「人と思想」シリーズ

センチュリーブックス

人と思想12『パスカル』ぱらぱら見

パスカル_表紙

パスカル_肖像

 

「人間は考える葦である」「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら…」

どこかで一度は聞いたことがあるフレーズですね。17世紀フランスの哲学者、物理学者、数学者であったパスカル。これらは、その死後にまとめられた随想録『パンセ』に出てくる言葉です。

「考える葦」以外にも、数学のパスカルの定理や、圧力の単位パスカル(Pa)にも名前を残しています。天気予報で使われるヘクトパスカルはお馴染みですね。

これだけの業績を残している天才であったことは分かりますが、その生涯や人物像についてはあまり知られていないことでしょう。本書は、パスカルの思想と生涯を分かりやすく解説した入門書です。あの名言はどのようにして生まれたのか。気になる人はぜひ本書を手にとってみてください。

 

目次

パスカル_目次1

パスカル_目次2

 

Ⅰ はじめに

パスカルという人

パスカル_p10-11

「わたくしがはじめてパスカルの名前を聞いたのは、中学校の物理の時間においてであった。例の「パスカルの原理」(水圧機の原理)を学んだ。その時の中学校の先生はパスカルの生涯や思想について説明もしなかったし、したがってわたくしも、特別にパスカルという人について興味をもったわけでもなかった。」

 

Ⅱ パスカルの生涯と思想

子ども時代

パスカル_p30-31

パスカルは、1623年6月19日、フランスのオーベルニュ州クレルモン-フェランのデグラ通りの家に生まれました。身体は病弱でしたが、パリに移り、父エティエンヌ=パスカルによって独特の教育を授けられたパスカルは、11歳で三角形の内角の和の証明をするなど、早熟の天才ぶりを発揮していました。

 

ルアンの時代

パスカル_p40-41

1639年に父の仕事の都合でルアンに移り、ここで16-25歳までを過ごすことになります。父の仕事は税金の徴収で、その計算の苦労を軽減させるために、パスカルは「計算機」を発明します。この発明を機に、幾何学から物理学に興味が移り、当時の主要な問題の1つ、「真空」について実験を行いました。

 

決定的回心

パスカル_p82-83

病状は思わしくない中、社交生活の快楽を追求していたパスカルは、自分の仕事や社交界でのよろこびが本当に自分自身や人間にとって相応しいものであるか疑いはじめていました。パスカルは次第に神への信仰を深めて行き、決定的な回心がなされ、32歳のときにポール-ロワイヤル修道院に入ります。

 

ポール-ロワイヤル

パスカル_p96-97

修道院に入ったパスカルは、人が変わったかのように神の道に励みました。かつて医師に禁止されていたことを無視して徹夜や断食さえも行いました。かえって健康状態はよくなったそうです。

 

プロヴァンシャル

パスカル_p112-113

パスカルは、当時ジェズイットとジャンセニストの間で激しく戦わせられていた論争に巻き込まれます。ジャンセニストの陣営に加わったパスカルは、匿名で、ジェズイットを攻撃する一連の手紙「プロヴァンシャル」を書き続けました。

 

晩年

パスカル_p138-139

パスカルの健康は悪化し始めます。
苦痛と戦いながら、再び数学の研究に取り組みました。
後に、『パンセ』としてまとめられる著作の構想を始めるものの、未完に終わります。1662年8月19日、39歳2ヶ月の生涯を閉じました。

 

Ⅲ パスカルの人間論的思想

幾何学の精神と繊細の精神

パスカル_p158-159

「パスカルが「幾何学の精神」と「繊細の精神」の「二つの精神」を考えたことは、思想史的にも重要であり、直接にはデカルトに反対したことになる。しかし、それだけではなく、人間的にみても鋭い指摘であり、今日のわれわれにとっても切実な問題である。」

 

考える葦

パスカル_p172-173

パスカル_p174-175

「人間は自然の中で一番弱い一本の葦にすぎない。
しかし、人間は考える葦である。
人間をおしつぶすには、宇宙全体が武装する必要はない。
一つの蒸気、一滴の水でも
人間を殺すのには十分である。
しかし、宇宙が人間を押しつぶすときにも、
人間を殺す宇宙よりも、人間の方が高貴である。
なぜなら、人間は自分が死ぬことを知っており、
宇宙が人間よりもはるかに強力であることを知っているからである。
宇宙はそのことを何も知らない。」

 

<内容と構成>

Ⅰ はじめに

パスカルという人
パスカルの時代
パスカルの生活と業績

 

Ⅱ パスカルの生涯と思想

子ども時代
ルアンの時代
最初の回心
社交生活
決定的回心
ポール-ロワイヤル
プロヴァンシャル
晩年

 

Ⅲ パスカルの人間論的思想

幾何学の精神と繊細の精神
考える葦
気晴らし

 

年譜

参考文献

さくいん

 

 

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人と思想84『アダム=スミス』ぱらぱら見

アダム=スミス_表紙

アダム=スミス_肖像

 

アダム=スミスといえば『国富論』が有名ですよね。経済学の父とも言われる18世紀のイギリスの経済学者・哲学者です。学校の授業で習った人も多いのではないでしょうか。

「アダム=スミス」の名前や著書『国富論』、その中に登場する「見えざる手」という言葉を社会のテストのために覚えたとしても、人物像や著書の内容を知っている人は少ないかもしれません。

本書は、アダム=スミスの生い立ちや時代背景、著書の内容に触れながらスミスの思想について優しく解説している、いわばアダム=スミス入門書です。『国富論』などスミスの著作を読む前に目を通しておくと、きっとより興味を持って読むことができるでしょう。

 

目次

アダム=スミス_目次

 

Ⅰ スミスの時代と生涯

ふるさとの町

アダム=スミス_p26-27

1723年に、カーコールディのハイ-ストリートで生まれたアダム=スミスは、14歳でグラスゴー大学に進学しました。当時は12歳前後での大学進学が普通だったので、身体が弱く遅れたようです…

 

大学教授として

アダム=スミス_p50-51

オクスフォード大学への留学を経て、1751年にグラスゴー大学論理学教授に就任しました。

翌年には、自らの希望で道徳哲学の教授に転じ、自然神学、倫理学、正義(法と統治)論、政治経済論の4部門に分けて講義を行いました。スミスの講義は評判がよく、特に最初の著作『道徳感情の理論』が出版されると、名声は国際的になり、他国からの留学生もやってきました。

 

フランス旅行

アダム=スミス_p58-59

グラスゴー大学の学部長、副学長を務めた後、大学教授を辞任し、バックルー公爵のフランス遊学に家庭教師として付き添いました。この時期、フランスの社交界とかかわりを持ち、思想家たちと交流を深めました。

 

『国富論』の誕生

フランスからの帰国後、いよいよ本格的に『国富論』の執筆に取り組みました。約10年後の1776年3月9日、ようやく『国富論』が刊行されました。この本は、スミスの生前に5版を重ね、すぐにドイツ、フランス、デンマークなどで翻訳されて、国際的に広がりました。

 

 

Ⅱ スミスの思想と学問

人間の把握

アダム=スミス_p94-95

「つまり、人間は利己的ではあるけれども、他人の幸不幸に関心をもたせるものを本源的にもっており、他人の幸福を必要なものたらしめる、というのである。」

 

商業社会

アダム=スミス_p130-131

「スミスは、富概念のコペルニクス的転回を行ったといわれる。つまり、スミスは、ほんとうの富は、お金ではなく、生活の必需品や便益品などの労働生産物だと考えたのである。お金は、それ自体では何らの人間の欲望も必要も満たしてくれない。お金で食料や衣服などを購入して、はじめてわたくしたちは、欲望や必要を満たすことができるのである。」

 

富裕への道

アダム=スミス_p156-157

「スミスは、社会の総資財は三つに分けられるという。第一は、消費者の手に渡って消費を待っている消費財である。第二は固定資本であり、第三は流動資本であって、利潤を生むのに使用されるのは、この二つである。家賃のような、利潤、賃金、地代のいずれかからの派生所得をもたらすにすぎない、貸家のようなものは資本に入らない。」

 

独占と特権への批判

アダム=スミス_p170-171

富裕への自然な歩みを妨げるものとして、長子相続制や同業組合、何よりもスミスが「商業の体系」と名付けた、重商主義の考え方と政策などを随所で批判していました。

 

国家の役割

アダム=スミス_p184-185

 

Ⅲ スミスと現代

スミスと日本

アダム=スミス_p202-203

『国富論』は、明治維新より10年ほど前に、ドイツ人医師のシーボルトによって、日本に持ち込まれていました。(ドイツ語訳版)

その後、明治17年から21年にかけて、イギリス版の最初の翻訳が出版されました。ただ、最初の翻訳書名は『富国論』だったそうです。

 

<内容と構成>

はじめに

Ⅰ スミスの時代と生涯

ロッホ-ローモンドの歌
ふるさとの町
文芸の興隆
大学教授として
フランス旅行
『国富論』の誕生
晩年の日々

 

Ⅱ スミスの思想と学問

人間の把握
社会形成の原理
富と道徳と法
新しい歴史観
商業社会
三大階級の社会
富裕への道
独占と特権への批判
国家の役割

 

Ⅲ スミスと現代

スミスと日本
スミス研究の意義

 

あとがき

年譜

参考文献

 

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人と思想21『福沢諭吉』ぱらぱら見

福沢諭吉_表紙

福沢諭吉_肖像

 

教科書にも必ず登場する福沢諭吉。言わずと知れた「文明開化」の指導者として知られる明治時代の思想家・教育者です。「慶應義塾」の創設者でもありますし、なにより「一万円札のお札の人」として、皆さん、日々顔を拝んでいる人物ですね。

有名な『学問のすゝめ』『文明論之概略』といった著書は広く知れ渡っていますが、現代人は読んだことはない人も多いでしょう。ましてやその生涯ついてとなると、知っている人は少ないと思います。日本の近代文明の発展に大きな影響を与えたことや、大学を作ったことは知っていても、実際にどんな考えを持ち、どんな活動をしていた人物なのか…

本書は、福沢諭吉の生い立ちや、思想とその変遷について、概要を知ることのできるユニークな本です。福沢には『福翁自伝』という自叙伝があります。本書を読むと『福翁自伝』にも興味が湧いてきます。さらには『学問のすゝめ』には、実際なんと書いてあるのかも気になってきます。ぜひ手を伸ばしてみたいものです。

 

目次

福沢諭吉_目次

 

Ⅰ 封建秩序からの脱走

少年のころ

福沢諭吉_p12-13

1835年1月10日、豊前国中津藩の蔵屋敷(大阪・堂島)に会計官吏として勤める下級武士福沢百助の二男三女の末っ子として生まれました。父は、役目がらにも似合わず、学問好きとして藩内で有名だったそうです。ただ、福沢が2歳にもならないときに父が亡くなり、母は5人の子供を連れて中津で暮らすことになりました。

 

洋学修業

福沢諭吉_p20-21
1854年に念願の中津脱出が叶い、長崎で蘭学修業。1年後には大阪に移り、緒方洪庵の適塾で学び始めました。兄が急死したため、一旦中津に戻り福沢家の家督を継いだものの、再び大阪に戻りました。適塾では懸命に勉強を重ね、やがて塾長になりました。

安政の大獄が始まった1858年10月頃、中津藩の江戸藩邸に招かれ、蘭学を教えることになりました。これが慶應義塾の起源です。

 

欧米旅行

福沢諭吉_p32-33

英語の重要性に気づいた福沢は、英語を学び始めます。

1860年、幕府がオランダから購入した汽船「咸臨丸」に乗ってアメリカ・サンフランシスコに渡ります。咸臨丸には、かの勝海舟も指揮官として乗り込んでいました。

1861年末には、幕府の遣欧使節団の一員となり、フランス・イギリス・オランダ・ドイツ・ロシア・ポルトガルの6カ国の首府を巡りました。

 

Ⅱ 文明像の形成と展開

『西洋事情』前後

福沢諭吉_p48-49

幕府に外国奉行翻訳方として召し抱えられた福沢は、幕末には『西洋事情』を出版し、西洋社会の制度や理念を日本に紹介しました。その直後、再び訪米の機会があり、その際に多くの書物を購入しました。

 

明治維新のころ

福沢諭吉_p60-61

維新前後の政治情勢の変化にはほとんど関わらない姿勢でいた福沢は、洋学者を求める新政府に招かれたものの辞退しました。その後、66歳の生涯を閉じるまで、役人になることも位階勲等を受けることもありませんでした。こうして福沢は、いよいよ自分の塾の経営に力を注いでいくことになるのです。

1868年4月、新銭座の新塾舎に移転し、元号から名前をとって「慶應義塾」と名付けました。アメリカから持ち帰った原書を渡して行う授業は評判を呼び、塾生の数は増加の一途をたどります。1871年には三田に移転し、東京随一の私立学校となりました。

 

『学問のすゝめ』

福沢諭吉_p72-73

明治政府の整備が着々とすすむとともに、「文明開化」の風潮も広まりました。西洋の学術や思想を学ぼうという気風が高まり、洋学者たちは次々と翻訳本を出しました。それとならんで、洋学者たちは自分の著述もさかんに出版し、そのような中、福沢諭吉の『学問のすゝめ』も出版されました。これまでの諭吉の著書では近代文明社会の紹介に努めてきましたが、この本は、一部を除いて、自身の文章であり理念の表明でありました。後に本人が語ったところでは、合計340万部のベストセラーになったそうです。

 

『文明論之概略』

福沢諭吉_p82-83

「このようにして福沢は、自主・独立にして積極的な国民性をつくりだし、外国人にたいしても自己を失わない人間をもって、日本を支えようとしたのであった。それが、この『文明論之概略』の趣旨であった。」

 

啓蒙の旗手

福沢諭吉_p108-109

「福沢諭吉のこうした一連の活動は、ひろくふかい影響を国民にあたえた。かれのいうところは大胆で、表現は平易で露骨であり、意識的に奇抜ともみえる比喩をつかった。そのことは、かれが従来のきまりきった表現方法からいかに自由であったかを示しているが、人びとにあたえたおどろきも大きく、そのおどろきをつうじて、かれらはあたらしいものへと目をさましてゆくこととなったのである。」

 

Ⅲ 富国強兵論への転回

「時事新報」以後

福沢諭吉_p138-139

「「時事新報」は、「不偏不党」をスローガンとして誕生した。いわゆる中立派の新聞であった。」

 

官民調和論

福沢諭吉_p142-143

「九年後に国会が開かれるときまったとき、民権家たちは政党活動をはじめた。ところが、それまで民権派とならんでいると思われていた福沢は、ひとりはなれて中立をとなえ、官民調和を力説するようになる。ちょうどそれは、民権派とは逆のゆきかたであった。政党活動は、官と民との対立を激化させてゆかざるをえなかったが、福沢は、逆にその対立をおさえようとするわけである。」

 

<内容と構成>

福沢諭吉について

Ⅰ 封建秩序からの脱走

少年のころ
洋学修業
欧米旅行

 

Ⅱ 文明象の形成と展開

『西洋事情』前後
明治維新のころ
『学問のすゝめ』
『文明論之概略』
思惟方法の改革
啓蒙の旗手
民権と国権

 

Ⅲ 富国強兵論への転回

「時事新報」以後
官民調和論
アジア政略
日清戦争観
晩年の思想と生活

 

年譜

参考文献

さくいん

 

 

<書籍購入>

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