「人と思想」シリーズ

センチュリーブックス

人と思想1『老子』のまえがき+αを読んでみる

 

老子について

 

哲学や思想は、それを形成した人がみずからの哲理に生きる、生きようと努力することなしには、存在する意義をもたない。人間が自己をも含めて、現にこのように生きている――このことに十分に自覚的でない哲学や思想が生起することは、<哲学の貧困>を物語るのである。現代における哲学や思想の形成にとって、真に緊要なことは、たんに人間疎外の諸状況を現象的に捉え、そのような現象を直接的に打破していこうとするレディ-メイドの方法原理に立つことや、人類文化の現在までの到達度をもって推論の根拠とし、「文明の未来学」に現状改変の夢を託することではない――むしろ変革すべき現状を招来したほかならぬ人間存在の根源に立ち帰るところから、現代における哲学や思想の形成は出発しなければならないという点にあるのではなかろうか。

 

樸(ぼく)に帰れ

このように考えてくるとき、ここに一冊の書物として取り出した『老子』は、われわれにとって、いかなる意義があるのだろうか。端的にいって、『老子』思想の根底に一貫して流れているものは、人をも含めたあらゆる存在を、そのよって立つ根源に立ち帰って、個性的に生かすということである。あらゆる作為を廃して、個を、その存在の原点のところ、その存在の真の在りかたにすなおにまかせきることによって、かえって本来的に生かすのである。

 

「賢(けん)を尚(とうと)ばざれば民をして争わざらしむ。得がたきの貨(か)を貴(とうと)ばざれば民をして盗みを為さざらしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば民の心を乱れざらしむ。」(第三章)

 

これを愚民政策の典型だとこきおろす偏見者はさておき、二千数百年も前にいわれたこの言葉は、すでに人類文化の至るべきなれの果てを予言しているといってもさしつかえないのではなかろうか。

 

いったい、文化・文明の〝文〟とは〝質(しつ)〟〝樸(ぼく)〟に対する語である。『老子』では、〝文〟はすべての人の作為するところ、そこは文はあり得ても、ものの真の在りかたは失われている、とされる。とすれば、人の要らざる作為をくわえない〝樸〟なる状態こそが、人の求めてやまぬ「ものの本来の在りかた」であろう。こざかしい知恵者をもてはやし、富や名利をたいせつなものとし、どうでもいいものをむやみにひけらかす――そこに華美と偽巧は見られようとも、かえってそれによってものの真なる姿は失われてしまう。ものがおのずからそう在るところ、そう成るところにすなおに順おうとしない文化・文明は、かえって人心を困惑させる以外の何物でもない。それならば、老子は文化を否定したのかというとそうではない。真の文化とは、文飾ではなくして、人間存在のまさしく根源にたち帰って求められるべきものでなければならない。老子はしきりに、「もとに帰れ」という。「嬰児に復帰す」「無極に復帰す」「樸(ぼく)に復帰す」(以上二十八章)の嬰児・無極・樸は、すべてもとの意であって、結局、それは老子のもっとも明らかにしたい〝自然の道〟に帰ることでもある。樸に徹した人間社会こそ、本来の人間の文化が成立する根底である。

 

それゆえに老子は「天地は不仁(ふじん)、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は不仁、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。」(五章)という。芻狗とは、祭祀に使うための草で作った犬。祭りが終われば捨ててかえりみない。天地はものの自然(ものがおのずからそう在る~成ること)にまかせて、何らの作為を加えないから、かえって万物がおのずからそれぞれに落ち着きを得て生かされる。聖人もまた天地とその無為の徳を合するがゆえに、万人をそれぞれの個性に従って生かす、というのである。「不仁」はまた無為の意でもある。ごくわかりやすく通俗的にいえば、ふかなさけをかけないこと、おせっかいをしないこと、といった意味だろうか。

 

為すなくして為さざるなし

こうして、問題は「無為」ということにある。無為とは「道は常に為すなくして為さざるなし――無為而無不為」(三十七章)とあるように、文字通り何もしないということではない。無為であることによって、かえって全体を為し尽くすのである。『老子』に注釈を施した魏晋時代の王弼(おうひつ)(二二六~二四九)という若くして亡くなった学者は、無為と「自然に順(したが)う」ことだといった。しかも「無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」は道の常の働きそのものである。とすれば、老子における道とはいかなるものなのか。開巻第一章に「道の道とすべきは常道(つねのみち)にあらず。名の名とすべきは常名(つねのな)にあらず。……」という。常道・常名は、個々のもの・ことを対象として、それにつけられた道や名ではなく、むしろ差別相としての個物によって構成される現象の世界を超えた一般者、道を道とするもの、また個物に付与される名に対して、むしろその名を名とするもの――それを常道とか常名といったのである。

 

しかし、老子において表現しようとしている窮極(きゅうきょく)のもの、およそ存在するものの真の在りかたは、常道とか常名といった言葉に表現されるもので満足することはできない。道といってしまえば、もうすでにそれは人の往来する道を予想し、万物の由(よ)るべきところを定めてしまう。逆にいえば、由るところがあるから道というのである。万物の由るところという意味においては、たしかに道は表現し得る最大のものである。しかし、まだそれは何とも表現できないもの、すなわち王弼(おうひつ)のいわゆる〝無称(むしょう)の大〟にかなわない。そこで老子はついに、「自然」をもって無称の言、窮極の辞とする。なぜ道よりも「自然」が老子のいい表わそうとするものの当体を得ているか。「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。」(二十五章)といわれるように、道もまたその働きと性格において「自然」にのっとるからである。

 

「自然」とは「もののありのままの姿」そのものである。老子の関心はまさにこの一点に集中する。「もののありのままの姿」したがって、ものが「おのずからそう在る~成る」実相そのものこそ、老子の把握した存在の窮極であった。これについてかりにあざ名して道といい、そしてその道が常に、無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」とされたのである。無為とは、こうして、ものの自然に順うことであり、もののおのずからそう在る~成るところにまかせきって作為を加えないことである。ものの自然にまかせて作為しなければ、かえってものはその本来のいのちに生きることができる。「為さざるなし」とは、およそ存在するものをその本来の在りかたに即して生かしきることでなければならない。もののいのち、ものの本来の在りかた――それがまた先にいった老子の〝樸(ぼく)〟である。そして、人がこのような道を体得したとき、そこに無為の徳が実現する。

 

老子のいう「上徳」とは、また無為而無不為(なすなくしてなさざるなし)」である。これは先の道についていわれたのと同じである。つまり、徳とは、この「無為而無不為」としての道を日常具体のなかに実現する、または実践を通して道を証示することである。作為すればものの自然を失い、不作為なればかえってものはおのずから働いて自己自身に生きる。それが道につき順うことによって実現される老子の徳である。

 

まことに老子の思想は、虚無(きょむ)にさまよう逃避・隠遁(いんとん)の弁(べん)ではなくして、個物の実存を見きわめてそれに徹し、ものの自然にすなおに順うことによって、かえってものを生かす思想である。人間とはそもそも何であったのか――老子を通してわれわれはもう一度その問いの根源にたち帰って深く考えることを余儀なくされるであろう。

 

本書の執筆を依頼されてから長い日時が経過してしまった。理由はいろいろあるが、とにかくシリーズとして企画された清水書院に対し、多大のご迷惑をおかけしたことをここに深くお詑びする次第である。

 

(なお、本文に述べてあり通り、『老子』なる書は、それを書いた老子という人物の実在も、またこの書ができあがった年代も、明確にはわからない。したがって、老子という人物の年譜を、本シリーズの他の思想家同様につくることはとてもできないので、これを省略してあることをおことわりしておきたい。)

 

昭和四五年五月 高橋 進

 

目次

 

Ⅰ 老子と『老子』書

概説
漢代の学問
司馬遷父子の思想と生涯
『史記』の老子伝
『史記』老子伝の問題点
老子および『老子』書をどうみるか

 

Ⅱ 『老子』書の背景

春秋・戦国時代
百花斉放、百家争鳴

 

Ⅲ 老子の思想

哲学の意義
道について
徳について
聖人の徳
治政――聖王の治
もとに帰る
あとがき

 

参考文献・テキストなど
さくいん

 

 

Ⅰ 老子と『老子』書

 

概説

 

貴重な人類の文化遺産

何か新しい資料が出てくれば、混乱し不明であるとされていることがらが、はっきりと断定されるであろう。『老子』という書物、および老子という人物について、これまで、数多くの学者が長い間研究してきているが、ついに、老子という人物がいつごろのどんな人であったか、いや、いったい老子という固有名詞をもった個人が実在したのかどうか、また、『老子』という書物は老子という個人によって書かれたものなのか、いつごろできたものなのか、……などなど、いろいろな説はあるが、ついにはっきりと断定できるほど、十分に説得力のある見解は出てきていない。

 

とにかく、老子および『老子』書は、それほど古い中国における文化的な遺産なのである。秦・漢帝国が成立する、それより何百年も前にすでに出現していたこの書物が、それにもかかわらず、最も中国人に愛読されてきたこと、中国人ばかりでなく、われわれ日本人にも、いや、世界の国々の人々に翻訳され、読み継がれてきたことは、まぎれもない事実である。つまり『老子』という書を書いた人物もはっきりわからなければ、いつごろできた本であるかも正確にはわからないのに、二〇〇〇年以上も経た現在に至るまで、その書物が存在し、世界の人々によって読まれてきている。それほど、この『老子』という書物は魅力のある本なのである。

 

いったいに、世界のどこの地域においてもそうだが、古い時代のことはよくわからない。歴史の源流に近づけば近づくほど、いわゆる歴史的事実も、その事実を構成した人物たちのことも、ぼんやりとした霞(かすみ)の向こうにおかれてしまう。いまここで文明の精神史的源流について語る余裕はないが、そういう源流、つまり文明の源には、こんにち生きるわれわれ世界人類にとって、まことに魅力のある人物が出現していたのである。インドのシャカ、ギリシアのソクラテス、中国の孔子やここで問題にされる老子という人物も、またそのひとりであるといえよう。しかし、文明の原点近くに存在した人物のことは、はっきりとした生没年や、その人の名にかけられた文献や書物とともにわからなくても、それがこんにちまで伝承されてきて、しかも、いささかも何千年も前に形成された価値を失っていないということは、考えてみると不思議なことである。人類の歴史が始まって二千数百年もたてば、そうとうに人間は進歩しそうなものである。確かに、人間の知識は進歩したから、現在、社会主義とか自由主義とか、その政治体制を異にしても、世界の国々の形成した科学文明は、いわゆる宇宙時代を現出している。しかし、人間の精神というか、生き方というか、そういうものは、二千数百年くらい経たところでは、それほど変わっていないのであろう。それなるがゆえに、古い時代の、著者の生没年もはっきりわからず、確かにその人物が書いたかどうかもわからない書物が、重要な文化遺産、人類の知恵として愛されているのであろう。

 

だから、文明の原点近くには、そういうはっきりとわからない人物に仮託された、そのころの人間たちの知恵の集積があったのだ、そういうものが、こんにちの文明社会を形成するエネルギーになったのだとも、またいえるであろう。話題が少しそれたようだが、老子という人物にかけられた『老子』という書物を読んでみると、原点近くに生存した人間の、賢さ・知恵・透徹さが感じられる。

 

さて、老子および『老子』書であるが、これについて全くわからないというわけではない。老子という人物の伝記がこんにちまで残されているのである。その最も古いものは、前漢中期、紀元前二世紀から紀元前一世紀ごろの大歴史家、司馬遷(しばせん)の書いた『史記』にみえる「老子韓非列伝(かんぴれつでん)」である。

 

われわれはまず、この司馬遷の残した資料を検討してみることにしよう。その前に、司馬遷という人がどんな人物だったか、かんたんにふれてみたい。

 

漢代の学問

 

経書の成立と歴史学

漢代の学問・思想の特徴といえることはそれ以前にはまだ諸子百家(しょしひゃっか)の一つにすぎなかった儒家思想が前漢武帝(紀元前一四一~紀元前八八)の時、董仲舒(とうちゅうじょ)の建言をいれて儒学を尊重する方針がきまり、以後漢王朝の指導~支配理念としての国教的性格をおびるようになり、諸子学に優位していちじるしく興隆したことである。儒学が官学になるにつれて、儒家思想のよりどころである経典(テキスト)の編成・整備が行なわれ、また、これに対する字句の解釈や注釈が、主として学問をする者の重要な任務となった。これを一般に訓詁(くんこ)の学風という。

 

どうしてこのような学問傾向になったかというと、それには理由がある。前代の秦帝国を創立した有名な始皇帝は、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)といって、思想統制のために史官秦紀以外の書物を焚(や)いたうえ、儒者を大量にとらえて穴埋めにした。やがて秦が滅び、漢代になってその統制が解かれると、天下に広く隠されている書物を求めることになった。貴重な書物、めずらしい書物を献上すると賞さえも出たということである。

 

とにかく禁令が解かれた漢代の儒者たちは、先秦時代の古書をあちこちと探り出して、これを研究することが仕事となった。最初に済南(チーナン)の伏生(ふくせい)という学者――秦から漢にかけて生きた人で、漢代の儒者にとっては古老ともいえる――の口伝えによって書きおろされた〝経書〟ができた。このテキストは、漢代の新体(その時の現代文字)で書かれたから、これを今文(きんぶん)という。のちになって、孔子の旧宅の壁中などから出たといわれるものは、先秦の旧体だったので、これを古文(こぶん)という。たとえば、『尚書(しょうしょ)』などはその代表的な経典で、口伝えで書かれた新しいものを『今文尚書(きんぶんしょうしょ)』、旧体の方を『古文(こぶん)尚書』という。今文の教書は簡単であるが、古文のものはかなり詳細である。しかし、今文といい、古文といっても、両方ともすでに原始儒家思想からは遠く離れており、いちがいにそのどちらが正しく、どちらが非であるともいえない。そこで、今文をテキストとして研究するグループと、古文をテキストにするグループとに分かれ、それぞれ一家の見解をたてようとしたのである。さらに同じテキストを用いても、それの解釈は異なってくるから、やはり『易(えき)』には五家、『今文尚書』には三家というように多くの学派が形成された。しかも前漢時代の学者には、とくに一経専問が多く、師の学説を墨守(ぼくしゅ)していたから、テキストの混乱がひどかった。

 

後漢時代になると、ようやくひとりで数経に通ずる学者が出てきたが、その末期に出た馬融(ばゆう)・鄭玄(じょうげん)というふたりの学者は、どの経典にも精通し、詳しい注釈をほどこした、また、前漢以来の諸説紛々(ふんぶん)たるテキストでは学生の教育にも困るので、後漢章帝の建初四年(七九年)には、多くの学者を宮中の白虎観(びゃっこかん)に集めて五経の本文の異同を議論させ、『白虎議奏(ぎそう)』というものをつくらせた。こんにち伝わる『白虎通』または『白虎通義』はこの時の記録である。このようにして、漢代の学問は、もっぱら伝承された儒家経典のテキスト-クリティークや、訓詁(くんこ)注釈の傾向にあった。

 

しかし、この反面、古典に対する統一的見解を求めたり、国家権力によって経文の異同を決定させることは、一種の思想統制であるから、漢代の学問、とくに儒学が独創的な性格をもち得なかったことも事実である。他面、テキスト-クリティークによって、『周易』『礼記(らいき)』『儀礼(ぎらい)』『春秋公羊(こうよう)伝』『春秋穀梁伝(こくりょうでん)』『春秋左氏(さし)伝』『尚書』『論語』など、最近では一部漢代の偽(ぎ)作だともいわれるように、その創造的側面は決して見のがし得ないものがあった。

 

わけても、漢代の学問で重要な成果は、歴史学の発達である。西洋のヘロドトスに比べられる司馬遷(しばせん)の『史記』や班固(はんこ)の『漢書』、荀悦(じゅんえつ)の『漠紀』などの傑作があいついであらわれ、また、『淮南子(えなんじ)』や『論衡(ろんこう)』のような思想的に深い著書も出現していたのである。

 

<続きはこちらで>

新装版 人と思想1 『老子』

高橋 進 著

Amazonで購入

 

人と思想20『マルクス』のまえがき+αを読んでみる

 

マルクスについて

 

――マルクスを、勉強するようになったわけ――

 

貧しい農村の暗い思いで

農村でくらした少年時代のことを思いだすと、わたしは、なにか暗い気もちになる。そのころの日本は、中国との戦争にあけくれていた。どこで、どういうわけの戦争をしているかを、わたしは、聞いたり、読んだり、教わったりした。もちろん、りっぱな正義の戦いをしているのだと思っていた。でも、日々の生活はつらかった。なにか遠くにあって、わたしたちには見えない戦争よりも、身じかな生活の貧しさが、つらかったのである。わたしだけでなく、わたしが育った農村のひとたちは、みんな貧しかった。それが、わたしを、ゆううつにさせたのだった。学校の背性は、立身出世をせよ! と教えてくれた。でも、貧しいものにはなりようがなかった。たったひとつ、兵隊になり、戦争にいってえらくなる道があったといえよう。しかし、それも、わたしのごとく体の弱いものには、だめだった。

 

とにかく、父母たちの苦労を思うだけでも、わたしには、楽しい青春どころではなかった。たがいに助けあい、はげましあって暮らした小学校時代の友だち、そのなかには、すぐれたひともいた。にもかかわらず、上の学校へいって勉強するわけにはいかないひとが、大部分だった。

 

おさな心のわたしは、そういうことに、なにか暗い矛盾のようなものを、感じないわけにはいかなかった。でも、こういう矛盾が、なににもとづくかなどということは、とうていわからなかった。考える力はないし、教えてくれるものはないし、また、考えたところでどうにもならぬことだった。わたしたち百姓は、汗水たらし、泥まみれになって働いた。それでも貧しくて、啄木の詩が、思いだされてくるのだった。

 

はたらけど

はたらけど猶(なお)わが生活楽(くらしらく)にならざり

じっと手を見る

 

悔いと反省からマルクスへ

父母たちのおかげで、わたしは、さいわいにも学生生活をおくることができた。しかし、父母が、息子の学費のために苦労していたあの姿を思いうかべると、なにか、いまだに、わびてもわびきれないような気もちになる。

 

中国との戦争は、ますます拡大して、ついに、米英をも敵とする、あの大戦争にまでなっていった。わたしは、その間に教師となり、哲学や倫理を教えることになった。もちろん、もはや、マルクス主義を、公然と勉強したり、しゃべったり、教えたりすることは、できなかった。ゆるされたことは、マルクス主義を、アカとして、てっていてきに非難攻げきすることだけだった。

 

戦争は、あのような形でおわった。わたしの教え子たちが、戦場で散っていった。友人たちが、戦争の犠牲となった。よき兵としてたたえられた農村の若者たちの多くが、骨となってかえってきた。空襲で、多くの市民たちが死んでいった。広島や長崎の惨状は、ほんとうのことがあきらかになるにつれ、この世の地獄をおもわせた。……かずかぎりのない戦争の悲劇。

 

そして、わたいはなにをしていたのか。なにをどう勉強し、なにをどう教えていたのか。わたしは、いまここで、わたしの勉強の誤りや、教師としての罪や責任や恥をくわしく語るゆとりはない。よく歴史の本などにでてくる写真に、神宮外苑での「学徒出陣」というのがある。わたしは、あのとき、女子学生とともに、旗をふって、出陣学徒を見おくった。あのなかの多くの学生が、戦場で死んでいったことであろう。わたしは、あの写真をみるにつけ、いいしれぬ恥ずかしさと責めに苦しめられるのである。なんとおろかな、無責任な教師であったろうか、と。なんというバカな哲学者であり倫理学者であったことか、と。わたしは、哲学とか、倫理とか、思想というものの勉強のしかたを、おかした罪にたいする責めとして、また、つぐないとして、反省しないわけにはいかなかった。

 

そういう悔いと反省のなかから、わたしはマルクスを勉強するようになった。貧乏のわけ、戦争の原因、労働者の解放、ほんとうの意味での人間の自由や平等や幸福、それらをあきらかにし、それへの道を訴えるマルクス主義が、多くのものを考えさせてくれたからである。戦争にも反対して、平和をさけんできたマルクス主義者たちに、胸うたれたからである。わたしは、考えた。とにかく、この理論を勉強してみよう! と。

 

マルクスのみりょく

マルクスは、貧乏人どころか、ゆたかなインテリ市民の家庭で生まれ、めぐまれた学生生活をした。かれの妻イェニーは、郷土きっての名門貴族の出であり、美ぼうをうたわれた才媛であった。それにもかかわらず、マルクスは、貧しい労働者の解放のために、一生をささげた。かれは、労働者をはじめとする下づみの人たちの貧困や、苦労や、奴隷状態や、堕落が、おカネ(資本としてのおカネ)が支配している、この社会のしくみに由来するとした。こんにちの戦争もまた、利潤をもとめてやまない資本の争いによるとした。およそ、あらゆるひとが、カネの奴隷となって、ほんとうの人間らしさを失っているのは、この、「ことはカネしだい」の社会が原因だ! だから、労働者を解放してほんとうに自由にするためには、そしてまた、およそ人間を解放してほんとうに人間らしくするためには、この、資本の私有を金科玉条としている社会(資本主義)を、変革しなくてはならない、と考えた。そして、この資本主義を打倒するための力ないしエネルギーを、プロレタリアート(労働者階級)に期待した。マルクスは、そういう革命のための理論を、プロレタリアートにとき、そのための実践を、プロレタリアートにうったえた。かれの生がいは、こういう理論のための勉強と、それを実行するための活動とにあけくれたのだった。とうぜん、そこには、迫害や中傷や追放がつきまとった。それとともに、ドン底の生活や、家庭の不幸(子供の病死)や、病苦が、かれをはなさなかった。だが、かつて郷土の花とうたわれた妻イェニーの愛は、よく夫をささえた。また、きわめてゆたかな商店主の息子として生まれたエンゲルスが、マルクスのこのうえない友人として、マルクスを助けたのだった。

 

こういう愛情や友情にたすけられて、マルクスは、こんにち、いたるところで問題になっているマルクス主義を、つくりあげたのである。

 

マルクスが生まれてから、まだ一五〇年そこそこである。かれの主著『資本論』が世にでたのは、一〇〇年ほどまえのことである。にもかかわらず、こんにちの世界の三分の一が、すでにマルクス主義にもとづく社会体制をとっている。そうでない国や民族も、大なり小なりマルクス主義の影響をうけているし、うけないわけにはいかない。世界史のうえで、かつてこんな思想があったであろうか。

 

こんにちの問題

しかし、かつて貧しかった農村も、いまはずいぶんゆたかになったようだ。戦争にまけたにもかかわらず、今日の日本は、まえにもまして、目をみはるばかりの姿となった。だから、わたしが、いまのべてきたことなど、若いひとには、老人の昔ばなしか、グチのようにきこえよう。

 

しかし、わたしは、こんにちの世のなかに、また暗いものや矛盾を、感じないわけにはいかない。そういう矛盾をみていると、こんにちの世にもてはやされている、えらいひとのおっしゃることが、なにかそらぞらしくきこえてくる。

はなしを、身じかのことにむけてみよう。みんなこんにちまで、しのぎをけずって競争してきたし、これからも、そうしないわけにはいかない。競争であるからに、ひとを負かして、自分が勝たなくてはならない。そのため、みんな、ずいぶんいやなゆがんだ勉強や生活をしてきたし、また、しなくてはならない。学歴が人間の価値をきめる。そこで、大学へ行けないひとのことを思うと、わたしは、また暗い気もちになる。これほど平和がさけばれながら、いま、世界のあるところでは、戦争がおこっている。おそろしい核兵器は、たえず、わたしたちをおびやかしている。なにが友情だ! なにが自由だ! なにが平等だ!なにが平和だ! とさけびたくもなる。「ことはカネしだい」の世のなかでは、ひとはカネのために狂奔しないわけにはいかない。ひとは、カネの奴隷になっている。こういう状態を、わたしたちは、「現代の矛盾」とか、「疎外」(人間が、人間のほんとうのありかた、人間らしさ、を失っていること)とよんでいる。「人間らしさを取りもどせ!」とさけんでみたところで、むりなはなしであろう。問題は、そういうふうにならないわけにはいかない状況にあろう。こういう状況のなかでは、授業の時間などに並べられる、友情・仲よく・自由・自主・平等・平和などといったコトバが、実際をもってピンとこないのは、むりからぬことであろう。

 

新しい社会づくり

問題は状況であり、社会である! こういうてんから、世のゆがみや矛盾をなくしようとしたのが、マルクスであったともいえよう。

 

ひとは、ひとりで生きているのでなく、また、ひとりでは生きられない。日々の生活、またそのためのものの生産、を考えてみてもわかる。それ、社会の多くのひとたちの協力によってはじめて可能である。にもかかわらず、貧富のはげしい格差があったり、たがいにしのぎをけずって競争しあい、敵対しあい、いがみあわねばならぬとは、どうしたことだろう。そこでは、仲よくしろとか、信頼しろとか、自主的であれとか、えらくなれ、などといってみたところで、それだけでは、ことはかたづくまい。問題は、みんなが仲よくしあえ、信頼しあえ、自主的に個性をのばすことができ、みんなが価値(えらさ)をもちうるような社会をつくることに、あるのでなかろうか。こういう人間関係をつくりあげること、それを、マルクスも、ねがったのであったといえよう。

 

わたしが、数年前、西欧のある大学にいたころ、自由主義圏のなかのかれら学生たちも、ねっしんにマルクス主義を勉強していた。かれらは、マルクス主義にたいしてどういう態度をとるにしろ、とにかく、この主義をよく勉強しなくては、という思いにせまられていた。そうでなければ、世界の平和の問題を論じる資格はない、と考えているようだった。

 

この書を世におくるにさいして、わたしは、恩師である、坂崎侃先生のことを、思わずにはおれない。戦後、先生は、とまどっていたわたしたちのために、マルクス主義の研究会を、つくってくださった。わたしたちは、そこで、マルクス主義のすぐれた研究者から指導をうけ、先生を中心にし、いろいろな問題にかんして、話しあいや討論をすることができた。それは、実のりの多いものであった。マルクスを勉強するばあい、わけても新しい社会づくりを考えるばあい、こういう共同の勉強や、話しあいや、討論がだいじだと思う。つたないこの書が、そうした勉強の、手がかりとなってくれるよう、ねがってやまない。

 

目次

 

マルクスについて ――マルクスを勉強するようになったわけ――

Ⅰ 幸福な生いたちと自己形成

この人を探訪しよう!
マルクスが登場してくる舞台
幸せな幼少時代と、その理想
多感な学生時代

Ⅱ 波らんといばらの道 ――理論形成と実践活動――

青年ヘーゲル学派
『ライン新聞』での体験と反省
人間の解放をめざして ――パリ時代のみのり――
唯物史観と剰余価値論の育成
『共産党宣言』
二月革命と『新ライン新聞』
ロンドン亡命とどん底生活
科学的社会主義の仕上げ ――『資本論』の完成――
最後の力をしぼって実践活動へ ――第一インターナショナルの創立から解散へ――
肉体は死んでも、仕事は生きつづける

あとがき ――さらに勉強しようとする人のために――

年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ 幸福な生いたちと自己形成

 

この人を探訪しよう

 

マルクスの生地をたずねて

一九六三年、九月のことである。当時西ドイツのフランクフルトで勉強していたわたしは、早朝、下宿をたって、ルクセンブルクとの国境近くにあるトリールへ向かった。西欧では、すでに秋風が感じられた。

 

「トリールに行くって? それはすてきだ!」と、下宿のおじさんも、近所のおかみさんも、また知りあいの友人たちも喜んでくれた。みんな異口同音に、トリールの町のすばらしさを、あれこれ説明してくれた。しかしそのすばらしさとは、ローマ時代のみごとな遺跡のかずかずが残っている、歴史の町の、それであった。

 

だが、わたしがこの町へ旅だった第一の理由は、ここが、現代の世界をゆり動かしているマルクス主義の生みの親、カール=マルクスのふるさとであったからである。

 

なじかは知らねど心わびて

昔の伝えはそぞろ身にしむ

わびしく暮れゆくラインの流れ

入日に山やま赤く映ゆる

 

わたしたち日本人にも親しまれている、ハイネの「ローレライ」の詩である。ハイネも、マルクスの友人であった。貧しいユダヤ商人の子に生まれたかれもまた、社会主義思想と新しい世界を求めてさまよい、波らんの生涯をおえたロマン的詩人だった。……汽車はライン川にそって走り、このロマンチックなローレライにさしかかる。かつて船でここを通ったときに、船のかなでてくれる「ローレライ」の曲につられ、わたしも人なみに旅愁をそそられ、故国を思いだしたものだった。だが、トリールをめざしての汽車の旅のこの日は、なにかあこがれの未来をもとめるような、しかもわたしを待っていてくれる未知の恋人にあうような、いわば前向きのロマンチシズムに心をはずませていた。

 

汽車はまもなくコーブレンツに到着する。わたしはここでライン川とも別れて、トリール行きに乗りかえた。列車は、ぶどう酒で有名なモーゼル川の流域を、西南にむかってさかのぼっていく。

 

コーブレンツから約二時間。あこがれの町トリールは、街路樹のきれいな、いかにもこざっぱりした姿を、モーゼル谷あいの盆地に横たえていた。案内書でしらべてみると、たしかマルクス当時一万数千の人口であった町が、いまでは八万五千余になっている。トリールは、かつてのローマ支配時代、西方領域の中心であり、ドイツ侵略の拠点であった。なるほどドイツの友人・知人たちが教えてくれたように、いたるところに、小ローマ的な遺跡(城門・浴場・円形劇場など)が散在している。また古いドームや教会や宮殿は、この地がキリスト教的・世俗的権威の中心であったことを示してくれる。ただ、古い町でありながらも、いかにもいきいきとした雰囲気がただよっている。そこにひとは、かつて一九世紀、ドイツのなかでのもっともフランス的な町といわれた新しさ、若さ、自由さをよみとることができるであろうか。

 

いうまでもなくわたしは、ひとしおの感慨をもってマルクスの生家をたずねた。といっても、一部を戦災にやられ、戦後、修理してもとの形にしたものだそうだが。通りからの眺めでは、つくりは一般市民風である。が、なかなかの大きさは、かなり豊かな弁護士であったマルクスの父の生活を、しのばせてくれる。この印象この面影を忘れまいと、日本人らしく、カメラをなん回もパチリパチリやる。階下は、ドイツ社民党の支部事務所になっており、階上が、ささやかな記念館になっている。記念館には、写真、書簡、草稿、著作などが並べられていたが、書簡や草稿はいずれも原物ではなく、写真版だった。そのなかで、とくにわたしの心をとらえたものは、マルクス夫人の達筆であった。夫人は、やはりこの地の帰属の娘として生まれ、美ぼうで社交界の花とうたわれたのだった。この貴族出のかの女が、波らんの多い、苦難つづきのマルクスを、生涯かわらない愛情で助けたのだと思うと、みごとな筆跡が、よりいっそう光をはなつようだった。

 

いま世界をゆり動かしているマルクス主義の創設者、カール=マルクスは、いまを去る約一五〇年前の一八一八年五月五日、ここで誕生したのである。町の有力な弁護士であったハインリヒ=マルクスと、オランダの出で、やはり弁護士の娘であったヘンリエッテ=マルクスの三番目の子として。

 

しかし、マルクスにとって、トリールの思い出は、この生家などよりも、最愛の妻(イェニー)とのロマンスであったようである。後年の一八六三年一二月、当時ロンドンにいたマルクス、母死亡のしらせをうけてトリールに帰ってきた。そのさい、かれがもっとも心をひかれたものは、愛妻の実家、ヴェストファーレン家であった。かれは滞在中、毎日、昔なつかしいヴェストファーレン家のあたりをさまよった。そして町の人びとが、右からも左からも、かつてのトリールの「いちばん美しい乙女」であり、「舞踏会の女王」であった。イェニーはどうしているかと、たずねてくれるのに得意になった。かの女なくしてマルクスを考えることはできない。それほどのかの女であってみれば、マルクスをひきつけ、ロマンスの花を咲かせたこの家こそは、つきぬ思い出の泉であったであろう。……

 

人間らしい人間

ロンドンに亡命して、貧乏な生活をしていたパパ、マルクスは、あるときのこと、二人の娘(ジェニーとラウラ)のアンケートに、こんな告白をしている(ある部分の意訳)。

 

パパの好きな徳は? ――素朴!

パパの好きな男の人の徳は? ――強さ!

パパの好きな女の人の徳は? ――弱さ!

パパのおもな性質? ……ひたむき!

パパの幸福感は? ――たたかうこと!

パパの不幸は? ――屈従すること!

パパがいちばん大目にみて許す悪徳は? ――すぐにんじてだまされやすいこと!

パパの好きな仕事は? ――読書に没頭すること!

パパの好きな色は? ――赤!

パパの好きな名前は? ――ラウラ、ジェニー!

パパの好きな格言は? ――人間的なことで、わたしの心をとらえないものは、なにもない!

パパの好きなモットーは? ――すべてをうたがえ!

 

この告白は、まさにマルクスの人がらを表現して躍如たるものがある。この男、ひたむきの情熱をもって恋に没頭するかと思えば、またひたむきの情熱をもって友人と議論をしてゆずらない。こびることや屈従をきらって決然と雑誌編集長の席をすてるかと思えば、どんなに迫害されても追放されても、あくまでも自己を貫き通して屈しない。まったく本の虫になってすごし勉強をするかと思えば、貧しい労働者のために東奔西走してたたかう。すばらしい妻をめとり。小説のかれんなヒロイン、グレートヒェンにあこがれるかと思えば、愛しい子どもの馬となってよつんばいをする。生涯まったくの貧乏であったこの男は、あるときは食うものもなくて愛児をつぎつぎに死なせ、柩さえも買えなかった。奥さんを質屋におくってオーバーを質にいれるかと思えば、家賃が払えなくておいたてをくい、夜具その他の衣類から、子どものおもちゃまで執達吏(しつたつり)に差しおさえられてしまった。どうにもならないときに、友人や知りあい、とくにエンゲルスにお金の無心をした。それでいてこの男は、多くの人から愛され尊敬され信頼された。かれの家庭は、同志や貧しい人たちの、いこいと話しあいの場所ともなった。

 

たしかにこの男は偉大であった。しかしその偉大さは、超人間的であるからではなくて、人間的、あまりにも人間的なその生涯のゆえではなかろうか。それゆえにこそ、また、わたしは、この人に親しみをおぼえ、この人から教えられ、この人によって勇気づけられるのである。たしかにマルクスは幼少より秀才のほまれが高かった。マルクス夫人は、トリールでさわがれた才媛であった。しかし、この秀才と才媛も、あれだけの勉強と熱意と努力がなければ、あれだけのことをなしとげることはできなかったであろう。かれこそは、まさに、人間のなかでの、わけても人間らしい人間といえよう。そして、じつは、かれの究極の念願、かれの究極の目的は、この人間――資本主義でゆがめられ、非人間化され、人間らしさを失ってしまっている人間――を解放して、ほんとうの人間らしい人間にすることであった。しかし、そのためには、かれは、この人間をゆがめ、非人間化し、奴隷化した資本主義という社会を批判し、それに死刑の宣告をしなくてはならなかった。なにが、どういう状況か、かれをそうさせたのであろうか。

 

いまも生きているマルクス

考えてみれば、マルクスが生まれてからまだ一五〇年にもならない。かれの主著『資本論』の第一巻が出版されてから一〇〇年もたたない。ところがそのあいだに、世界は、マルクス主義の影響のもとで、たいへんな変わりかたをした。

 

理論の上で、また生活の面でマルクスを助けたのはエンゲルスという男であった。資本主義のいちじるしい発達に相応して、マルクス・エンゲルスの理論をさらに発展させたのは、レーニンであった。ひとは、これらの人びとの理論をひっくるめて、「マルクス=エンゲルス=レーニン」主義もしくは「マルクス=レーニン」主義、あるいは「マルクス主義」と総称している。周知のようにこのマルクス主義の旗のもとで、こんにちのソ連や中華人民共和国ができあがり、さらに多くの社会主義国が生まれて、現に世界は、二分している(自由主義国がわと社会主義国がわとへ)。そもそも歴史のうえで、これほどのおおきな力や影響をおよぼした思想が、ほかにあったであろうか。西欧をたずねてみるとき、いまさらながら驚くのは、キリスト教的な生活や、キリスト教的な見かた感じかたが、まさに本能のごとくに、西欧人の日常生活にしみこんでいることである。道徳はいうまでもなく、芸術にしても、思想にしても、教育にしても、さらには政治さえもが、キリスト教的な色あいをおびている。それが、日本で想像していた以上であるのに、びっくりすることもしばしばである。しかしキリスト教がこのように土着して、生活のすべてを支配するようになるまでには、あるところでは数百年ないし一千年、あるところでは千数百年の年月を要した。ところが、マルクス主義は、わずか百年そこそこで、世界をこれほどにも変えてしまったのである。「哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、だいじなことは、それを変革することである」という、かれのことばそのままに。まことにおどろくべき思想であり理論である。

 

もちろんマルクスの生まれたドイツでも、またかれのつぎつぎの亡命地、フランスや中欧諸国やイギリスでも、マルクス主義はそのままでは根をおろさなかった。それどころか、しばしば強い排げきをうけた。マルクス主義者は迫害をうけた。にもかかわらず、この主義は、これらの地にも、いろいろな面で、大なり小なりの影響をおよぼさずにはおかなかった。労働運動や労働問題においてはもちろんのこと、資本主義のやりかたや国の政策や近代的民主主義のありかたなどにおいて。(資本主義の修正とか、基本的社会権の確立とか、福祉国家の出現とか、社会保障制度の進展とか、社会民主党ないし社会党の政権獲得などにおいて、わたしたちは、マルクス主義の影響をみることができよう。)そして、第二次世界大戦後には、ドイツのなかで、経過はともかくとして、まっこうからマルクス主義の旗をかかげる東ドイツ民主主義共和国が、できあがってしまった。まことに矛盾したことには、マルクスを無視すればするほど、マルクス主義を排すれば排するほど、ますますマルクスが顔を出し、マルクス主義が浸透してくるように思われる。

 

わたしが、西ドイツのフランクフルト大学で学んでいたときのことである。そのおり、「マルクス主義の」とか、「マルクス主義に関する」とかいった名のつく講義や演習では、いつも学生が大いりだった。かれらは、好むと否とにかかわらず、また肯定すると否とをとわず、とにかくマルクス主義をよく勉強し、それをじゅうぶんに理解しなくては、こんにちのドイツや世界の問題は解決しないと、考えているようにみえた。

 

だから、死んだマルクスは、いまもなお生きている。これからも生きつづけるであろう。しかも、かれのやったことは、そのまま今日にあてはまるのではないとしても、いろいろな意味で、わたしたちを導く星として、ますます光り輝くであろう。

 

わたしたちは、これからこの人を探訪しよう。そして、探訪しなくてはなるまい。

 

<続きはこちらで>

新装版 人と思想20 『マルクス』

小牧 治 著

Amazonで購入

 

人と思想15『カント』のまえがき+αを読んでみる

 

カントについて――カントとわたし――

 

カントにひかれて

 

わからぬということが、わかるのはすばらしい!

もう三〇年以上もまえのことである。いまの高校生にあたるころ、わたしは、倫理(当時の「修身」)の先生らしからぬ、倫理(修身)の先生にでくわした。「D先生という先生であった。D先生は、大学(旧制の大学)の大学院で、哲学を勉強しているとのうわさであった。どういう風の吹きまわしか、学校のどういう教育方針にもとづくのか、わたしたちは、この若い先生から、およそおごそかで、近よりがたい倫理を学ぶことになった。だいたい倫理は、校長先生とか教頭先生とかの、年をとったえらい先生が教えることになっていた。

 

当時の日本社会には、いろいろな矛盾が、あらわれてきていた。世は不景気だった。とくに農村は、疲弊してあえいでいた。軍部の中国大陸への侵入と、国内でのファシズムへの傾斜とは、日ましに、強まっていた。こんな情勢のなかでの「倫理」だから、その時間に、どんなことが教えられ、どんな説教がなされたかは、およそ想像がつくであろう。

 

こういう社会情勢のなかにあって、さきのD先生は、最初の時間がはじまると同時に、教科書を非難しはじめた。「文部省検定済」といかめしく書かれた、わたしたちの「修身」の教科書を手にとって、「こんなバカな、インチキなことはない」と、内容を批判し非難しはじめた。それが数回つづいた。これは、ぼくたちにとって、たいへんなショックだった。むりもない。教科書、わけても倫理(修身)の教科書は、われわれにとって、いわば、おかすことのできない絶対の聖書であり、金科玉条であったのだから。「あのD先生は、アカだ!」とのうわさがひろがった。

 

そして、D先生は、けっきょく文部省検定済の教科書のかわりに、西田幾多郎の『善の研究』を使うと言明した。

 

『善の研究』の「第三編 善」をテキストにした授業が、はじまった。だが、二〇歳にもたっしないぼくたち青二才に、そうたやすく『善の研究』がわかろうはずはない。聞いても聞いてもわからなかった。読んでも読んでも、むずかしかった。「てんでわかりません」というと、先生いわく、「そうかんたんにわかっては、西田幾多郎が泣く。わからんことがわかるというのは、すばらしいことだ!」と。なんだか狐にだまされたようで、ますますわからない。ほめられているのか、けなされているのか、さっぱりわからない。……それでも、学期末の試験は近づいた。わかろうとあせればあせるほど、ますますわからない。といって、「わからんということがわかりました」とだけ書いて、すますわけにもいかない。そこで、まだ若かったわたしは、記憶力にものをいわせて、試験はんいの文を、はじめから棒暗記していった。幸か不幸か、試験はパス。だが、こんな学習をされては、それこそ西田幾多郎は泣いていたことであろう。

 

カント哲学との出あい

そして、ここでだいじなことは、この授業を通して、わたしは、「カント」という哲人の思想と、出あうことになったのである。といっても、その思想内容がわからないのだから、じつは、やっぱり、カントはわからんということが、わかっただけだった。D先生は、やたらに、「カント」とか、「カントの道徳律」とか、「人格」とか、「定言命法」とか、「善意志」とかいったむずかしいコトバを口にした。なんだか急にえらくなったような誇りを感じないわけでもなかった。が、けっきょくカントの哲学や倫理思想も、わたしに棒暗記されたものであるにすぎなかった。

 

でも、カントを教わったおかげで、わたしは、カントを、トンカなどとまちがえるような、へまはやらずにすますことができた。というのは、こんな笑いばなしがある。ジンメルという哲学者の書いた『カントとゲーテ』という本があり、その日本訳がでた。訳の標題が、横がきで、『カントとゲーテ』と書かれてあったのを、ある人、「テーゲとトンカ」と読んで、とくとくとしていたというのである。これに反し、わたしは、倫理の時間に、D先生からなんかいとなく、「カント」というコトバをきかされた。そのけっか、まる暗記のカント思想であったとはいえ、トンカとさかさまによむようなことだけは、せずにすんだのである。さいわいなるかな!

 

思えば小学校時代からこんにちまで、わたしにも、あの先生、この先生と、忘れえぬ、印象ぶかい先生が、なんにんかある。D先生は、その一人である。D先生の授業は、たしか週二時間で、たった一年間だけだった。そして、それだけで、D先生とは縁がきれてしまった。いご、顔をあわすこともなければ、文通をすることもなかった。だが、この先生のおもかげは、ふかくわたしの脳裏にきざみこまれたのだった。神聖化され、絶対でもあった修身の教科書――東京のある有名な教授が書いたもの――を、くそみそに批判した先生! 西田幾多郎とかカントとかの思想を、あんな青二才に、あきずに、しかもしんけんな顔つきで教えようとした先生! 「わかりません」といえば、「わかってたまるかい!」とか、「わからないということがわかってけっこう!」とか、いつも、なぞのようなコトバをかえしてきた先生! そういうD先生のコトバやおもかげが、いま、ほうふつとしてくる。

 

そして近ごろになって、やっと、あのころのD先生の意図がわかってきたように思われる。だんだんとゆがんだ道をたどろうとしている日本、そしてそういう日本の歩みにこび、その歩みに迎合しようとするような思想にたいし、先生は、きびしい批判をむけたのだった。先生とよぶには若すぎるほどのこの先生、そのうえ、およそ修身の先生らしからぬこの先生は、そういう批判こそ、もっともだいじな修身であり、倫理であると考えたのであった。権力とか時流におもねらず、こびず、迎合しないばかりか、それにたいするきびしい批判こそがだいじだと、いうのであった。そして、われわれ若いものに、上からあたえられた教科書などを金科玉条としないで、じぶんで考え、じぶんの理性でものごとをみ、なっとくのいかぬ不合理をかんぜんと批判するよう、よびかけたのであった。

 

わたしは、これから、カントを問題にしようとしている。そのカントは、批判の哲学を書き、人間とはなんであるかを問題にし、そして、「みずから考え、みずから探求し、みずからの脚で立て!」と、学生によびかけた。D先生は、そういうカントにあやかろうとしたのかもしれぬ。ただざんねんなことに、青二才は師の心を理解することができず、すべてを、棒暗記の材料にしてしまった。

 

デカンショで半年暮らす

その後、わたしは、東京のある学校(旧制高等師範学校)で、勉強するようになった。いろいろな関係の先輩たちが、新入生歓迎のコンパをしてくれた。いまと同じように、だんだんうちとけてくると、校歌とか、民謡とか、流行歌の合唱がはじまった。そして、手びょうしの「デカンショ」がうたわれた。

 

デカンショ、デカンショで半年暮らす、

よいよい

あとの半年や、ねて暮らす、

よーい、よーい、デッカンショ!

 

先輩たちは、この歌の意味を説明してくれた。デカンショとは、デカルト・カント・ショーペンハウエルのことである。青年、大いに哲学を勉強すべし! と。また、とくいげに、デカルトやカントの有名なコトバをひれきして、学のあるところをみせた。が、じっくり話しあってみると、反省じみた顔つきで、「とにかく、ドイツ語と、カントだけは、しっかりやっておけよ。……でないと、おれみたいに後悔するぞ!」と忠告してくれた。ピンとせまってはこなかったけれど、先輩の顔は、しんけんだった。

 

もちろん、「デカンショ」は、ほんらいは、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」ではなく、兵庫県篠山付近の盆踊歌であったらしい。農民の盆踊歌であったとするなら、デカルト・カント・ショーペンハウエルの意味でなかったのは、たしかであろう。おそらく「出稼ぎしょ」の意味であったろうといわれている。

 

ただ、問題は、当時(明治の末年から、大正・昭和にかけて)の学生たちが、デカンショを、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」の意味で、高唱していたということである。それは、デカルト・カント………といった人の思想、つまり、西洋近代の哲学論にあけくれていた、当時の学生気質(かたぎ)を、ほうふつさせるのである。教室でも、仲間どうしの議論でも、そして、コンパでも、「デカルトいわく……」、「カントによれば………」が、たえず口にされたことであろう。まさに、日々が、デカンショで暮れていったことであろう。

 

毎にち、カント、カント、カント

授業がはじまった。わたしは、文科のなかの、倫理・教育・法経を専攻するクラスに属していたので、そうした方面の授業が多かった。ところが、おどろいたことには、哲学や倫理学の授業はもちろんのこと、教育学の時間でも、さらに法学通論の講義でも、「カントいわく」「カントによれば」が、しきりととびだしてきた。わたしは、めんくらった。そして、首をかしげた。なぜ、カントが、そんなに問題になるのか、と。

 

ある先生はいった。「カント以前の哲学は、みんなカントへ流れこみ、カント以後の哲学は、すべてカントから流れでた」と。そういわれてみれば、諸先生が、「カントいわく」を口にするのも、なるぼどと了解できたのだった。かつて、お説教づくしの修身のかわりに、カント倫理学を手づるにして、善にたいする考えかたや批判態度の訓練をしようとしたD先生の気持ちが、わかってきた。しかし、もちろん、カント以前の哲学が、どのようにしてカントへ流れこみ、どのようにしてカントから流出していったかは、わからなかった。とにかく、わたしのばあいは、「カント、カントで半年暮らす、よいよい………」であった。

 

カントはドイツ人だから、カントの話がでると、さかんにむずかしいドイツ語が、口にされ、黒板に書かれる。それは、やむをえないとしよう。ところがどういうわけか、哲学や倫理学や教育学の講義には、やたらにドイツ語がとびだしてき、そしてそれが黒板に書かれる。黒板は、ドイツ語でいっぱい。まだろくにドイツ語を習っていないどころか、ABC………のアルファベットがはじまったばかりだ。カントいわく、ヘルバルト(ドイツの教育学者)いわく、の内容がむずかしいうえ、さらにそれがドイツ語の原語を使って説明されるのだから、ますますわからない。新入生たるもの、たまったものではない。「ドイツ語とカントはしっかりやっておけ!」との上級生の忠告が、もうはじめから身にしみるようだった。

 

もちろん、N先生はこういった。「デカルトいわく、カントいわく、ヘルバルトいわく……は、『デカルト、カント、ヘルバルト……は、こういったということだ』にすぎない。『こういったとさ』にすぎない。つまり、だとさだ。だから、だいじなことは、諸君が、みずから考え、みずからの脚で立つことである。哲学(フィロゾフィー)とは、哲学をおぼえるのでなく、みずから哲学すること(フィロゾフィーレン)なのだ」と。そういいながら、ただちにまた「カントいわく……」がはじまる。だから、「カントいわく」の内容が理解できないかぎりは、みずからフィロゾフィーレンするわけにもいかないのである。

 

いっきょりょうとく原書でカントを

「カントいわく……」「……」「……」……をきかされ、ドイツ語に苦しめられ、英語(語学の時間のほか、教育史の演習や西洋史の授業も、英語の原書)に時間をとられ、無我夢中で一年間は終わった。

 

春休みがおとずれた。わたしは、一大決心をした。ひとつ、ドイツ語の原書で、カントを読んでみよう、と。カント哲学の勉強ができ、同時にドイツ語の練習にもなるというなら、まさに、いっきょりょうとく(一挙両得)である。

 

わたしは、”IMMANUEL KANT:GRUNDLEGUNG ZUR METAPHYSIK DER SITTEN”(イマヌエル=カント『グルントレーグンク=ツア=メタフィジィーク=デア=ジッテン』)という、みどり色の、一冊の原書を手にいれた。世に「ビブリオテーク版」といわれている、あざやかなみどりで装ていされた、きれいな本である。そのときの感激は、たとえようもなかった。これが、世界一の哲学者カントの原書だと思うと、手にしただけで、心がおどってくるのだった。それこそ、じかにカントにふれ、みずからの力でこれを読破し、これを理解し、これをわがものにしてやろうと、胸がたかなるのを、禁じえなかった。この本の題名の意味は、「道徳哲学のための基礎工事」とでもいうべきものである。当時、日本訳は、『道徳哲学原論』(安倍能成・藤原正訳、岩波書店刊)という名で、世にでていた。わたしは、同時に、この邦訳を買いもとめた。(こんにちでは、さらに、『道徳形而上学の基礎』、『道徳形而上学原論』などという名の訳もでている。)原書と訳本の二冊を手にして、意気ようようとふるさとへむかった。なにか、すばらしい恋人か宝かを、手に入れでもしたような思いで。

 

しかし、やっとドイツ語の初級を終わったばかりのものにとっては、この本は、たいへんな難解だった。だいいち、単語がわからない。わたしは、どのページの余白もいっぱいになるほど、辞書を引いて、単語の意味を書きこんだ。訳をたどって、ともかくも一文章、一文章をたどっていった。一日じゅう、朝から夜おそくまで机にかじりついていても、なにほども進まない。この本(『クルントレーグンク』と略称されている)は一文章が長いことで有名である。覚悟はしていたが、それでも、ときに一ページ近くもの文にでくわすと、眼と頭がくらくらするようだった。まさに、難行苦行である。しかし、わたしにとって、ところどころにオアシスがあった。それは、かつてD先生から、またちかくはN先生から教わり、すでに知っていた名句にであったときである。「この世界ではもとより、およそこの世界の外においても、無制限に善とみなされることができるようなものは、善意志いがいには、まったく考えられない……」こんな句を見つけだしたときには、なつかしい友にでもあった思いで、カントじしんの直接のコトバを口ずさむのだった。

 

悪戦苦闘のすえ、春休みの終わるころ、とにかく読破した。快哉(かいさい)をさけばずにはおれなかった。この喜びが、家の人たちにわかろうはずはない。赤飯をたいてもらうわけにもいかない。じぶんひとりで、ふるさとの山野を歩きまわった。まるで、天下でもとったような思いにみたされて………。

 

はげまされたわが心

むずかしかった。ドイツ文の構造は、むずかしかったが、とにかく訳を参照にして、なんとか、じぶんなりに理解した。しかし、内容となると、そうかんたんにはいかない。まだわからないこと、なっとくのいかぬことは、ずいしょにあった。

 

しかし、一ページ、一ページとすすんでいくにつれ、なにか、力強く、わたしの心にせまってくるものがあった。カントは、若いわたしに、こんなふうにうったえてきた。

 

理解力・機智・判断力などの精神的才能は、なるほど望ましいものである。勇気・果断・堅忍不抜(けんにんふばつ)などの気質の性は、なるほど善いものである。また、権力・富・名誉はもとより、健康、身心の安泰、みちたりた境遇など、そうじて幸福とよばれるものも、善いものであり、望ましいものである。しかし、それらを、無条件に善いものというわけにはいかない。それらを、人間にとって、いちばん価値のある、望ましいものとみなすわけにはいかない。人間にとっていちばん価値があり、人間に人間らしい尊さをあたえるものは、善き意志である。善意志こそ、この世界ではもとより、世界のそとにおいても、無条件絶対に善とみなされうる、ただひとつのものである。それゆえ、もし、われわれの意志が善でなかったら、さきにあげたせっかくの才能や性質も、きわめて悪い有害なものとなりかねない。知恵があり、勇気があり、冷静である悪漢ほど、おそろしくて憎むべきものではないか。権力・富・名誉などといった幸福にめぐまれた人が、もし善意志を欠くならば、どういうことになるであろうか。かれは、得意になり、ときには思いあがって世に害悪をおよぼすであろう。わたしたちは、純な善意志のおもかげをつゆ持たぬ人が、この世に栄えていくのをみて義憤を感じないであろうか。あさましい人間として、その人を蔑視するではないか。まさに善意志こそ、いっさいをこえて光りかがやく尊厳であり、人間を人間たらしめる本質である。人格を崇高なものとする根源である、と。

 

わたしの才能は、貧弱だった。わたしの性質は、気が弱く、優柔不断だった。わけても小さいときから体が弱かった。あまり、権力や名誉にあこがれはしなかったけれど、また、巨万の富がほしいとは思わなかったけれど、貧乏はつらかった。身心の安らかさや、落ちついた境遇がほしかった。当時の疲弊した暗い農村のなかにそだったわたしの心は、かずかずの欲求不満にみたされていた。

 

カントの『グルントレーグンク』は、人間の尊厳や崇高さが、善意志のなかにあることを、くりかえし教えてくれた。力強く、わが心にうったえてくれた。暗かった青年の心に、光りが、さしこんできたようだった。哲人の書を読破しえた喜びは、同時にまた、行手になにか希望を見つけだした喜びでもあった。

 

 

わたしに投げかけられた問題

 

なんじじしんに不純はないか

しかし、他面、カントのコトバは、わたしの心の奥底へ、いわばことを審判する神の声のように、くいこんできた。それは、はたしてわたしじしんの意志が、純粋に善であるかどうかと、わたしの心にせまってくるのであった。そしてそれが、わたしじしんの不純さを自覚させ、かよわい青春の心を、苦しめるのだった。

 

『グルントレーグンク』によれば、絶対的な価値をもつ善意志、人間の尊厳の根源である善き意志とは、純粋に理性の声にしたがうことであった。逆にいえば、この世の幸福をもとめようとする人間の欲(本能・衝動)によって、意志が動かされたり、影響されてはならない、というのであった。幸福な生をいちばんだいじな目あてとするような生きかたは、カントによれば、悪である。人間のなすべきこと(道徳的な善)は、幸福追求ではなくして、幸福をさずかるにふさわしいということである。幸福をうけるにふさわしいとは、幸福を追うことではなく、むしろ逆に、幸福を意にせず、ときには幸福を犠牲にしても、ひたすら純粋に、理性にもとづいて行動し実践することである。生きたいから生きる、好きだから愛する、いっぱんに、こうしたいからこうする、というのでは、自然の性(本能・衝動)のままに動いているにすぎず、動物とかわりはない。そんなことでは、人間の尊さや価値は、どこにも見いだされないであろう。問題は生きたくない、死にたい、にもかかわらず、理性の命ずるところにしたがって、けつぜんと、義務感から生きぬこうとすることである。好きではない、にもかかわらず、愛すべきがゆえに愛することである。まさに、「なんじの敵を愛せよ!」である。『グルントレーグンク』は、こういうきびしい理性主義ないし「義務感からの実践」を、これでもか、これでもか、というほどに、わたしにせまってくるのだった。

 

わたしも人の子であり、青春の血に燃える青年であり、人間であった。おませでもあったわたしは、また、多情多感の若ものであった。権勢とか、カネもちにはそうミリョクがないばかりか、そういう人に義憤をさえ感じたが、しかしひとなみの幸福はほしかった。愛する女性(恋愛)がほしかったし、愛する女性を愛したかった。そのために若い心は動揺した。しかし、生涯、独身であったカントは、それを許しそうにはなかった。「清らかな愛」などと、自分で弁解し、自分でなぐさめてみても、だめだった。すくなくともじぶんのばあいは、義務からの愛どころか、人間の性(さが)にもとづく根強い欲だ! カント流にいえば、わが愛は、不純いがいのなにものでもないではないか! といって、わたしは、この内の思いを捨てさることもできないのである。義務からかの女を愛しているのではないし、義務からかの女を愛することはできない。わたしは、たちきれぬわが業(ごう)に、悩み苦しんだ。

 

わたしは、『グルントレーグンク』の最後の余白に、読み終えた日付と、読破に要した日数とを記入した。読み終えた感激や、カントの崇高な考えかたを、たたえた。そして、つけくわえた。「わたしは、カントから遠くへだたっている。純粋な善・善意志・理性から遠くはなれて、デモーニッシュな情欲・感性・恋愛のなかにもがいている。この世の幸福をもとめてあくせくしている。なんてくだらない人間なんだろう!だが、この両面、理性と愛、善と幸福の二面は、調和することができないものだろうか………」と。

 

わいてきた学問的情熱

休暇のさいには、いつでも『グルントレーグンク』を持参して帰省した。二回目、三回目、四回目……と、読破を記念する日付の回数は、ふえていった。それがふえるにつれ、書かれていることの内容や順序が、本を開いただけでわかるようにさえなった。

 

わたしの関心は、おいおいと、カントを学問的に研究してみようという方向へ、向いていった。日本ででていた、カント研究に関する著作をしらべた。経済のゆるすかぎり、そうした本を買い集めていった。当時(昭和一〇年ごろ)は、まだ、神田や本郷の古本屋をぶらつけば、こうした本が、たいてい見つかった。安いレクラム版(岩波文庫のような原書)の『実践理性批判』(『グリティーク=デア=ブラックティッシェン=フェルヌンフト』)、『永久平和のために』、『たんなる理性の限界内の宗教』などの原書を手にいれて、胸をおどらせた。カントの著作にかんしての訳も、だんだんとふえていった。

 

カントとは、いったいどういう人間なのか。まず、わたしは、カントの伝記をあれこれしらべては、うなずいたり、感心したりした。時計のようにきちょうめんであったという、カントの日常生活を、まねた。思想内容もおいおいわかってくるにつれ、わたしは、思わず、「カントいわく……」「カントでは……」を口にするようになった。こうして、ばんじ、カントにあやかろうとした。こんどは、諸先生がたから教えられるカントではなく、わたしじしんの自発的な意志による、「カント、カントであけくれ暮らす、よいよい………」であった。わたしは、カントのとりこになってしまった。

 

大学生活をおくるようになったころには、わたしは、カントを、卒業論文のテーマにすることに決めていたといえよう。カントが、わたしじしんのなかでしめていた場を思えば、卒論がカントになるのは、とうぜんであった。

 

あらたに、ビブリオテーク版の『実践理性批判』(クリティーク=デア=プラックティッシェン=フェルヌンフト)や、『純粋理性批判』(『クリティーク=デア=ライネン=フェルヌンフト』)や、『判断力批判』(『クリティーク=デア=ウアタイルスクラーフト』)を買いもとめて、本格的な勉強をはじめた。もちろん訳を参照しながら。同時に、哲学史のなかにおける、カントの位置や役わりについても、勉強しなくてはならなかった。つまり、カント以前の哲学が、どのようにしてカントへ流れこみ、カント以後の哲学が、どのようにしてカントから流れでたか、ということを。

 

T先生、M先生、K先生などの、カントにかんする講義や演習にでた。助手のIさんは、カントにかんするすぐれた卒論を、書かれたひとだった。いかにもカント研究者らしい、誠実で、純で、まがったことのきらいな人格の持主だった。このIさんから、身近かで、いろいろな教えをうけることができた。わたしは、このうえなくよき師、よき先輩に、めぐまれたといえよう。

 

哲人カントも人間であるはず

そもそもわたしが、カントの考えかたに感激したのは、つぎのことだった。すなわち、この世の幸福を追うのでなく、その幸福をうけるに値すること、つまり、道徳的義務の命令(純粋な理性の要求)にしたがうこと、それを、人間の尊さの源泉としたことだった。

 

しかし、いたらぬわたしは、どうしても、ひとなみのこの世の幸福がほしかった。また、女性との愛情(恋愛)に心がひかれるのを、たちきることができなかった。なんてくだらない人間だろうと、みずからわが身を叱ってみた。だが、好きな人に、おのずから向いていく愛は、大きく強くわが心を動かさないわけにはいかなかった。

 

理性と欲求、義務と快楽、正義と愛、禅僧的な学的修業と恋愛、なすべきこととしたいこと、…………この二つのあいだのカットウに、苦悩したのであった。

 

しかし、カントだって、人間であろう。人間であるかぎり、わたしがいだいたような苦悩が、カントにぜんぜんなかったはずはなかろう。たしかに理性は、人間にのみ許された尊いものであろう。しかし、この世の幸福をもとめてやまない欲求も、もし神がそれを人間にさずけたとするなら、神の眼には意義のあるものであったはずだ。

 

善と幸福

理性と欲望、善と幸福、幸福に値することと幸福にあずかること、両者は両立できないものだろうか。両者は調和できないのだろうか。もし両立し調和するとするなら、それは、どういう姿、どういう形で可能なのであろうか。それが、いまわたしにとって問題であった。人間くさい人間、わけてもわたしのようにくだらない人間が、人間でありながら、人間の尊厳をあらわしていく道はないのか。きびしく尊厳なカント哲学は、わたしのような人間にも生きる希望を、あたえてはくれないだろうか。

 

たしかにカントは、なすべきかいなかを、幸福になるかどうかによって決めてはならない、といった。しかし、幸福そのものがいけないとはいっていない。むしろ、幸福をうけるにふさわしい姿で、幸福にめぐまれることを望んでいるともいえよう。

 

『形式から内容へ』、それが、わたしの卒論の題目となった。それは「善意志から幸福へ」といいかえてもよかった。『形式から内容へ』という、わたしの論文は、善意志と幸福との関連を解明しようとしたのである。いうまでもなくわたしは、そのことによって、わたしの、この世での生、この世での幸福、この世での愛、それらの正しいありかたを求めようとしたのである。

 

 

カント的精神はいずこへ

 

理性的でない時代の流れ

だが、日本の現実は、ますます暗くなっていった。不景気がつづき、農村が疲弊し、政治が堕落していった。ファシズムないし軍国主義の風潮が、瀰漫(びまん)していった。中国とのいざこざがだんだん大きくなり、正義の名のもとに、中国への侵略がだんだん拡大されていった。そとでは、満州事変や日華事変がおこり、日独伊間の防共協定や軍事同盟が成立していった。うちでは、五・一五事件や二・二六事件がおこり、文化や思想の統制がはじまり、ついに、国家総動員法が発令されていった。学校や在郷での軍事教練は強化されていった。たんに若い青年だけでなく、中年の人たちまでも、召集をうけて、入隊していった。中国の戦場へ派遣される軍隊は、増加していった。そして、ある人たちは、戦死して、骨となって帰ってきた。太平洋戦争前の、まったく暗たんたる時代である。

 

多くの人たちや著作が、思想的な弾圧をうけた。カントのいう理性が、だんだんと失われていく時代であった。カント学者であり、『純粋理性批判』の訳者でもある天野貞祐さんの、『道理の感覚』は、わたしに強い感激をあたえてくれた。道理(理性)の存在とその勝利を確信する。この本の著者は、道理の感覚によって、時勢をするどく批判した。それは、わたしたちにとって、とくにカントを勉強しているわたしにとって、りゅういんのさがる思いをさせてくれた。しかしその本も、弾圧をうけ、著者は自発的に、発行の停止を申し出なくてはならなかった。カントの「永久平和論」などは、非現実的な夢となってしまった。

 

デカルトの、「われ思う、ゆえにわれあり」という考えかたは、近代人のものの見かたの、シンボルであった。しかし、それも、いま、国家という強大な怪物のまえでは、たわごとのごとくか弱いものにすぎなかった。こうして、「デカンショ」は、たとえ歌われたにしても、ほそぼそとした声での、かつてのよき時代へのノスタルジァ(郷愁)となってしまった。

 

カントにかわって、フィヒテの、愛国的な『ドイツ国民に告ぐ』がはやった。フィヒテは、カントの自由哲学をうけついだ哲学者で、当時(一八世紀の末から一九世紀のはじめ)のドイツの統一を念願する愛国者であった。『ドイツ国民に告ぐ』は、ナポレオンの占領下でなされた。愛国的な講演である。日本は、占領されてはいなかった。むしろ逆に、満州その他を占領していた。それでも、大陸への派兵は、やむにやまれぬ、いわば、われわれの生存のためのぎりぎりの線だと、政府やニュースや新聞は、宣伝した。そこでは、フィヒテ流の「日本国民に告ぐ」が、必要であったのかもしれぬ。とんでもない利用をされたものだ!と、ドイツの地下で、フィヒテは苦笑していたかもしれない。いや、嘆いていたかもしれない。

 

風にそよぐ葦

また、ヘーゲルがはやった。「国家は、世界史の審判にたえなくてはならない」というヘーゲルの考えかたは、さいしょは、時局を批判する意味で、喧伝(けんでん)された。日本の歩みが、世界史の審判に是認されなくてはならないとして、ゆがんでいく方向を批判しようとした。しかしのちには、日本の歩みこそ、世界史の審判にたえるどころか、世界史の新しい方向をしめすものだ、というふうに解釈されていった。こうして、ヘーゲルの考えかたは、対外的・対内的国策を哲学的に基礎づけ、美化するために利用された。ヘーゲルの『法の哲学』のなかに、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という有名な句がある。それにもとづいて、日本の現実が、理性的で正しいものと吹聴された。また、『法の哲学』は、国家こそは、地上における神であり、自由の実現であり、したがって、ほんとうに理性的なものである、とした。さらに、愛国心をたたえ、戦争の高速な意義を論じた。その本のなかで、ヘーゲルはいう。戦争によって国民の健康が保たれ、民族精神の固定化が防止される。戦争こそは、民族を強くし、むしろ国内における安静・統一をもたらし、平和からくる腐敗・墜落を防ぐものである。国家は、動的に(弁証法的に)発展していくものとして、戦争をもたないわけにはいかない………と。中国での侵略戦争にあけくれる日本。そういうとき・ところのなかで、この国家観ないし戦争観が流行したわけは、いわずとも明らかであろう。

 

いっそう時局が進展するとともに、ヒトラーの『わが闘争』とか、ローベンベルクの『二〇世紀の神話』が宣伝された。まもなく第二次世界大戦がはじまった。

 

そのころのことだった。わたしは、山手線の電車のなかで、ある旧制高校の一学生が、岩波文庫の『純粋理性批判』を、読んでいるのを見つけた。あれっ! と、自分の本でも読まれているように、おどろいた。わかるのかしら? ともいぶかったが、つよく胸をうたれ、頭のさがる思いがした。この学生は、明日は応召してでかけていくかも知れないのに……。

 

だが、「考える葦」(パスカルが、思索する人間をたたえたコトバ)の多くは、とうとうとして、「風にそよぐ葦」へとかわっていった。そして、恥ずかしいことには、かつて、カント的な理性を口ぐせにしていたわたしも、この、時の流れの誤りを理解することができなかった。批判し抵抗することもなく、「国策になびく葦」となってしまった。まことにカント研究者の名に値せぬ、カント研究者であった。なさけない、恥ずかしいカント研究者といわねばならない。

 

カントで、めしを食う男

多くの人が、あるいは国外の戦場で、あるいは国内の空爆下で、あるいは飢えで、死んでいった。身近かな、あの人、この人も帰らぬ人となった。疎開していたわが家族は助かったけれど、東京で、食うものも食わずにわたしを世話してくれた「おばさん」は、三月九日の大空襲で、焼け死んでしまった……。だが、わたしは生き残った。九死に一生をえて。

 

日本は敗けた。戦争は終わった。空には、侵入した米空軍が、勝利者として、爆音をとどろかせていた。思いもかけぬことだった。浦和の、ある好意ある一家の世話をうけていたわたしは、ここの一室から、うつろな気持ちで、この爆音をきいていた。心身ともに、生きる力もないほどに疲れはてていた。

 

ようやくにして、ともかくも立ちなおった心は、カントを求めた。やっぱり、心のふるさとが、なつかしかったのであろう。いちばん大じにして、さいごまで身のそばにおいていたものは、みんな焼失してしまった。だが、ふしぎにも、疎開させていた、カントの三批判書(『純粋理性批判』・『実践理性批判』・『判断力批判』)の原書など、大じなものが残っていた。

 

わたしは、『純粋理性批判』の原書を、ぼつぼつと、読みはじめた。読んでいくうちに、心のふるさとは、病みつかれた心を、だんだんと回復させてくれた。意欲もでてきた。ニコライ=ハルトマンというドイツの哲学者は、こんな本は、一日に一ページ以上を読んではならない、といったということである。じゅうぶんに考えるよう、教えたのである。だが、そんなことをしていたら、七六六ページあるこの本を読むだけでも、二年間あまりもかかってしまう。そこで、わたしは、プランをたてた。なん日間で読み終えるというプランを、さきだたせた。そして、一日に読まねばならぬページ数をわりだした。わりあての読了をきびしく守るよう、ちかった。だが、これは、たいへんな苦業であり、疲れた身に、ひどくこたえたようであった。

 

とにかく、「カント、カントでひねもす暮らす……」の日が、またはじまった。わたしは、すでに、数年前から、教師として、哲学や倫理学を教えていた。しかし、戦争中、とくに末期は、授業らしい授業はほとんどできなかった。学生は、今日は工場へ勤労動員されていったかと思うと、あすは召集をうけて軍隊へむかわねばならなかった……。が、いま、戦争が終わり、食うや食わずのなかで、ともかく授業をはじめることができるようになった。

 

わたしは、カントの『グルントレーグンク』を材料にして、授業をはじめようとした。が、学生には、ドイツ語の力はなかった。やむなく、アボットの英訳(T.K.ABBOTT;FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF THE METAPHYSIC OF ETHICS BY IMMANUEL KANT)をテキストにした。それでも、学生は、難解のようであった。

 

ある友人がひやかした。「カントでめしが食えるとは、きみは、けっこうな男だね。カント先生にお礼をいえよ」と。もちろん、わたしの机上には、もう一〇年近くも(戦争末期の一年間をのぞいて)、カントの肖像が、飾られてあった。

 

悔い・わび・反省

ただ、戦争が終わってみて、わたしは、自分じしんのとってきた態度について、深い悔いとわびの念に、責められねばならなかった。ゆがめられていく時の流れを正すために、わたしの、カントを中心にした勉強は、どれだけの寄与をしたであろうか。わたしは、政府から、ラジオから、また新聞から流されてくることを、そのまま信じこんで、この戦争の性格を見ぬくことができなかった。したがって、戦争にたいして、なんらの、正しい批判や抵抗を向けることができなかった。とうぜん、学生にたいしても、正しい認識や批判をのべることは、できなかった。それは、カント哲学の徒として、恥ずべきことではなかろうか。教師として、申しわけのないことではなかろうか。

 

間違ったのは、わたしだけではなかったように思う。カント、ヘーゲル……などのすぐれた研究者として、わたしが日ごろ尊敬さえしていた人たちのうち、ある人たちは沈黙した。ある人たちは、権力に屈した。ある人たちは、権力に追ずいした。ある人たちは、それに迎合した。ある人たちは、おもねった。いったいこれは、どういうわけなのだろうか。哲学者が、こういうありさまだとするなら、哲学の意義はどこにあるのだろうか。

 

敗戦のあとで、戦争に批判や抵抗をしめした人、またそのために何年かを牢獄ですごした人、獄死した人、さらには殺されさえした人……などが明らかにされてきた。そのなかには、名もなく、学のないような人もいた。が、また、学問的な知識や理論にもとづいて、批判や抵抗をした人もいた。そういう人の多くが、あるいは社会科学者であり、あるいは社会主義者や共産主義者であり、あるいはマルクス主義者であったというのは、いったいどういうわけなのだろうか。おそれられ、悪者あつかいにされたアカが、反戦と平和を主張し、忠良なる臣民とされた人が、その逆であったとは! カントは、すでに、一五〇年もまえに、永久平和論を、主張していたではないか!

 

わたしは、みずからを悔い、みずからの誤りをわび、そして、みずからの研究方法を反省しないわけにはいかなかった。

 

わたしは、そしてまた、いままでの日本の哲学者たちは、頭のなかだけで、カントやフィヒテやヘーゲルを、解釈していたのではなかろうか。日本だけではない。哲学の国ドイツは、性(しょう)こりもなく、二度もあんな戦争をおこして、世界をこまらせた。ドイツの哲学もまた、意識のなかだけのことで、現実を批判し是正するという力に、欠けていたのではなかろうか。

 

ようするに、哲学と、現実の政治権力・経済・社会などとの関係の問題である。たとえば、カント哲学は、そのころのドイツの政治や生活や社会状況と、どういう関係にあったのであろうか。またそれは、その後の哲学にたいしてだけでなく、その後のドイツ社会にたいし、どういう影響をおよぼしたのであろうか。そして、われわれ日本人に関していうならば、カント哲学はどういうわけで日本にとりいれられ、なぜ流行し、どういう影響をおよぼしていったであろうか。カント哲学が、解釈されるだけで、批判する力となりえなかったのは、なぜであろうか。そしてまた、市民社会ないし資本主義の矛盾がうんぬんされ、社会主義社会が台頭してきたこんにち、カント哲学そのものは、はたしてどういう意義をもちうるであろうか………。

 

わたしは、『グルントレーグンク』を読んでいらい、カント哲学を、煩悩に苦悩する人間の立場から、理解しようとしたのだった。そして、戦後の悔いとわびと反省のなかから、カント哲学を、社会の発展、歴史の歩み、という立場から考察しようとした。この小著もまた、そういうわたしの苦悩と、悔い・わび・反省との、ささやかなあらわれであるともいえよう。

 

目次

カントについて ――カントとわたし――

カントにひかれて
わたしに投げかけられた問題
カント的精神はいずこへ

Ⅰ カントの住んだとき・ところ

期待された不自然 ――片すみの、東プロイセンでの物語――
殿さまの時代からフリードリヒの世紀へ
住みなれた、ケーニヒスベルク

Ⅱ 哲学研究にささげられた生涯

つつましい一市民のせがれ
わが道を行く、大学教師
思想遍歴のスケッチ
老衰とのたたかい
人間カントのおもかげ

Ⅲ 人間とは何であるか ――カント哲学が探究したもの――

批判哲学の課題
人間は何を知りうるか ――『純粋理性批判』――
人間は何をなすべきか ――『実践理性批判』――
道徳と自然との調和 ――『判断力批判』――
人間は何を望んでよろしいか ――『たんなる理性の限界内の宗教』――
『永久平和のために』
けっきょく、人間とは何であるか ――『実用的見地における人間学』――

おわりに ――カントを活かす道――

カント年譜
参考文献
さくいん

 

 

Ⅰ カントの住んだとき・ところ

 

期待された不自然――片すみの、東プロイセンでの物語――

 

欧州東北のはずれ

いまからおよそ二四〇年まえ、すなわち、一七二四年の春、哲人カントは、ケーニヒスベルクでここの声をあげた。ケーニヒスベルクだって? と、人はいぶかるであろう。むりもない。

 

ヨーロッパの地図を開いてほしい。ベルリンの東北、ワルシャワの北方、バルト海にのぞんだところに、カリーニングラードという都市がある。いま、ソ連領になっているこのカリーニングラードこそ、カントのふるさと、ケーニヒスベルクなのである。

 

カントは、ヨーロッパ東北の、この片すみの地に生まれ、しかも、この地に強い愛情をもった。かれは、八年余(一七四七~五五)の家庭教師の間を除いて、ほとんどこのケーニヒスベルクをはなれることがなかったといわれる。カントにとって、ケーニヒスベルクは、いわば、ただひとつのふるさとであった。ある人(クルト=シュターフェンハーゲン)は書いている。カントが、みずからの人格を、またみずからの偉大な思想をつくりあげたのは、このケーニヒスベルクにおいてであり、この都を通してであった。かれは、まさに全身全霊をもって、ケーニヒスベルクを愛した。かれの偉大な人生は、この都のものである、と。後でのべるつもりだが、カントじしんも、この都のすばらしさを書いている。

 

そこで、わたしたちは、まずなんとしても、カントをとりかこむエートス(カントの住みなれたふるさとの雰囲気、いっぱんの生活感情ないし生活意識)を、みてみる必要があろう。

 

あわれな家庭教師

もう一〇年ほども前になるであろうか。「家庭教師(ホーフマイスター)」という劇が、日本で演じられたことがある。これは、本国のドイツでも、また日本でもなかなか人気のある作家ブレヒト(一八九八~一九五六)が、レンツの「ホーフマイスター」を、改作したものであった。

 

レンツ(一七五一~九二)というのは、一八世紀のドイツの劇作家で、カントの講義をきいたこともあった。みずから家庭教師をした経験もあるレンツは、東プロイセン(ケーニヒスベルク付近の地方)を舞台にしたこの戯曲のなかで、当時(一八世紀後半)の、この地方の、社会的・道徳的・宗教的な雰囲気を、なまなましく描いたのであった。

 

わたしは、レンツの原作と、ブレヒトの改作との違いを、じゅうぶんしらべてはいない。が、この改作劇では、次のような諸点が、わたしに強い印象をあたえたのであった。すなわち、そのころの貴族階級の封建的な意識。召使とか家庭教師とかの身分が受けねばならなかった隷従的(れいじゅうてき)な取りあつかい。情欲のために罪をおかさないではいられないような人間、したがって霊と肉との葛藤に苦悩しないわけにはいかない人間の姿。支配階級に気にいるため、人間的情欲の根元をたちきり(去勢し)、バックボーンを売りわたしてしまうことによって、パンを得ようとした教師の像。そういうなかに姿をあらわしてくるカント哲学、などが。そしてブレヒトは、この作によって、ドイツの教育がたえず権力に屈従し、支配階級の手先きとなってしまう、ドイツの悲劇のいろはを表現しようとしたのであった。いうまでもなく、日本の演出者は、日本のなかにもあるこの悲劇を、訴えようとしたのであろう。

 

この、あわれな家庭教師の物語を、すこし、追ってみよう(岩渕達治訳による)。

 

青春とは罪なもの

場所は、インステルベルク(ケーニヒスベルクを流れるプレーゲル川の上流)の、少佐家の娘、グストヘンの部屋。顧問官(少佐の兄)の息子フリッツは、従妹のグストヘンと強い愛の誓いをかわしているところを、父に見つかってしまう。

 

「さあ、すぐみんな言ってしまいなさい。ここで何をしとった?………いいかフリッツ、………いまだいじなことは、ハレに行って勉強して人類の光明の担い手になることだ。おまえは、まず、この娘にふさわしい者にならなければいかん。そして、ほんとうの自由がなんであるかを、会得しなければいかん! このような自由こそ、人間を禽(きん)獣と分かつものなのだぞ。禽獣はしたいことをする。ところが人間は、それをせんからこそ自由なのだ。わかったか、フリッツ!(フリッツ、はずかしそうにうなづく。)だからわしは、おまえたちに、別に人から強制されず、自由意志で、どうしてもそうすべきであるような型で、お別れをしてもらいたいのだ。おまえたちのあいだで取りかわされる手紙は、かならず公明正大なものでなければならん。……考えることは自由だ。しかし書いたものは、かならず検閲する。……じぶんのしたいように、人がだれもみていないときにするようなのじゃいかん。……いいか。理性こそわれわれの厳正な支配者なのだよ。」

 

ザクセンのハレ大学で学ぶフリッツの友人ペートスは、カントの信奉者である。ペートスの主任教授ヴォルフェンが、カントの反対者であるため、ペートスは、試験がうからない。かれの友人ボルベルクは、「永久平和論」などをとなえているカントは、ぐまいで、大まぬけで、キ印じゃないかな、と、カントをあざける。だがペートスは、ゆずらない。かれは、奉公人として、とくに国王の奴隷として身をささげておれば満足しているドイツ人の奴隷根性を、批判する。カントにたいする反対も、ときを告げるオンドリをにくむ去勢鶏のようなものだ、という。しかし、それぼどのかれも、愛するかの女との結婚と就職のために、カント哲学をしばらくおあづけにして、妥協する。つまり、「戦争は万物の母なり」と書き、無事、たのしい小市民生活へはいりこむというわけ。

 

少佐家の家庭教師となったロイファーは、平身低頭してつかえるが、だんだん奉公人あつかいをされ、給料はへらされていく。娘のグストヘンと、グストヘンをも教えることになったロイファーとは、だんだんと肉体的に近づいていってしまった。帰省しない恋人フリッツを待ちきれないグストヘンは、ロイファーを代用にしようとしたのである。

 

少佐家の一行に追われ、射殺されようとしたロイファーは、近傍の村の学校(分教場)へ逃げ、そこの校長先生に助けられる。そこで、校長先生の助手をして暮らすことになる。ここには、かれに心の愛をそそいでくれる、養女のリーゼがいた。青春の情熱にうちかてなかったロイファーは、リーゼを抱ようして、キスし、見つかってしまう。追放を申しわたされたロイファーは、自分を責めつつも、なげくのである。

 

「しかし人間であるってことが、そんなに呪うべきことだろうか。この感情がどんなに肉的だろうと、どうしてそれが不自然だというのだ。おれを石につくらなかった自然こそ呪われよ、こんな不自然なものをつくりやがって。いったい、おれのどこがわるいんだ。馬丁だって男であることが許されているじゃないか。だのに、おれにはそれが許されないのか。……」

 

期待される教師像

この自然の矛盾のゆえに、追放されて職にありつけないロイファーは、みずから自然にそむいて、ことを解決しようとする。かれは、去勢して、自然のあたえた男性を否定したのだ! 校長先生から、こうほめられはしたが………。

 

「……りっぱな奴だ、おまえを抱かせてくれ、すばらしい、貴い戦士だ! 道はひらけた。この道をたどって行けば、おまえはきっと教育界の光明になれるだろう。教育界の明星と仰がれるだろう。……」

 

「……きみはいま、おのれのうちのあらゆる反対を滅し去り、すべてを義務の命ずるところに従わしめたのだろう? いまからきみは、後顧のうれいなく、人を自分どおりに教育することに専心できるわけだ。これ以上の進歩は望めんな。……前途は洋々たるものだ。」

 

おかげで、いまや失業の心配も、また情欲の心配もなくなったロイファーは、恋人リーゼの愛をうけて、精神的な結婚をする。「だめなんだよ! そいつはできない相談なんだよ」と、校長先生を慨嘆(がいたん)させながら。

 

エピローグ(おわり)に、家庭教師のロイファーになった俳優は、幕の外で、観客にこう訴えるのである。

 

「これがこの喜劇の結末でございます。みなさまはきっと、いささか嫌悪をもよおしながら、芝居をごらんになったことと存じます。

なぜって、みなさまは、ドイツの悲劇をごらんになりましたし、

ドイツに生をうけた人間が、一〇〇年前、いや一〇年前にも、めいめい、どうやって妥協し、おりあいをつけてきたか、おわかりになったことでしょうから。

いや、こんにちでさえ、こんなことが、どこにだって行なわれているのです。

…………………

かれは、われとわが身にとびかかって、苦しみと災いの種をつくる役にしかたたない生殖力の根源を、みずから絶ちきったのでございます。

と申しますのも、かれが自然のままにふるまっているうちは、

いつまでたっても上の方からは嫌われるからなんです。

平身低頭、膝を七重に折っていたうちは、その日の糧もとりあげられて、おあずけをくっていたんです。

かれが羅切(らせつ)〔去勢〕し、みずからの男を失った暁に、はじめて、やっと、上の方がたの知己を得ることができました。

しかしそのときは、かれのバックボーンは折れておりました。

これからのかれの義務は、自分の生徒たちのバックボーンを、骨ぬきにすることです。

わがくにの学校教師諸君! どうかかれのことをお忘れなく。

かれこそは、「不自然」の産物であり、その製造元であります。

新時代の教員生徒諸君、みなさんはよくよくかれの奉公人根性をごらんになって、みなさんは、こんなものとは縁を切ってくださいまし。」

 

劇は、これで終わった。わたしは、ふかいためいきをついた。日本の社会、日本の教育、わけても道徳教育や倫理学のことを考えたのである。こんにちの教育、こんにちの道徳教育や倫理学は、また社会は、どうだろうか。肉体的な去勢をしていることはなくとも、精神的な去勢や、精神的なバックボーンを折ることを、行なったり、強いたりしてはいないだろうか。

 

ところで、わたしたちの問題は、カントだ。わがカント先生は、義務法則や理性法則を、大いに強調した。八年間ほど、家庭教師もした。また、一生、独身であった(もちろん去勢していたわけではないが)。そのカントは、同じとき・◎ところの、あの家庭教師ロイファーを、教師として、また人間として、どうみるであろうか。カントにおける、期待される教師像は? また期待される人間像は?

 

<続きはこちらで>

新装版 人と思想15 『カント』

小牧 治 著

Amazonで購入

 

 

 

「人と思想」
おすすめ書籍

ページトップ