「人と思想」シリーズ

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人と思想150『グーテンベルク』のまえがき+αを読んでみる

 

はじめに

 

今日のわが国においてグーテンベルクの名前はあまねく知れわたっている。中学の社会科や高校の世界史の教科書には、必ずといってもいいぐらいその名前が記され、その業績も紹介されている。たとえばそのうちのひとつには、次のように書かれている。

 

「ルネサンス時代には、技術の開発や発明もさかんにおこなわれた。そのなかでも三大発明といわれる活版印刷・羅針盤・火薬は、文化・社会全般の革新・発展に大きく寄与した。ドイツ人グーテンベルクの発明といわれる活版印刷が、ヨーロッパに広く普及したのは、良質の紙が比較的安く供給できる製紙法が知られていたからである。この結果、書籍が、それまでの写本にくらべ早く正確にしかも安くつくられた。人文主義・宗教改革の思想が各地にすみやかに伝播した理由もここにあった。」(三省堂:詳解世界史B、一九九五年三月初版発行)

 

筆者自身も、こうした内容のことを習ってきたし、多くの日本人にとっても受験などを通じて、これはほぼ常識となっているのではないだろうか?しかしグーテンベルクの活版印刷というものが、具体的にどのようなものであり、この人物がどのような生涯をだどったのかという段になると、はたしてどれくらいの人が知っているのであろうか?おそらく多くの日本人にとっては、ここに紹介した教科書の記述どまりだと思われる。

 

現在わが国で発行されている百科事典を広げてみても、その記述はあまり詳しくはない。またグーテンベルクに関する邦文の文献や書籍も極めて少なく、巻末に掲げた参考文献ぐらいのものである。しかもこれらはグーテンベルクの最大の業績といわれる「聖書」に関するものと、活版印刷がその後のヨーロッパの社会や文化に与えた影響に関するものであって、この人物がたどった生涯については、『グーテンベルク聖書の行方』(富田修二著)および『印刷文化史』(庄司浅水著)の中に比較的詳しく書かれているぐらいで、なお不十分なものといえよう。

 

筆者がこの「人と思想」シリーズのひとつとして、グーテンベルクについて書くようにと依頼されたときただちに引き受けたのは、わが国におけるこうした欠陥を埋めることができたら、という思いからであった。筆者は数年前、『ドイツ出版の社会史〜グーテンベルクから現代まで〜』(三修社)という書物の中で、ドイツの出版史を通史というかたちで著したことがあるが、その最初の部分においてグーテンベルクの業績と生涯についてごく簡単に触れている。もとよりこれは全体のごく一部を成すものであってまったく不十分なものだが、このときにグーテンベルクの生まれ故郷であるドイツのマインツにある「グーテンベルク博物館」や「グーテンベルク協会」を訪ねて集めた文献・資料などによって、ドイツではグーテンベルク研究が極めて盛んであることを知った。その経緯については、本書の「おわりに――グーテンベルク研究史」の中に記したとおりであるが、ともかく「活版印刷術の父」についてまとめてみたいという気持ちを、筆者はそのとき以来抱き続けてきたわけである。

 

今回本書を執筆するに当たって意図したことは、その生涯と業績を、ほぼ半々の比重で扱うことであった。巨匠の業績についてはわが国でも、とりわけその『四十二行聖書』を核とした特別展示のかたちでこれまで何度か紹介されてきたし、その書誌的側面については、先にあげた二冊の邦文書籍の中で、かなり専門的なタッチで詳述されている。

 

筆者としては「人と思想」という本叢書の性格を考えて、ひとつにはその生涯を、グーテンベルクが生きた十五世紀のヨーロッパないしはドイツの時代背景との関連で描くことと、もうひとつには活版印刷の技術的側面や書誌的側面をできるかぎりわかりやすく解説する、という二つのことを実現しようと尽力した。

 

その際に筆者にとって幸運だったことは、時代背景の中で生涯を描くという意図にまさにぴったりの研究書にめぐり合えたことであった。それは本文の中で幾度となく触れていることであるが、巻末の原書文献の第一に掲げたアルベルト=カプル著『ヨハネス=グーテンベルク〜人物と業績〜』(Albert Kapr:Johannes Gutenberg 〜 Persönlichkeit und Leistung 〜)である。その内容がどのようなものであるかという点については、本書の行間から十分にくみ取っていただけることと信じている。この書物は一般人向けに書かれたものとはいっても、極めて詳しい高度な研究書でもある。そして従来のグーテンベルク研究書にはあまり見られなかった社会的・文化的背景との関連に重点をおいて、もともと史料が少なくて謎の部分の多かった「活版印刷術の父」の生涯に、かなり大胆な仮説や推測を交えて切り込んでいる書物でもあるのだ。したがって、今回筆者が本書を通じて紹介した生涯についての記述は、わが国で発行されている百科事典などには記されていない部分も少なくない。

 

ところで活版印刷がヨーロッパのその後の社会や文化に与えた大きな影響については、初めに引用した高校の世界史の教科書にも書かれているとおりであるが、これについて深く、思想的・哲学的に考え、それを詩的洞察に満ちたタッチで描写したのが巻末にも掲げた『グーテンベルクの銀河系〜活字人間の形成』(マーシャル=マクルーハン著)である。ここで元来文学研究者であったマクルーハンは古今東西にわたる博引傍証によって、西欧近代の形成において印刷技術が果たした決定的な役割を詳細に検証している。そして活字(書物)が視覚的要素を促進し、それによって聴覚・触覚的要素を抑圧し、それを通じて近代のテクノロジー・個人主義・ナショナリズムなどを形成したプロセスをモザイク的方法によって浮き彫りにしている。

 

マクルーハンといえば、筆者がまだ若かった一九六七年に突如として旋風のようにわが国にもマスコミを通じて紹介されたのを覚えている。そのときの紹介の調子は、「メディアはメッセージである」というキャッチ・フレーズが前面に持ち出されて、今や活字文化が終焉し、電気=電磁波文化(映画・テレビ等)が到来したことを説くメディア論の専門家ないし社会学者としてマクルーハンを押し出していた、という印象を筆者は強くもっている。それはいわば活字文化の死刑宣告者といった調子での紹介であったが、今回『グーテンベルクの銀河系〜活字人間の形成』を読んでみて感じたことは、テレビ文化ないしはオーディオ・ビジュアル文化の内容には一切触れずに、一般の日本には苦手なカトリシズム的神秘思想の立場から、活字印刷術によって西欧人が体験した「失楽園」を、テレビを中心とした電波文化によって取り戻せるという強い願望を表現したものが本書である、ということであった。その意味で本書にはグーテンベルクというタイトルがついているが、印刷術がもたらした社会的・文化的な衝撃を、実証的にではなくて、文学的・思想的な作品からの膨大な引用を通じていわば形而上的に、しかも批判的に描き出したものなのである。

 

一方歴史学者の立場から十五世紀におけるコミュニケーションの変容について、実証的に研究したものが『印刷革命』(E=L=アイゼンステイン著)である。

 

この本の中でアイゼンステイン女史は、まず第一部で西ヨーロッパにおける写本から印刷への推移に焦点を合わせ、コミュニケーション革命の特徴を概説している。そしてその第二部においてコミュニケーションの変容の様子と、通常中世から近代初期への過度期のものとされている各種の進歩との関係を扱っている。これはつまり一般にもよく知られているルネッサンス、宗教改革、そして近代科学との関係である。その際著者は印刷術を、各種の進歩をもたらしたひとつの作用因と考えているだけである、と断っている。実証的な歴史学者としてこうした慎重な態度をとることについてはよく理解できるが、それにもかかわらず本書においてはコミュニケーション変容の姿が実に丹念に、具体的なかたちで分析・叙述されており、一般の読者にとってはマーシャル=マクルーハンの著作よりは、はるかにわかりやすいと言えよう。ここでその具体的な叙述を紹介できないのはまことに殘念ではあるが、印刷術が後世の社会や文化に与えた大きな影響について興味と関心を抱く読者には、ぜひこの本を読まれることをおすすめしたい。

 

ともあれ、本づくりが今日鉛合金活字を用いない電算写植方式に取って代わられたとしても、グーテンベルクが発明した活版印刷術の原理そのものは書物をつくる方法としては変わりがないのである。そしてマクルーハンの予言やその後のマルチ−メディアの発展にもかかわらず、文化の重要な担い手としての書物や印刷物は今後も決して消えていくものではない、と筆者は確信するものである。その意味でグーテンベルクの発明は、五百五十年を経た現在なお色あせるものではないのである。それゆえに「活版印刷術の父」の生涯と業績を、あらためて具体的なかたちで知る意味も十分あるものと筆者は信じている。

 

終わりに本書執筆へのきっかけを与えてくださった清水書院の清水幸雄氏に、この場を借りて深い感謝の念を捧げたい。また清水書院編集部の村山公章氏のご尽力にもお礼を申し上げる。

 

一九九七年四月

戸叶勝也

 

 

目次

 

はじめに

第一章 時代背景 ――十四・五世紀のマインツ

1 政治・経済・社会的背景
2 書籍を中心とした文化的背景

第二章 グーテンベルクの先祖、出生、青少年時代

1 グーテンベルクの先祖
2 グーテンベルクの出生と青少年時代
3 成人後のグーテンベルク

第三章 シュトラースブルク時代

1 シュトラースブルク居住の直接の動機
2 シュトラースブルクでの仕事

第四章 マインツへの帰還

1 新たな出発
2 マインツにおける初期印刷物
3 活版印刷技術の完成へ向けて

第五章 発明のクライマックス ――聖書の印刷

1 『四十二行聖書』の印刷
2 フスト、グーテンベルクを提訴

第六章 グーテンベルク工房とフスト&シェッファー工房の並立

1 ペーター=シェッファーの登場
2 フスト&シェッファー工房の発展
3 グーテンベルクのその後の活動

第七章 マインツにおける騒乱と晩年の生活

1 マインツ大司教の座をめぐる争い
2 マインツにおける熱い戦い
3 エルトヴィルへの亡命と晩年の暮らし
4 グーテンベルクの死

第八章 活版印刷術の伝播

1 ドイツの他の都市への伝播
2 ヨーロッパ諸地域への伝播

おわりに ――グーテンベルク研究史

年譜
参考文献
さくいん

 

 

第一章 時代背景――十四・五世紀のマインツ

 

1 政治・経済・社会的背景

 

黄金の町マインツ

ヨハネス=グーテンベルクが生まれ、育った町マインツは、西部ドイツのライン川とその支流であるマイン川が合流する地点にある。ここは北イタリアからアルプスを越え、ライン峡谷に沿って北上し、オランダなど低地地方に向かう交通の要衝にあるが、そのためすでに古代ローマの将軍ドルススによって軍隊の駐屯地とされていた。その後、民族大移動の混乱のあと、急速に勢力を増したフランク王国の中核地のひとつとなり、七四七年には大司教の鎮座地となった。そしてマインツ大司教はドイツの約三分の二のキリスト教会を支配する大きな存在となって、歴代国王から各種の特権や多くの所領を与えられた。つまり当時の大司教は宗教的に巨大な存在であったばかりか、政治的にも大きな役割を演じていたのである。たとえば、一一八四年にはこの町で、皇帝フリードリヒ=バルバロッサは、帝国の諸侯がいならぶなかで、その二人の息子を騎士に任命する大々的な祭典を催した。また一二九八年以降大司教は、ドイツ皇帝を選ぶ選帝侯の一人としてドイツの政治を左右する存在になった。

 

こうした政治面ばかりでなく、経済的にもマインツはケルンとともにライン地方の商業の中心地として重要な役割を果すようになった。とりわけ大司教からの全国的規模の注文によって、織物や金細工製品などの取り引きが促進された。大規模な遠隔地商業に従事する大商人の経済力が高まるとともに、自治を求める彼らの動きも強まり、ついに一二四四年には大司教の支配から脱して、マインツは皇帝直属の帝国都市(自由都市)となった。こうした基盤のうえに、一二五四年にはライン都市同盟の指導者にもなったのである。こうしたなかで、「商人ギルド」に結集していた大商人階級は、マインツの都市行政を担う「市参事会」の中枢メンバーになっていた。そしてさらに周辺農村地主との合体や市内における土地保有などを介して、特権的な「都市貴族」になっていった。

 

いっぽう遠隔地商業だけではなく、モノの製造面でもマインツは活発な動きを示していて、手工業者や中小商人によって、よく組織された職種別の「同職ギルド」(ツンフト)が形成されていた。彼らの勤勉さと優れた仕事によってマインツの富は生まれていたわけだが、そうしたことへの自信に裏づけられて手工業者たちの力も増し、やがて都市行政にも参与することを求めて、都市貴族と対立するようになっていた。こうしてグーテンベルクが生まれる前後の一四・五世紀のマインツには、大司教を中心とする宗教的権力、富裕な都市貴族、そして新興のツンフトという三つの勢力が、互いにしのぎを削っていた。そしてそうした諸勢力拮抗のなかで、中世都市のひとつの典型であったマインツには、司教座大聖堂をはじめとして幾多の教会の塔がそびえ立ち、豊かなラインの流れを媒介とした華やかな商工業活動によって、「黄金の町マインツ」と呼ばれる繁栄をこの町は謳歌していたわけである。

 

大司教管理機構と都市貴族

マインツ大司教は、皇帝、諸侯、司教と同様に家人や宮廷人に取り囲まれていたが、大商人たちはその経済力にものを言わせて、こうした家人として宮廷の官職につき、騎士の生まれと同等とされて貴族(都市貴族)に加えられた。つまり彼らは大司教という中世キリスト教社会における権威に寄り添うかたちでその特権を拡大し、享受していたのである。じつはこれからお話するグーテンベルクの先祖の大部分は、こうした都市貴族だったのである。

 

大司教管理機構の頂点に立っていたのは宮内長官であったが、彼は大司教のすべての財産と収入を管理し、裁判権、関税事務、貨幣鋳造権を握り、同時に大司教の職人たちの監督にも当たっていた。ただしマインツ市の行政は市長が代行していた。この宮内長官の下に、市場と都市警察を管理する責任者、貨幣鋳造を監督する責任者、裁判業務の責任者そして管理行政一般の責任者などがいた。これら上級の官職は、特定の家系が代々独占するようになっていて、都市貴族として互いに姻戚関係で結びつき、都市における特権的な支配階級を形成していた。

 

先に述べたようにマインツは自由都市になったわけであるが、その具体的な現れとして、従来封建領主や騎士たちがライン川を航行する船舶に恣意的に課していた関税が撤廃され、そのかわりに大商人たちは船舶が運ぶ物品の集散権を獲得したのであった。これはライン川を上り下りするすべての船がマインツの港で全商品を積み降ろし、数日間それを売らなければならないというものであった。豊かになった都市貴族は、さらに税金の減額や免除まで大司教から勝ちとったのである。そのうえ彼らは、市参事会における支配を利用して、交互に利子の有利な終身年金を支払う制度までつくったのである。この終身年金はグーテンベルクにも大いに関係があるので、ここですこし説明しておきたい。

 

当時利子を取って金を貸すことは、教会によって一般に禁止されていたが、都市貴族たちはそれへの対応策としてひとつのからくりを考え出した。それが終身年金制度であったのだ。金持ちの都市貴族たちは、その子どもたちや若年の親類縁者たちのためにこの年金を買ったわけであるが、それには高い利子(通常五パーセント)がついてふくらんでいった。そしてそれを受益者である子どもや若い親類たちは簡単な手続きで取り戻すことができたのであった。つまり彼らは、たいていの場合、支払った金額よりもはるかに高い金額を受け取り、その差額はマインツ市の財政から支払われたのである。都市貴族たちは自分たちの相互の利益を、市の財政を食いつぶすようなかたちで得ていたわけである。都市行政をぎゅうじっていた市参事会であり、そのメンバーはもっぱら都市貴族によって占められていたことを考えれば、このからくりは理解できよう。

 

こうした特権階級たる都市貴族への年金支払いは、しだいにマインツ市の財政を圧迫していき、税を負担する側の不満も増大していった。なかでも都市にあってその繁栄に貢献していたにもかかわらず、市参事会から締め出されて、税を負担するばかりで、終身年金などの利益享受のなかった中小商人や手工業者たちは、「同職ギルド」(ツンフト)に結集して、都市貴族と対立するようになっていったのである。

 

グーテンベルクが生まれた一四〇〇年ごろのマインツはこうした状況にあったわけであるが、都市貴族出身であったグーテンベルクの生涯は、まさにこのような階級間の対立抗争によって大きな影響を受けたのであった。

 

<続きはこちらで>

人と思想150 『グーテンベルク』

戸叶 勝也 著

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人と思想66『ダーウィン』のまえがき+αを読んでみる

 

序言

 

いま日本における生物学史の最前線の研究者であり、とくにダーウィンに関し長年にわたって造詣を深めてこられた江上生子さん――ダーウィンの著作その他の資料の翻訳者でまた多数の研究論文の著者である――によって、新しいダーウィンの伝記が書かれたことを、私は心からうれしく思う。私の喜びは、まず何より私自身がこれまでしばしば江上さんと共訳者であり共同研究者であって、本書に江上さんのすぐれた研究成果の凝縮が見られることに深い感銘を受けるからである。だが私は、自分のこのような喜びを、本書のすべての読者にたいしても期待できると信じる。それは、本書が科学史という学問の立場から見て真に本格的な科学者伝記として評価されると思うためである。

 

おそらくすべての歴史がそうであるように、伝記もまた時代によって書き改められなければならない。過去の人間の生涯があとで変わることはないけれども、その存在意義はそれぞれの時代で見直されていくであろう。しかもダーウィンの場合、死後百年に近い現在なお個人的生涯に関する重要な資料――江上さんはその多くのものの訳者、紹介者である――が相次いで発掘されている。そしてこんにち、彼の学説や思想――生涯の間に変化もあるが――にたいして、信頼を強める人もあれば新たに問題を提起する人もあり、再検討、再評価が要請されつつある。実際、ダーウィンほど多くの伝記書がでている科学者はないのだが、ダーウィンのすべてがそれらでつくされてしまってはいない。本書は、まさに右にのべた要請にこたえるものである。

 

とはいえ、いうまでもなく、伝記がみな時代とともに古びて、存在価値を失っていくわけではない。それぞれの時点での全資料によって保証された客観性を土台として、筆者が自分の精神をこめて人物像を構成しえがきだす場合、それは人物分析の方法や人間観や人間精神の歴史的意義や、そのほかいろいろの面で、時代をこえた独自の存在価値をもつであろう。科学者の伝記においても、またそうである。本書は伝記のその規準に完全にかなうものであると信じる。

 

ダーウィン像の構成における著者江上さんの独創性は、書物の組立ての全体をつうじてあらわれているが、変異と遺伝、また学説の他の諸要素にたいして詳細な吟味にもとづき与えている個々の解釈や評価にもちりばめられている。本書が日本の生物学史における、そして江上さん自身における、ダーウィン研究の一層の発展のために、揺るぎない礎石となることを願わずにはいられない。

 

八杉龍一

 

目次

 

序言

ダーウィンへのアプローチ

Ⅰ ダーウィンのあゆみ

冒険の夢
「進化」の旅へ
進化理論をうちたてるまで
人間ダーウィン

 

Ⅱ ダーウィンの進化論

進化論と『種の起源』
発生・遺伝・進化
ヒトは何か
世界への視野
おわりに

 

年譜
参考文献
さくいん

 

 

ダーウィンへのアプローチ

 

貝・昆虫・鳥というようなさまざまな形の動物、細菌・蘭・松のような種々の植物――これらはどのようにして生じたのか。

 

神が個々の生物を創造したという考え方(個別創造説)がある。それに対して、諸々の生物は、自然の中で、自然の力で徐々に形づくられたという考え方(進化説)がある。

 

もし、進化説を採るとすれば、「いかにして」生物が形成されたのかが問題になる。この進化の機構の問題に「自然選択」という回答を与えたのがイギリスの博物学者チャールズ=ダーウィン(Charles Darwin, 1809〜82)である。

 

これからダーウィンの生涯、思想の概略について述べるわけであるが、そのまえに、ダーウィンに関する資料・研究、私とダーウィン研究とのかかわりなどについて記しておきたい。

 

二〇年余りも昔のことになるが、チャールズ=ダーウィンとアルフレッド=ラッセル=ウォレスが自然選択による進化理論を発表してから百年経った一九五八年、それを記念する事業の一つとして、ダーウィンの自伝が出版された。ダーウィンの自叙伝は、実はもっと昔、ダーウィンの死後五年を経て、息子フランシス=ダーウィンの編集による『チャールズ=ダーウィンの生涯と書簡』に収められていた。しかし、この自叙伝を公にするに当たって、当時健在であったダーウィン夫人や娘への配慮から、少なからぬ部分が削除されていたのである。それで新たに、ダーウィンの孫娘ノーラ=バーロウ女史によってそれまで伏せられていた部分が復活され、自伝の完本が出版されたのであった。

 

こうしてダーウィン自身が書いたとおりの形に戻された自伝についてのバーロウの解説に、ダーウィンの四男、レナード=ダーウィンの手紙が紹介されている。その手紙はバーロウに、かつての情況を伝えたもので、自叙伝の編集に際して、ダーウィンの長女、ヘンリエッタ=リッチフィールド夫人の意見が強く作用したことを示唆している。昔をふりかえってレナードは、「いまでは、『自叙伝』出版にかんして当時どんな感情の高ぶりが起こったかを思い出せる人間は私一人になりました」といい、ヘンリエッタが「出版をやめさせるために訴訟を起こすことも口に出す」ほどであった、という。また、未亡人、エンマ=ダーウィンが問題の箇所の出版に「反対して決定的なことば」をフランシスに与えたことをも暗示している。その結果、宗教に関する見解、人物を批評した部分などの六○ヵ所余りが削除されることになったのであった。

 

長短さまざまではあっても、重要な問題にもかかわるそれらの削除箇所が復活され、一九五八年に自伝が出版されたことは、ダーウィン研究上、大きな意義があったわけであるが、その邦訳が出たのは、それから十四年後である。

 

すでに戦前から進化思想の研究をされ、『近代進化思想史』(中央公論社)、『進化学序論』(岩波書店)、『ダーウィンの生涯』(岩波書店)を出しておられた八杉龍一先生(当時、東京工業大学教授)は、自伝の翻訳を意図され、たまたま当時、その研究室にいた私に、それをまず訳させ、共訳として出してくださった。それが私の「ダーウィン研究事始」であった。

 

『ダーウィン自伝』(筑摩書房)となったその訳業は思いのほか手間どり、始めてから三年ほどかかったと思う。自伝そのものの検討もさることながら、付録として加えられている豊富な資料の、細かな部分を調べるのにも時間がかかった。それは、ビーグル号の航海に関する文書類、夫人の宗教についての手紙、結婚の是非について考察した若いころのメモ、晩年のサミュエル=バトラーとの論争等々である。

 

伝記を書く場合、その人の自伝があれば、それに頼るというのは、ある意味では当然ともいえるのだが、私がダーウィンを書く場合、あまりに自伝に頼りすぎているとの批判が生じるかもしれない。ダーウィン研究の中でまず自伝の翻訳にたずさわったために、ともすればそうなりがちなのを、今恐れている。私は努めて、その自伝が書かれた背景を考慮し、また自らを語る場合に陥りがちな誇張や、逆の控え目な表現、そして自己弁護といったようなもの等々を、吟味しなければならないと思う。そうした上で、ダーウィンの自伝に依り、また多くの資料を参照して、この第Ⅰ編生涯編を描いていきたいと思う。

 

自伝の翻訳の整理をしながら私は、ダーウィンを育てたものは何だったのか、進化理論を生みださせた原動力は何だったのか、思いをめぐらせた。

 

ダーウィン研究は世界的に盛んで、ダーウィン関係の論文や研究書は、読むのが追いつかないほど、次々と発表される。かりに、①新しい資料の発表を主としたもの、②科学方法論的な問題を論じたもの、③優先権(プライオリティ)など史実的な問題に関するもの、④その他、と便宜的に内容を分けてみると、最近一○年間に出版された書物に限っても、①に属するものとして、R.C. Stauffer(ed.), “Charles Darwin’s Natural Selection”(『自然選択』)、①および②にまたがるものとして、H.E. Gruber, P.H. Barrett, “Darwin on Man”(『ダーウィンの人間論』)、②に属するものとして、M. Ghiselin, “The Triumph of the Darwinian Method”があり、③には、ごく最近出版された L. Eiseley, “Darwin and the Mysterious Mr. X”があるが、ウォレスの側からこの問題を扱った H.L. Mckinney, “Wallace and Natural Selection”もあり、④には、E. Manier, “The Young Darwin and His Cultural Circle”(『若きダーウィンと教養』)というように、非常に多い。

 

はじめの二冊について簡単に紹介しておこう。最初に挙げた『自然選択』は、ダーウィンが、『種の起原』の執筆にとりかかるまえに計画していた大著の草稿で、結局、未完となったものである。『種の起原』は、あとで述べるような事情(八四ページ参照)から、急いでまとめられたものであり、『自然選択』の要約であった。今、この草稿が活字となって出版されて、ダーウィンが当初書こうとしたものがどのようなものであったか、明らかになったのである。

 

次に挙げた『ダーウィンの人間論』は、ダーウィンの思索の発展を研究した部分と、新たな資料である、人間やモラルの問題についてのダーウィンのM・Nノート(man, moral の頭文字を使って“M”と呼んだのかもしれない)の内容を活字にした部分との二つからなる。前半の著者グルーバーは、発達心理学者の立場から、ダーウィンの認識の発展、創造的思考、を分析している。ダーウィンの時代、環境などを描く「知的背景」、自然選択の理論がつくられた過程を問題にする「進化的思考の展開」、人間についてのダーウィンの考察に注目した「人・心・唯物論について」の三部から成る。とくに、一八三七〜三九年という若い時代に焦点をしぼって、理論の形成、変容、新たな形成……が、構造主義に基づいて解明されている。

 

バレット編の資料の部分は、ダーウィンののちの著作、『人間の由来』、『ヒトと動物の感情の表現』と関連する内容も少なくないが、ダーウィンが日々記した覚書である。断片的で理解が困難な点もあるが、思考は飛躍し、速記的でおもしろい。

 

ダーウィンという、科学のみならず、世界の思想の上に大きな足跡を残した人物の原稿やノートが、死後百年近く経た今日、やっと出版されて読むことができるようになったというわけである。④に挙げた『若きダーウィンと教養』は、こうした新資料に基づいた、ダーウィンの研究である。

 

新しい資料によって、これまでのダーウィン像が全く変わってしまうということはないにしても、いくつかのこれまで知られていなかった側面も発見されることになった。そうした新知見に基づいたダーウィン像を、本書に描いていきたいと思う。

 

『ダーウィンの人間論』の翻訳の話がでたのは、八杉先生が早稲田大学に移られたあと、かなり経ってからであった。私は、八杉先生のあとの職を継がれた道家達将先生のところで、相かわらず、生物学思想史の勉強を続けていた。しかし、頻繁に八杉先生の指導を受ける条件にないところで、しかも私が中心になって進めていかなければならない仕事ということで不安はあったが、その翻訳は、道家先生の指導の下に、研究室の若い二人の研究生であった月沢美代子、山内隆明の両氏と私の力でなんとかやりとげることができ、『ダーウィンの人間論——その思想の発展とヒトの位置』(講談社)となった。

 

とはいえ、翻訳は、前半のグルーバーの著した部分だけで、後半のノートの内容を主とした新資料については、日本語では、未だほとんど紹介されていない。こうしたノートの類は、必ずしも翻訳という形が適切とは思われないが、機会があれば何かの形で紹介したいと思っている。

 

前後するが、その翻訳の作業が半ば終了したころ、八杉先生は、出版社からの依頼で、ダーウィンの著作からの抜萃(ばっすい)と解説を付した書物を編む準備をしておられた。先生は、私が、M・Nなどのノートに目を通しているのを知っていてくださり、『ダーウィン』(平凡社)というその本の中の人間観の章を担当するようにすすめられた。そこで、『人間の由来』、『ヒトと動物の感情の表現』からの抜萃と、M・Nノートなどのメモを抜き出して配列し、小さなものであったが、「ダーウィンの人間観」(と私が思うもの)をまとめて一つの章とした。

 

この二つの仕事を通して、私は、ダーウィンの人間を見る目、人間をとらえる心を観察することができた。それは、これまで思い描いていたダーウィン像に、もっと生き生き輝く目と、柔軟な心をつけ加えたように感じた。また、M・Nノートで興味深いのは、ダーウィンがその時々に挙げている人の意見、本や著者の名である。彼がどんな人の、どのような発言に触発されたか、そこから垣間みることができる。こうしたものについてもっと突っこんで分析したいと思いながら未だ十分に実現はできないでいるが、本書の思想編のところで、できるだけそれに触れたいと思う。

 

仕事の上で私がこれまで、ダーウィンとどうかかわってきたか、どのようにダーウィンに近づいてきたかを述べながら、本書へむかう私の希望を書いてきたが、ここで、これを執筆するために、どのようにダーウィンに近づいていこうとしているのか、もう少し具体的に記しておきたい。

 

ダーウィンに近づく、あるいはダーウィン像をつくるといいかえてもよいかもしれない。そのためには、これまで私のしてきた仕事が軸になるには違いないのであるが、それに加えて私は、いくつかのことを本書の中に示したいと思う。その一つは、当然のことながら、ヨーロッパ、イギリスの思想の上にダーウィンの思想を置くということである。もう一つは、古い資料も見直すということであり、三番目は、これまで余り紹介されてこなかった側面にも目をむけるということである。

 

最初の点については、イギリスでは誰もが読んでいるような古典とダーウィンの思想を照らしあわせてみたいということであり、また、ダーウィン以前の進化論とダーウィンのそれとを比較したいということである。ダーウィンが読んだホワイトの『セルボーン博物誌』やフンボルトの『南アメリカ旅行記』、マルサスの『人口論』、ロックの著作などが持った意味を考え、また、『種の起原』の思想を、エラズマス=ダーウィンやラマルクの進化論と比べてみたいのである。

 

二番目の点は、フランシス=ダーウィンの編集による『生涯と書簡』の書簡やノラ=バーロウ編『ダーウィンのビーグル号日記』など、邦訳されていないが、基本的な資料を入れていきたいということである。『生涯と書簡』には、息子の眼から見た父親ダーウィンの回想も付され、自伝には記されていない最晩年のダーウィンの姿を伝えている。『ビーグル号日記』は、内容的に『航海記』に吸収されている部分が多いが、ダーウィンの新鮮な感動を直接日記から読むのもおもしろいと思う。

 

最後の点については、初期の地質学者としてのダーウィンの活動、『種の起原』以前のダーウィンの考え方、進化理論の構想、といったものに触れたいということである。

 

これまで私の仕事と、この三つをもとにした方法によって完全なダーウィン像が描けるなどとは考えていないのだが、可能なかぎり鮮明な像を描きたいと思う。

 

以上に言及したもののほかにも、日本で最近出版されたダーウィン関係の書物は、翻訳も含めると、かなりな冊数になる。今西錦司著『ダーウィン論』(中央公論社)、ノーマン=マクベス著『ダーウィン再考』(草思社)、ド=ビア著『ダーウィンの生涯』(東京図書)がある。また、バジル=ウィリー著『ダーウィンとバトラー』(みすず書房)もごく最近邦訳されたし、筑波常治編『ダーウィン』(講談社)も予定されているときく。

 

今西氏は、以前にも「ダーウィンと進化論」(中央公論社『ダーウィン 人類の起原』所収)を書かれているが、『ダーウィン論』では、氏の独自の生態学的研究成果を踏まえてダーウィンの自然選択説を批判している。マクベスの『ダーウィン再考』は、法律家である著者が、論理の問題としてダーウィンの理論を批判したものである。マクベスが生物学のアマチュアであるのに対し、『ダーウィンの生涯』の著者、ド=ビアは、ダーウィンの種の問題についてのノート(B・C・D・Eノートと名づけられている)を一九六〇年に活字にして出版したダーウィン研究家であり、また、比較発生学を専門とする生物学者でもある。ド=ビアによるダーウィンの伝記は、むしろ、「科学者ダーウィン」とでもいったほうがよいほど、科学者としての側面、業績が詳しく解説されている。

 

本書の読者の方々が、これら広い範囲のダーウィン関係の書物を併せ読まれることを期待したい。

 

 

Ⅰ ダーウィンのあゆみ

 

冒険の夢

 

出発の日

一八三一年の暮れ、一二月二七日、イギリス海軍の測量船ビーグル号は、ようやくプリマス州のデヴォン港を出帆した。ヴィクトリア女王の治下、イギリス国内はヨーロッパ諸国に先がけて産業革命が進行しつつあった。手作業が機械に置きかえられ、鉄道が開通し、自由主義が盛んになってきた。

 

そのころ、チャールズ=バベジは、計算機の作成にとり組んでいた。フランスのジャカール織機に着想を得た彼の発明による計算機は、「ちょうどジャカール織機が花や葉を織るように、解析機関は代数的な模様を織る」(ゴールドスタイン著 末包良太ほか訳『計算機の歴史』共立出版)といわれるようになる。

 

悪天候にさいなまれて二度も引き返した末、この日の出港となったビーグル号の目的は主に南アメリカ沿岸の測量であった。前の航海で傷んだ箇所を補修したため少し重量が増して二四二トンとなった三本マストのビーグル号は、それから五年間、六四〇〇〇キロ以上の航海をすることになる。この船、ビーグル号が、のちに、進化論の確立者ダーウィンの名、そして、進化の島ガラパゴス群島の名と並んで、科学史上、最も有名な船となることなど、当時は誰も想像しなかったにちがいない。

 

ダーウィンが航海の途についた前年、ドイツでは、「七月革命が勃発したというニュースが今日ヴァイマルへ届き、すべてが興奮のるつぼに投げこまれた」という。詩人で形態学者でもあった晩年のゲーテは、しかし、革命ではなく、同じフランスのアカデミックな論争——キュヴィエとジョフロワ=サンチレールの動物形態学上の——を話題にし、サンチレールという「強力な同盟者を得た」と述べている(エッカーマン『ゲーテとの対話』岩波文庫)。

 

一方、七月革命の影響はイギリスへも及び、三二年の選挙法改正をもたらす。が、これはブルジョワジーのみの利益になるもので、労働者には選挙権が与えられなかったことを不満とした労働者階級の運動は、やがて大規模な選挙権獲得の運動、チャーティスト運動に発展する。それは、ダーウィンが航海を終えていよいよ進化理論の構築を進める時期であり、日本では、天保の飢饉、そして、大塩平八郎の乱など、徳川幕府のゆらぎ始めたころのことである。

 

無給の博物学者としてビーグル号に乗り組んでいたダーウィンは、ケンブリッジ大学神学部に学んだB・A(バチェラー―オブ―アーツ)という肩書きだけの二二歳の青年であった。はじめて長期の旅に出掛けるダーウィンは、憧れの南アメリカに向けて帆走する船上で、冬の海をみつめていた。出港の日の日記は、一週間後にメモ風に記録されているだけで、そこに彼の気持ちを読みとることはできない。「一一時に錨を引きあげた。……時速七、八ノットで走った。当日夕方は船酔いはしなかったが、早くベッドに就いた。」(『ビーグル号日記』)

 

快い風にのって走る船のベッドで、彼は何を思っていたのであろう。乗船に至るまでのあやうかった経緯(いきさつ)を回想していたかもしれない。あるいは、フンボルトの『南アメリカ旅行記』を読んで以来の憧れの南半球行きに、はやる心を鎮めようと努めていたかもしれない。あるいはまた、港に足止めされた二ヶ月間——「かつて過した時のなかでもっともみじめな」——を反芻していたかもしれない。

 

 

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