までの世俗的な生活や、世俗的な欲望からいっさい離れて、家を出て、森林のなかで静かに生活する時期である。遊行期とは、林棲期において、自分の死期がだんだんと近づいて来たことを感じたとき、諸国遊行の旅に上り、旅の途上で死ぬのを理想としたのである。これがインドにおける四住期である。

 

釈迦の父シュッドダナ王も、釈迦が一人前になってくれたら、適当な時期に、出家して、林棲期の生活を送ろうとしていたのである。その釈迦が結婚し、ラーフラを生んだので、子を愛し、世俗的なことに熱中してくれるものと思って自分は安心して引退できる、と思っていたのである。また当時のインドの社会では、林棲期における出家のほかに、もう一つの出家があった。これは必ずしも年齢に関係なく、哲学的思索に打ち込むことによって、人生ならびに宇宙の根本原理をきわめよう、とする人たちであった。かれらはシュラマナと呼ばれ、伝統的なバラモンと区別された。釈迦の父シュッドダナ王が釈迦について恐れていたのは、シュラマナとして出家することに対してであった。

 

太子の厭世

シュッドダナ王の国は、小国ではあったが、ヒマラヤの南側にあって米作を主産業とした豊かな国であった。そこで太子の日常の生活は、物質的には何一つ不自由のないものであった。それでいながら、かれはこの宮殿の生活に、満足できなかったのである。かれは人が一生のうちで、だれもが経験しなければならない、生きてゆくこと、老いてゆくこと、病にかかること、そしてやがて死んでゆくことに対して、あれやこれやと思い悩んでいたのである。この生・老・病・死に対して、悩み始めた経過を「四問遊観(しもんゆうかん)の説話が説明している。これはあくまで説話であるが、かれがどのようなことを問題にしていたかを知るには、やはり参考になるのである。そこでその概略を述べておこう。

 

老衰の人をみる

太子の宮殿は虚空にそそり立つみごとなものであった。だが宮殿のそとにもいろいろな林があった。そこには、泉が流れ、清涼な池があった。そして木々は生い茂り、気持のよい木陰を作っていた。またもろもろの奇鳥が飛びかい、戯れ、水陸の花は、色あざやかに咲き乱れ、妙香(みょうこう)を放っていた。伎女(ぎじょ)たちは奏楽し、絃歌しながら、太子にそこへ行くことをすすめたのである。太子はその話を聞くと、自分もそこへ行ってみたくなった。父王は、太子がかの園に行きたいというのを聞き、さっそく、群臣たちに、宮殿からその園までの道をきれいにさせ、また老人や病人や、かたわの者を、太子の目に触れさせないように、ととのえさせた。やがて、出発の日がやってきた。道すじには花がまかれ、かざりたてた馬車に乗って、太子らの一行はでかけたのである。途中までくると、衰えきった一人の老人に、ばったり出会ってしまった。太子はそのような老人を、あまり見たことがなかったので、御者に問うた。「この人は、いったいなんなのだ。頭は白く、背はかがみ、目はくらみ、身は小さくふるえており、杖にたよって、弱々しく歩いておる。にわかに変じて、このようになったのであろうか、それとも、生まれながらにこうだったのだろうか、」と。御者は答えていった。「この人は、色が変わり、呼吸はかすかとなり、憂いが多く、歓楽は少なく、喜びはとっくに忘れてしまい、もろもろの感覚器官は弱っている。こういう状態は、老衰の相と、名づけられるのです。この老人ももとは、嬰児であり、母の乳によって長養せられ、子どものときは、遊びたわむれ、壮年のときには、五欲を恣(ほしいまま)にし、年をとってから形が朽ちはててきて、今は老いのためにこわれそうになっているのです、」と。

 

太子「ただかれだけが老衰するのであろうか。それとも、われわれもまたこうなるのだろうか。」

 

御者「太子もまたこうなるでありましょう。時が移れば形は自(おのずか)ら変じて、必ずこのようになるのです。少壮なるものが、老いない例はないのです。」

 

太子は老衰の人を見、かつ御者の話を聞いて、すっかり意気消沈してしまった。一瞬一瞬自分も老衰に向かっていることを思うと、もはや園林に、遊びに行く気にもなれなかった。そのまま車をめぐらして、宮殿に帰ったのである。

 

病人・死人を見る

太子が沈んでいると聞いて、王は再び、この園林に、太子を出遊させることにした。その途中、こんどはまた、病人に出会ってしまった。病人は、身体はやせて衰えているが、腹だけは水がたまって、ふくれあがり、呼吸はせきをしており、手足は引きつれたように枯燥(こそう)して、悲しく泣きながら、呻めいていた。太子は御者に問うた。「この人は何なのだ、」と。御者は答えた。「この人は病人です。身体の構成要素が、すっかり弱ってしまって、回復できないのです。ただ横になって、他人の助けを待っているのです、」と。

 

 

太子「かわいそうなことだ。だけど、この人だけが、病んでいるのか。それとも他の人たちも、またこうなるのだろうか。」

 

御者「この世間の人は、だれでも、このようになるでしょう。身体があれば、必ず患(うれい)があるのです。」

 

 

太子は病人を見、かつ御者の話を聞いて、大恐怖を生じ、心身ことごとくが、ふるえてきた。太子は、病苦の問題が解決しなければ、物見遊山(ものみゆさん)どころではない、と念じ、また車をめぐらして、還(かえ)ってしまったのである。そして日夜憂愁(ゆうしゅう)の思いで、老人のことや、病人のことを、自分の身に引き替えて考えていた。

 

王は、太子が病人を見手、還ってきたことを知ると、非常に不安がり、道路係の者を、きびしく責めた。そして太子が厭世的にならないようにするため、太子を取りまく伎女たちの数も増し、また音楽も、前よりも盛んにした。王自身、さらに勝妙の園を探しに出かけ、そこを見つけると、えりぬきの美艶最上の采女(うねめ)(宮廷内で仕えている女の人)たちを、そこに配置して、太子を待たせた。また御者にも、こんどは途中で還ってきてはいけないと強く命じて、太子たちの一行を送り出した。一行が途中まで来ると、四人で、輿をかついでいる一行に出会った。その輿の後には、人々が従い、あるものは憂(うれ)いに沈み、あるものは髪を乱し、泣きながら、従っていた。太子と御者がまず気がついた。太子は御者に問うた。「これは、なんの輿だろう、」と。御者は答えた。「死人です。もろもろの感覚器官の働きがなくなり、命が絶え、心は散じ、記憶したり、考えたりする力が失われてしまっているのです。働きがなくなり、形だけが枯れ木のように硬直しているのです。親戚や、朋友たちの恩愛は、もとより綿々たるものがあったであろうが、今は、喜んで見ることもできず、空しく遠い墓場へ棄てに行くところです、」と。太子は死ということばを聞いて、悲痛の思いにみたされながら、さらに問うた。「ただこの人だけが死ぬのだろうか。それとも、天下の人がまたみな、そうなのだろうか、」と。御者は答えた。「だれでもみなそうなのです。始めがあれば、必ず終わりがあるのです。老いていくものも幼いものも、身体があれば、滅びないものはないのです、」と。太子はおおいに驚き、身を車軾(しゃしょく)の前にたれ、息もほとんど絶えそうであった。太子は御者に命じた。「車をめぐらして還れ。遊戯の時ではない。いつ死が訪れるかもわからない。どうして心をほしいままにして、遊んでいられようか、」と。御者は、王からかならず園林に行くように、厳命されていたので、王を恐れてあえてめぐらそうとしなかった。そのまま、馬車を超スピードで走らせて、かの園林に到着してしまった。

 

園林での太子

太子の一行が到着した園林は、木々が緑に美しく、変わった鳥や獣どもが飛走し、喜んでいた。園林全体の明かるい美しさは、天のナンダヴナ園(ヒマラヤの北にあるインドラ神の森)のようであった。太子が園林にはいってくると、多くの女たちが太子を出迎えた。かの女たちは、太子に、まれにしか会えないことを思い、競い合って、太子に媚びた。おのおの、たくみにポーズを尽くして太子に仕えた。ある者は太子の手足をとり、あるものはあまねくその身をなでた。またある者は向かいあって言笑し、ある者はうれいにいたむようなポーズをして太子をよろこばせようとした。しかし、太子はいっこうに陽気にならなかった。女たちは太子が少しも心を動かさないのを見て、互いに顔を見合わせ、だんだんと寂しくなり、シュンとして言葉もなくなってしまった。このようすを見た太子の友人ウダーイバラモンは、女たちにこう告げて、はげました。「あなたたちは、端正聡明であり、技術も多く知っている。色力の方も常人を越え、男女の機微にも、よく通じている。容色すばらしいあなたがたには、天の神々でさえ、見ればその妃をすてて、やって来るだろう。仙人でも心が傾くであろう。どうして人王の子である太子の心を、動かせないことがあるであろうか。今この太子は、心を堅固にして、清浄の徳を備えているが、女人の力には勝てないのだ。昔、美女スンダリーは大仙人の心を動かし、愛欲を習わせたではないか、長い間苦行したガウタマも、天后のために、愛欲に溺れたし、ヴィシュヴァーミトラ仙も、一万年もの間、修道したのに、深く天后に傾いたため、一日のうちに破滅したではないか。このように、美女の力というものは、清い修行の力にも勝るものなのだ。ましてやあなたがたのように、技術にすぐれているものが、どうして太子を感じせしめないことが、ありえようか。さあ、もっと勤めて、わが国のあとつぎに、出家の心など起こさせないようにしてくれ、」と。

 

そのとき、采女たちはウダーイの説を聞いて、たいそうはげまされ、喜んだ。かの女たちは良馬にむちを加えたように、喜び勇んで、太子の前にいたり、おのおの、とっときの秘術を披露した。かの女たちは、歌ったり、踊ったり、あるいは言笑し、眉を揚げて白歯をあらわしたり、美しき目で斜に見たり、薄い衣に身体の線を現わしたり、なまめゆかしくゆったりと歩いたりしているうちに、太子にようやくなれて来て、かの女たちの方で、先に情欲が高まってきた。

 

一方太子の方は、心が堅固であるので、傲然(ごうぜん)として容(かたち)を改めなかった。それはあたかも、巨象が、群象に囲まれているようであった。それでも、かの女たちは、さらに拍車をかけた。まさに太子は、シャクラデーヴェーンドラ(天の神々の中でも中心的な神)が、天女たちに囲まれているようであった。かの女たちはだんだんとなれてきたので、太子のために、太子の衣服を整えてあげたり、手足を洗ってあげたり、あるいは香を身に塗ってあげたり、あるいは花でもって飾ってあげたり、瓔珞(ようらく)を着けてあげたり、身を抱いたりした。あるいはまた、かの女たちは、太子に寝やすいように枕を整えたり、身を傾けて密話したり、あるいは世の中のおもしろい話や、情事に関するような話までもした。最後には、かの女たちはみんなして、男女のもろもろの欲形まで作って、太子の心を動かそうとした。普通の人ならば相好(そうごう)をくずし、よだれをたらし、溶けてしまいそうな雰囲気であった。

 

だが、太子の目には、馬鹿が徒手体操をしているほどにしか、映らなかった。

 

生活の転換を願う

太子は、なに一つ不自由のない生活にあっても、また歓楽のかぎりをつくしても、満足することができなかったのである。このため、かれは現にすごしている生活とは縁を切って、別の生活をしたいと、思うようになってきた。この思いは、時とともにつのり、ついに、かれをして王国も、妃も、子どもも、その他いっさいをも捨てて、出家することに踏み切らせてゆくのである。

 

<続きはこちらで>

新装版 人と思想4 『釈迦』

副島 正光 著

清水書院 人と思想4 釈迦

 

 

人と思想24『フロイト』のまえがき+αを読んでみる

 

フロイトについて

 

タバコと旅行の好きなフロイト

もしわれわれが、一九世紀から二〇世紀にかけての思想について語ろうとするならば、フロイトとマルクスを避けて通るわけにはいかない。また、もしわれわれが有史以来の偉大な思想家を二〇人選び出すとするならば、やはりフロイトをその中に入れたい。かれの思想については、数多くの非難や批判がよせられているにもかかわらず、それは精神医学や心理学はもちろん、文学・芸術・思想などきわめて多くの分野に偉大な影響を与えている。このような大きな足跡をのこしたフロイトとは、その日常生活においてどんな人物であっただろうか。二、三のエピソードからそれをうかがってみよう。

 

フロイトは、大変なタバコ好きであった。なにしろ一日平均で葉巻を二〇本も吸ったというから、これでは習慣というより中毒といった方がよい。こういうわけで、いざタバコが切れたとなると、大変な苦しみであった。かれの死因が口中の癌であったことも、このものすごいタバコ好きと無関係ではなかったであろう。ところが、酒の方はあまり飲まなかった。わずかにブドウ酒をたしなんだ程度である。これは、かれが禁酒主義者だったからではなく、むしろ酒はちょっとでも飲むと精神がボヤけてフラフラするのがきらいだったからである。フロイトは、いつも自分の精神がハッキリしていることを望んでいたのである。

 

タバコとならんでフロイトの好きだったことは、旅行であった。八〇年余も住みつづけたウィーンのさまざまなわずらわしさから逃避するという楽しみ、新しい風景や美しいものの探究、まったく旅行は楽しいものである。かれはどこかよそに旅行にでると、まるで子どものように喜んだが、なかでもとくにイタリアあこがれていた。そして、生涯のうちに何度もイタリア旅行を行なっている。それほど旅行好きであったにもかかわらず、かれの方向感覚はまるでゼロであった。それは、ちょっとした遠出の散歩のときでさえ、そうであった。父と一緒に散歩にでた息子たちは、いざ家に帰るだんになって父親がとてつもない方向に向かって歩きだすので、よく驚かされたものであった。しかし、かれ自身も自分の方向感覚がゼロであることはよく知っていて、そこはすぐに息子たちの道案内に従った。こんな調子であるから、旅行のこまかい部分についてもきわめてうとく、汽車にのりおくれないためにとほうもなく早めに駅につくようにしたりして、大変な用心のしようであった。それでも荷物の宛名を書きまちがえたり、なにかを置きわすれたりすることがしばしばあったというから、かれの用心もなんと役に立たなかったことであろう。

 

優美な冒険家

どちらかといえば、かれの性格は綿密に計画をたて、時計のように正確にそれに従って動くというようなタイプではなくて、むしろある直観に導かれてそこに情熱を傾けるというタイプであった。かれ自身も冗談半分に、「私はほんとうは科学者ではなく、観察者でもなく、また実験者でも、思想家でもない。私は、ただ独特の好奇心と粘り強さをもった一種の冒険家であるにすぎない」といっているが、この言葉は、かれの性格の特徴をよくあらわしている。だから、大学で講義をするときなども、事前に準備をしっかりするなどということは、めったになかった。ましてメモを用いるとか、あるいは原稿をそのまま読んだりするようなことは決してなく、大半はそのときのインスピレーションによっていた。あるときアーネスト=ジョーンズが教室にいこうとしているフロイトに、「何を話されるのですか」と聞いたら、かれは「それがわかっていたらなあ!」と答えたといわれるのも、フロイトらしいエピソードである。

 

それでいてかれの講義は、名講義であったというから、かれはたしかに名文家である。一九三〇年に、フランクフルトでゲーテ文学賞を受けたというのもよくそれを物語っている。その美的感覚にもとづいた、ウィーン風のしなやかな、優美な、それでいて簡潔な文章は、読む人の心をとりこにするものであった。しかし、一面そのしなやかさのために、ときには論理的・科学的にみてあいまいな表現となることもあったが、それについて質問されると、かれは笑いながら「どうもわたしはだらしがないので」と答えたといわれている。

 

このようなフロイトであったから、およそ「かまえる」とか、「気取る」とか、「見栄をはる」などということは、はっきりきらいであった。また当然、「如才(じょさい)なさ」というようなことにも、あまり価値を認めなかった。そして、静かな態度と自然な威厳を備えていた。それにもかかわらず、かれは非常に近づきやすい人で、たとえ無意味な好奇心からかれを訪れる人があっても、会うことを断ることはめったになかった。そして、当然のことではあるが、親しい人びとの前では非常に呑気な態度であった。

 

このようなかれの性格や、また若い時代にきわめて貧しかったことなどもあって、かれの業績がほんとうに輝き出し、その個性的な能力が十分発揮されたのは、中年をすぎてからであった。天才の伝記としては、このようなことは、あまり例のないことである。よく「人は生活の完成か、仕事の完成か、どちらかを選ばなければならない」といわれるが、このように生涯と業績をきり離して考え、「不完全な」生活の中から「完全な」仕事が出てくることに特別な価値を感ずるのは、現代特有のかたよった好みである。フロイトには、そのような業績と生涯の分離はなかった。かれの生涯と業績は、格調高く調和していたのである。

 

 鈴 村 金 彌

 

目次

 

Ⅰ ジグムント=フロイトの生涯

フロイトの誕生
学生フロイト
若きフロイト
風雪に耐えた孤独の十年
輝ける精神分析学の開花
老いたフロイト

 

Ⅱ フロイトの思想

フロイトの思想の特色
欲動 ――人間をゆり動かすもの
心的装置 ――パーソナリティ
無意識のうちに働く心のメカニズム
夢の分析と解釈
文化論

 

年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ ジグムント=フロイトの生涯

 

フロイトの誕生

 

モラビアの春

モラビア1)の春は、駈足(かけあし)でやってくる。口に入れる野菜にも乏しく、眼を楽しませる草花もない、暗く厳しい冬は長い。ひと月の平均気温が零下五度以下で、植物もその活動を停止するかに思われる季節は五か月にもおよび、冬はまさに灰色の季節である。その長い冬が終ると、急に草花は活動をはじめ、陽光も輝きを増してくる。春は、わが国は想像もできないほど、待ち望まれているのである。その春の日の光さざめいた日、一八五六年五月六日午後六時三〇分、ジグムント=フロイトはモラビアの一小都市フライベルク(現在のプリボール)のシュロッサーガッセ一一七番地で生まれた。この年、わが国ではアメリカ総領事ハリスがはじめて伊豆下田に駐在することとなり、またヨーロッパではあのナイチンゲールで名高いクリミア戦争が終結したのであった。

 

時代の息吹き

フロイトが生まれる少し前、一八四八年二月二二日、パリ市民の蜂起からはじまった二月革命が、二日間の市街戦ののち成功を収めて王政を倒し、フランス第二共和政を樹立すると、それはヨーロッパ諸国に深刻な影響を与えた。この革命がすでに社会主義的背景をもち、階級闘争の性格をもっていたことは、時勢の変化をはっきり物語るものであり、また革命の成功は封建勢力の決定的な壊滅と自由主義的勢力の最後的な勝利を意味するものであったので、おくれた社会体制をもった国々に、急速に革命が波及したのである。すなわち、二月革命の翌月、まずオーストリアの首都ウィーンに革命運動がおこり(三月革命)、反動時代の主役であった宰相メッテルニヒはイギリスに亡命してしまい、続いてハンガリー・ボヘミアなどにも民族独立運動がおこるなどして、いわば新らしい時代の波がフロイトの生まれ故郷を強く洗いはじめていたのである。そして、「人間はすべて、自由で平等の権利をもつ」という自覚と、「民族の自由・統一・発展を要求する」というこの新しい時代の精神は、やがて資本主義が次第にはっきりと利益の追求をめざして発展するにつれて、いよいよ高まったのである。このような時代を背景として生まれたフロイトは、まさに画期的な思想を生みだすのにふさわしい条件をになっていたといえよう。

 

つぎに、フロイトの生まれた時代をいろどる文化の特色を見てみよう。言うまでもなく、近代史のにない手はブルジョアジー(市民階級)であり、従ってフロイトの時代の文化の形成者は、産業革命を遂行した立役者である市民階級であった。それゆえ、政治・経済・社会にわたって旧制度を打破し、個人の自由と解放を求めていったかれらの情熱が、そのまま新しい市民文化創造のエネルギーであった。こうして形成された一九世紀後半の近代市民社会の文化の最大の特色は、自然科学の驚異的な発達であった。もちろん、そのかげには、資本主義経済の強い要求やそれに基づく近代市民階級の活発なエネルギーがあったのであるが、これによって物質文明は高度に発展し、人間生活は多方面にわたって豊かで、便利になったのである。そのために思想や芸術の分野にもいちじるしい影響を与え、自然科学的な考え方はこれまでの哲学に代ってほとんど唯一絶対の確実な知識の源泉であるかのように信頼されるにいたったのである。それはあたかも、中世文化における宗教にもひとしい雰囲気をかもしだしていたのであった。そして、これこそフロイトの誕生を待ちうけていた文化的な土壌なのであり、かれの思想をはぐくんだ基盤なのである。この自然科学尊重の風潮の中で、フロイトにもっとも深い影響を与えたものは「エネルギー論」と「進化論」であった。これらがいかにかれの思想に影響を与えたかは、のちに詳しくのべよう。

 

父と母

かれの父、ヤコブ=フロイトは、ナポレオンがウォーターローで運命の敗北を喫した年、一八一五年一二月一八日、ガリシアのテュスメニッツで生まれた。かれの先祖は、長い間ケルンに住んでいたが、一四~五世紀頃のユダヤ人迫害にあい、東方に逃れ、一九世紀に入ってからリタウエンからガリシアを通ってオーストリアへもどってきたという迫害の歴史をになった生粋のユダヤ人であった。かれは主として毛織物の販売に従事しながら家族を養っていたといわれている。かれは中年にして妻を失い、一八五五年、四〇歳のときアマリア=ナタンゾーンという二〇歳の若く美しい女性と再婚した。ジグムント=フロイトは、この第二の妻の最初の子である。

 

はじめて男の子を得た若い母が喜びに浸っていたある日、ひとりの老婆が「この坊ちゃんは世界的な人物になる」と予言した。この予言が単なるお世辞であったかどうかは、どうでもよいことである。問題は、これを聞いたものがどう受けとったかである。当時、フロイトの母はわずかに二一歳、しかも先妻の子がすでに二人もおり、そのうえ、親子ほども年の違うヤコブのところに嫁に来たのであるから、はじめて生まれた男の子ジグムントをどんなに喜んでいたかは想像にかたくない。だから老婆の予言を聞いたとき、かの女はわがことのように喜び、絶えずそれを口にし、いつしか自分はもちろん家族全員にもこれを信じこませるにいたったのである。それゆえ、後年フロイトもその著『夢の解釈』の中で「……私がなにか偉いものになりたいと熱望したのも、このためであるかもしれない……」と述べている。すなわち、老婆の予言は、後のフロイトの生活を支配する暗示的な力となったのである。かの女はフロイトが七四歳になるまで生き、九五歳の天寿を全うした人であるが、常にフロイトのそばにあってかれを励ます力となっていた。かの女は老いて白髪をいただくようになってしまったフロイトをつかまえては、相も変わらず「私の宝、ジーキ(ジグムントの愛称)」と呼んでいたといわれている。母から受けたこのような深い愛と信頼とが、後のフロイトの学問と生活に対するたくましい力となったことは、フロイト自身も認めているところである。

 

では、フロイトの父、ヤコブはどんな人だったであろうか。当時のヨーロッパ社会は、日本と同様に父権支配の社会であったので、フロイト家においても世間並みに父親はひとつのおごそかな権威であり、父のしつけは厳しく守らされていた。しかし、ヤコブはもともと心の優しい人であった。そのうえ、かれはジグムントを深く信じ、また尊重していた。ヤコブは父親と言い争いながら街路を歩いていた知り合いのピアニストに会ったとき、「……おとうさんに口答えするとは何ですか。うちのジグムントはわしより数段頭がいいが、決してわしに口答えなどせんよ……」といったというエピソードは、これをよくあらわしている。このように父母に信じられ、期待されていたことが、どんなにかれの魂の発展を支えたことであろうか。

 

ユダヤの子

フロイトが一〇歳か一二歳の少年の頃、父はいっしょに散歩しながら自分の人生観をぽつりぽつりと語って聞かせたものであった。そんなある日、父はつぎのような話を聞かせた。「わしの青年時代のことだが、いい着物を着て新しい毛皮の帽子をかぶり、土曜日の町を散歩していたのだ。するとひとりのキリスト教徒が向こうからやって来て、いきなりわしの帽子をとってぬかるみへ叩きつけたんだ。そうしてこう言った。≪ユダヤ人! 歩道を歩くな!」」「それで、おとうさんはどうしたの?」とフロイトがせきこんで聞くと、父は平然として答えた。「わしか? わしは車道へおりて帽子を拾ったのさ。」この答は、どう考えてもかれの手を引いて歩いていたがっしりした体格の父親にふさわしいものではなかった。そして、不満とくやしさでいっぱいになったフロイトの胸の中には、第一回ポエニ戦争で敗れたカルタゴの貴族、ハミルカル=パルカスが少年ハンニバルに祖先の霊前でローマ人への復讐を誓わせた情景が浮かんだのであった。ハンニバルとローマは、それぞれユダヤ人の頑張りとキリスト教会のシンボルのように思われたのである。こうして、ローマを訪れ、ハンニバルの通った道をたどってみたいという願望が芽ばえ、後年かれはそれを実行するのである。

 

母のアマリア=ナタンゾーンもまたユダヤ人であったので、フロイトはまさに生粋のユダヤの子であった。このことが、かれの生涯になんと大きな意味をもったことであろうか! このことについては、これからもたびたび触れるであろう。

 

反ユダヤ主義

いったい、ヨーロッパ人のユダヤ人嫌悪はどこからくるのであろうか。それは、要約すれば、宗教と経済と民族主義の問題の三つになるであろう。宗教とは、言うまでもなくユダヤ教である。ユダヤ人はみずからを選ばれた民と信じ(選民思想)、旧約の教えを固く守り、今日でも豚肉やエビ・カニ類を食べようとしない(旧約のタブー)。イスラエルでは金曜日の夕方、空に三つの星が輝くときから安息日が始まり、商店は店を閉じ、交通機関は停止し、飛行場も閉鎖される。ユダヤ人の中でも正統派と称されているもっとも熱狂的な人びとは、刃物で顔を剃るなというエホバの言葉を忠実に守り、頬髭をのばしたままである。このかたくななまでの殉教さ! 国を滅ぼされたユダヤの民が、国家なしに二千余年も生き続けるという世界的奇蹟をなしとげることができたのもこのためであり、また他の宗教の信者たちから嫌悪されるのもこのためである。キリスト教が現世の権力と妥協しながら世界的な宗教へと脱皮していったのに、ユダヤ教はがんとして妥協せず、また宗教改革のチャンスをもみずから避け、宗教における古代性をのこしたままで二〇〇〇余年の歳月を生きながらえているのはひとつの驚異であるともいえよう。

 

キリストがユダのために銀三〇枚で売られて死んだとき、キリスト教徒のユダヤ人迫害がはじまったと言ってよい。それゆえにこそ、キリスト教の僧侶たちは叫ぶのである。

 

「ユダヤ人はわれわれの預言者であるキリストを殺した。その罪によって彼らはいま家を失ない、永遠の流浪を運命づけられているのだ。いつの日かキリストが再び現われて、ユダヤ人を許すまでは!」

 

このような迫害を受け、法律の庇護もなく、祖国もない民族ユダヤが生きのこるためのよりどころは、神と金と団結しかなかったのは当然である。かれらはどこにいても常に団結し、そのすぐれた商才を駆使してしだいに富をたくわえていった。第四回十字軍が、ベニスのユダヤ人商人の奸策にひっかかって、同盟国であった東ローマの首都コンスタンチノーブルに上陸し、略奪したのは有名な話であるが、十字軍以後ヨーロッパに商業が復活・発達し始めると、ユダヤ人の経済力はますます強大になっていった。そして、それに応じてユダヤ人迫害もますます激しくなり、ついにはユダヤ人は魔法を使って金をもうけているのだという噂さえ流されたのである。勘のいいこと、相手に調子を合わせるのがうまいこと、相手を決して怒らせずにしかも最大の利益をえることなどがユダヤ商法だといわれているが、これは一面においては二〇〇〇余年の迫害の結果であり、また他面においてはかれらの嫌悪される理由でもあるのである。

 

一九世紀に入ってからは、ドイツを中心とする汎ゲルマン主義がその攻撃の矛先をユダヤ人に向けた。これを受け継いで狂信的なまでに高めたのがヒトラーであった。その過程において、中世以来のユダヤ人に対する悪魔的伝説はいっせいによみがえり、ついにはフロイト自身もその犠牲となってロンドンに亡命せざるをえなくなるのである。ヒトラーの一派は叫んだ。「アーリア人は世界でもっともすぐれた民族であり、人類を支配すべく約束された民族であり、人類の究極の美の姿である。これに反してユダヤ人は美を汚すものであり、今日のドイツの完全な破壊をめざしてそそのかしている者である。世界中のドイツ攻撃の文書はすべてユダヤ人によって書かれたものであり、従って反ユダヤ主義はわれわれの民族的イデオロギーの主軸でなければならない!」この狂信! この憎悪! まことにユダヤの子は悲劇の子である。

 

フロイト家の人々

フロイトの生後、わずかに十一か月で弟のユリウスが生まれたが、かれは一年たらずで死んでしまった。その後も母はつぎつぎに子どもを生み、五人の妹と一人の弟が得られた。こういうわけで、フロイトは母の愛を十分受けていたとはいえ、つぎつぎに生まれた弟妹たちのために母の関心はそちらへ向けられ、自分がかえりみられなくなる不安をしばしば体験した。母に甘え、母を独占したいという無意識的な願望をもちながら、現実にはそれができないという事実を常に体験したのである。そのうえ、フロイトの家庭は複雑であった。かれが生まれたとき、父ヤコブには、泣き妻との間にすでに一歳の子ヨハネスをもった長子イマヌエル=フロイトがあった。従ってジグムント=フロイトはヨハネスの年下の叔父として生まれたのである。しかもイマヌエル一家はジグムントたちとほとんど同居というべき状態であったといわれているところから、家庭的にさまざまの問題をひきおこしたであろうことは十分想像される。フロイトは父母から重要視され、いつも家族の中心として認められていたから、ヨハネスから見ればシャクの種であったであろう。ヨハネスには、自分の方が年長だという意識がある。それゆえ、しばしばフロイトを牽制した。こうして仲の良いときはよいが、まずくいくと盛んに憎み合い、いがみ合うことになった。フロイトは後年この頃の心理状態をふりかえって、次のように述べている。「三歳の終わり頃までは、われわれは互に離れがたい存在であった。われわれは互に愛し合い、競い合った。子どもの頃のこの人間関係は、その後の私の人生において、自分と同年輩の男との交際における私のすべての感情を決定づけた。」

 

フロイトの場合、このような家庭環境、その中におけるさまざまな体験は、すべて考えさせるものであった。老齢の父と若い母、伯父のような異母兄、同時に愛と憎の対象であるヨハネス、つぎつぎと生まれてくる弟妹たち、このような環境にあって母の第一の寵児であったかれは、家庭における自分自身の地位を確保しようとして不満に直面するたびに勇敢にそれと戦っていったのである。これが後に学問に対しても、世間に対しても、自己の信ずるところを貫くためにあくまで戦いぬき、あのような輝かしい業績をなしとげることができたフロイトを形成していったのである。

 

かれの兄弟については、かれ自身と妹のローザがしばしば神経衰弱にかかりやすかったという点をのぞいては、特記すべきことがない。このうちかれ自身が神経衰弱にかかりやすかったことは、後にかれが神経症を研究し、精神分析学を創設するのにかなりプラスになったであろう。かれに近い血縁者には、精神薄弱者が一人、一九歳で精神障害にかかった男子が一人、てんかんで死んだ男子が一人あるといわれている。かれの尊敬していた父、イタリア統一の英雄ガリバルディに似ていた父ヤコブは、かれが『ヒステリー病因論』の中ではじめて「精神分析」という言葉を使った記念すべき年一八九六年の一〇月二三日、他界した。

 

故郷を離れて

フライベルクはモラビアの南東、シレジアの国境に近く、ウィーンの北東一五〇マイルにある静かな町である。フロイトの生まれた頃は人口約五〇〇〇であったが、その大部分はローマ‐カトリック教徒でユダヤ人はほぼ二%であった。それゆえ、ユダヤの子には、聖マリー教会の鐘の音も、敵意をもって鳴り響いたことであろう。父のヤコブはこの町の毛織物商人であったが、この町の主要な収入源であった織物業は過去二十年間に落ち目になっていた。産業革命の結果、手工業は急速におびやかされていたのである。一八四〇年代には、ウィーンからくる新しい北方鉄道がフライベルクを迂回してしまい、そのうえ一八五一年の王政復古のあとインフレーションとなったので、一八五九年頃までには町はよほど衰微してしまっていた。ヤコブの商売も、直接その影響をうけていた。しかし、かれの不安を増すもっと不吉な前兆があった。それは、町の布地製造業者であるチェック人たちが、かれらが苦境にあるのはユダヤ系織物商人のせいであると考えはじめていたことである。ユダヤ人やその財産に直接危害が加えられたことはなかったらしいが、それでもプラハの革命はユダヤ人織物業者に対するチェック人の暴動によってはじまったものであった。経済的な困難は、勃興しつつあった民族主義と結びついて、伝統的な身代わりのいけにえであるユダヤ人に対する敵意を生んだのである。

 

たとえそういうことがなかったとしても、衰えつつある小さな町の教育機関では、フロイトに老婆の予言を実現させる見込みはなかった。ヤコブは、どう見てもこのフライベルクには自分や自分の家族の未来はないと考えた。そこで一八五九年、ちょうどフロイトが三歳のとき、一家はウィーンに移ることとなった。ウィーンに移る少し前、ライプチヒに行く汽車の中から生まれてはじめてガス灯の火を見た。それはまるで地獄で燃えている人魂(ひとだま)のようであった。汽車旅行に対する「恐怖症」がはじまったのもこのときからである。これは、後に汽車の時間にまに合うかどうかについていささか必要以上の不安を感じるという形でのこったが、また一面において自己の精神を分析するひとつの素材として重要な意味をもつものとなった。

 

ウィーンの森

森の都ウィーン。フロイトがその生涯の大部分、約八十年をすごしたウィーン。この町の歴史はすでに紀元一世紀頃、ローマ時代にヴィンドボナとよばれた頃から始まる。中世に入ってからは主として市場として栄え、一一~三世紀のあの十字軍の時代にはその通路として栄え、一四三九から一八〇六年にいたる間はほとんど常に神聖ローマ帝国の首都として栄え、帝国の経済および文化の中心となっていた。今日ではその人口は二〇〇万に近く、旅人は町並みのすぐ端まで迫っている落葉樹の森(ウィーンの森)にたたずむもよし、地下にもぐってカタコンベ(地下墓地)を見るもよし。細い石畳のガッセ(横町)、古びたたたずまいのカフェー、あてもなく狭い道を歩けばところどころの家には銅板がはめ込まれていて、オーストリアの国旗が掲げられている。足をとどめてそれを見れば、それはかつてシューベルトの住んでいた家であり、ベートーベンの住んでいた家である。音楽家だけ拾っても、ヨハン=シュトラウス、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンなどすぐれた音楽家の遺跡が数多くある。美しい音楽ならいつでも、そして季節によってはすばらしい宗教音楽が響いているのがウィーンである。ウィーンの人は一日に一度は、ときには朝食でさえもカフェーにいくという。卵と小型のパンとバターとジャムと……あるいはゆっくりコーヒーを飲みながら、新聞を読んだりおしゃべりをしたり、時に興ずればトランプ・チェス・玉突きからダンスまで。だからカフェーにはいつでもワルツのメロディーが流れている。社交好きで、はなやかで、それでいてどこか物淋しさを漂わせているウィーンの人びと。そこには、長年にわたる異民族の支配の交代の中をくぐりぬけて来た歴史の陰影がきざまれているのである。フロイトはこの町に住み、その思想を育てたのである。

 

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